猫、王都を去る夜に振り返らない
夜の王都は、昼よりも正直だ。
灯りが強い場所ほど影は濃く、人通りの多い道ほど、誰も他人を見ていない。人は夜になると、見たいものだけを見る。だからこそ、見られたくないものは夜に動く。
我輩は、セリアが残した鍵で扉を開けた。
音はしなかった。鍵も扉も、逃げる者のために作られてはいないが、消す者の都合で整備されている。逃げ道があるということは、消す側が「事故」を装えるということだ。
廊下を抜け、裏口へ向かう。
途中、二人の兵士とすれ違った。だが彼らは我輩を見なかった。いや、正確には「見なかったことにした」。猫は、見なければ存在しないものにできる。
外に出ると、夜風が毛を撫でた。
自由の匂いだ。
だが、我輩はすぐには歩き出さなかった。
王都の中央、最も灯りの集まる方向を見た。そこに、レオンがいる。今頃は、英雄として祝われ、英雄として管理され、英雄として孤立しているだろう。
会いに行くことはできた。
姿を見せ、鳴き、足元に擦り寄れば、彼は喜んだに違いない。だがそれは、彼を危険に晒す行為でもある。
英雄の周囲に「異物」は置けない。
それは、彼のためでもあり、我輩自身のためでもある。
我輩は、振り返らなかった。
猫が去るとき、理由を残さない。それが、人間に余計な物語を与えないための優しさだ。
王都の外れへ向かう途中、川を渡った。橋の下では、浮浪者たちが身を寄せ合って眠っている。戦争の影は、まずこういう場所に落ちる。
一人の男が、我輩を見て呟いた。
「……縁起物も、捨てられるのか」
捨てられたのではない。
移動しただけだ。
だが、人間には区別がつかない。
城壁の外に出ると、空気が軽くなった。王都という箱から出た途端、夜はただの夜になる。支配も計算も、城壁の中ほど強くは働かない。
我輩は、少しだけ足を止めた。
英雄を一人残してきた。
記録される物語の中に、我輩はいない。
だがそれでいい。
英雄の物語は、いずれ誰かが書く。だが歪んだ物語の隙間に落ちた真実は、誰かが覚えていなければならない。
猫の記憶は、長い。
夜が明ける前に、我輩は街道を外れ、森へ入った。戦争前夜の森は静かだ。静かすぎる。だが王都よりは、正直だ。
そのとき、遠くで角笛が鳴った。
王都からだ。
短く、重い音。
訓練ではない。
祝祭でもない。
――始まった。
正式な宣言は、まだだろう。だが人は音で分かる。戦争は、言葉より先に音を出す。
我輩は歩いた。
英雄のいない方向へ。
だが、戦争の中心へ。
なぜか。
それが、猫が選んだ場所だからだ。
我輩は猫である。
英雄の物語から外れ、
それでも世界の中心に向かう存在である。
この先、我輩は名前を持たぬまま、
多くのものを見るだろう。
英雄が壊れる瞬間も、
物語が嘘になる瞬間も。
そしていつか、
誰にも望まれぬ真実だけが残ったとき――
それを覚えているのは、
きっと猫だけだ。




