猫、事故という名の必然を見る
それは事故と呼ばれた。
誰もがそう呼びたがったし、そう呼ぶことで安心したがった。戦争の前には、必ず「事故」が必要になる。意図せぬ出来事、避けられなかった悲劇、誰の責任でもない不運――そういう言葉で包まなければ、人は前へ進めないからだ。
その日、レオンは王都近郊の任務に向かった。
名目は魔物の間引き。危険度は中。同行者は数名の冒険者と、王都から派遣された兵士が二人。構成としては、実に無難である。無難であるがゆえに、疑われなかった。
我輩はレオンの肩に乗っていた。
猫が戦地に同行するのは珍しいが、止められることはなかった。縁起物だとか、癒やしだとか、人間は都合よく解釈する。危険な場所ほど、そういうものを連れて行きたがる。
森は静かだった。
静かすぎた。
鳥が鳴かず、風が動かず、草の匂いが薄い。猫の感覚では、異常は明らかだった。だが人間は、異常に慣れていない。慣れていないからこそ、無視する。
「気のせいだろ」
誰かが言った。
この言葉ほど、多くの死を生んだ言葉はない。
進軍は続いた。
そして――
爆ぜた。
地面が裂け、炎が上がり、悲鳴が重なった。魔物ではない。魔法陣だ。仕掛けられていた。誰が? いつ? なぜ? その答えは、すぐにどうでもよくなる。
人は、生き残ることで手一杯になるからだ。
兵士の一人が吹き飛ばされ、木に叩きつけられた。即死だった。冒険者の一人は足を失い、叫び続けている。もう一人は逃げようとして、背中から何かに貫かれた。
――中危険度。
紙の上では、そうだった。
レオンは動いた。
剣を抜き、指示を飛ばし、倒れた者を庇い、炎の中を走った。彼は有能だった。英雄候補と呼ばれるに足る働きをした。だが有能であることは、目立つことでもある。
追加の魔法陣が起動した。
狙いは、明らかにレオンだった。
我輩は見た。
見てしまった。
偶然ではない。
事故ではない。
これは、試験だ。
英雄に耐えられるか。
死ぬか、生き残るか。
物語に使えるか。
レオンは爆風に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。剣が手から離れ、転がる。血の匂いが濃くなる。
「レオン!」
誰かが叫んだ。
だが助けに行ける者はいない。各自が必死だった。英雄とは、常に孤独な場所で試される。
我輩は、考えるより先に動いていた。
猫の身体は小さい。だから隙間を抜けられる。だから見逃される。だから――介入できる。
我輩は爆心地近くの魔法陣に飛び込み、爪を立てた。魔法陣の構造は、人間だった頃に読んだ文献と似ている。理屈は分からずとも、弱点は嗅ぎ取れる。
爪が走り、線が乱れた。
魔法陣は、崩れた。
完全ではない。だが、次の起動は防いだ。
その瞬間、我輩は理解した。
――やってしまった。
傍観者でいられた最後の一線を、越えたのだ。
戦闘は終わった。生き残りはわずかだった。任務は「成功」と報告されるだろう。犠牲は「想定外の事故」と処理される。
レオンは生きていた。傷だらけで、意識も朦朧としていたが、確かに生きていた。
王都に戻ると、噂は一気に広がった。
「英雄候補、奇跡の生還」
「単独で部隊を救った」
「猫を連れた英雄」
最後の一文で、我輩の背中に視線が集まった。
セリアは、報告書を読みながら手を止めた。
「……事故、ですか」
その声は低かった。
ギルド上層部は満足した。
試験は成功。
英雄は生き残った。
物語は書ける。
だが一つだけ、計算外があった。
猫である。
小さく、名もなく、記録に残らぬ存在。
だが確かに、あの場で何かを変えた存在。
我輩は、レオンの寝台のそばで丸くなりながら思った。
英雄を生かしたのは、運でも奇跡でもない。
ただ、見てしまった猫が、黙っていられなかっただけだ。
事故とは、起こるものではない。
起こされたものである。
我輩は猫である。
そしてもう、ただの観察者ではない。
この戦争は、
我輩の爪痕を、確かに残した。




