1983年に生まれた大輔の生活
毎朝、起床後に小さな浴室の中で全身にシャワーを浴びながら、大輔は大きな声で歌を歌う。曲目はその時々の気分次第で、この日は彼が幼い頃に流行していた歌謡曲が咄嗟に口をついて出た。全身に纏わりつく睡眠の残り香を洗い流すように、その短い髪を優しく洗い、前日の疲労が抜けきっていない全身を上から下までくまなく洗う。
強く目を瞑り、頭からすっぽりとシャワーの滝の中に身を潜めて、しばらくの間、彼は声を出して歌うのだ。終わらないシャワーの音と自分の声とが不思議と混ざり合い、小さなユニットバスの中で反響を繰り返す。その時間、大輔は少しだけ現実の生活から切り離されて、この世界には自分一人しか存在していないのではないか、と思っている。
廊下に併設した小さなキッチンで朝食を準備して、8畳ばかりの部屋で手早く食べる。ちゃぶ台の上にはトーストが一枚とボイルされたソーセージが2本。そしてガラスコップに注がれた一杯の牛乳。大輔は顔の前で手を合わせて、目を閉じてから「いただきます」と声に出した。そして目を開けて、にこりと笑顔を浮かべて皿の上のトーストに手を伸ばした。よく焼かれた香ばしい小麦の匂いが、大輔の鼻の奥をくすぐった。
ちゃぶ台の上には一冊のノートが置かれてある。どこにでも売られているB5サイズの見慣れたキャンパスノート。四隅が所々に擦れた表紙には、「2025年4月〜」と黒いマジックで大きく書かれてある。
それは大輔の日記だった。彼が一日の生活の中で感じたことや、起こった出来事が綴られていた。
この春、長らく勤めていた会社を早期退職という名の事実上のリストラで去ることになり、現在の新しい生活を迎えるにあたって彼が始めた日課。どれだけ疲れていようとも他に大切な用事があろうとも、一日の終わりに彼は自分の暮らしを丁寧に、そして率直に紙の上に写し続けた。
毎朝のシャワーで歌う歌。
就寝前に寡黙に綴る日記。
42歳になって、厄年の最後の年に会社をクビになるなんて、何とも情けない話だよなと大輔は時々苦笑いを浮かべる。しかしその言葉とは裏腹に、彼はあまり悲観に暮れていないようにも見える。終わりがあれば、始まりがある。止まない雨も決してないし、朝日が昇らない日もないのだから。大輔はそう考えて、自分の人生を前向きに楽しむようにしていた。人前ではいつも笑顔を絶やさず、物事の明るい面を常に捉えるようにしていた。
明日は明日の風が吹く。
それが自他ともに認める大輔の信条だった。
二十年近く働いた印刷工場は、コロナ期の無利子融資の返済が始まった数年前から経営状況が急激に悪化して、今年に入って遂に人員整理を行うことになった。大輔もその対象となり、何回かの面接の後に彼は親しんだ工場を去ることになった。彼の後輩社員たちは伏せ目がちに大輔を見送ったが、彼はここでも笑顔を浮かべて皆に声を掛け、そして会社を後にした。
次にじっくりと腰を据える仕事が見つかるまでの繋ぎの仕事として、彼はアマゾンの配達員を選んだ。しばらくは一人きりで気楽に働こう。彼はそう考えて面接を受けた。
若い面接官は予め決められた質問を大輔に投げかけ、彼の回答を手元のタブレットに順番に記入していく。その間、大輔はにこやかな表情を浮かべて面接官の作業を見つめている。しばらくしてタブレットの画面には「合格」の文字が小さく映し出され、大輔は運転免許証のコピーを提出して契約書にサインした。業務に必要な車を含む備品は全て貸与扱いで、出来高報酬型の契約だった。その後一週間程度の同行研修を経て、彼は週に六日、自宅周辺を主な配達エリアとして配達員として働くことになった。
いつもの朝食を済ませた大輔は、所定のユニフォームに着替えて部屋を出て、近所の配送センターへと向かった。彼は朝八時から夕方の六時まで配達に従事した。何回かの休憩を短く挟みながら、配送センターからの細かな指示を忠実に遂行して、できるだけ多くの荷物を目的地へ運んでいく。彼は運転中も口元に笑みを浮かべ、配達先での玄関越しにも笑顔を絶やさなかった。
明るく、楽しく、いこうじゃないか。
荷物と一緒に笑顔も運んでいるんだから。
