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灰街(はいがい)に咲く白き灯火  作者: 妙原奇天


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第6話 裂け目の残留魔

 灰街の底が鳴った朝だった。

 地下鉄の換気口から白い蒸気が上がり、信号の足元で水たまりが微かに震える。人はそれを「地盤沈下の予兆だろう」と笑って通り過ぎる。だが協会には、別の波形として届いていた。配電の縦糸が一瞬だけ逆流し、通信の結び目に黒いノイズが刺さる。地下の骨格に誰かが爪を立てている。


「名乗りは“黒燿”。反協会の新顔だ。都市の縫い目を切って、封印の皮をめくる気でいる」


 御影純は簡素に説明した。狩谷は肩に鎖を巻き、司書は薄い板の束を抱え、地下へ降りる通路を指定する。非常灯は正常。だが光の芯に微かな濁りがある。晴はそれを、白い灯火の粉で拭いながら進んだ。


 協会の出入口を抜けた先のサービス通路で、空気が甘く腐った。生ゴミの匂いではない。感情の過剰発酵。焦り、妬み、疲労の匂いが湿気と混ざり、鼻の奥に張り付く。壁の点検口が強引にこじ開けられ、配管の周囲に油のような黒が垂れていた。黒は滴りながら、勝手に上へ登っていく。重力より、感情に従う。


「裂け目まで三分。現場は第七集水井。地上に被害が出る前に押さえる」


 狩谷の声が無線で跳ねる。地上では協会の防衛班が聖域の上に仮の結界を張っているはずだ。学校、病院、図書館。まず守るべき場所は決まっている。順番を間違えない。それが、昨日決めた優先順位。


 階段を駆け下りると、視界が開けた。地下の大空間。古い水脈の合流点に、近代のコンクリートと鉄骨が取り付けられ、巨大な井戸のようになっている。底は見えない。風が吹き上がり、黒い紙片のようなものが舞っていた。紙片は、人の言い訳の大きさをしている。聞けば胸のどこかがうなずきそうな、小さく弱い逃げ道の言葉。その断片が空中に漂い、寄り集まり、塊へと育つ。


 その縁に、人影が六つ。黒いコート、黒い仕覆、黒い目隠し。身じろぎもせずに、ただ足元の地面を、ゆっくりと蹴っていた。靴底についた釘の円で、地面に細かい印を刻む。そのリズムは一定ではなく、わざとずらし、都市の縫い目に「不協和」を差し込む調子だ。


「黒燿」


 純が呟いた。「見学者にしては手慣れている」


 一番手前の人物が、顔の目隠しを少しずらした。瞳は黒い。黒は空洞ではなく、磨かれた石のように硬い光を宿している。


「協会。古い縫い目を守って、何が残る。街は古布だ。ほどいて織り直せば、もっと使える」


「ほどき方を間違えれば、布は粉になる」と純。


「粉は粉で使い道がある」


 黒燿の男が踵で印を一つ潰した。途端に、井戸の中心で音が変わる。低い唸りから、裂けるような悲鳴へ。見えない皮膜が、内側から強引に引き剥がされていく気配。コンクリートの亀裂が走り、そこから黒い風が吹き上がった。風は冷たくない。熱でもない。温度のない「嫌な動き」が肌を撫でる。


「裂け目だ。行くぞ、晴」


 純の声と同時に、晴は右手を掲げた。白い粉が空へ広がり、風の流れに乗って、裂け目の縁に薄い幕を作る。幕はすぐに穴だらけになった。下から押し上がる黒の突起が、膜を破り、表面へ躍り出る。突起には牙も爪もない。ただの「未練」が束になった形。だが触れれば、皮膚の内側に「やめてしまえ」という声を刻み込む。


 狩谷が鎖を投げ、突起の群れに網をかける。鎖の輪に白い糸が縫ってあり、触れた黒はそこからじわじわと薄くなる。晴は膜の破けた箇所を縫い直し、純は杖で裂け目の縁に幾何学の杭を打っていく。杭は見えない床に刺さり、円陣を組んで押さえ込む。手順は正しい。動きは滑らか。呼吸は合ってきた。


「守るのは、街じゃない。俺たち自身だ」


 純が言った。耳に掛けた無線の向こうで、各班の応答が重なる。地上の防衛は都市の日常を守る。だがここは違う。ここで折れれば、守りは線から面へ拡大できない。内側を支える背骨が折れれば、健康な皮膚もたちまち壊死する。


