第8話 闇の契約
朱音は戻ってきた。だが「戻った」という言葉は、礼拝堂の白い灯りの下で、どこか心許なかった。彼女の足取りは自分で選んでいるのに、影だけがほんの少し遅れてついてくる。司書が診たところ、脈は整い、呼吸も安定している。外傷は少ない。なのに、温度だけが奪われたような冷えが、皮膚の奥に残っていた。
「黒い痕は薄くなっている。でも、根がどこかで繋がっている」
司書はそう言い、銀色の細棒で朱音の脛を軽く叩いた。皮膚の下で黒い粉のようなものがわずかに揺れ、白い粉で包まれて沈む。沈んだ先が、いつもの受け皿と違う気配を持っているのは、晴にもわかった。深い。遠い。まるで地下の奥で、誰かが弱く引っ張っているような感覚。
「黒燿は“戻る道”を一つ余計に作ったのよ」
司書は眠たげな目を細め、礼拝堂の柱に触れた。「専用回線。朱音さんの体から、彼らの工房へ。普通の封じでは切りにくい」
「切る方法は?」と晴。
「時間をかけて薄くするか、太い方を焼くか。薄くするには日数がいる。焼くには、太さに見合う熱がいる」
御影純は黙っていた。黙って、晴の印と朱音の呼吸と、礼拝堂の灯りの揺れを順に見た。順番は崩れていないように見える。けれど、順番の後ろで、何かがひずんでいる。
狩谷が鎖の手入れをしながら、短く言う。「上は“交渉”の準備を始めた。人質の奪還はしたが、次は“交換条件”を詰める段だとよ。坊やらの動きは、一時凍結だと」
「凍結?」晴は思わず声を荒げた。「俺たちはまだ途中だ。朱音の中の根が切れていない」
「理屈はわかるが、上は“街全体の秩序”を言う。局所の危機に対して、撤退線を描く。いつものことだ」と狩谷。
いつものこと。礼拝堂の白い円は、そういう言葉を嫌う。白は繰り返しを嫌わないが、諦めの繰り返しだけは、見ないふりができない。
「方法が、一つだけある」
静かな声が落ちた。司書でも狩谷でもない。御影純でもない。声の主は、礼拝堂の入り口に寄りかかっていた男、霧間梓だった。黒燿と内通の疑いをかけられたまま、彼は今も協会の境界の上に立っている。協会の内と外、その両方に足をかけるような、危うい均衡で。
純が目だけで牽制する。「師匠」
「禁忌に分類されている術だ。封印移行の直前に、灯火の系譜が使った最後の手順。『契約灯火』」
晴はその名を知っていた。書庫の奥、閲覧すら許可が要る棚に、古い羊皮紙の包みがある。包みの表紙に、墨で短い注意書きがある。「魂の一部を分割して火に与える」と。
「それは——」
「読んだのなら話は早い。灯火は元来、火の精と“呼吸”を合わせて使う。だが封印移行の過程で、呼吸を“手順”に変えられた。契約灯火は手順を戻す。火と人間の間に“約束”を作り、代わりに人間の側が支払いを持つ。支払いは、魂の断片の一つ」
司書が首を振る。「承認できない。契約は封印より前の時代の考え方よ。今の街は、そんな契約を受け止める土台がない」
「土台は礼拝堂にある。ここは交差点だ」と霧間。「御影。君は止めるか」
純は晴をまっすぐ見た。刃を使う前の目だ。切るのではなく、止めるための刃。「私は否定する。灯火は“忘れたふり”を嫌う。契約は、忘れたふりに近い。今の自分を一旦棚に上げて、火に寄りかかる。代償は残る。模様じゃなく、中身に」
晴は朱音を見た。ベッドの端に座る朱音は、笑わないで笑うときの顔をしていた。身体は冷えている。心は冷えていないのに、身体が追いつかない顔。
「私のせいで、二人が喧嘩するのは嫌だよ」と朱音。「でも、私のせいで晴が無茶するのも嫌。だから、私、待てる。時間をかける方を選んでほしい」
その言葉は正しい。正しいが、時間は敵だ。黒燿は待つとき、次の罠を作る。手を休めない相手に、こちらだけが待つことの危うさを、晴は書庫で学んだ。試練場で学んだ。街で学んだ。
「守りたいんだ」
晴は言った。声は大きくない。だが礼拝堂の石が拾う。「たとえ俺が壊れても」