大輔は軽トラックの助手席の窓に映るもう一人の自分に向かって、いつもそう声を掛けていた。
彼が仕事終わりに愉しみにしていること。それは近隣のスーパーマーケットを自転車で巡って、安くて良い品を探し出すことだった。大輔は三食ともに自炊することを旨として、食材や調味料なども自らで調達していた。職が変わり、収入も以前と比べて減少したが、自炊については単なる節約ではなく趣味に近い感覚を彼は持っていた。生鮮食品、加工品、調味料、保存用の食材。彼はそれぞれの店舗で適した品を購入し、それらを使い慣れたナイロン製のエコバッグに詰め込んで、自転車の前カゴへと収める。
今日は良い買い物ができたな。何と言っても卵がお買い得だった。2パック買ったからしばらくは卵料理だけど、貴重なタンパク源だしな。
うん、良かった。
自転車のペダルを漕ぎながら彼は家路を急ぐ。歩道の段差に乗り上げる度に買い物袋の中の卵を心配したが、彼の予感は残念ながら的中し、帰宅後に彼は数個の卵が無惨にも割れていることに気づいた。彼は少し肩を落としたが、ふう、と一息入れてから、パックの中に流れ出た卵液を丁寧に茶椀へと移していく。
捨てるのは、もったいないよな。
体の中から自分の声が聞こえる。
彼は僅かに卵液が残った透明なパックをゴミ箱に捨ててから、シンクの横の小さな作業スペースに並べられた今日の戦利品を眺めた。そしてそこに不必要な品が混ざっていないかを確認する。衝動的に、そして勢い余って買い物カゴの中に紛れ込んでしまったものはないかと。それから彼は財布の中から二つに折り曲げられたレシートを取り出して、シンクに備え付けられた引き出しの中の、小さな箱にしまう。毎月、どれだけの食費を使ったかを家計簿へと記入するために。これも、決められたルールから自分が逸脱していないかを判断するための儀式の一つだった。
その夜、大輔はちゃぶ台の前に胡座をかき、日記を書いていた。昼間の仕事の内容や宅配先での出来事、担当マネージャーからの指示や依頼など。思いつくままにその日を振り返り、決して情緒的ではない短い文章を重ねていく。特売の卵を割ったことや夕食の味付けに満足していないことなども。まるで紙の上に自分の人生を刻んでいくように。
彼は書き終えた日記のページを眺めて、少しだけ目を細めた。
今日もそれなりの一日だったじゃないか。他に何を望もうと言うんだ、俺は。
短く刈られたもみあげには白い毛が恥ずかし気もなく混じり、ボールペンを支える指には無数の皺が浮かんでいる。大輔は日記帳を閉じて、窓の外の景色を見た。透明なガラス窓を境に、外の夜景と部屋の中の空間とがまるで異なる世界のように彼は感じた。
俺は一体、どっちの世界で生きているんだろうな。
体の中から、また声が聞こえる。
大輔は布団に潜り込み、目を閉じて自分の本当の世界の場所を探すように、その日の眠りについた。
翌朝、彼はいつものようにシャワーの中で大声で歌い、手早く朝食を摂り、そして配達の仕事へと向かった。午前中は何軒かの馴染みの配達先に加えて、初めての配達先も混ざっていた。築年数も古く、アパートとマンションを足して二で割ったような質素な建物。何度か前を通ったことはあったが、実際に配達するのは今日が初めてだった。彼は午前中最後の配達先として、その初めての建物に到着した。
一階の集合郵便箱の前を通り、エレベーターに乗り込む。オートロックの装置はなく、誰でもが建物内を行き来できる構造だった。目的の階でエレベーターを降りて、左右の廊下をざっと見る。目の前の部屋番号から配達先の部屋を予想して足を踏み出す。履き慣れた紺色のスニーカーの踵は相当に擦り減り、そろそろ限界を迎えようとしていた。
大輔は部屋の前に立ち、呼び出しベルをゆっくりと押した。
大きなチャイムの音が部屋の中で一度響くのが聞こえた。彼は小さく咳払いをして、住人の登場を待った。まもなく、チャイムの呼びかけに応える声がして、ドアがゆっくりと開いた。
部屋から姿を見せた中年の女性を見て、大輔は即座に既視感を覚えた。そして相手の名前を確認して、小さな段ボールの箱を女性に渡す。その時に僅かに二人の目線が合い、そしてその女性も大輔を見て何かに気づいたようだった。
