猫、英雄候補の日常を眺める
英雄候補になったからといって、翌朝から世界が変わるわけではない。
レオンは相変わらず早起きをし、装備を点検し、剣の刃を確かめ、安い朝食を口に運んだ。王都の宿は高い。英雄候補であろうと、財布の中身は急には増えぬ。
変わったのは、周囲の視線だった。
冒険者ギルドに入ると、昨日まで挨拶程度だった者たちが、妙に親しげに声をかけてくる。中には名前も知らぬ者が、酒に誘ってきた。人は期待を感じ取ると、そこに群がる。
我輩は床に座り、その様子を見ていた。
期待は、重い。
それは祝福の形をして近づき、最後には首を絞める。
「お前、例の任務に就いたんだって?」
誰かが言った。
「王都直轄だろ。すげえな」
すごいのは任務ではない。任務を断れなかったことだ。
レオンは曖昧に笑った。否定も肯定もしない。その笑顔は、防具のようであり、同時に傷でもあった。
昼過ぎ、装備屋に立ち寄った。
店主は、やけに丁寧だった。昨日まで、値切り交渉をすると露骨に嫌な顔をしていた男である。
「噂は早いものでしてね」
噂。
英雄候補という言葉は、もうこの辺りを一周している。
我輩は店の奥に置かれた古い盾に目をやった。無数の傷跡。使われ、直され、また使われた痕だ。英雄の持ち物とは、いつも新品だ。だが英雄を支える道具は、常に使い古されている。
夕方、レオンはセリアと再会した。地方ギルドで見た、あの銀髪の受付嬢だ。彼女は王都に異動していたらしい。
「……やっぱり、あなたでしたか」
声は落ち着いているが、目は笑っていない。
「聞きました。特別任務」
「噂が早いな」
「止められませんから」
その一言に、彼女の立場が詰まっている。
我輩は二人の間に座った。猫は、会話の緩衝材になる。沈黙が尖りすぎる前に、場を和らげる存在だ。
「……英雄候補、ですか」
セリアは小さく息を吐いた。
「あなた、向いてないと思います」
レオンは苦笑した。
「よく言われる」
「でしょうね」
彼女は即答した。
「向いている人は、最初から英雄になりたがる。でもあなたは――」
言葉を切り、我輩を見た。
「猫を拾う人だ」
それだけで十分だった。
夜、宿に戻ると、レオンは剣を置き、椅子に座ったまま動かなくなった。疲労ではない。考えすぎた人間がなる、あの静止だ。
「……俺は、英雄になりたいわけじゃない」
誰に言うでもなく、彼は呟いた。
我輩は答えない。猫は、問いに答えないことで、人間に考えさせる。
「でも、なっちまったら……」
言葉は、そこまでだった。
英雄とは、なった瞬間に選択肢を失う存在だ。逃げれば裏切り者、負ければ無能、勝てば消耗品。どの道も、個人の幸福には繋がらない。
我輩は窓辺に上がり、夜の王都を見下ろした。
灯りは美しい。だがその一つ一つが、誰かの不安と欲望で灯っている。英雄は、その灯りを守るために戦うと教えられる。実際には、灯りを維持するために燃やされるのだ。
レオンが、ぽつりと聞いた。
「……なあ」
我輩は振り返った。
「俺、間違ってるか?」
猫に倫理を問う人間は、すでに答えを知っている。
我輩はただ、彼の膝に飛び乗り、丸くなった。体温が伝わる。それだけで、十分な返事になることもある。
英雄候補の日常は、こうして静かに削れていく。
剣を抜く前に。
戦場に立つ前に。
物語が始まる前に。
我輩は猫である。
英雄の足元で、壊れていく日常を見ている。




