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灰街(はいがい)に咲く白き灯火  作者: 妙原奇天


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第9話 灯火の真実

 封印区画は、協会本部のさらに奥、書庫の地図にも載っていない階層にあった。

 エレベーターの階数表示は途中で止まり、それ以降は壁を伝う白い筋がゆっくりと下方へ流れ続けるだけだ。まるで重力ではなく、別の規則で動く階段。御影純が持つ細い鍵を薄い切れ込みに差し込むと、空気の層が一枚めくれ、石の匂いが濃くなる。

「ここから先は、光を落とす。灯火は内側で灯せ」

「わかってる」

 晴は右目の暗闇を意識し、左目で通路の白線を捉えた。契約灯火のあとの身体は驚くほど静かだ。静けさの下で、薄く、火の精の囁きが骨に触れる。耳で聞くのではない。体の形で読む音。固定された温度。異物感はもうない。代わりに、戻れない線が一本、内側に描かれている。

 封印区画の入口は扉らしい扉ではなく、壁面の継ぎ目が微かに外へ膨らんでいるだけだった。純が鍵を抜き、壁に手を当てる。掌紋でも魔力でもない、もっと素朴な認証。彼が師から教わった古い合図だろう。壁の膨らみが溶けるように引き、細長い空間が現れた。

 中は冷たい。棚は低く、箱は薄く、床には白い紐のような線が走る。線は人の歩幅に合わせて編まれ、立ち入りの記録を残す。記録は嘘を嫌う。だから司書はここを「封印」ではなく「記録室」と呼ぶのだ、と晴は思った。

 純が立てかけの箱を一つ、慎重に引き出す。表紙に印字された分類は、封印移行期の「保護者指定記録」。保護者とは戸籍の意味ではなく、協会が付与する「紐」の先のことだ。誰が誰を見張り、誰に誰を近づけ、誰のために誰を泣かせるのか。そういう「紐」。

「本当に、ここで何かわかるのか」

「わかる。わからないことも、わかる」

 純は箱から薄いフィルムを数枚取り出し、卓上の投影台に置いた。器械に灯りはない。晴が左目の白で薄く照らすと、墨の線が浮かんだ。墨は新品の黒ではなく、時間で落ち着いた褐色。記録の色だ。

 最初の一枚は、灰街の古い保育施設の名前。隣に同じ苗字の欄がならび、そこに「榊」の文字が薄く乗っている。榊の欄から伸びる索線が二本。一本は戸籍の方へ。一本は協会の側へ。協会の索線の先には、見慣れない符が記されていた。

 符は円ではない。偏った扇形。その下に短い活字。「揺籃計画」。さらに小さく「灯火継承対象」。

 揺籃、ゆりかご。

 ふいに、古い手すりの冷たさが指先に戻る。晴が物心ついた頃の匂い。清潔で、薄く洗剤の香りがする白い通路。名前を呼ぶ声はいつも職員のもので、家族という言葉がどこにも引っかからなかった時期。思い出せるはずのない細部が、薄紙のようにめくれて出てくる。

「こっちを見ろ」

 純が二枚目に差し替えた。そこには「選別記録」の文字と、数式に似た術式の簡略図。四則演算の代わりに、感情と既往と遺伝の要素が置かれ、最後に「灯火適性」と「接続可能性」が並ぶ。榊の欄から、新生児の短い番号が伸び、そこに「保護外」「資料返納」と刻印。そのさらに下に、別の番号。「仮称タカクラ」。そこから伸びる矢印が、晴の胸の中心に、冷たい針を刺す。

 見たこともない自分の識別番号。

 見たこともないはずの「仮称」。

 仮の名で呼ばれていた時間。

 そして、赤いインクで一言だけ——「移送」。行き先は「一般戸籍」。備考欄に「記憶剪定」。手順番号と担当者印。担当者の名のところに、見覚えのある筆致がある。

 御影流の、師の筆。

「……純」

 声は自分のものだが、自分の声ではなかった。喉の奥で硬い金属が擦れるような聞こえ方をする。純は晴を見ない。見たら切れなくなるのを知っている目だ。彼は三枚目を重ねた。そこには短い報告書。「個体S-07 接続試験」。欄外にペンで走り書きがある。「灯火反応、安定。対象Aとの距離で反応上昇。近接時、白に純化の傾向」。