その女性、愛は大輔が馴染にしているスーパーマーケットの一つ、「コム網島」の店員だった。
大輔は、自分とほぼ同年代のこの女性をよく記憶していた。会計の後にいつも大きな声で、ありがとうございました。またお越しくださいと客に礼を伝える姿が印象的だったからだ。化粧気も少なく、髪型や服装も地味だったが、それが大輔にどこか安心感を与えていた。
荷物を受け渡しながら二人は頭を軽く下げて会釈をした。どちらも互いの存在に気付いたことを相手に示しながら。大輔と愛は言葉を交わすことはなく、微妙な雰囲気の中で静かに背を向けた。部屋のドアが閉まる金属音だけが、二人を見送った。
その日の午後は、大輔にとっては苦難の連続だった。馴染みのスーパーの店員との突然の出会いの意味や啓示を考える暇もなく、彼は次から次へと荷物を運んでいった。受取人が不在の配達先が多いことが彼を大いに悩ませた。置き配の指示もなく、配達ボックスもない。そんな案件が多く続いた。それでも大輔は笑顔を忘れず、一度駆け上がった階段を再び同じリズムで降りるように努めた。今朝、シャワーを浴びながら歌った曲を心の中で何度も繰り返しながら。
折り返しを迎えた頃、今度は配達の品が一日遅れていることが発覚した。本部とセンターとのやりとりの中でたまに起こる機械的なミスだった。過失の責は配達人にあるのではなく、システムの中でのエラーであり、さらには物流の増加に伴う結果でしかなく、大輔にはどうすることもできなかった。彼は目の前で怒鳴る初老の男性に頭を下げて侘びながら、何度も謝罪の言葉を伝えた。できるだけ誠意を込めて、まるで自分がこの配達サービスの代表者であるかのように。
しばらくして大輔が短い休憩を自身の軽トラックの中でとっていると、同僚からの応援要請が彼のスマートフォンに届いた。
それは本来であれば本部からは認められないが、実際には配達人の間でごく自然に行われている助け合いだった。遅延につながりそうな配達人の荷物を、他の配達人が代わりに配達するのだ。大輔は同僚からの応援要請を断ることがなかったので、気がつけば頻繁に頼まれるようになっていた。
この日は自分の配達状況に余裕がなかったため、一度は断ろうと大輔は思った。
しかし彼の指先はその気持ちとは裏腹に、LINEに「了解」という二文字を打ち込んでいた。彼はすぐに集合場所へと向かい、同僚の荷物を三件預かった。同僚は大輔に、いつもの口調で淡々と感謝の気持ちを伝えるだけだった。
大輔は同僚の荷物を先に運ぶことにした。そうしなければ同僚は定時であがることができない。システム上はそれらの荷物は同僚と紐づいており、未達のままでセンターに戻れば一定のペナルティが同僚に課されることになる。彼は急いで配達を続けた。陽はすでに大きく傾いている。大輔の業務契約の終了時刻がまもなく迫っていた。この時刻を超えて働くことは、契約上許されていない。彼は頭の中で今朝の歌を反芻しながら、自分を勇気づけて腕時計との勝負に邁進した。
そして大輔は何とか同僚の荷物を業務時間内に配達することができた。その反面、彼は自身の担当する荷物を二件遅延させてしまった。彼はセンターへと戻り、その二件を後任の担当者へと引き継いだ。これによって当初の配達計画に乱れが発生する。その責任をとって、当事者である大輔には一定のペナルティが課される。それは具体的には、報酬からの違約金の天引きというシンプルなものだった。
大輔は仕方がないという表情を浮かべ、自分よりもひと回りほど若いであろう担当マネージャーに首を傾げた。
こんな日もあるさ、と言わんばかりに両肩をすくめて。
担当マネージャーは無言で彼の仕草を受け流し、手に持ったタブレットに報告内容を記入した。大輔はお疲れ様でしたと言い、下を向いたままのマネージャーに一瞥して部屋を出て、センターの外に出た。陽はすでに、しっかりと沈んでいた。
