第7話 選択と裏切り
灰街の夕暮れは、いつも同じ色をしている。ビルの端にかかる薄紫、ガラスに残る昼の白、路面をなぞる街灯の予告の黄。闘いの音が去った日も、去らなかった日も、その色は変わらない。変わらないのは安心で、同時に鈍さだ。人は同じ色に安心して、足元の変化を見落とす。
協会の会議室は、窓がない。壁は書庫と同じ古い石だが、表面に薄い樹脂の層が塗られ、指で叩くと鈍い音が返ってくる。卓上に置かれた端末には、昼の裂け目の記録が流れていた。残留魔の波形、杭の座標、鎖の張力、白の強度、黒の混入率。数字は正確だった。だからこそ、その中に紛れた一つの誤差が目に痛かった。
「杭の角度が、誰かに触られている」
御影純の声は低い。指で示したのは、裂け目の縁に打った五番杭。打ち込んだあと、誰かが微妙に回転させている。角度にして一・七度。杭は見た目には不動だが、内部の目盛りがずれていた。
「現場の班は?」と狩谷。
「全員照合済み。触れていない」
「なら、中の人間だ」
会議卓の向こう、眠たげな目の司書がまぶたを少しだけ上げた。彼女が視線で示したのは、壁際の棚に立てかけられた古い杖だ。細い印が刻まれ、握りの部分に二つの傷がある。御影純が使う杖と同じ流派のもの。だが長さは少し短い。
「教導官用の印。昔のもの」と司書。
純が短く息を吐いた。彼には、師がいる。協会の戦と研究の両方を指導する教導官。名前は霧間梓。古い時代、封印へ移行する過程を現場で見てきた世代で、純が若い頃、術だけではなく、物の見方も叩き込んだ男だ。
「霧間教導は——今は観察室の顧問のはずだ」と狩谷。
「今夜、下りてくる。呼んである」
司書の声に、部屋の空気が少しだけ硬くなった。足音が近づく。扉が開き、黒いコートの男が入ってきた。白髪の混じる短髪。背筋の伸びた体躯。歩幅は大きくないが、乱れがない。男は卓の向こうに立ち、純を見て、ほんの少し唇の端を上げた。
「御影。大きくなったな」
「師匠。杖の持ち方、変わってないですね」
「変える理由がない」
霧間梓の声は、低いがよく通る。耳に残るのは言葉ではなく、言葉の後に残る間だった。若い頃、純はその間に何度も救われ、何度も追い込まれたのだと、晴はあとになって知る。
「裂け目への介入記録、あなたの印で更新がある」と司書が告げた。「弁明は?」
「触った。だが壊してはいない。流れを見ただけだ」
「見ただけで、一・七度は動かない」と純。
「見るという行為は、いつだって何かを変える。お前も知っているはずだ」
霧間は卓に手を置いた。その指は骨張っているが、震えはない。晴は立ち上がりかけ、狩谷の視線で制された。いま口を挟むのは違う、と目が言う。晴は息を呑み、席に根を下ろした。
「黒燿と動きが一致する」と司書。「あなたの印の出入りと、彼らの侵入のタイミングが重なる」
「一致なら世の中に溢れている。証明にはならない」
霧間は肩をすくめ、視線を純に戻した。
「御影。お前はまっすぐだ。まっすぐに縫おうとする。だが布地そのものが歪んでいたら、まっすぐ縫うほど波打つ」
「だから縫うのをやめる、と?」
「いや、ほどく。ほどいて、新しい布を織る。黒燿の連中は過激だ。だが、方法の一つとしては間違っていない」
「内通を認めるのか」と狩谷が低く問う。
「言葉の選び方次第だ。内と外の境界が、封印で変わっただけだ。協会は“外”に下りた。街の表は“内”になった。どちらがまっとうか、もう一度決め直す時期が来た」
司書がわずかに目を細めた。「この街の秩序は、あなたには嘘に見えるのね」
「嘘だ。魔術は人を救わない。制御された魔術は支配の道具だ。封印は秩序のために作られた。守る対象が入れ替わった。人を守ると言いながら、守っているのは枠と記録だ」