 対象A——朱音。榊家の子。

 晴の胸に、白と黒が同時に押し寄せた。

 守るために近づいた——そう思っていた。

 近づけるように仕向けられていた——記録はそう言っている。

 「ずっと守ってね」と泣いた幼い朱音。その時の砂の匂いと、張り切った自分の返事。約束は、自分が選んだと思っていた。灯火は約束の火だと、信じていた。なのに——約束の輪に、最初から別の線が引かれていた。

「俺は、彼女に“結ばれた”道具だったのか」

 晴の掌で白が揺れた。契約の輪が内側で鳴る。揺れに呼応して、右目の闇がわずかにざわめく。怒りが熱に変わる前に、純が短く言った。

「俺も、同じだ」

 晴は顔を上げた。

 御影純の声は、厚い紙のように乾いていて、それでも破れそうに薄かった。

「器にされた。俺は『縫い手系』の器として、封印移行期の技術をそのまま体に叩き込まれた。揺籃計画の派生だ。表の記録ではなく、観察室の口伝に乗せられた方の。行動原則は二つ。封印の維持。灯火の監視。弟子の肩書きは、便利な覆面だった」

 それだけ言うと、純は短い笑いを漏らした。笑いは音にならず、喉の奥でほどける。

「師は、俺を守ったよ。守り方は、協会のやり方だったけどな。俺は自分の意思でここに立ったつもりで、実際はここしか立つ場所を与えられなかった」

「じゃあ、朱音を守るって言った俺の意思は——」

「それは、お前の意思だ」

 純はそこで初めて晴を見る。視線に微かな熱が宿る。

「仕向けられた道筋の上で、意思が生まれないわけじゃない。上に載せられた命令が、お前の約束を薄めるわけでもない。問題は、知らなかったことだ。知らないで選ばされたこと。知らないふりをするように作られたこと。そこに、俺は怒っている」

 晴はゆっくり息を吐いた。怒りは白に燃料を供給するが、そのまま燃やせば黒に流れる。右目の闇が、それをよく知っている。司書の言葉が、帰り道の形を保つ。

「記録を、全部見よう」

「全部は無理だ。時間がない。だから、芯だけ抜く」

 純は箱の底から、さらに薄い封筒を取り出した。内側に貼り付けられた紙片には、日付も時刻も、やたらと正確に刻まれている。封印移行最終日。観察室のメモ。手書きの癖は、やはり師のもの。

 ——榊家 本家の者、灯火伝承の儀に不参加

 ——揺籃計画、接続候補リスト再編

 ——S-07 移送先、一般戸籍へ。監督者:御影(補)

 ——A対象(榊)とS-07の「縫合」予測、閾値を超える

 ——剪定手順は失敗のうちに数え、観察継続

 淡々とした行の連なりが、晴の内側の何かを、冷たく削る。剪定、という言葉に含まれる、あまりにも軽い暴力。葉を整えるみたいに記憶を削る。水やりのように命令を注ぐ。揺籃、という、やさしい仮名の下に隠した硬い針金。

「……冗談じゃない」

 晴は封筒を投影台に戻し、棚に目を走らせた。箱がもう一つ、似た分類の下にわずかにズレている。取り出すと、中には揺籃計画の概要と、協会が街に対して出した非公開の説明書の草稿が入っていた。

 その草稿の最後に、短い言葉がある。

 「秩序は、選ばせることだ」

 選ばせる——選ばせるふりをする、ではない。選択肢の配置そのものを誰かが握ったとき、選ぶことは権利ではなく、演目になる。観客と俳優を兼ねさせられた人間は、拍手のタイミングすら台本どおりになる。

 視界が狭まる。左目の白が強くなりすぎないように、晴はまぶたを一度ゆっくり閉じた。開けると、純がまっすぐ立っていた。いつもより少しだけ肩の力が抜けている。今ここで、彼もまた自分の台本を破り捨てたのだ、と晴は思う。

「純。離れよう」

「離れる?」

「協会から。少なくとも、上の判断から一度、距離を取る。朱音を守るために、俺たちの意思で動く。封書の挑発に踊らされた夜から、俺たちは自分の選び方を疑うべきだった。今日、その疑いが確信になった」

 純は短く笑う。「言うと思った」

「止めるか?」

「止めない。俺もそうする。器にされたまま、ここに立っているのは、もう嫌だ。器は器で役に立つ。だが、器は誰の手にあるかで意味が変わる。だったら、自分の手に持ち替えるしかない」