彼は自宅に帰ることなく、仕事着のままでスーパーマーケットへと向かった。鮮魚の特売をしている例のコム網島が彼の目的地だった。入り口の自動ドアを抜けて、プラスチック製のカゴを手にもつ。そして二つあるレジカウンターの片方に大輔は愛の姿を見つけた。一瞬、彼は呼吸が止まる気がしたが次の瞬間には何事もないように平静を保って、いつものルートで探索を始めた。野菜コーナーでシメジとモヤシをカゴに入れ、鮮魚コーナーで刺身の盛り合わせを一つ手にとる。すでに割引の丸いシールが貼られているが、大輔は値段を再度確認してからカゴの底へそっと置いた。
今日は仕事で疲れたから、これくらいは贅沢とは言えないだろう。
頭の中に家計簿の残額がすぐさま浮かんだが、彼はニコリと笑ってその数字をかき消した。そして牛乳を1パックと特売品のソーセージの袋をカゴに追加した。そこで大輔はくるりと振り返り、レジの方を見た。右側のレジに愛の姿が見える。大輔はどうしようかと迷ったが、今朝の出来事の意味を探るべく右側のレジに並んだ。
買物カゴをレジのカウンターの上にそっと置き、ポイントカードを差し出す。
愛はありがとうございますと言いながら、ポイントカードを受け取り、カードリーダーへとさっと通す。そしてカードを彼に返すところで、愛は大輔の存在に気がついた。僅かに手の動きが止まったが、彼女は買物カゴから商品を別のカゴへと移しながら、バーコードで読み取っていく。その視線は自身の作業領域に向けられたままだ。大輔も無言で彼女の仕事ぶりを見ている。二人の関係性は昨日までのそれとは大きく異なり、一本の細い糸が両者の間の空気の上をふらふらと彷徨っているようだった。
愛は合計金額を伝え、大輔はそれを現金で支払ってレシートを受け取った。釣り銭をトレイから受け取り、小さな声でありがとうございますと言った。愛は頷き、大きな声でありがとうございましたと言った。大輔はカゴを手に取って、荷詰めのためにすぐ隣のサッカー台へと移動した。ナイロン製のバッグに商品を順番に詰めていく。背中越しから、愛の元気な声が聞こえた。支払いを済ませた他の客に、彼女は大きな声でありがとうございましたと伝えていた。
そして大輔は愛を振り返ることなく店を後にした。
その夜、大輔は刺身の盛り合わせと卵野菜炒め、そして豆腐の味噌汁を食べた。新鮮な刺身の味に満足した彼の口元は、思わず綻んでいた。
これで日本酒でもあれば、最高なのにな。
もう一人の自分がそう呟いていた。
夕 食を済ませた彼は食器を洗い終え、いつものようにちゃぶ台の前に座って日記帳のページを開いた。そして大変だった今日の仕事のこと、そして愛との偶然の出会いとその後の再会のことなどを記した。つい先ほど、夕食に満足したことも。
彼の一日がまた終わろうとしていた。大輔は一筋縄ではいかなかった今日の配達を振り返り、その中でも楽しかった出来事だけをいくつか選んで、それらを枕元に並べるようにして布団の中へと身を潜めた。
それからしばらく、大輔は愛の自宅へいくつかの荷物を届けることになった。そして仕事帰りにコム網島を訪れた際は、一人の客として愛に会計を支払う日が続いた。少しすると、配達の度に二人は二言三言と言葉を交わすようになった。最初は愛からの、いつもスーパーを利用してくれてありがとうございます、という感謝の言葉だった。大輔は正直にあの店が好きだと言い、話の流れで自身の日々のスーパーマーケット探索のことも彼女に伝えた。愛は大輔の趣味を好意的に受け止め、同時に自身が働く店舗以外の情報に関心があるようだった。
あくまでも、配達中での常連客との僅かな会話。それでも大輔は、徐々に気分が高揚するのを自覚していた。毎朝シャワーの中で歌を歌い、寝る前には一日の出来事を日記に記す。そんな大輔の生活の日々に、新たな慣習が生まれたようにも感じたのだ。
二人はLINEのアドレスを交換して、大輔は他店の有益な情報を愛に、そして愛はコム網島のあまり知られていない情報を大輔と共有するようになった。
そうして二ヶ月が過ぎた頃には、二人は週に数回はLINEのやり取りを繰り返すようになっていた。
ある日、大輔が同僚の応援を手伝いながらも何とか自身の荷物も時間内に配達し終えた時、愛からのメッセージがスマートフォンに届いていることに気がついた。
何か、お店の良い情報でもあるのかな?