霧間の目は静かだ。怒りの熱はなく、疲労の色もない。冷たいというより、冷えるのを止めてしまった湖面のような静けさ。
「では、黒燿は?」と純。「彼らは残留魔を人の中に流し込む。裂け目を広げ、継ぎ目を切る。あれは救いか」
「救いではない。だが、切るべき糸は切らねばならない。解体は工事だ。乱暴に見えるが、手順がある。私は手順を教えただけだ」
晴は自分の右手に目を落とした。印は静かだが、薄い黒い砂が皮膚の下で転がるような感覚が一瞬走る。黒燿の思想は、危ういほどよく整っていた。危うさは、整いの良さの中に隠れる。
「御影。お前は灯火を持つ。灯火は人を集める。民衆は灯りを崇め、灯りの近くに寄る。そこに秩序が生まれる。秩序は協会が握る。——支配だよ」
「灯火は導くための火です」と晴は口を開いた。視線が一斉に向く。言葉は震えない。「焼くためだけじゃない。導いて、帰る道を見せるための火だ」
霧間は晴を見た。短く、評価する目ではない。可能性の重さを計る目。
「君が導くと決める。なら、君が選ぶ道から外れた者は、導かないまま置いていかれる。君が選ばない道は、暗いままだ」
「全部は照らせない。だから順番を決める」
「順番。いい言葉だ。だが順番を決める権利を、君に与えたのは誰だ。協会か。灯火か。街か。あるいは、君自身か」
問われて、晴は答えられない。言葉が出ない隙を、霧間は見逃さない。
「君が優しいのは見ればわかる。君に怒りがあるのも、今日の記録でわかった。優しさと怒りは両立する。だが、優しさは怒りより遅い。現場では、遅い方が負ける」
純が一歩、前に出た。「師匠。あなたは何を選んだ」
「自由だ。協会の外側で、縫い目をほどく自由。黒燿は雑だ。だが、彼らの雑さがなければ、ほどけない糸がある」
「自由のために、街を切るのか」
「街は切っても繋がる。人は切られたままだ。だからまず、人を切り離す。協会から。封印から。記録から」
部屋の空気が乾く。司書が小さく息を吐いた。「聞き取りは十分。——霧間梓、あなたは本日付で協会顧問を解任。出入りの制限をかける。個人的な接触も制限。反論は?」
「ない」
霧間は驚かなかった。最初からこの答えを予期していた目だ。彼は踵を返し、扉へ向かう。そこで一度だけ振り返り、晴に視線を置いた。
「君は選ぶ。近いうちに。——協会か、自由か」
扉が閉まった。重い音はしない。軽い音でもない。古い木を指で弾いたような音。
◇
会議室を出たあと、晴は礼拝堂へ降りた。白い円、薄く光る鎖、石の柱。昼に戦った疲労が遅れて押し寄せる。腕の焼け跡がじんじんと疼く。白い粉は静かだが、心の方が静かではない。
天井の灯りの下で、朱音が待っていた。椅子に座り、足を組み替え、紙コップを両手で包む。脛の黒い痕は包帯の下に隠れているが、彼女は痛みの顔を見せない。
「霧間って人に会った?」
「会った。……純の師匠だ」
「どんな人」
「静かで、まっすぐ。でも、まっすぐなのは彼の言葉じゃなくて、彼の切り方だ。切るべきと決めたら、迷わない」
朱音はコップを差し出した。「甘いココア。司書さんが、こういうときは甘い方がいいって」
晴は一口飲んだ。舌に残る砂糖の重みが、胸のざらつきに薄く蓋をする。
「私ね、思うんだ」と朱音。「秩序って言葉、嫌われがちだけど、絵にも秩序があるんだよ。最初の線をどこに引くか。どの色を先に置くか。全部、順番。順番って秩序で、秩序があるから自由に描ける」
「秩序が先か、自由が先か」
「鶏と卵だね。でも、私が晴を見てると、順番が見える。晴は、私と仲間と街。順番が決まってるから、迷っても戻れる」
晴は笑ってしまう。「君は監視役だな」