「朱音のことは——」

「司書に預ける。礼拝堂はしばらく“祈り”の形式へ移行した。君が契約の火を深く使うほど彼女の体温が落ちないよう、縁が組み直されている。時間は稼げる。稼いだ時間で、裏口を探す。封印の扉の前で鳴っている、あの曖昧な名乗りの主を探す」

「黒燿の根も、榊の線も、全部まとめて洗う」

「まとめて、だ」

 言葉は熱ではなく、視線の交わりで固まった。晴は箱を元に戻し、封印区画の灯りを内側から薄める。記録室は何も奪わない。ただ、提供した情報の重さを持たせたまま、沈黙に戻る。

 通路へ出ると、司書が待っていた。眠たげな目は、いつもよりずっと起きている。

「来ると思っていたわ」

「俺たち、しばらく外に出る」と純。

「戻ってくる?」

「戻る」と晴。「ここは帰り道だ。約束した」

 司書は納得顔で頷く。「朱音さんは礼拝堂にいる。祈りの縁の効果は出ている。体温は戻りきらなくても、これ以上落ちはしない。ただし、長くは保たない。あなたたちの“歩く速さ”に、こちらの祈りを合わせる。——気をつけて」

 狩谷も来た。肩の鎖を外し、晴の肩を拳で軽く叩く。「坊や。外の空気は味が濃いぞ。オレの鎖は貸してやらん。自分の糸で縫え。——朱音ちゃん、怒る準備をしてたぞ。帰ったら、ちゃんと怒られろ」

「ちゃんと怒られるよ」

「よし」

 背中に受け取った軽口が、逆に覚悟を固める。晴は廊下の角で一度だけ振り返った。協会の重い壁。礼拝堂の白。書庫の静けさ。全てがまだそこにある。だからこそ、今は離れる。守るために離れる。離れて、別の角度から縫い直す。

     ◇

 夜の灰街は、昼よりも輪郭が素直だった。信号が規則正しく色を変え、人は少なく、風に混じる油の匂いがすうっと薄い。遠くの交差点で工事車両が点滅し、空の隅に薄いかさ雲が掛かっている。晴の右目は暗さに目を細め、左目は街の白い骨格を拾う。二つの目が捉える世界は、重なっているが同じではない。

 純が歩幅を合わせる。「行き先は三つ。榊の古家。観察室の廃棄庫。そして、黒燿の連絡拠点」

「順番は?」

「お前が決めろ」

 晴は立ち止まり、息を一つ置いた。順番。朱音、仲間、街。——この順番を保ったまま、何を先にするか。

「榊からだ」

「理由は?」

「俺が“生まれた”場所の確認が先だ。観察室も黒燿も、榊の線に必ずどこかで接続している。そこを押さえずに走っても、遠回りになる」

「了解」

 榊家の古い屋敷は、灰街の東、古い神社の裏手にあった。表札は外され、庭は手入れが間に合っていない。だが、風の通り方は丁寧だ。誰かが時々、窓を開けに来るのだろう。塀の内側に薄い鎖の縁。協会のものではない。家が自分で守るために編んだ古い縁。

 晴は門を押し、軋む音のあとに白い粉を薄く漂わせた。門は怒らない。家の中の空気が一枚、手の甲を撫でる。懐かしさと、よそよそしさ。幼い記憶はここではない。だが、何かが懐かしがっている。

 玄関の敷板に、古い木箱が置いてあった。埃は少ない。最近開けられた形跡。蓋に薄い紙。達筆の短い文。

「榊の子らへ。家は街に還す。紐は切る。灯火は、灯火に任せる」

「……誰の字だ」

「榊の先代のものだろう」と純。「先代は封印移行のとき、儀に不参加だったはずだ」

 箱を開けると、中は意外なほど質素だった。古い印章。ほころんだ絹の紐。帳面。帳面は、家の伝承というより、家事の記録に近い。米を何俵買い、誰が生まれ、誰が死に、誰が出ていったか。淡々。最後のページの隅に、急いで書き足したような線がある。

 ——榊の線の裏口、街に残すべからず

 ——灯火は家のものにあらず

 ——揺籃の紐、切ること

 薄い墨は、紙の向こう側に抜けきらず留まり、そこだけが筋のように盛り上がっていた。家の最後の意地。晴は帳面の紙をそっと撫で、箱を閉じる。

「裏口は、家の側でも切ろうとしていた」

「間に合わなかったか、切った先で別の紐を結ばれたか」

 純の言葉に、晴は頷く。裏口があるなら、その鍵は家の中ではなく、観察室の棚に隠されている。次は、そこだ。

     ◇

 観察室の廃棄庫は、協会の正面玄関を出て三つ角を曲がった先にある冷たい建物の地下にあった。廃棄、と名前がついていても、文字通り捨てられてはいない。書類は「廃棄予定」として保管され、期限が来れば削除される。期限は、人間の都合に合わせて延び縮みする。だから、ここの棚はいつも満腹だ。

