危険性の定義
記録官アーベルは、猫が嫌いだった。
正確に言えば、
猫そのものではなく、猫という存在が許されている曖昧さが嫌いだった。
彼は港町の宿の一室で、書類を並べていた。
羊皮紙。
古い写本。
英雄譚の異本とされる断片。
どれも、微妙に一致しない。
それが問題だった。
「英雄は、なぜ剣を捨てた?」
アーベルは独り言のように呟く。
問い自体は単純だ。
だが答えが、どの記録にも存在しない。
代わりに現れるのが、
猫である。
「馬鹿げている」
そう言いながら、
彼は猫の噂だけを抜き出した一覧に目を落とす。
黒い猫。
英雄の足元にいた。
何もしていない。
だが、英雄が英雄でなくなった。
「因果関係が説明できない」
それが、アーベルにとって最大の問題だった。
部屋の隅では、若い助手がペンを止めている。
「先生……」
「なんだ」
「猫が、本当にただの猫だった場合でも、
我々は……修正を行うのですか?」
アーベルは、少し考えた。
彼は感情的な人間ではない。
常に、定義から考える。
「危険とは何か、だ」
彼は言った。
「危険とは、刃物や魔法のように
直接人を傷つけるものだけを指すのではない」
助手は黙って聞いている。
「説明できない存在は、
秩序を破壊する」
「秩序、ですか?」
「英雄譚は、秩序だ」
アーベルは即答した。
「努力すれば報われる。
強き者は導く。
犠牲は意味を持つ」
彼は一枚の紙を持ち上げる。
「だがこの猫は、
そのどれもを行っていない」
英雄を導いていない。
努力もしていない。
犠牲も払っていない。
それなのに――
結果だけが変わった。
「もしこれを許せば、どうなる?」
アーベルは助手を見る。
「人は問うようになる」
「なぜ英雄である必要があるのか、と」
助手は、はっと息を呑んだ。
「猫は、革命家ではない」
アーベルは続ける。
「思想もない。
目的もない」
「それなのに?」
「それなのに、
世界の前提を壊した」
アーベルは、ここで初めて声を低くした。
「それが、一番危険だ」
彼は筆を取り、報告書に書き加える。
――対象は意図を持たず、
――構造のみを破壊する。
「悪意があれば、対処できる」
「思想があれば、論破できる」
「だが、猫は違う」
ただ、そこにいた。
それだけで、
英雄譚が成立しなくなった。
「先生……」
助手が恐る恐る言う。
「それは、
猫が正しかった、という可能性は……」
アーベルは、きっぱりと首を振った。
「正しさは関係ない」
彼は言い切る。
「世界が必要とするのは、
正しさではなく、一貫性だ」
窓の外で、
どこかの猫が鳴いた。
アーベルは、一瞬だけ筆を止める。
「探し出す」
彼は静かに言った。
「猫を、物語の中に戻す」
「戻す、とは?」
「悪役でもいい。
神の使いでもいい。
あるいは――」
彼は、ためらいなく続けた。
「存在しなかったことにしてもいい」
それが、
世界を守るということだ。
アーベルはそう信じている。
その頃、
港町の外れで、我輩は屋根から屋根へと渡っていた。
学者たちが、
どんな言葉で我輩を囲おうとしているかなど、
知る由もない。
だが一つだけ、確信している。
彼らは、
我輩を理解しようとしていない。
理解できないまま、定義しようとしている。
それこそが、
最も危険な行為だということを――
彼ら自身が、まだ知らないだけだ。