 晴はうなずき、足を一歩踏み出した。灯火は白く、穏やかだ。炎というより光の衣。その裾が黒に触れ、剥がし、導く。導いた先は、井戸の側壁に開いた小さな受け皿。協会がかつて仕掛けた「残留魔の帰宅口」。帰るという感覚を与えると、黒はそこへ向かう。嫌々でも、向かう。


 黒燿の一人が、指を鳴らした。

 井戸の反対側から、別種の黒が滲む。先ほどの言い訳の紙片ではない。もっと重く、鈍い。憎しみの根。植え替えに失敗した木の根が、コンクリートを割るときの形。純の杭が一箇所、軋んだ。


「闇の刃で切る。灯火で縫え」


「了解」


 純の杖先から、色のない刃が伸びた。闇色と呼ぶには薄い。だが光ではない。影の濃淡だけを拾い上げて線にしたような刃。刃は音もなく走り、黒い根を断つ。断たれた根は、晴の白に触れてほどけ、受け皿へ流れる。二人の魔術は交錯する。切る、縫う、ほどく、導く。その往復は音楽に似て、汗の味は現実に似ている。


 黒燿の男が二歩下がり、足元の印を増やした。周囲の壁から新しいひびが放射状に伸び、通路へ逃げ道を作るように見えた。だがその実、聖域へ向けた導線だ。上へ上がる空気の流れが変わる。守っているはずの病院と学校の上に、じわりと黒の匂いが広がった。


「分散、二班へ。病院側、圧が上がる」


 無線がざわめき、隊の配置が変わる。狩谷は鎖の端を別の杭に掛け替え、晴に声を飛ばした。


「朱音ちゃんは上の簡易病室から図書棟へ避難中。聖域の外周に薄い穴が空きかけてる、急げ」


 晴の心臓が掴まれる。視界の端で、地上の図が重なる。協会の上階、礼拝堂の近くの廊下。白い窓。観葉植物。そこに黒い影が一つ、スリットのように伏せている。影は人の目線に合わせて高さを調整し、「見落とせ」と命じる系統のものだった。司書の近くにいれば跳ね返るはず。だが避難の動線の角で、ほんの一瞬、影が勝つことがある。


「行け」と純。


「だが裂け目が——」


「行け。ここは私と狩谷で持つ。順番を間違えるな」


「——わかった」


 晴は足場の杭を蹴り、通路を駆けた。灯火の白が背を押す。地上へ上がる階段の踊り場で、一度だけ振り向く。井戸の縁。純と狩谷が鏡写しのように立ち、二人の術が交錯して黒を抑えている。形は違っても、呼吸は同じだった。安心が、油断にならないように気を張り直し、晴はさらに駆け上がった。


 協会の上階、図書棟の前の廊下に出ると、空気がひんやりしていた。聖域の層が厚い。だがその層の表面に、爪で引っ掻いたような微細な傷が縦に走っている。黒燿は封印の縫い目の「ささくれ」をよく知っている。そこへだけ、金属の櫛で引きをかける手口だ。


 曲がり角の向こうから、足音。数人分。避難の職員と、朱音の軽い靴音。晴は角の手前で手を上げ、白い薄幕を張った。同時に、床を這っていたスリット影がふっと持ち上がる。薄い刃のように浮き上がり、ちょうど角を曲がってくる足元めがけて走った。


「止まれ!」


 叫ぶより早く、白が降りた。幕は影の進路に斜めに入り込み、角度をずらす。影は滑って壁に当たり、形を崩す。その一部が飛沫になって散り、後方にいた朱音の脛を掠めた。


「っ——!」


 短い息。手すりに掴まる音。白い肌に黒い痕が一本、細く走る。鋭い痛みはないはずだ。けれど、冷たさが長く残る痕だ。晴の視界の中心が暗くなった。


「ごめん!」


「大丈夫。今のは——」


 朱音が言い終えるより早く、廊下の反対側で別の傷口が開いた。黒燿の手勢がここまで上がってきたのか、薄い影の塊が空気の層の間を滑り、図書棟の扉の上で集まる。聖域の皮を剥ぐ動き。司書が姿を見せる直前の一瞬。守りの層の継ぎ目が、かすかに鳴いた。


