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灰街(はいがい)に咲く白き灯火  作者: 妙原奇天


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第5話 覚醒の刻

 協会本部のさらに下層に、地図にも台帳にも載らない円形の空洞がある。

 「試練場」と呼ばれるそこは、古い水脈の洞窟を芯に、現代の素材で張り合わせて拡げた巨大な器だった。床は黒い礫のように見えるが、踏めばわずかに弾む。魔術の衝撃を吸収するために、多層の織り地と樹脂を重ねてある。壁面には淡い線が円環状に走り、一定間隔で白い柱が立つ。柱の中には、協会が誇る「縦糸」が詰まっている。配電、通信、監視、そして緊急停止。都市の骨格をそのまま持ち込んだような無機質さ。それでも、場の中央に立てば、底の方で水が眠っている気配を感じる。ここはもともと、自然の器だったのだ。


 御影純は、晴の防護着の襟を整え、短く言った。

「覚えておけ。ここでは“倒す”より“止める”を優先する。灯火は強い。強いものほど、刃の角度を間違えやすい」


「了解。止める。……それでも、燃え広がったら」


「私が止める。狩谷が縫う。司書が拾う。お前は自分の心を見張れ」


 観覧席に相当する高窓の向こうで、白髪の司書が腕を組み、狩谷が非常用の鎖を肩にかけた。さらにその奥、ガラスの向こうに、朱音がいた。上階の簡易病室から移動してきたばかりで、まだ色は薄いが、目は強い。晴は無意識に手を挙げ、朱音が小さく振り返す。口の形が「深呼吸」と言った。


 場内に、試験用の幻肢が散らばった。黒い人影のシルエット、四つ足の獣の影、翼の影。いずれも残留魔の「癖」を模した訓練用の影だ。本物ではないが、動きには性格があり、触れれば冷たい。


 司書の声が天井から降る。

「第一段階。灯火、点灯。制御域、半径三メートル以内。対象、影体三。」


 純が顎で合図する。

「始めろ」


 晴は右手を胸に寄せ、灯火の印に意識を置いた。灯る。白い炎が掌に生まれ、布のように指先へ流れる。昨日の礼拝堂で覚えた「道」の感覚をなぞる。押し出すのではなく、導く。焼くのではなく、包む。影体の一つに向けて、薄い膜を掛けた。白が触れ、黒がほどける。床の織り地がわずかに震え、すぐに静まる。


 呼吸は乱れていない。

 第二の影体。

 晴は角度を変え、立ち上がる影に裾をかけるように炎をかけた。纏う。締める。核を探る。影の芯は小さく、朱音の胸から回収した欠片に似ている。そっと引き剥がして、床の印へ導く。影は霧になり、消えた。


 第三。翼の影が天井近くで円を描く。こちらは速い。晴はそれを追わず、手のひらを上に向けた。白い糸が空へ伸び、輪になり、落ちる。輪は網へ。翼は絡まり、影の羽がほどけ、静かになった。


 司書が短く告げた。

「合格。第二段階。感情媒介、測定。灯火、温度変化の確認」


 壁の柱に埋め込まれた指示灯が、一斉に緑から青へ変わる。純が言った。

「ここからは、お前の中身の話だ。灯火は心の温度に比例する。高ければ強い。だが、高すぎれば形を失う。——用意はいいか」


 晴は頷く。胸に手を当てた瞬間、別の映像が、裂け目のように心に差し込んだ。

 封印の扉。内側から叩く微かな音。名乗りの符。

 書庫の冷たい空気。榊の名。

 「俺のせいで狙われたのか」と呟いた自分。

 純の背。「守りたいなら強くなれ」


 温度が上がる。

 灯火が、燃える。


 影体が四方に現れた。今度は形が荒い。人と獣と機械の混成。協会上層部が忌避する「混線型」の挙動に近い。都市のストレスが複合すると、残留魔は形を定めきれず、見た者の不安の輪郭を借りる。晴の右手が熱を帯び、白い炎の縁に薄く金色が混ざる。


 ——焼け。

 ——焼けば、消える。

 胸のどこかで、短い声がそう囁く。

 晴は首を振り、炎を薄く延ばす。包め。導け。

 だが、影の方が速かった。

 ひとつが床下から刺のように飛び、晴の足首を跳ねる。護符の糸が火花を散らし、焦げた匂いが上がる。遅れて、怒りが込み上げた。自分に対して。遅れたことに。甘かったことに。


 灯火が、跳ねた。


 白い炎が布から刃へ変わり、空間の空気を強引に押し広げる。床の織り地が軋み、壁の柱の指示灯が一瞬黄色に点滅した。純が即座に杖を振る。細い環が晴の肩口で弾け、炎の縁を丸くする。狩谷が上から鎖を落とし、炎の周囲に枠を作った。だが、勢いは止まらない。怒りと恐れが火を肥やす。