純は目を閉じ、一度深く息を吸った。「晴」
「わかってる。順番を間違えない。朱音、仲間、街。俺の優しさは怒りより遅い。でも、遅さは選び方で埋められる。契約は、その埋め方の一つだ」
霧間が口角をわずかに上げた。「灯火の系譜は、いつだって“覚悟の形式”を選ぶ。良い悪いではない。形式の問題だ」
「儀式の準備は、できる」と司書。「止める資格は持っている。でも、やるかどうかは私が決める。——晴。もう一度言いなさい。あなたの言葉で」
晴は朱音の前に立ち、膝をついた。冷たい指を握る。指先だけが震える。彼女は強い。だから、弱いところだけが震える。
「俺は契約灯火を行う。朱音の根を断つために。白を保つために。黒を沈める場所を、増やさないために。——戻る。必ず」
司書はゆっくりと頷いた。「約束を聞いた。なら、私も約束する。あなたの帰り道を、ここに残す。契約の輪を二重に引く。外の輪は協会の秩序。内の輪は灯火の誓い。二重の輪は、あなたが帰るときにだけ、開く」
礼拝堂の床に描かれた白い円が、薄く広がっていく。司書が石粉を混ぜた白墨で新しい線を引き、古い符号に現代の座標を上書きする。狩谷が四隅の柱に鎖を渡し、霧間は壁に埋め込まれた古い銅板に軽く指を置いた。純は杖を床に立て、晴と朱音の間に、細い透明の膜を張った。
「契約に、彼女を巻き込むな」と純。「火の相手はお前だ。朱音さんは守られる側に置く」
「うん」と朱音。「私は待つ。見てる。戻ってきたら、ちゃんと怒る」
晴は笑って、頷いた。
◇
契約の儀式は、派手ではない。扉が開く音もしないし、鐘も鳴らない。必要なのは、静けさと、正確さと、決意だけだ。司書が低く短い呪文を重ね、礼拝堂の灯りはほんの少しだけ淡くなる。狩谷の鎖が控えめに鳴り、四方の柱から湿り気のない風が流れる。霧間は目を閉じた。純は目を開けたまま、晴の手の甲に視線を置いた。
「灯火よ」
晴は自分の印に触れ、言葉を置く。言葉は形式だ。火は形式を好む。形式は、責任の形でもある。
「俺は火の精に、魂の一部を差し出す。戻らないことを承知して。支払いとして。代わりに、俺の炎に、魔をも焼く性質を与えろ。焼くのは、破壊ではない。浄めるという意味だ。俺の“白”を、濁らせない」
礼拝堂の底で、微かな音がした。石が温まるときの、乾いた膨張の音。印が熱を持ち、右手の血の流れが強くなる。指先が軽く痺れ、腕の焼け跡の一本一本が呼吸を始める。焼け跡は記録だ。記録が、契約の証文に書き換わる。
「支払いが必要だ」と司書の声。「魂のどこを渡すか、あなたが選ぶ」
選ぶ。選び方を間違えれば、帰り道が失われる。晴は眼を閉じ、胸の奥を見た。記憶の引き出しがいくつも並んでいる。朱音と交わした言葉、礼拝堂の白、試練場の熱、書庫の冷たさ、家の夕飯の湯気。どれも失いたくない。どれも支払いにしたくない。
なら、別のものだ。抱えているものの中で、最も自分を困らせたもの。怒り。恐れ。恥。——違う。それらは燃料だ。燃料を払っても、火は消える。支払いは、火を“保つ”ために払うもの。
晴は一つだけ選んだ。右の目に宿りつつあった、灯火の“視界”。彼は気づかないうちに、白の粉と都市の縫い目を重ねて見る癖を持ち始めていた。契約の支払いに、それを差し出す。右目の“明るさ”。光は左に残す。右は闇に馴染ませる。代わりに、火の視界の半分を、精に渡す。
「——右目の光を、支払いにする」
純が息を呑むのが聞こえた。司書は頷いた。霧間は笑わない。狩谷の鎖が軽く鳴った。
「承知」と司書の声。「ならば、相手に合図を。火の名を呼ぶ」
火の名は多くない。多いのは火の呼び名だ。本当の名は、少ない。晴は印の底から、古い音を引き上げた。契約の時だけ、灯火の使い手に許される音。
「——来い」