「うん。見張ってる。晴が間違えたら叩く。たぶん叩いても痛くないけど、叩く」
「痛いよ。心に」
「なら、効く」
朱音は視線を上に向け、礼拝堂の灯りを見た。「私ね、晴が協会に残るのも、出るのも、どっちも間違いじゃないと思う。間違いにするのは、選んだあとに振り返らないことだよ」
「振り返る?」
「うん。選んだ自分を、ちゃんと見てあげること。選んだ理由を忘れないこと。忘れたふり、しないこと」
晴は頷いた。忘れたふりを嫌うのは灯火も同じだ。紙の火は、嘘を嫌う。薄い黒い砂が、皮膚の下で不機嫌に転がる。嘘をつくと、あれが騒ぐ。
「私、晴が選ぶ道を信じたい」と朱音。「協会でも自由でも、右でも左でも。晴が選んだなら、それを好きになれる気がする」
晴は言葉を探した。「ありがとう、朱音」
「お礼はプリンでいいよ」
「そこはいつも変わらない」
「秩序だよ」
二人で笑った。その笑いは、礼拝堂の石に柔らかく反響した。笑い声が残っているあいだだけ、迷いは薄くなる。迷いはいつも戻る。戻ってきたときに、笑い声の形を思い出せるかどうかで、次の一歩の角度が変わる。
◇
その夜、協会は全館の施錠を早めた。裂け目の余震は収まっていない。黒燿の動きは一度退いたが、完全に消えることはない。司書は書庫の扉の前に椅子を出し、眠たげな目で薄い板を読み、狩谷は鎖の点検を繰り返し、純は観察室の下にある配電盤を確認していた。
晴は一度、家に戻るつもりだった。家に顔を出し、普段どおりの夕食を食べるのは守りの一部だ。靴紐を結び直し、ロビーに出たとき、脇の掲示板に白い封筒が差し込まれているのに気づいた。宛名はない。封は古風な蝋。刻印は見知らぬ紋。使用人用の連絡板に紛れ込ませたにしては、目立つ。
嫌な予感が背筋を撫でた。晴は封筒を取って中身を抜いた。薄い紙が一枚。紙は古くないが、古い匂いがした。活版のような印刷。中央に短い文。
「選べ。協会か、彼女か」
手が冷える。紙の下に、もう一枚、小さな名刺大のカード。そこには一枚の写真が印刷されていた。協会の外階段。非常口の横。そこに立つ朱音。笑顔はない。目はまっすぐだが、その周囲に黒いスリットが二本、短く揺れている。撮影は、ほんの数分前だ。
晴は廊下を駆けた。階段を二段飛ばしで降り、外の空気へ飛び出す。夜の灰街。街灯は整然と並び、遠くで犬の鳴き声。協会の非常口の横の壁に、白い手形がひとつ残っていた。朱音のサイズ。乾いている。触れると、冷たい。手形の外に、薄い黒い粉が散っていた。
「朱音!」
返事はない。周囲の空気が異様に静かだ。協会の周りの守りの糸が、一箇所だけ薄くなっている。人ひとりが通れる幅で、皮膜が撫でられている。黒燿の手口だ。見落とす角度を作り、そこだけ通り道に変える。
無線機が鳴る。狩谷の声。「坊や、何かあったか」
「朱音が——いない。封書が来た。『選べ。協会か、彼女か』」
沈黙が一秒。狩谷の声が硬くなる。「位置は?」
「非常口の横。手形。黒い粉。さっき」
「御影——」
無線が別の声に切り替わる。純だ。「晴、落ち着け。追う前に、封筒を司書へ。痕跡を読む」
「時間がない」
「時間がないからこそ、順番だ。焦って飛び出せば、黒燿の誘導に乗る。彼らは君が飛び出す前提で道を敷く」
晴は封筒を握り、ロビーへ戻った。司書はすでに扉の前から立ち上がり、机を空けて待っていた。封筒を渡すと、彼女は手袋をはめ、蝋の欠片をピンセットで拾い、小瓶に入れる。紙の繊維を顕微鏡で覗き、印刷のインクの混ざりを嗅ぐ。白い粉の成分を薄い板に乗せ、浮遊灯の光にかざす。
「黒燿の工房印。場所は——東側の地下排水路。古い市場の下」