 晴は、目の前の黒を一気に焼こうとした。

 怒りが喉まで上がる。

 自分に向けた怒りだ。角度を誤った自分。間に合わなかった自分。順番を守れと言われたのに、守りきれなかった自分。

 灯火が跳ねた。

 白の縁に、黒が混ざる。

 黒は色ではない。「無視」の濃縮。存在の否定の陰。粉が、煤に変わる。


「晴!」


 純の声が遠くから飛び込んできた。耳の奥で反響する。

「その色は——魔の兆候だ!」


 言葉は届く。だが、体の奥の熱は言うことを聞かない。怒りは理屈の外にある。怒りに「待て」と言って待つなら、怒りではない。

 黒が生まれた灯火は、白を汚すのではない。白を溶かす。境界を消す。焼くのではなく、抹消する火。

 もしこのまま放てば、廊下の影たちは一瞬で蒸発する。だが同時に、壁に編まれている守りの糸も切れる。聖域は穴になる。図書棟の中の静けさが、音を立てて壊れる。


 足元で、袖が引かれた。

 朱音だ。

 目は強い。声は小さい。


「晴。怒っていい。でも、私に向けないで」


 あまりにも当たり前で、あまりにも難しいお願い。

 晴は自分自身から目を逸らさない。黒の縁が指先でざらつく。

 深く息を吸う。肺の奥の空気が冷たい。

 優しいと言われたときの、自分の中心を思い出す。

 守るために燃やすんじゃない。

 守るために、燃えすぎない。

 白を呼び戻す。

 黒は黒で、どこかへ帰る場所がある。怒りは怒りで、別の動力にできる。

 ——帰れ。

 灯火の核に命じる。

 白が、戻る。黒は、白の下へ沈む。煤は粉になり、粉は幕になった。


 ほんの一拍の攻防。

 その間にも、影は仕事をやめない。図書棟の扉の上の塊が、司書の間合いに入る前に、最後の一押しを試みている。

 晴は右手を扇のように払った。白い幕が扉の上に開き、影の突起を横へそらす。純の闇の刃が通路の奥から斜めに入り、黒の根を切る。狩谷の鎖が階段口に落ち、上がってこようとした黒燿の下っ端の足を絡め取る。


「朱音、後ろ!」


 晴が抱えるように朱音を図書棟の中へ押し込み、司書が扉の内側から印を押さえる。印は冷たく、正確に閉じた。聖域の層が厚みを取り戻し、廊下の「見落とせ」の影は霧散した。


 その瞬間、晴の背に冷たい汗が流れた。掌が震えている。黒は消えたが、残滓は手のひらの内側に残る。黒い砂粒が二、三、皮膚の内側で転がる感覚。そこへ、純が駆け上がってきた。汗に濡れた額、濁りのない目。晴の手を掴み、印を確かめる。白は戻っている。黒は薄い。だが、ゼロではない。


「今のは——」


「さっきのは、怒りが形になりかけた。灯火は“色”を吸う。白に黒が混ざれば、魔の兆候になる。兆候は予告だ。今なら止められる。——自分で」


「止める」


 晴は言い、それが言葉だけでないように、呼吸を整えた。手の中の黒い砂粒を一つずつ拾い、受け皿に置くようなイメージで、白の下へ沈める。完全に消すことはできない。それでいい。無理に消せば、また溢れる。置き場所を間違えない。


 朱音が、扉の内側から手を伸ばした。指先が扉の縁にかかる。

「晴。ごめん。私が下がるのが遅かった」


「違う。俺が——」


「一緒にいたから、間に合ったんだよ。黒いの、薄い。大丈夫」


 朱音の脛の黒い痕は、最初より薄れていた。司書が扉の内側で処置をしてくれたのだろう。冷たい金属の棒で軽く触れ、残留魔を表面へ誘い、白い粉で封じる。痕はすぐには消えない。だが、冷たさの芯は抜けている。


「下は?」


 晴の問いに、純は短く答えた。「抑えた。狩谷が井戸の縁を縫い直し、黒燿は撤退。裂け目は塞がっていないが、広がりは止まった。——この戦いは続く。だが、今は勝ちだ」


 勝ち、という言葉は、喉の渇きを癒やすには足りない。だが、目の前の景色には十分だった。図書棟の白い扉、司書の落ち着いた手、朱音の呼吸。日常は、まだ強い。


 そのとき、建物の上層から低い音が響いた。鈍い鐘の音ではない。厚い壁の向こうで誰かが机を叩くような音。協会上層部の会議室だ。非常時の議決を取る合図。無線に短い指示が流れる。