礼拝堂の光が落ちたわけではない。晴の右目だけが、ふっと暗くなる。暗さは痛みを連れてこない。代わりに、冷たい風が頬を撫でる。頬の内側を。火の精が、彼の中へ顔を寄せた。顔はない。名前はある。音だけが、彼の中で響いた。
白が熱を増す。黒が沈む。沈む場所が、少し広くなる。ただ広がるのではない。底が深くなる。井戸のように。井戸は冷たいが、水は清い。晴は右の瞼を閉じ、左で礼拝堂の灯りを見る。灯りは変わらない。右の奥に、薄い影が伸びる。見えない。聞こえる。火の囁きが、骨に触れる。
「契約、成立」
司書が杖で床の輪を軽く叩いた。輪の内側に、二つ目の薄い円が浮かぶ。外の円は協会の秩序。内の円は火の誓い。二つの円の間で、晴は立っている。右目は闇に。左目は光に。均衡はぎりぎりだ。だが、立てる。
純が近づき、晴の右目を覗き込む。「見えるか」
「見える。——少し暗い。でも、白はちゃんと見える」
「白を見るための目だ。なら、足りる」
朱音が席を立とうとして、司書に止められ、悔しそうに身を乗り出す。「晴」
「平気だよ」
「平気じゃない顔」
「平気にする」
細い会話が、礼拝堂の中でさざ波のように広がった。霧間が杖ではない古い棒を拾い上げ、鞘のない刃のようなものを軽く打つ。「契約は成功だ。次は根を焼く。黒燿の“幹部”を一人、ここで断つ。切れ目を塞ぐには、切り口に火がいる」
「場所は、わかる」と司書。「朱音さんの体に残っている黒い粉の“癖”が、引きずっている。東の市場のさらに下。古い配水路の合流点。昨日の渦の、別口」
純は頷いた。「行く。晴、無理はするな。今日のお前は、いつものお前ではない」
「いつもの俺の“半分”だよ」
「半分は、ときに足りる」
狩谷が鎖を肩に、礼拝堂の扉を押した。三人と一人で走る準備はできていた。だが、朱音が立ち上がった。「待って」
「来る気か?」と狩谷。
「来ない。待つ。——戻ってきたら、怒る」
晴は笑って、頷き、右手を軽く持ち上げた。白い粉が、彼女の目の前で小さく舞う。約束の合図だ。
◇
古い配水路は、昨日とは違う匂いがした。乾いた土と、湿った金属と、焦げの手前。晴の右目は暗さに馴染むのが早い。左目の白はいつもどおり灯りに反応し、細い線を拾い上げる。二つの目で、二つの街を見る。光の街と、影の街。両方が重なる場所は、決まって危険だ。
「足元」と純が言い、晴の前で杖の先を押し付ける。見えない段差。もし踏み外せば、黒い水の溜まりに足を取られる。「右が暗い分、左の情報で補え」
「できる」
「できるように歩け」
霧間は一番後ろから、気配だけで周囲を探る。彼の影の術は、灯りを消さない。光の隙間を拾い、侵入者の足取りを読む。敵の足取りは躊躇いがない。こちらは躊躇いを持つ。躊躇いは遅さを生むが、遅さは失敗を減らす。霧間はその差を埋めるように、一定の距離を保つ。
広い空間が現れた。昨日の噴水よりも古い。円ではなく、長方形。四つの水路が交差し、中央に石の台座。台座の上には、黒い器。器は火鉢の形をしているのに、燃えているのは光ではなく影だった。影が揺れる。揺れるたびに、周囲の空気が薄く削れる。
器の前に、一人の男が立っていた。黒燿の幹部。目隠しはない。代わりに、顔の半分に古い刺青。刺青は、協会の古い符号を、わざと歪めて刻んだものだ。協会を理解し、嫌い、使っている顔。
「灯火」
男は晴を「灯火」と呼び、笑った。「契約の匂いがする。禁忌に手を出した。協会は怒るぞ」
「怒らせておけ」と純。「怒るのが仕事の人たちだ」
「お前が言うのか、御影。あの方は、たぶん悲しむぞ」
あの方。霧間の師であり、純の師であり、同時に黒燿の手順を知る者。霧間は男を見て、目を細めただけだった。
「用件はひとつ」と晴。「根を焼き切る」
男は器の影に指を差し込んだ。指が黒くなる。黒は液体ではないのに、液体のように滴り、床に落ちて、すぐに蒸発した。「焼くには、温度がいる。お前の白は、昨日より深い。だが、足りるか」
「足りなきゃ、足りるようにする」