純が地図を広げ、指で線を引く。「裂け目の余波が残っている場所だ。守りが薄い。——狩谷、二班を呼べ」
「呼ぶ。だが、上は許可を出さないだろう」と狩谷。「これは協会に対する挑発だ。『選べ』の文言がそれを言ってる」
司書が晴を見た。「晴。あなたは選ぶ。協会の手順に従って動くか。それとも、今すぐ一人で行くか」
息が浅くなる。胸の中で、白い粉がざわめく。薄い黒い砂が、皮膚の下でひっかく。封筒の印字が目の裏に焼き付いて消えない。選べ。協会か、彼女か。
純が言う。「上は、この件を“協会への政治的攻撃”と見る。動けば、黒燿の思うつぼだ。交渉に持ち込むために、彼女を人質に取った。だからこそ——」
「待てと言うのか」
「順番を守れと言っている」
「順番は守る。だから行く。朱音、仲間、街。——今は朱音だ」
純は目だけで晴を止めようとした。止められないこともわかっている目だった。彼は短く顎を引く。「私も行く」
狩谷が鎖を肩にかけ、「二人では足りない」と言いかけたとき、壁の上方、観察室の窓が音もなく開いた。薄い黒。空気が冷たくなる。霧間梓がそこに立っていた。落ちてくるでもなく、飛び降りるでもなく、階段を使ったかのように、自然に床に降り立つ。
「御影。君は行くだろう。私も行く」
「師匠は——黒燿の側だ」
「側という言葉は便利だ。だが、私は君の師だ。弟子を拾いに行くのは、古い秩序の方の私の仕事だ」
司書が眉をひそめた。「信用できると思う?」
「信用はしない。使うだけだ」と純。
霧間は笑った。「だいたい、それで十分だ」
晴は腰のベルトに白い薄板を差し込み、コートを羽織った。印は静かだが、胸の中の何かが、決定の音を立てる。選べ。——選んだ。やるべき順番は一つ。彼女を取り戻す。たとえ魔になるとしても。
「待って」と司書が晴の前に立つ。彼女は眠たげな目で晴の手を包み、低く囁いた。「言葉は魔術だよ。自分に向ける言葉は、とくに」
「……わかってる。けど、今だけは」
「今だけ、は、今しかないから危ない。でも——あなたは戻れる。白を知っている。黒を沈める場所を覚えている。だから、言って」
晴はうなずいた。喉が狭く、声が出づらい。だから、短く、正確に。
「俺は、彼女を取り戻す」
司書は一拍置き、頷いた。「行きなさい。戻ってきなさい。それが条件」
「戻る」
言葉は約束になる。灯火は約束の火だ。守るべきものを燃やす火ではない。守るために、自分を燃やす火だ。燃やしすぎるな。忘れるな。白の下で、黒が静かに沈む。
◇
古い市場の下は、街の別腹だった。戦後に作られ、幾度も改装され、今は大半が閉鎖された通路。シャッターの向こうに埃を被った看板。通路の天井には、パイプとケーブルが這い、ところどころに薄い水滴。黒いスリットは足元ではなく、頭上に溜まる。人の目線の上。見落とす角度の上。
無人の夜気に、三人の足音だけが響いた。純が前、霧間が中、晴が後ろ。純の杖の先に薄い光。霧間の指先に微かな影。晴の掌に、布のような白。三つの術は混じらない。混ぜれば、どれかが濁る。
通路の曲がり角を二つ抜けたところで、霧間が立ち止まった。壁の凹みに古い配電盤。鍵は壊され、中に黒い粉が溜まっている。霧間は指で粉をすくい、舌先で味をみるように唇に触れた。
「新しい。二十分以内。匂いは——墨と油」
純がうなずく。「黒燿の工房印に似ている」
「似ている。だが、違う。別の手が混じっている。協会の印だ。古い流派の」
霧間の目が細くなる。視線が天井へ向かう。そこに、薄い紙片が一枚、風もないのに揺れていた。紙片は折り紙の裏紙のように薄い。表には、丸い文字。朱音の字だ。
晴は駆け寄って手を伸ばしたが、純に止められた。「触るな。読むだけ」
紙片の文字は短い。