大輔はそう思いながら、そのお返しに他店の特売情報を急いで探さなくてはと考えていた。
ギブ・アンド・テイク。
俺にはこれくらいが丁度良いから、と。
しかし大輔の予想に反して、愛から送られてきたメッセージは珍しく長文であり、そして必要以上に畏まった体裁をしていた。大輔は無言でその文章を読み進めた。右手の人差し指で画面を徐々にスクロールしながら。一旦最後まで読み、そしてあらためて最初に戻って細かな点を行ったり来たりと確認しながら、二度三度と繰り返し読む。軽トラックはまだエンジンが掛けられたまま、暖房の風が閉ざされた小さな空間の中で何度も循環していた。大輔は腕時計を見て時刻を確認し、一旦スマートフォンをしまって車のエンジンを切り、担当マネージャーの元へと急いだ。時間内に業務報告をしておかなければならない。今日の成果を確定するために。
それから大輔は、珍しく買い物をすることなく帰宅した。スーパーマーケットの探索で貴重な思考力を減らすのではなく、その日残された集中力を愛からのメッセージに向けるためだった。
彼女の頼みに、どう応えるべきなのだろうか?
大輔はちゃぶ台の前で胡座をかきながら、何度もスマートフォンの画面を見直した。そして思い立ったように浴室へと向かい、熱い温度のシャワーを浴室の中へと放った。あっという間に蒸気が浴室を満たしていく。大輔は衣服を脱いでシャワーの中へと身を委ねて、頭に浮かぶ曲を歌い出した。いつものように弾ける水の音と自分の声とが溶け合って、どこか別世界へと大輔の手を引いていった。
そうして彼は、しばらくの間シャワーの中で自分に問いかけ続けた。
自分を必要としている人がいるなら、それに応えよう。
彼が出した結論は最初から決まっていたかもしれないが、それを行動に移すためには一定の儀式的な動作が必要だった。彼は浴室から出て全身を丁寧にバスタオルで拭き、服を着替えた。滅多に酒を飲むことはなかったが、これも儀式の一環なのだろうか、大輔は冷蔵庫の奥に隠れていた缶ビールを取り出してタブを捻り、黄金色のビールを喉の奥へと送りこんだ。忘れかけていた炭酸の強い刺激が、思わず彼の目を閉じさせる。一口、二口と飲み進めて大輔は長い息を吐いた。
よし、やるか。
彼はスマートフォンを操作して、必要な手続きを進めていった。
そして5分も経たないうちに、彼は所定の口座への入金を終えていた。大輔は愛の頼みの通り、五十万円を彼女が指定する銀行口座へと送金した。そして、LINEの画面を開き、その旨を愛へと伝えた。大輔は自らのメッセージが既読になるのを待つこともなく、うん、これで良い、ともう一人の自分に囁いて自分の行いを認めた。
困った時は、お互い様だから。
小さく息を漏らして、大輔は全身にアルコールが染み渡っていく感覚に襲われた。
彼はしばらくの間、ぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。夜の静けさの中で、車の走行音が遠くに聞こえる。通りの向かいの巨大な高層マンションの窓には無数の灯りがきらきらと輝いている。大輔はそれらの窓を順番に目で追いながら、そこに暮らす人たちの生活を心の中で思い描いていた。
翌朝、いつもの朝食を食べながら、大輔はLINEに届いた愛からのお礼と感謝の言葉を読んでいた。そこには離婚した元夫と暮らす娘の学費援助にありがたく使わせて頂きますと記されてあった。そしてお金は来月から何回かに分けて必ず返しますから、とも。
大輔は、どこか照れ臭さを感じながらも差し障りのない返事を送り、制服に着替えて部屋を出た。
一階まで階段で降る彼の足取りは、どこか軽やかにも見えた。
その日大輔は、エンジンの故障で軽トラックが動かなくなるという事故に見舞われた。時刻はすでに午後5時を迎えようとしている。大輔は車を路肩に停車して、センターに電話して事情を伝えた。担当者は直ちに修理班を向かわせると言い、その場でしばらく待機するように大輔に指示した。