「全班、第二配置へ。警戒レベル引き上げ。灯火の使い手に関する評価を暫定から一次へ」


 晴の耳の中で別の音も鳴った。

 噂の音だ。

 まだ言葉になっていないのに、形だけ先に走る波。

 異端が——

 異端が生まれた——

 白い火で黒を縫った、制御のできる異端——


 純は肩だけで苦笑し、晴の手首を軽く叩いた。

「聞こえるかもしれないが、今は拾うな。拾っていいのは、ここに残っている黒い砂だけだ」


「了解」


 晴は頷き、白を一度、掌の中で強めた。粉が落ち着く。黒い砂がさらに沈む。

 狩谷が階段を上がってきて、鎖を肩から降ろしながら言う。


「坊や、行ってこい。病院と学校、見てから戻れ。朱音ちゃんは司書とここで待機」


「付き添う」


 朱音が言い、司書が首を横に振る。

「だめ。あなたは患者。今日、二度目の処置。三度目は体に残る。順番」


 順番。

 守るべきものの順番。

 晴は朱音の目を見る。朱音は頷く。言葉は要らない。代わりに、扉を挟んで軽く指を触れ合わせた。温度が伝わる。十分だった。


 地下へ戻る途中、通路の壁に、黒燿の残した印が一つだけ残っていた。円ではなく、角ばった切れ目。切断の記号。

 純は立ち止まり、指でそれをなぞった。

「黒燿は今後も来る。縫い目を切り続ける。——こちらも切って、縫い直す。切るべきは、古い“怠けの糸”。縫うべきは、新しい“約束の糸”」


「約束」


「お前が昨日、礼拝堂で決めた順番も、約束の糸だ。今日、ほつれかけた。だが結び直した。次も、同じだ」


 井戸の縁は、狩谷の手当てで安定を取り戻していた。杭は深く刺さり、鎖はきれいに張り直され、黒は受け皿へ落ちる道筋を覚え直している。黒燿の影はない。ただ、遠くで足音だけが響く。撤退か、移動か。敵は街の底をよく知っている。歩き方に迷いがない。だから厄介だ。


 無線が静かになる。戦闘の熱が潮のように引き、残されたのは湿った壁と、泥のような疲労。晴の右腕の焼け跡が疼く。新しい薄い線が一本、増えていた。代償は、今日の分を確かに記録する。


「戻るぞ」


 純の声はいつも通りだが、少し掠れていた。狩谷が伸びをし、鎖を肩から降ろす。

 地上へ出ると、夕暮れの灰街がまるで何事もなかったように動いていた。信号は正確に色を変え、スクリーン広告は笑顔のまま物を勧め、風は湿っている。人は、それを日常と呼ぶ。守られるべき日常。その背後で協会は「背骨」を交換し続ける。


 協会のエントランスに差しかかると、白髪の司書が待っていた。朱音の姿はない。きっと図書棟の奥で休んでいる。


「裂け目の一次封止、確認。——晴」


「はい」


「黒、見えたね」


「見えました。……怖かった」


「怖いのは良い。怖くなくなったら、そのときが危ない」


 司書は眠たげな目で、しかし鋭く言った。

「灯火の白は、簡単に黒を吸う。優しさは、怒りの反対ではない。怒りを置く場所の名前だ。忘れないで」


「忘れません」


 司書は満足げに頷き、紙の束を純に渡して去った。上層の会議室からは、まだ鈍い音が響いている。晴は一度だけ顔を上げ、その黒い窓を見た。視線がぶつかる気がしたが、何も見えない。よくあることだ、と純は言うだろう。


「晴」


 背後から、軽い足音。

 朱音が廊下の角で立ち止まり、微笑んだ。脛の黒い痕は包帯で覆われ、歩みは慎重だが、目は強い。


「大丈夫。冷たくない」


「よかった」


「今日、私、ちゃんと“待つ”ってやつ、できたよ」


「できてた」


「晴も、“戻る”ってやつ、できた」


 互いに短い言葉。だが、それで十分だった。

 窓の外で、灰街の街灯がまた一つ点く。白い芯に細い糸。科学の縦糸と魔術の横糸。どちらかが切れれば光は揺れる。その光景を、晴は胸の白でなぞる。


 ——異端が生まれた、と、誰かが囁く。

 ——なら、囁かせておけばいい。

 名前は外がつける。

 意味は、自分が選ぶ。


 裂け目は塞がっていない。

 黒燿は去っていない。

 封印の扉の向こうからの名乗りも、止んでいない。

 明日、また戦う。

 明日も、順番を間違えない。

 守るべきものを守るために、白を保つ。


 晴は軽く拳を握り、ゆっくりと開いた。

 掌に残る白い粉は、静かだった。

 その底の、ごく薄い黒い砂も、静かに沈んでいた。

 それでいい。

 それを覚えておけばいい。


 灰街の空は相変わらずの色をして、遠くの雲の切れ目に、星のような小さな点がひとつ、早くも瞬いていた。

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