「大丈夫。待ってる。戻ってきて」
朱音の筆圧が、紙の繊維を軽く押している。紙は黒燿の罠かもしれない。だが、罠と呼ぶには、優しすぎた。
「罠でも、行く」と晴。
「行く」と純。
「行く」と霧間。
三人は通路をさらに進んだ。市場の地下の一番広い空間に出る。天井が高く、かつては荷の積み下ろしに使われた場所。今は空。中央に、古い噴水の枠が残っている。水はない。枠の内側に黒い霧が溜まり、小さな渦を作っている。渦の中心に、人影。朱音。腕を背に回され、口に布。目はまっすぐ。怖がっていない。怖がっていないふりをしている。
朱音の周囲には、黒燿のコートの人影が四。顔は見えない。噴水の縁に立つ一人が、手を広げた。目隠しの裏から声。
「協会。選びに来たか」
「選びに来た」
晴の声は静かだ。白は薄い。黒は沈んでいる。霧間が横で微かに笑う。
「協会との取引はしない」と黒燿の男。「だが、灯火の男とは取引をしてやる。君の白は、いい匂いがする」
「条件は?」
「協会の“縫い目”の地図。封印の主結節の座標。全部は要らない。一部でいい。君が触れた場所だけでいい」
純が杖を握る音が小さく響く。霧間は一歩下がり、影の濃さを測った。
「選べ。協会か、彼女か」
晴は歩を進めた。噴水の縁まで。朱音の目が、晴の動きを追う。大丈夫、と言っている。言っていない。両方だ。白がざわめき、黒が沈む。
「答えはひとつ。俺は、彼女を取り戻す」
黒燿の男が笑う。目隠しの下で歯が光る。「なら、協会を捨てろ」
「捨てない」
「選べと言った」
「選ぶ。——順番を」
黒燿の男の笑いが少し止まる。晴は続けた。
「朱音を助ける。次に、仲間を守る。最後に、街を守る。協会はそのための道具だ。捨てない。道具を使う。道具に使われない」
男が指を鳴らす。噴水の黒い渦が盛り上がり、朱音の足元から黒い縄が伸びる。縄は白い幕に絡まり、音もなく擦れる。晴は幕を薄くし、すり抜けさせ、渦の縁に道を描く。黒燿の男がもう一度指を鳴らしたとき、純の闇の刃が横から入り、縄の結び目だけを切った。霧間の影が背後で動き、黒燿の二人の足元をすくう。動きは速いが、雑ではない。霧間の雑は、整っている。
「持っていけ!」と男が叫んだ。別の黒燿が朱音の肩を押し、渦の中心へ沈めようとする。晴は白を薄く、柔らかく広げ、朱音の体を包む。包むのは炎ではなく、布。温度を上げない。黒を焼かない。焼けば、朱音も焼く。包んで、引く。引けば、渦は引きたがる。引く方向を変える。横へ。縁に沿って。縁には受け皿がある。協会が昔置いた、帰宅口。古いが、道は覚えている。
朱音の体が渦から抜ける。足元で黒が跳ねる。霧間の影がそれを踏む。純の刃が黒の先端だけを切る。晴は白を絞って、朱音を自分の方へ引き寄せた。腕の中に、彼女の体温。震えはない。意地で止めている震えだ。晴はその意地を尊重する。抱きしめすぎない。離れすぎない。
「退け!」
黒燿の男が最後の指示を出す。残りの二人が煙のように散り、霧間の影が追い、純の刃が牽制する。晴は朱音を抱えたまま後退り、噴水の縁を越えた。黒い渦が一度大きく盛り上がり、すぐに沈む。噴水の枠が軋み、古い石が小さく崩れる。黒燿は完全に消えたわけではない。だが、今ここにはいない。
静寂が戻った。地下の空気はひんやりして、湿っていた。朱音が小さく息を吐き、晴の胸の布をつまむ。「戻ってきた」
「戻った」
純が近づき、朱音の口の布を外し、手の縛めを解いた。霧間は通路の奥に目を向け、気配を探る。敵の撤退は速い。追えば罠がある。追わなければ、別の場所に罠が置かれる。どちらを選んでも、選んだ方に責任が残る。
「帰るぞ」と純。
「帰る」と晴。
