猫、聞いてはならぬ話を聞く
二階の部屋は、外の喧騒が嘘のように静かだった。
厚い扉、重いカーテン、磨かれた机。静けさとは、贅沢品である。金と権力のある場所にだけ、余分に配られる。戦争が近づくほど、この静けさは濃くなる。
レオンは椅子に座るよう促された。背もたれの硬さに、彼は一瞬身を強張らせた。人は柔らかすぎる椅子よりも、硬すぎる椅子に緊張する。逃げ道がないからだ。
我輩は机の下に潜り込み、丸くなった。猫は話し合いの場では、常に「邪魔にならない位置」にいる。そう思わせることが、最良の擬態である。
年配の男――ギルド上層部の人間であることは疑いようがない――は、書類を一枚、机に置いた。
「状況は理解しているな」
問いではなかった。確認である。
「……戦争、ですね」
レオンの声は低かった。逃げ場を探す声ではない。覚悟を測る声だ。
「正式な発表はまだだ。だが国境で小競り合いが続いている。王都としては、“不測の事態”に備えたい」
不測、とは便利な言葉である。何が起きても、最初から想定していたように振る舞える。
男は続けた。
「地方都市周辺の魔物討伐が、急激に増えている理由は分かるか」
レオンは首を振った。
「補給路の確保だ」
男は淡々と言った。
「魔物は便利な言い訳になる。討伐と言えば、人も金も動かせる。だが本当の目的は、道を空けることだ」
我輩の耳が、ぴくりと動いた。
やはり、そういうことか。
戦争とは、敵と戦う前に、自国の都合を整理する行為である。魔物も、冒険者も、その過程で使われる道具にすぎぬ。
「君には、その任務に就いてもらう」
男はそう言って、書類を押し出した。
レオンは黙って目を通した。報酬は高い。危険度は「中」。だがその表記ほど、信用ならぬものはない。危険度は、常に実態より一段階低く書かれる。
「拒否権は……?」
「ある」
即答だった。
「だが拒否すれば、次の仕事は減る。王都では特にな」
つまり、拒否はできるが、生き残れない。
沈黙が落ちた。
我輩は、その沈黙の質を嗅いだ。焦りではない。諦観でもない。これは――選択だ。
レオンは書類を置いた。
「分かりました」
その一言で、彼の立場は決まった。
男は満足そうに頷いた。
「賢明だ。君のような若者が必要なんだ、この国には」
嘘ではない。だが真実でもない。必要なのは若者ではなく、使いやすい若者だ。
話はそれで終わりではなかった。
男は声を落とし、窓の外を一瞥してから、続けた。
「……ところで、隣国の動きについて、もう一つ」
レオンの背筋が、わずかに固くなった。
「向こうは、英雄を立てるらしい」
英雄。
その言葉が出た瞬間、空気が変わった。
「象徴が必要なのだ。戦争には。恐怖を希望に変えるための」
男は冷静に分析するように言った。
「こちらも用意する必要がある。勝敗よりも先に、物語が」
我輩は、机の下で目を閉じた。
ああ、やはり。
人間は戦争を始める前に、結末を物語として設計する。英雄とは、そのための装置だ。勝つためではなく、負けたときに納得するための。
「君が、その候補になる可能性もある」
男は何気なく言った。
レオンは息を飲んだ。
それは栄誉ではない。役割だ。断れば逃げられない役割。
「……俺は」
「まだ決まってはいない」
男は遮った。
「だが覚えておけ。猫でも拾う男は、話になる」
その言葉に、我輩は目を開けた。
見られている。
最初から、この猫も計算に入っていたのか。
レオンは何も答えなかった。ただ、深く頭を下げた。
話は終わり、扉が開いた。
階段を下りる途中、レオンは立ち止まった。
「……聞いてたか?」
我輩は答えない。ただ、彼の足元に座った。
人間は、聞いてほしいことと、聞いてほしくないことを同時に抱える。その矛盾を、猫は受け止めるしかない。
外に出ると、王都は相変わらず華やかだった。音楽も、笑い声も、灯りもある。だが我輩には、それが舞台装置にしか見えなかった。
役者は揃い、台本は配られ、あとは幕が下りるのを待つだけだ。
レオンは空を見上げた。
「……英雄、か」
その声は、重かった。
我輩は思った。
英雄とは、最も観察されない存在である。
皆が期待を押し付け、誰も中身を見ない。
ならば。
英雄の足元にいる猫が、
すべてを見ていればいい。
我輩は猫である。
だがもう、ただの傍観者ではいられないらしい。
聞いてしまった以上、
世界は、我輩を巻き込む気でいる。