言い切った瞬間、契約の火が骨に触れた。右目の奥が熱を持たないまま、視界の縁が鋭くなる。白い粉が布に、布が刃に。刃は黒を焼かない。黒の“汚れ”だけを拾って、外へ押し出す。押し出された汚れは、床の受け皿に落ちる。落ちる先を、晴の意志で“協会”に結び直す。
男はそれを見て、器の影をもっと深くした。影の舌が床を舐め、晴の足首を狙う。晴は左目で舌の縁を捉え、白を薄く落とした。薄い膜が影の舌を滑らせ、舌は石台の角へぶつかって、自分の影に刺さる。悲鳴はない。影の悲鳴は、空気の温度が一度だけ下がることで表現される。
純の刃が斜めに走り、器の縁を刻む。器は古い術式で守られている。刃は縁を切らない。代わりに、器の周りの空気の“性格”を変えた。鈍さから、軽さへ。軽くなると、黒は居心地が悪くなる。重いところを好む黒は、別の重さを探そうと動く。その瞬間を、晴の白が拾う。導く。落とす。焼かない。——焼くのは、最後だ。
男が手を広げ、刺青の面で笑った。「灯火。お前の白は、きれいだ」
「ありがとう」
「きれいな白は、汚れで美しくなる。白を白のまま保てるやつはいない。だからお前は契約した。黒を見られるように。黒に触れられるように」
「黒を見ても、黒にならない」
「ならないと、今は言える」
男は器の中に腕を差し入れた。肩まで。影が腕を飲む。腕は消えない。代わりに、男の背中に黒い線が一本増えた。線は協会の結界の座標。彼は傷として座標を背負い、そこから黒を引いた。引き出された黒は、人の恥や怒りではない。——絶望だ。何も選べないとき、人が自分を地面に伏せるような、湿った絶望。晴の白の前で、絶望は広がらず、沈まない。白は迷った。導く道を、どこへ引けばいいのか。
「絶望は、帰り道を嫌う」
霧間の声だ。「だから戻らない。焼くしかない。だが、“誰の絶望か”だけは、間違えるな」
誰の絶望か。器の影は名前を持たない。名乗らない影は、名乗るまで曖昧に存在し、誰にでもなり得る。晴は左目で器の縁の紋を読み、右目で影の流れを見た。影は朱音の脛から伸びる細い糸の先で、僅かに濃くなる。器の影は、朱音へ戻りたがっている。戻る道を断てば、朱音は軽くなる。断つには、焼くしかない。
「焼く」
晴は白を集めた。右目の闇が、白の芯に冷たさを足す。温度が上がりすぎないように、しかし、芯だけは確実に熱くなる。核を焼く炎。破壊ではなく、浄め。契約の火が、彼の骨の形に合わせてうねる。白い刃が、器の黒へ垂直に入った。
影が跳ねる。器の縁がきしむ。男の背中の線が一本、淡くなる。淡くなった線の代わりに、彼の胸の刺青がわずかに笑うように歪む。
「それでいい。灯火。——それで、いい」
刃は器の底に触れた。底は空っぽではない。石で作った小さな空洞。空洞に薄い金属片が一枚。そこに古い符が刻んである。榊家の家紋に似た、いや、榊の紋から一本線を外した、欠けた印。晴が刃を引いた瞬間、金属片は音もなく灰になった。灰は黒ではない。白でもない。灰は灰。台座の受け皿に落ちて、じきに見えなくなる。
器の黒が一気に薄れた。残ったのは、男の背中の線と、胸の刺青だけ。純が刃をひねり、線の根を軽く切る。霧間の影が胸の前で交差し、刺青の“笑い”を止める。
男は膝をついた。器の前に、両手をついて、笑った。
「灯火。楽しいな」
「終わりにする」と純。
「終わらないさ」
男は咳をし、唇の端から黒い粉を吐いた。粉は床で丸まり、すぐに消える。男の目は晴を見た。目は黒ではない。黒のすぐ手前の、深い茶色。
「教えてやろうか。お前の新しい炎の源を」
「源?」
「契約の支払いは、右目の光だろう。だから火の精は半分だけ受け取った。残り半分は、別の“支払い”で補われている。——お前の隣の女の、命だ」
空気が裂けたわけではない。けれど、耳の中で何かが切れた音がした。晴の右目の闇が、一瞬だけざわめき、白が揺れる。純が瞬時に晴の肩を掴み、霧間は男の口を押さえようと動いた。だが男は早かった。最後の説明を、正確に、短く吐き出した。