 夜間の守りは緩いが、油断はできない。晴は白を薄く散らし、センサーの縁をなぞる。純が影の反射でカメラの目を鈍らせる。装置は文句を言わない。警報は鳴らない。まるで「選別された侵入」を許す設計だ、と晴は思った。選ばせるために、選ぶ道を用意する。ここにも、揺籃の思想の残り香がある。

 棚の最下段のさらに奥、埃の厚さで見落とされるように置かれた封筒が一つ。表に「揺籃:補助手順 裏口」。裏口という単語が、こんなに簡単に書いてあること自体、罠の匂いがする。だが、避けて通るわけにはいかない。晴は封を切り、中を広げる。

 紙は二枚。

 一枚目に、灯火の契約が不十分なときの「補助支払い」の手順。系譜から生命力を薄く流す。条件は近接。対象は接続予測で閾値を超えた者。榊の線。

 二枚目に、補助を祈りに変換する仮説の式。注釈に「礼拝堂にてのみ有効。街への展開、不可」。署名は——霧間梓。

 晴は眉を上げ、純を見る。純もまた、目を細めた。

「師匠は、両方知っていて、両方残した。補助の手順と、その迂回路。——彼は、彼なりに“自由”を構築していたのかもしれない」

「自由と無責任は違う」

 晴は低く言う。「残すなら、伝えるべきだった。選ばせるなら、知らせるべきだった」

「同感だ」

 紙の下に、薄い写真が一枚挟まっていた。封印移行最終日の観察室。窓の外は灰色。室内に師と、まだ若い御影純。純は白衣の裾を握りしめ、画面のこちらを睨むように見ている。師は少し笑っている。写真の裏に短く「器のくせに、人間の顔をする」と自嘲の文字。

 晴は写真を箱に戻し、封筒をそのままの形でポケットに入れた。「証拠」は、いつでも武器に変わる。呪いにもなる。どちらにするかは、使い方次第だ。

     ◇

 最後の行き先、黒燿の連絡拠点は、灰街の中央市場の屋上だった。昼は観光客で賑わう古い塔の、夜の顔。風が強く、看板が軋む。そこに、見慣れた黒いコートの背が二つ。夜に紛れ、風に溶ける立ち方をする。

「協会。いや、灯火か」

 振り返った男が、目隠しを外した。刺青はない。若い。髪に白いものが一本。彼は空を指さした。雲の間に薄い光の筋。人工衛星の反射だろうか。あるいは、都市のどこかの灯りが空気の層で曲がっているだけか。

「選ばせる、って言葉。嫌いだろう」

「大嫌いだ」と晴。

「なら、ここに招待状を置いたやつは、君の敵かもしれないし、味方かもしれない。——黒燿が全部、同じ考えじゃないのは知ってるか」

「知ってる。今日、器を使って街を抉るやつにも会った」

「俺は違う。俺は、切り方を選ぶ派だ。ほつれた糸だけ切って、布を新しく縫う派だ。君の白は、それに向いてる」

「勧誘なら、断る」

「勧誘じゃない。情報だ。榊の線の裏口。入口は二つ。家の内。協会の奥。出口は一つ。——灰街の外」

 純が眉を寄せる。「外?」

「封印は街のためにある。けど、街の外のためにもある。外側から来る“何か”を、街の境界で散らすためでもある。裏口は、そこにつながっている。灯火の継承者を“外”に繋いでおけば、外から来るものを内側で燃やせる。——そう設計したのは、協会だ」

 風が一段強くなり、看板が揺れた。晴の右目の闇が、遠くの街の輪郭に薄く線を走らせる。外。街の外。封印の外。そこに何があるのか、記録は語らない。だが、裏口が外縁に伸びているのなら、榊の線からの補助は、街の境界で最も濃くなる。朱音の体温が落ちる速度は、晴が境界に近づくほど上がる。

「情報の見返りは?」と純。

「見返りは要らない。君たちが協会から離れるなら、君たちの選び方は、街にとって必要だ。黒燿は——いろいろだ。俺たちは、君たちが切るべき糸と、守るべき糸を間違えないように“勝手に期待してる”。期待は、ただの期待だ。押し付けじゃない」

