影の名
噂というものは、
一度消えたように見えても、
地面の下で生きている。
根のように。
英雄候補が町を出た翌日、
最初の言葉は、
酒場で生まれた。
「そういえば……」
誰かが、
杯を傾けながら言った。
「前の英雄のとき、
猫がいたって話、
覚えてるか?」
沈黙が落ちる。
人は、
忘れていたわけではない。
思い出さないようにしていただけだ。
「猫、か……」
「象徴だろ?」
「学者がそう言ってた」
安心のための言葉が、
いくつか並ぶ。
だが次の一言が、
空気を変えた。
「今回の英雄にも、
影みたいなのがついてるって、
見たやつがいるらしい」
影。
我輩は、
街道脇の木の上で、
その言葉を聞いていた。
人は、
説明できないものに
名前を与えたがる。
それが恐怖でも、
安心でも。
噂は、
形を変えながら広がる。
――猫は、英雄を選ぶ
――猫は、試している
――猫は、失敗を待っている
どれも、
我輩の知らない話だ。
英雄候補は、
次の町で、
違和感に気づいた。
視線が、
一瞬遅れる。
彼を見る前に、
何かを探す目がある。
「……猫?」
誰かが、
半ば冗談のように呟く。
笑いが起きる。
だが、
完全には笑えない。
我輩は、
屋根の影に身を潜め、
その様子を眺める。
英雄候補は、
気づいていない。
彼の背後に、
もう一つの物語が
歩いていることを。
夜、
彼は宿で独り言を漏らした。
「……猫?」
名前を持たない存在は、
噂の中で膨らむ。
英雄候補は、
自分が見られている理由を
理解できない。
だから――
理由を自分に求め始める。
「俺が、
何か間違ってるのか?」
我輩は、
窓の外から、
その問いを聞いた。
前の英雄も、
同じ順序で壊れた。
失敗ではなく、
成功の後に。
噂は、
英雄候補を守るようで、
実際には逃げ場を塞ぐ。
もし彼が失敗すれば、
こう言われるだろう。
――猫に見放された
――選ばれなかった
――最初から違った
もし成功すれば、
こう言われる。
――猫がついている
――まだ試されている
――本物だ
どちらでも、
彼の意思は関係ない。
我輩は猫である。
再び、
物語の影に戻された。
だが今回は、
前とは少し違う。
人々は、
猫を信じていない。
それでも――
猫の存在を使っている。
それが、
一番危険な状態だ。
英雄候補は、
眠れずに天井を見つめる。
そして、
心のどこかで思い始める。
――もし、
猫がいるなら。
その瞬間、
彼はもう、
自分の物語を失っている。
我輩は、
静かにその場を離れた。
噂は、
もう十分に育った。