「灯火と契約は一本ではない。協会が封印するとき、灯火の“裏口”を作った。支払いが足りないとき、系譜から“補う”。榊の線が近くにいる。お前が契約すれば、榊の生命力が“火の側”へわずかに流れる。お前が白を純化すればするほど、女の体温は奪われる」
晴の足元がわずかに揺れた。揺れたのは足元ではない。胸の中だ。契約の輪が、内側で軋んだような気がした。司書が約束した帰り道は、礼拝堂にある。だが、契約の火は、別の道も知っている。昔の道。系譜の道。榊の線の道。
「嘘だ」と晴は言った。言い切るべきだった。だが、声に力が乗らなかった。
「嘘であってほしいなら、確かめろ。女の体温。脈。——戻って確かめろ」
男はそこで崩れた。影の器は完全に色を失い、黒燿の印も霧散した。彼の胸の刺青だけが、最後に古い笑みを作り、すぐに凍り付く。凍り付いた笑みを、純の刃が静かに切り落とした。
静寂。配水路の天井から、一滴だけ水が落ちた。音が大きい。音が大きいのは、晴の右耳が自分の心臓の音を避けようとしているからだ。
「戻るぞ」と純。
「戻る」と霧間。
晴は頷いたつもりだった。頷きが首で終わらず、胸で止まった。右目の闇が冷え、左目の白が遠い。足が動く。歩幅が合わない。純が合わせる。霧間が距離を取る。狩谷の鎖が、背中から守る音を立てる。音は正しい。歩き方も正しい。だが、晴の中の何かが、正しさから滑っていく。
◇
礼拝堂の白は変わらない。白は変わらないために白でいる。司書が立ち上がり、朱音の肩に手を置いていた。朱音は笑っていた。笑っているのに、頬の色が薄い。薄いのは、緊張が解けたから。そう思いたい。そう思って、晴は歩み寄った。
「ただいま」
「おかえり」
短い言葉。短いだけで十分だったはずだ。晴は朱音の手を取った。冷たい。いつもより、少しだけ。少しだけ。たった少し。それなのに、少しが巨大だ。
「どう?」と朱音。軽い声。息は少しだけ上ずっている。「私、震えてない?」
「震えてないよ」
「寒いって言ったら怒る?」
「怒らない」
「じゃあ、ちょっと寒い」
司書が晴を見た。眠たげな目が、この場に似合わない鋭さを帯びていた。「彼が言ったことは、確かめられる。契約の輪の外側で、彼女の体温は下がっていない。でも——輪の内側に彼女が入ったとき、白が深くなればなるほど、体温が少し落ちる。今、二度」
晴の世界は、崩れ始めた。崩れる音はしない。白い円がひび割れることはない。灯りは落ちない。崩れるのは、内側だけだ。内側の、約束の形がずれる。彼は言った。守りたい、と。彼は誓った。戻る、と。彼は選んだ。契約を、と。その選び方が、朱音の体温を奪う。
「晴」
朱音が笑って、首を傾げた。ひどく自然に。「怒っていいよ。私、怒られたい」
「怒らない」
「怒って。怒ってくれないと、私が寒いの、晴のせいだって言えない」
冗談にする勇気。冗談で守る技。彼女は強い。強いから、弱さを冗談に包む。その包み紙をはがしてしまうのは、正しさではない。だが、晴は包み紙に手を伸ばした。
「俺の火は、お前の命で燃えているのかもしれない」
言葉にした瞬間、白が揺れた。契約の火が骨で鳴り、右目の闇が一瞬だけ明るくなりかけ、すぐに深く沈んだ。司書は床の輪を指で叩き、二重の輪の内側に薄い仕切りを増やした。仕切りは目に見えないが、朱音の肩の力がほんの少し抜ける。
「止める方法は?」と純。
「契約を切る。あるいは、契約の支払いを“別のもの”にする」と司書。「支払いを増やせば、補助は不要になる。けれど——」
支払いを増やす。魂のどこかを、さらに差し出す。右目の光はもう半分ない。次に差し出すとしたら、何だ。記憶か。声か。手の感覚か。白を見る目を失えば、灯火は灯火でなくなる。なら、灯火を捨てるか。——それは、朱音の根を切るために選んだ道を、途中で捨てることだ。捨てることで、守れるなら、捨てればいい。だが、捨てた先で黒燿は笑う。街の縫い目は、誰が縫う。