霧間はその背を見て、わずかに笑い、目を細めた。「君は選んだ。——君の順番で」
「師匠は?」と純。
「私は自由を選ぶ。だが、今日は古い秩序の側を歩いた。弟子の背に付き合う自由だ」
朱音が霧間を見た。「あなた、嫌いじゃない」
「ありがとう。嫌われるには、まだ若いらしい」
帰路、通路の角で、霧間が立ち止まった。壁に黒燿の印が残っている。角ばった切れ目。切断の記号。霧間は指で軽く叩き、印を半分だけ壊した。
「ほどくにも、縫うにも、順番がある。御影。君が協会に残るなら、順番を守れ。残らないなら、君の順番を作れ」
「俺は残る」と晴が答えるより早く、純が言った。「私は残る。だからこそ、切るべき糸を切る」
「なら、楽しみにしている」
そのやり取りは、穏やかで、戦場の真ん中に置くにはやさしすぎる会話だった。だが、ああいうやさしさがなければ、明日の刃の角度はすぐに鈍る。
◇
協会に戻ると、司書が扉の前で待っていた。朱音を見て、軽く頷く。視線だけで状態を測り、必要な処置を手配し、狩谷に目で合図する。鎖が外され、礼拝堂の灯りが少し明るくなる。
晴は朱音を礼拝堂のベッドに座らせ、息を整えた。胸の中の白は静かだ。黒は沈む。沈む場所を覚えている。司書が薬を持ってきて、朱音の手を取り、脈を測る。
「大丈夫。少し冷えてるだけ」
「晴は」と純。
「まだ熱い。——でも、戻れる熱だ」
司書は晴の手を取り、目を細めた。「『たとえ魔になるとしても』って、さっき心の中で言ったね」
晴は肩をすくめた。「聞こえましたか」
「灯火は嘘を嫌う。言葉は魔術。心に向けた言葉も、灯りに吸われる。——気をつけて」
「気をつけます」
朱音がベッドの端で笑った。「気をつける人の顔だ」
「気をつけるよ」
「じゃ、約束」
「約束」
その約束は、灯りの下で結ばれた。約束は縫い目だ。古い縫い目ではない。新しい糸の一本。薄いが、強い。薄いから、重ねられる。強いから、引っ張れる。
上層の会議室では、また鈍い音が響いていた。晴は顔を上げ、黒い窓を見た。そこには誰もいないように見える。見えるのはいつも、誰もいないふりをした誰かだ。
霧間梓は、協会の外の影に消えていた。自由を選んだ男は、古い秩序も捨てていない。捨てないで、距離を取る。距離の取り方を知っている。距離は武器だ。近いのも武器。遠いのも武器。
晴は自室に戻り、机に座った。封筒を机の引き出しに入れる。紙は証拠であり、呪いでもある。証拠として残す。呪いとして持たない。引き出しを閉め、目を閉じ、深呼吸。胸の白が静かに広がる。黒い砂は沈む。
スマホが震えた。朱音からの短いメッセージ。「戻ってきてくれて、ありがとう。私、晴の選ぶ道、やっぱり好きだ」
晴は「こちらこそ」と打ち、送信した。送信音が小さく鳴る。その小ささが、今夜の世界の正しい大きさに思えた。
——協会に残るべきか、自由を取るべきか。
答えは、一つではない。
だが、順番は、一つだ。
朱音、仲間、街。
その順番を守るために、今日は協会を使った。明日も使う。使えなくなったら、別の道具を作る。
たとえ魔になるとしても——と零れそうな言葉を、白の下に沈めた。魔は最後の選択肢にする。最後の最後に。今は、白で行く。白で戻る。白で、選ぶ。
礼拝堂の灯りが緩やかに落ち、書庫の奥の封印の扉が微かに鳴った。内側から、二度、ためらいがちに。名乗りではない。合図でもない。——待っている音。
晴はその音を聞き、目を閉じ、もう一度開いた。
選ぶ準備は、できている。
裏切りの正体は、いずれ明らかになる。
そのとき、自分がどちらの側に立っているか。
立つ側を、他人に決めさせない。
それが、灯火の使い手としての、自分の秩序だと信じて。




