猫、戦争はすでに始まっていると知る
戦争というものは、剣が抜かれた瞬間に始まるのではない。
それを理解したのは、朝のパンが一つ減ったときであった。
冒険者ギルドの裏手にある宿屋で、我輩はレオンと同じ部屋に泊まっていた。もっとも、彼は寝台を使い、我輩は窓際の箱の上で丸くなっているだけだ。猫とは、与えられた場所に不満を持たぬ生き物である。人間と違って。
朝、宿の女将が持ってきた盆の上には、昨日まで確かに三つあったパンが、二つしかなかった。量も、心なしか小さい。
「最近、小麦が入らなくてね」
女将は言い訳をするように笑った。誰に対しての言い訳かは分からぬ。レオンか、我輩か、それとも自分自身か。
レオンは気にせぬ様子で頷き、代金を支払った。人間はこういう小さな変化を「仕方ない」で済ませる癖がある。だが我輩は見逃さない。猫は、餌の量に関しては殊のほか敏感なのだ。
外に出ると、通りの空気が違っていた。
静かすぎる。
昨日まで、朝から酒を飲んでいた男がいない。露店の呼び声が弱い。子どもが走り回らない。代わりに、大人たちの視線が落ち着きなく動いている。人間は不安になると、空を見る。そこに答えなどないというのに。
掲示板の前に人だかりができていた。
依頼書が貼り替えられている。魔物討伐の報酬が上がり、護衛の依頼が増え、「王都直轄」という文字が目立つようになった。書式が変わったのだ。これは単なる事務的変更ではない。権力が、現場に直接触れ始めた証拠である。
――来る。
そう直感した。
戦争は、いつもそうだ。まず紙が変わる。次に金が動く。最後に血が流れる。
レオンは依頼書を見つめ、眉をひそめていた。
「嫌な匂いがするな……」
匂い、とはよく言ったものだ。人間もまた、無意識では察している。だが彼らはそれを言葉にするのが下手で、行動に移すのはもっと下手だ。
その日の昼、ギルドは妙に整然としていた。笑い声が少ない。酒の量も減っている。人々は無駄口を叩かず、依頼を選び、さっさと出て行く。まるで、長居すると何かを奪われると知っているかのように。
受付の銀髪の女――名をセリアと言うらしい――は、いつもより無表情で書類を捌いていた。我輩が彼女の足元を通ると、一瞬だけ視線が落ちてきた。
その目は、昨日より疲れていた。
人は戦争が始まる前に、まず目が死ぬ。
我輩はそれを、何度も見てきた。人間だった頃、紙の上で。今は、生身の世界で。
午後、街の外れへと足を運んだ。レオンが装備の手入れをしている間、我輩は自由である。猫の自由は、契約書に縛られない。
畑では、老人たちが黙々と作業をしていた。若者の姿はない。徴兵という言葉が、まだ誰の口からも出ていないだけで、すでに彼らは「いなくなるもの」として扱われている。
老婆が一人、空を見上げて呟いた。
「また、かい」
それだけだった。
怒りも嘆きもない。ただ、慣れきった諦め。人は、同じ悲劇を繰り返すと、感情を省略するようになる。
我輩は畦道に座り、その光景を眺めていた。
理解してしまった。
戦争は、もう始まっている。
剣は抜かれていない。旗も掲げられていない。だが生活は壊れ、言葉は減り、未来は削られている。これを戦争と呼ばずして、何と呼ぶ。
夕方、王都からの使者が街に入った。派手な馬車、整った鎧、無駄に丁寧な挨拶。人々は頭を下げた。恐れているからではない。期待しているからでもない。
――慣れているのだ。
支配に。
レオンはその使者を遠巻きに見て、歯を噛みしめていた。
「……俺たちの出番、ってわけか」
我輩は彼の足元で尻尾を揺らした。
人間はいつも、自分が「選ばれた」と思い込む。実際には、ただ都合よく消費されるだけだというのに。
夜、宿に戻ると、誰もが早く床に就いた。明日を考えたくない夜である。そんな夜は、静かで、重い。
我輩は窓辺に座り、闇を眺めた。
もし我輩が人間であったなら、何かを書いただろう。抗議文か、批評か、せめて記録を。だが今の我輩は猫である。爪はあっても、筆はない。
しかし――
観察することはできる。
忘れないこともできる。
人間が忘れようとすることを、猫が覚えていても、罰は当たるまい。
戦争は始まっている。
だが、英雄の出番はまだ先だ。
そしてその間に、世界は最も醜く、最も人間らしい顔を晒す。
我輩はそれを、見届ける。
我輩は猫である。
この世界の、沈黙の証人である。