晴は頭を抱えなかった。抱えると、白が崩れる。代わりに、胸に手を当てた。印は静かだ。静かだが、底に冷たい砂が少しだけ動く。許容量の範囲内。今なら、戻せる。今なら、選び直せる。——今なら。
「晴」
朱音の声は、低く、柔らかかった。「私、順番、間違えてない?」
「間違えてない。俺が間違えそうになってる」
「じゃあ、私が見張る。監視役。順番の警備員。——契約は、怒ってない。私も怒ってない。寒いけど、怒ってない。だから、泣かないで」
泣いてはいなかった。泣き方も忘れた。忘れたふりをしているだけかもしれない。晴は目を閉じ、左目の白で礼拝堂を見た。右目の闇は、火の精の気配で満ちている。火は言う。支払いは、まだ足りる。人は言う。支払いは、足りない。——どちらの言葉を選ぶか。
霧間が壁にもたれ、短く言った。「形式は、変えられる」
純が振り返る。「どういうことだ」
「契約は“支払い”で成立する。支払いの“受け取り方”は、火の精の気分だけじゃない。人間の側の形式でも変えられる。榊の線から流れる命を“祈り”に変換する形式。祈りは流れ、命は流れない。古い時代の教会がやっていたやり口だ」
「……灰街は“教会”を嫌う」と司書。「管理宗教の匂いに敏感だし、封印移行の過程で、祈りを“手順”に置換した」
「置換を、戻せばいい。戻しすぎれば街に反発が出る。だから、礼拝堂の範囲内でだけ形式を変える。朱音さんがここにいるときだけ、命の流れを祈りに置き換える。契約の輪の仕切りを“祈りの縁”に設計する」
司書は短い沈黙のあと、頷いた。「理屈は通る。やってみる価値はある。——ただし、それは“延命”だ。根本を断つには、契約の再設計か、黒燿の“裏口”そのものの破壊がいる」
根本。裏口。榊の線。封印の扉。——全てが一本の線で繋がる図が、晴の左目の白に描かれた。線の途中に、黒燿の印。線の奥に、封印の扉の薄い音。内側から叩く誰か。名乗りは未だ聞き取れない。
「やる」と晴。「形式を変える。朱音がここにいる間、命を祈りに変える。それで時間を稼ぐ。その間に、“裏口”を見つけて壊す」
純は頷いた。「私が“裏口”の座標を洗う。司書は礼拝堂の再設計。狩谷は警備の強化。霧間は——」
「自由に動く」と霧間。「自由は秩序の敵じゃない。秩序の外側で、秩序を支える」
朱音は笑った。「難しい話は、あとでノートにまとめて」
「まとめるよ」と晴。「君がわかる言葉で」
「じゃあ、寒くなくなるまで、ここにいる」
「ここは君の部屋だ」
司書が小さく拍手をした。「決まり。作業に入る。灯りを少し落とす。——晴」
「はい」
「泣きたいなら、今、泣ける。灯火は、泣くことを嫌わない」
晴は笑い、首を振った。「泣くのは、戻ったあとにする」
「わかった。戻ったあと、泣かせる」
礼拝堂の灯りが少し落ち、石の床に新しい線が引かれていく。二重の輪に薄い縁が足され、祈りの形式が現代語に翻訳され、灯火の言葉と街の言葉が交差する。交差点は広くない。広くないから、人の声が届く。
黒燿の幹部の言葉は、呪いとして残らなかった。証拠として残った。証拠は使う。呪いは捨てる。晴は胸の白で、その違いを確かめ、右目の闇に火の精の気配を感じ、左目で朱音の笑顔を見た。笑顔の温度は低い。低いが、光は強い。
世界は崩れ始めていた。だが、崩れる速度は人が決められる。崩れた破片の並べ方も、人が決められる。崩れる前より強くするのが、縫い直しの仕事だ。灯火は針だ。針は、人の手で持つ。
晴は、針を握った。右目の闇が静かに冷え、左目の白が静かに灯る。崩れの音は、遠くへ追いやった。近くにあるのは、彼女の息と、礼拝堂の白と、仲間の声と、街のざわめき。——それで十分だった。明日を選ぶには。選び続けるには。守り続けるには。




