猫、英雄の敗北を先に見る
敗北は、敗北としてやって来ない。
最初は、小さな齟齬だ。
報告が遅れる。
補給が滞る。
命令が曖昧になる。
それらはすべて、「まだ大丈夫」という言葉で覆われる。
我輩は丘の上にいた。
遠くに、戦場が見える。旗が揺れ、魔法の光が瞬き、音が遅れて届く。英雄がいるはずの中心だ。
だが我輩の足元には、別の光景があった。
担架。
血。
帰ってきた兵。
戻ってきた、というより――
押し戻された、という方が正しい。
「前線が……崩れてる」
若い兵が、膝をついたまま言った。
「英雄がいるはずだろ!」
別の者が叫ぶ。
「いるさ」
誰かが答えた。
「いるが、勝ってはいない」
その言葉が、空気を変えた。
英雄が負ける、という発想は禁忌だ。
だが現実は、禁忌を無視する。
我輩は、兵士たちの間を歩いた。
彼らは我輩を見ない。
見る余裕がない。
一人の負傷兵が、うわ言のように呟いた。
「……命令が、変わった」
誰も聞かなかった。
「撤退じゃない。前進でもない。待て、って……」
待つ、という命令ほど残酷なものはない。
何もせずに死ね、という意味だからだ。
丘の下で、魔法の爆発が起きた。
次の瞬間、伝令が走ってきた。
「英雄が――」
その先は、言わなかった。
言えなかったのだ。
我輩は、音を聞いた。
それは、戦場の音ではない。
物語が壊れる音だ。
少し離れた場所で、文官たちが集まっていた。彼らは剣を持たない。だが戦場では、剣より強い存在だ。
「報告は、整理しろ」
「敗走という言葉は使うな」
「英雄の名は、前面に出すな。今はまだ」
まだ、とは未来形だ。
「被害は?」
「数字を調整します」
数字は、死体の代替品である。
我輩は理解した。
英雄は、負けたのではない。
負けさせられている。
準備不足。
過剰な期待。
撤退を許さない空気。
それらすべてが、英雄をすり潰すために揃っている。
夕暮れ、負傷者の列の中に、見覚えのある姿を見た。
レオンだった。
鎧は砕け、剣は折れ、歩き方は不自然だ。だが彼は、まだ立っていた。
英雄は、倒れることを許されない。
我輩は、草陰から彼を見た。
声をかけなかった。
姿も見せなかった。
今、我輩が現れれば、彼は「戻ってしまう」。
英雄になる前の、人間に。
それは、彼にとって救いであり、同時に破滅でもある。
レオンは、誰かに支えられながら言った。
「……まだ、戦える」
その言葉に、周囲は安堵した。
それが、彼の敗北だった。
戦えないと言えない英雄は、
次の戦場へ送られる。
夜、雨が降った。
血を流すには、都合のいい雨だ。
流してしまえば、なかったことにできる。
我輩は濡れながら歩いた。
英雄の少し後ろを。
だが、決して隣には立たずに。
猫は、予言しない。
だが、先に見てしまう。
このまま行けば、
英雄は死ぬ。
英雄としてではなく、
物語の都合として。
我輩は猫である。
英雄の敗北を、
英雄より先に見てしまった存在である。