大輔は運転席に座り、駅前の様子を眺めていた。JR環状線と京阪電鉄が接続する京橋駅前。小さなバスロータリーが国道一号線と重なっている。細長い商店街へと繋がる交差点では多くの人が青信号を待っている。大輔は行き交う人々の背中を見ながら、彼らの暮らしを夢想していた。
信号が青に変わり、人々が動き出す。そして再び赤になり、次の人たちがその場へ留まる。まるで血管を巡る血液のように、心臓の鼓動に合わせて規則的な運動を続ける。それぞれが個人でありながら、全体では集団として同じ動きを繰り返す。自分はあの集団の中にいるのだろうか、と大輔は体の中のもう一人の自分に問い掛けてみる。しかし、何の返事も聞こえては来ない。
信号を待つ人々の中に愛の姿を見つけたのは、大輔が修理担当者からの電話を切った直後だった。愛は真っ直 ぐに前を向き、交差点の信号が変わるのを待っていた。大輔は思わず車から降りようとしたが、愛が隣に立つ男に声を掛けたのを見て、大輔はドアに触れた手を思わず止めた。
彼女は時折笑顔を浮かべて、若い男と話をしている。その男はおそらくは二十代後半で、艶のある黒い髪は左右に綺麗に分けられ、全体的に不自然なまでに整った顔立ちをしている。膝上までの黒いコートを羽織り、両手はコートのポケットに入れたままだ。隣に並ぶ愛よりも遥かに背が高く、細身の体躯をしている。
信号が変わり、待ち人たちが一斉に動き出した。愛とその男はピタリと身を寄せながら横断歩道を渡っていく。その間も愛は男に話しかけたままだ。男は薄い笑みを浮かべながら、彼女の言葉に繰り返し頷いている。横断歩道を渡り終えて、愛は男の右腕に手を回してまるで男を先導するかのように、国道一号線沿いの歩道を歩いていく。小さな雑居ビルや飲食店、そしてラブホテルが密集するエリアに向かって。
大輔は二人の後ろ姿が小さくなるまで黙って車内から見守っていた。そして二人が古びた立ち飲み屋の角を曲がって、ついにその姿が見えなくなった時に彼はわずかに俯き、小さな息を吐いた。
外の喧騒から完全に隔離された小さな車内で、大輔は下を向いて自分の足先を見つめている。
履き慣れた紺色のスニーカーが互いの靴底を限界まで減らしながら、ひと時の休息で自らの疲れを癒し合っているように見えた。
そしてスマートフォンが鳴り、修理班の若い男性スタッフの声がした。大輔は車から降りて周囲を見渡す。15メートルほど先から手を振りつつ近づく作業着の男を見つけた。大輔も手を挙げて、スタッフに合図する。紺色のスニーカーは体を重たそう動かしながら、主人の次の指示を待っていた。
軽トラックは点検と修理のために、作業場まで牽引されていった。若い修理スタッフは大輔に、センターの指示に従ってくださいとだけ伝え、急いでレッカー車の運転席に座ってエンジンを掛けた。
大輔はその場に取り残された。
そしてスマートフォンでセンターに電話を掛けてマネージャーに報告した。
とりあえず今日はもうあがってください。明日の朝、センターに来れますか?
大輔はマネージャーの問い掛けに、はい、と伝えて静かに電話を切った。駅前は徐々に人が増え始めていた。昼と夜の時間が入れ替わりつつある。人々が向かう場所や目的がぐるりと回転して、夜の顔が浮かび上がってくる。つい先ほど、愛の隣にいた若いホストの男が、彼らの仕事を始める時間になろうとしていた。
翌日から十日間ほど、大輔は配達を休まざるを得ない状況になった。修理工場へ運ばれた軽トラックが無事にセンターに戻ってくるまでの期間。
会社からの休業補償は何もない、と大輔は告げられた。
それから二週間が過ぎて、月末を迎えた。この頃、大輔と愛とのLINEのやり取りの回数は減っていた。そして大輔が愛の自宅に荷物を運ぶこともなくなっていた。愛が働くコム網島では彼女は変わらずレジカウンターに立っていたが、大輔は客の一人に過ぎず、彼女の対応は以前と比べて何も変わりはなかった。
ありがとうございました。またお越しください。
いつものように大きな声で、客に笑顔で声を掛ける。その日も大輔が購入した品をナイロン製の薄いエコバッグに詰めている間、その声が何度か聞こえて彼の頭の中で反響した。その反響は徐々に大きくなり、ついには頭を揺さぶるようになった。大輔は驚いて思わず振り返ったが、愛は次の客を待つ間に透明のビニール袋を小さく折り畳んでいるだけだった。大輔はまた俯いて、使い古して隅が伸び切ったエコバッグを手に取った。
