猫、選ぶ――英雄を救うか、物語を壊すか
選択とは、迷うことではない。
迷いが終わったあとに残る、
取り返しのつかない一本の道を指す言葉だ。
夜明け前、前線は静まり返っていた。
静かすぎる戦場ほど、不吉なものはない。兵は眠らず、魔法も飛ばず、ただ「次」を待っている。次とは、命令か、死か、その両方だ。
レオンは野営地の端に座っていた。
剣は折れたまま、鎧は応急処置だけが施されている。英雄の姿としては、あまりに貧相だ。それでも周囲は、彼を見て安心する。
彼がいる。
だから大丈夫だ、と。
それが、最大の嘘だった。
我輩は、草むらから彼を見ていた。
近づくことはできた。
呼ぶこともできた。
だが、それをすれば――
彼は「人間」に戻る。
英雄をやめる、という選択肢が生まれてしまう。
それは、彼一人の問題ではない。
彼を英雄として成立させてきた全ての構造が、彼を許さない。
やがて、伝令が来た。
「夜明けと同時に、再編成後、前進」
再編成とは、残った者をまとめることだ。
前進とは、押し切ることだ。
撤退は、言葉にすらならなかった。
レオンは立ち上がり、頷いた。
「分かった」
その一言で、彼は再び英雄になった。
我輩は理解した。
このまま行けば、彼は死ぬ。
英雄として使い切られ、
「勇敢な最期」として処理される。
物語は美しく終わる。
世界は、何も学ばない。
では、どうするか。
英雄を救うには、
物語を壊すしかない。
我輩は動いた。
戦場の端、魔法陣が張られた丘へ向かう。そこは補給と通信の要だ。誰も注目しないが、最も脆い場所。
夜露に濡れた草を踏み、我輩は魔法陣の中心に立った。
かつて、我輩は偶然それを止めた。
今回は、意図的だ。
爪を立て、刻まれた線を引き裂く。
魔力が乱れ、空気が震えた。
「何だ!?」
叫び声。
混乱。
命令の錯綜。
通信は断たれ、補給の転送は止まる。前線は、即座に動けなくなった。
これは、裏切りだ。
だが同時に――
唯一の撤退理由でもある。
「魔法陣の不調により、前進不能!」
文官が叫ぶ。
「原因は不明!」
原因不明は、責任の所在を曖昧にする。
だからこそ、採用される。
命令が変わった。
「……撤退」
小さな声だった。
だが確かに、言われた。
兵たちは安堵と混乱の中で動き出す。
レオンは、その場に立ち尽くしていた。
「……?」
彼は、理解できていなかった。
勝っていないのに、生き延びた。
英雄として、最も不自然な状況だ。
そのとき、彼の足元に、影が落ちた。
我輩だった。
初めて、彼の前に姿を見せる。
「……お前」
レオンは息を呑んだ。
「生きてたのか……!」
彼は、しゃがみ込み、我輩に手を伸ばした。
その手は、震えていた。
「……良かった」
その一言で、英雄は崩れた。
人間が戻ってきた。
周囲が騒がしくなる前に、我輩は彼の額に頭を押し付けた。
短く、強く。
別れの合図だ。
彼は何かを悟ったように、口を閉ざした。
我輩は踵を返し、走った。
背後で、誰かが叫んでいる。
だが、もう振り返らない。
英雄は救われた。
だが物語は、壊れた。
この戦争は、長引く。
英雄一人では終わらない。
だが――
無意味な死は、一つ減った。
それで十分だ。
我輩は猫である。
物語を壊し、
英雄を生かした存在である。
そして今、
最も危険な存在になった。




