自問
英雄候補は、
夜明け前に目を覚ました。
夢は見ていない。
だが、眠った気もしない。
胸の奥に、
小さな重さが残っている。
剣を握った感触。
歓声。
名前を呼ばれる声。
それらが、
まだ消えない。
彼は起き上がり、
宿の窓を開けた。
朝の空気は冷たい。
静かで、
英雄のいない世界の匂いがする。
「……俺は」
言葉が、
途中で止まった。
英雄候補は、
自分の手を見る。
傷は、ほとんどない。
昨日、
誰かを救った。
だが、
誰かの人生を背負った覚えはない。
それなのに――
周囲は、
もう背負わせている。
我輩は、
向かいの屋根の上で、
その姿を見ていた。
彼は、
誰にも見られていないと思っている。
それが、
一番正直な顔だ。
英雄候補は、
剣を手に取った。
持ち慣れてきた。
それが、
少し怖い。
「俺は……」
また、言葉が途切れる。
彼の中で、
二つの声がぶつかっている。
――やれるだろう。
――やってきたじゃないか。
――でも、
――それは運だった。
成功は、
疑いを消さない。
疑いを、
深く沈めるだけだ。
昼、
町の者が訪ねてきた。
「次の仕事がある」
「もっと困っている町がある」
「君にしか頼めない」
英雄候補は、
笑顔を作った。
反射的に。
「……分かった」
その瞬間、
何かが確定した。
我輩は、
静かに尻尾を揺らす。
彼は、
自分で選んだと思っている。
だが実際には、
選ばされる構造に入っただけだ。
夜、
英雄候補は、
一人で町外れまで歩いた。
空を見上げる。
「俺は、英雄なのか?」
問いは、
誰にも届かない。
英雄とは、
自分で決めるものではない。
そう教えられてきたからだ。
我輩は、
彼の背後から、
その背中を見る。
前の英雄も、
同じ問いを投げた。
同じ夜に。
同じ声量で。
答えは、
どこにもなかった。
なぜなら――
世界は、
答えを必要としていない。
必要なのは、
進み続ける存在だけだ。
英雄候補は、
拳を握りしめる。
「……考えても、仕方ないか」
その一言で、
疑いは消えた。
いや、
押し込められた。
我輩は猫である。
人は、
自分を疑うのをやめた瞬間から、
本当に壊れ始める。
彼は、
まだ立っている。
だが内部では、
最初の亀裂が、
確かに走った。