翌日。
予定していた返済の日を一日過ぎて、大輔は愛にLINEでメッセージを送った。少額でも良いので少しずつ返して貰えますかと、あくまでも丁寧な言葉遣いで。
大輔は目の前のトーストには手をつけず、ガラスコップの中で常温になった牛乳を一気に飲み干した。そして皿に置かれたトーストの上からピタリとラップをして、冷蔵庫の中へとしまった。
また夜にでも食べればいいさ。
大輔は部屋を出て仕事場へと向かった。重く、ゆっくりとした足取りで階段を降りながら。
彼の両足を運ぶ紺色のスニーカーたちはすでに疲労困憊の様で、足底にはどこにも吸収されることのない、行き場を失った衝撃が一歩ごとに伝わってきた。
衝撃は耐え難い痛みへと姿を変えて、大輔の心と体を支配しようとしていた。
その日の仕事中に大輔は何度かLINEを確認したが、やはり愛に送ったメッセージに既読の印はつかなかった。そして大輔が最後の配達を終えてセンターに戻ろうと国道一号線沿いを車で走っていた時に、例のホストと腕を組みながら歩道を歩いてくる愛の姿を捉えた。大輔は少しだけアクセルを緩めて車の速度を落とした。もうすぐで愛たちとすれ違いそうになる瞬間、愛の視線が偶然にも軽トラックを運転する大輔に留まった。
ほんの少しの間、大輔と愛は互いの目を合わせた。
そしてすぐに愛は視線を元に戻し、若い男の手を引くように駅前の群衆の中に消えていった。
大輔は前方の車に付き従うように、アクセルを踏み込んだ。
その夜、大輔は部屋に戻るとすぐさま服を脱ぎ、そして浴室へと駆け込んだ。蛇口を捻り、熱いシャワーを勢い良く頭から浴びる。下を向いて目を瞑り、全身にシャワーが伝わるのを感じながら、彼は頭の中に浮かぶ曲の一節を歌い出した。
その曲の中では一人の中年の男が、自分のこれまでの生き方を振り返って、どうしようもない思いを真夜中に向かって叫んでいる。
大輔はシャワーの洪水の中で、繰り返しサビの部分を歌う。徐々に声を大きくしながら。曲の中の主人公と自分の人生を重ねながら。どちらが自分でどちらが曲の中の男なのか、その境界が曖昧になるほどに。
強く閉じられた瞼からは、止まることのないシャワーの水滴に混じって、大輔自身の涙が溢れてくる。
声を出すはずの喉は、奥の方でぎゅっと収縮して大輔が歌うのを止めようとする。
浴室の壁に押し当てられた両手が震え出し、シャワーに打たれる頭が前後左右に細かく揺れる。
声は歪んだ嗚咽となり、歌は激しい叫びへと変わっていった。
大輔は熱いシャワーを浴びながら、大声をあげて泣いていた。
毎朝、目覚めてすぐに浴びるシャワーの時と同じように。
シャワーの中で泣き尽くすことで、彼の一日は始まる。
先ほどから部屋の中には、大きく開けられた窓から外の空気が次々と舞い込んでくる。集まった風は小さな部屋の中をあちこちへと自在に行き交い、最後にちゃぶ台の上に置かれた日記帳へと辿り着いた。ノートのページがふわりをめくれ、大輔が日々記してきた言葉が露わになった。
紙の上には決して順調とは言えない自分の人生を憂い、嘆き、それでも何とか前向きに生きていこうとする男の悔しさや悲しみ、そして諦めや時には怒りにも似た言葉が書き殴られていた。
いつから自分の人生はこんな風になってしまったのか。
俺は一体、どうしたら良いのだろうか。
毎日の質素な暮らしの中の、偽ることのできない純粋な気持ちだけが、そのノートには刻まれていた。
切実な痛みを伴って。
すべてを投げ出しそうになる気持ちを間際で抑え込み、溜め込んだ自分の感情を乱暴に吐き出して、何とか精一杯生きた今日を呪うことなく明日を迎える。いくら願ってもそれが叶うことがないと頭では理解していても、まるで手に入らない果実の甘さを、せめて夢の世界で追い求めるように。
朝のシャワーと、夜の日記。
大輔の暮らしに欠かすことのできない、二つの儀式たち。
狭い浴室からは大輔の声がまだ響いていた。
誰もいない部屋の中では、穏やかな風だけが歌っている。




