猫、追われる――真実を知る者の末路
追われる、という感覚は音から始まる。
足音が多い。
呼吸が荒い。
だが最も危険なのは、声がないことだ。
我輩は森を走っていた。
夜明け直後、撤退の混乱に紛れて戦場を離れたはずだった。だが人は、混乱が収束すると必ず原因を探す。英雄が死ななかった理由を。
そして――
原因は、都合よく一つに集約される。
猫。
背後で枝が折れる音がした。
兵ではない。動きが静かすぎる。
追っているのは、処理係だ。
戦争には、戦う者とは別に「消す者」がいる。証拠、証言、偶然、誤算。それらを整える専門職だ。剣は持たないが、殺しに迷いがない。
我輩は斜面を下り、川へ向かった。
水は痕跡を消す。
だが同時に、選択肢を奪う。
飛び込む前に、振り返った。
黒衣の男が三人。顔は見えない。見る必要もない。彼らは「誰か」ではなく、「機能」だ。
我輩は川に飛び込んだ。
冷たい水が、全身を包む。流れは速い。だが猫は、泳げる。溺れるより、追いつかれる方が早い。
下流で岸に上がり、身を震わせた。
毛は濡れ、体温は奪われた。だが、生きている。
生きていること自体が、罪になった。
そのとき、匂いがした。
鉄でも血でもない。
インクと紙の匂い。
「……やっぱり、猫か」
声の主は、文官だった。王都で見た男だ。処理する側ではない。物語を整える側だ。
「君がいなければ、話は簡単だった」
彼は近づかなかった。距離を保つ。これは交渉ではない。
「英雄は勇敢に戦い、撤退を成功させた。だが君がいると――」
真実が、余る。
「英雄が判断を誤った可能性が出てくる」
それは、許されない。
「だから、君は消える」
静かな宣告だった。
我輩は逃げなかった。
逃げ切れないと知っていたからだ。
そして――
もう一つ、理由があった。
森の奥から、別の足音がした。
重い。
不器用。
だが、迷いがある。
「……やめろ」
レオンだった。
彼は走ってきたわけではない。
引きずられるように、ここに来た。
「その猫に、触るな」
文官は眉をひそめた。
「英雄殿、これは――」
「英雄じゃない」
レオンは言った。
短く、はっきりと。
「俺は、あの撤退を命令してない」
空気が凍った。
文官の顔から、物語が剥がれ落ちる。
「……何を、言っている」
「分かってる」
レオンは我輩を見た。
「助けられた」
それだけで、十分だった。
文官は一歩下がった。
「それを口にすれば、君は――」
「知ってる」
レオンは笑った。
英雄が初めて見せる、弱い笑顔だった。
「でも、もう英雄じゃなくていい」
沈黙。
その沈黙が、全てを決めた。
黒衣の男たちが、動かなかった。
命令が、来ない。
文官は理解した。
英雄が物語から降りると宣言した瞬間、
彼を消す方が、損になる。
「英雄の失脚」は物語になる。
「猫の処分」はならない。
「……君は、消えたことにする」
文官は我輩を見ずに言った。
「死んだ。偶然。事故だ」
それでいい。
猫は、記録に残らない方が自由だ。
彼らは去った。
森に、朝の音が戻る。
レオンは地面に座り込み、我輩を抱いた。
「……ありがとう」
英雄でも、役職でもない。
一人の人間の言葉だった。
我輩は、答えなかった。
猫は、感謝を受け取らない。
それを受け取ると、役目が終わるからだ。
我輩は彼の腕を抜け、森の奥へ歩き出した。
振り返らない。
英雄は、自分で歩かなければならない。
我輩は猫である。
追われ、消され、
それでも真実を壊さなかった存在である。




