猫は異世界でも我輩である
人は死ねば、何者かに生まれ変わるという。
それが勇者であったり、魔法使いであったり、時には世界を救う使命を負う存在であったりするらしい。
しかし、もし生まれ変わった先が「猫」であったなら、話は少々変わってくる。
本作は、異世界に転生した一匹の猫が、人間社会を遠巻きに眺め、時に巻き込まれ、時に傍観しながら、生きていく物語である。
剣と魔法は存在する。戦争も、差別も、英雄譚もある。
だがそれらはすべて、猫の目線から見れば、ひどく滑稽で、どうしようもなく愛おしい。
この物語に、派手な無双はない。
あるのは観察と皮肉と、ほんの少しの優しさだけである。
もしそれでも構わないという奇特な読者がいれば、
どうぞこの猫とともに、異世界を散歩していただきたい。
目を覚ましたとき、まず鼻を衝いたのは、文明の匂いではなかった。石と土と、獣の体温が混じった、生き物の世界そのものの匂いである。
我輩はここで一つの疑問に突き当たった。――ここは、どこだ。
仰向けに倒れている身体を起こそうとして、思うように動かぬことに気づいた。否、正確には「動かせない」のではない。「動かし方が分からない」のである。手足の感覚はある。しかしそれは、昨日まで
我輩が知っていた人間の四肢とは、微妙に配置も重さも異なっていた。
その瞬間、理解が追いついた。
――我輩は、死んだな。
死因は簡単である。過労である。締切に追われ、原稿に追われ、人間関係に追われ、最後は自分自身に追われて、机に突っ伏したまま帰らぬ人となった。かつては教師であり、物書きであり、家庭人であったが、最後は「仕事」という名の怪物に食われた一匹の人間であった。
ところが、である。
死後の世界というものは、案外に雑然としているらしい。三途の川もなければ、閻魔もいない。代わりに我輩が放り出されたのは、空の青すぎる、見知らぬ草原であった。
ふと視界の端に、長い影が映った。獣の影である。振り返ろうとして、再び気づく。
――首が、軽い。
いや、軽いのではない。可動域が異常に広い。恐る恐る自分の身体を見下ろした瞬間、我輩はようやく現実を受け入れた。
我輩は、猫であった。
毛並みは黒。尾は長く、四肢はしなやかで、視界は低い。だが感覚は冴え渡っている。風の流れ、草の震え、遠くの獣の足音まで、ありありと分かる。人間の五感がいかに鈍重であったかを、我輩はこの瞬間に悟った。
異世界転生――近頃流行の言葉で言えば、そういうことになるのだろう。だが神の声もなければ、能力付与の説明もない。ただ放り出され、理解し、適応するのみである。いかにも不親切で、しかし現実的だ。
我輩は立ち上がった。否、立ち上がれた。身体は思ったよりも素直で、思考より先に動く。猫とは、理屈よりも本能で生きる生物らしい。
そのとき、草原の向こうから人影が現れた。
鎧を着た若い男である。剣を携え、顔には疲労と警戒が刻まれている。彼は我輩を見つけると、わずかに表情を緩めた。
「……猫か。こんなところに?」
言葉が分かる。
それも日本語ではない。だが意味が、直接頭に流れ込んでくる。どうやらこの世界では、言語の壁だけはサービスしてくれるらしい。
男はしゃがみ込み、我輩に手を伸ばした。その手は武器を握る者のそれで、硬く、しかし震えていた。生きることに必死な人間の手である。
我輩は一歩、前に出た。
人間だった頃、我輩は人を観察することで生計を立てていた。ならば今度は、猫の視点でこの世界を観察しようではないか。異世界で英雄になる気はない。魔王を倒す義務もない。
ただ――
この世界と、人間と、自分自身の愚かさを、最後まで見届ける義務くらいは、あるだろう。
男の手が我輩の頭に触れた。
その温度を感じながら、我輩は思った。
――我輩は猫である。しかも、異世界の。
名は、まだ無い。