 男はそう言って、手すりを軽く叩いた。「気をつけろ。外は、笑わない」

 黒いコートは風に乗るように消えた。残ったのは、塔の軋む音と、夜の灰街の呼吸だけ。晴は右目を閉じ、左目の白で街を見た。街は、いつも通りだ。だからこそ、裏口の線は街の“外側”でしか見えない。

「帰ろう」と純。

「帰る」

 帰り道は、協会の礼拝堂にある。司書が約束した二重の輪。朱音が、軽口と笑顔で待っている場所。戻って、話す。記録のこと。揺籃のこと。裏口のこと。自分が彼女の家の「捨て子」だったことも。捨てる、という言葉が、どれほど軽く人間を傷つけるか。捨てられたと思った幼い日の自分が、今の自分の中でどう生きているか。全部、話す。怒られて、泣いて、それから、また選ぶ。

     ◇

 礼拝堂の白は、今日もそこにあった。

 扉を開けると、司書が机の上に紙をひろげ、朱音がその横で手を組んでいる。祈りの縁は、見えないのに確かだ。朱音の頬には薄く色が戻り、彼女の指先は冷たくない。

「遅かった」

「ごめん」

「謝るのは、怒られたあと」

「了解」

 軽口を交わしてから、晴は椅子に座った。純は壁にもたれ、司書は眠たげな目を少しだけ開く。

「話がある」と晴。「たくさん」

「聞く準備はできてる」

 朱音はまっすぐに言う。嘘を嫌う目。晴は息を吸い、吐き、言葉を置いた。

「俺は、榊の“捨て子”だった。協会が拾って、記憶を剪定して、君のそばに置いた。灯火の継承者として。“守る”という約束を——俺は、自分の意思で選んだと思っていた。でも、選び方の台本は最初から用意されていた」

 朱音は眉をひそめず、目をそらさず、晴を見た。沈黙が短く流れ、彼女は首を横に振った。

「それで、晴が晴じゃなくなるの?」

「ならない」

「じゃあ、今、晴が私を守りたいって思ってるのは、私のためじゃなくて、台本のため?」

「違う。君のためだ」

「なら、私はそれを信じる。台本がひどいのは怒る。協会のやり方は嫌い。でも、晴が選んだことまで嫌いにはならない」

 晴は胸が痛むのを、ありがたさとして受け取った。痛みがありがたい、という感覚は初めてだった。痛いのに、温度が上がる。灯火は白に戻り、右目の闇が静かに沈む。

 純が口を開く。「俺たちは協会を離れる。しばらく。外の線を洗う。裏口を探す。封印の外縁まで行くかもしれない」

 司書は頷いた。「行くなら、礼拝堂の縁はここに残す。朱音さんはここで見張る。祈りの形式は堅牢にした。——ただし、帰るって約束だけは守りなさい」

「守る」と晴。「戻る。何度でも」

 朱音は微笑むだけでは足りない、とばかりに、晴の額を指で弾いた。「約束。守らなかったら、怒る」

「怒られに帰ってくる」

「上出来」

 笑い合ったあと、沈黙が落ちた。沈黙は怖くない。ここでの沈黙は、話すための準備だから。

「外は笑わないそうだ」と晴。「だから、先に笑っておく」

 純が珍しく肩を揺らした。「賛成だ」

 狩谷が扉の向こうで鎖を鳴らし、司書は眠たげな目を閉じ、朱音は指を組み直す。礼拝堂の灯りは、今夜も少し落ち、二重の輪の縁が目に見えないまま強くなる。

 灯火の使い手として、揺籃の器として、そして——台本を知ったうえで、それでも選ぶ一人の人間として。

 晴は立ち上がった。

 目の前の道は、封印の内と外へ分岐している。その分岐を、自分の足で踏みながら確かめるのだ。

 背中の方で、封印の扉が微かに鳴った。内側から、短く。

 待っている、とも、気をつけろ、とも取れる音。どちらでもいい。どちらでも、全部飲み込んで進む。

「行こう、純」

「行くぞ、晴」

 ふたりは礼拝堂を出た。

 灰街の夜は、変わらない顔で出迎えた。

 その変わらなさに騙されないように、一瞬だけ目を閉じて、もう一度開いた。

 灯火は白かった。

 右目の闇は、静かだった。

 選ぶ準備は、できている。

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