 ——遅れたら、誰かが傷つく。

 ——弱かったら、また。

 朱音の胸から欠片を導き出したときの「冷たさ」が、逆流する。冷たさは恐れに、恐れは熱に、熱は刃に。


 炎が天井近くまで膨らみ、試練場の空気を一気に乾かした。視界の端で、観覧のガラスに白い筋が走る。司書が手のひらを立て、幾重もの透明な膜でガラスを補強する。狩谷の鎖がきしむ。純の額に汗。

「晴、止めろ。感情が力を制御していない」


 止めたい。

 だが、止まらない。

 止める理由を見失えば、力は自分の都合の良い理由を作る。

 ——焼けば、守れる。

 ——焼けば、近寄らない。

 ——焼けば、俺は間違えない。

 嘘だ。知っている。灯火は焼くためだけの火じゃない。わかっているのに、足が止まる。怒りが居場所を占領する。

 影体が一体、炎の外縁をかすめ、観覧席側へ逃げた。ガラスの向こう、朱音がわずかに体を引いたのが見えた。

 心臓が掴まれる。

 最も遅れて来るのは、恐れではなく、恥だ。

 守ると決めたのに、守れていない恥。


 朱音が、口を開いた。声は届かない距離だ。だが、試練場の音を拾う回線が、彼女の声だけを晴の耳に引いた。


「晴。あなたは、優しい人だよ」


 短い言葉。

 中身は薄い。飾りもない。

 なのに、灯火の核に、正確に落ちた。

 優しい。

 その言葉が、怒りと恐れが占拠した部屋のドアを叩く。

 優しさは、弱さの反対じゃない。弱くて、だから優しい。

 あの日、砂場でうなずいた小さな約束。

 「ずっと守ってね」

 ——ずっと守る。

 守るために燃やすんじゃない。

 守るために、燃えすぎない。


 炎の色が、静かに変わった。

 金色が抜け、青の冷たさが消え、白が残る。

 刃の鋭さが溶け、布へ戻る。

 布はさらに薄く、ほとんど光の粉になって、晴の周囲で静かに回転した。

 温度が落ちたわけではない。

 温度が、均された。

 灯火が、純白へ澄んだ。


 司書が息を吐く音が回線に入った。

 「第三段階へ移行。制御下の拡張域、半径十メートル。対象、影体五。観察者、記録」


 純は口元だけで笑って、杖を少し下げた。

「来い、晴」


 影体が複数、角度を変えて襲う。今度は晴の方が速い。白い光の粉が薄く広がり、影の脚を絡め、翼の根をほどき、牙の前に柔らかい壁を置く。押し返さない。空に隙間を作る。影の「居場所」を別に作り、そちらへ誘う。

 導く。

 道を見せる。

 「帰れ」ではなく「帰る道はここだ」と示す。

 影は抵抗し、すぐに諦め、薄くなる。床の織り地が満足げに波打ち、壁の柱の指示灯がまた緑になった。


 晴は深く息を吐いた。喉は乾いていない。汗はあるが、嫌な熱ではない。

 純が天井を指さす。

 「最後だ。第四段階。混線型の模擬。本番に最も近い。——お前の“優しさ”が一番試される」


 天井の線が明滅し、場内の一角が揺らめいた。黒い靄が寄り集まり、今度は形を取らない。数でも輪郭でもなく、「無視」の塊。見るほど、目が勝手に逸れる。触れようとすると、理由なく手が止まる。人の認識の隙間を狙うタイプだ。


 晴は一歩、前に出た。白い粉がさらに細かく、霧のように広がる。

 「見たくないもの」を「見えるように」するのが、灯火の本質の一つだ。

 視界の端の矢印を、中央へ連れてくる。

 靄の手前で、白が薄い幕に変わる。

 幕が、靄に映す。

 「あなたは、ここにいる」と静かに告げる鏡。


 靄は、逃げられなくなった瞬間、針に変わった。刺しに来る。

 晴は突っ立ったまま、右手をわずかに傾けた。幕の角度が変わり、針は自分の影に刺さる。刺さった箇所から靄が崩れ、床へ落ちる。床の織り地が吸い、白が包む。

 終わる。

 静けさが戻る。


 司書が、試練場全体の照度を上げた。

 「記録、停止。——合格。灯火、制御取得。温度の平準化、確認」


 狩谷が鎖を肩から外し、天井の梁に手をやってため息をつく。

「やれやれ。ガラス代が浮いた。坊や、上出来」


 朱音がガラスの向こうで両手を胸の前でぎゅっと握り、笑った。頬に色が戻っている。晴は照れくさくて、手を振る代わりに小さく会釈した。


 純が近づき、晴の掌を取る。印は静かだ。痛みはない。

「今の“白”を忘れるな。強さは高さじゃない。広さでもない。厚さだ。均し方を体で覚えた」


「……ありがとう」


「礼は要らない。ここから先、礼では済まないことが増える」


 純の目が、一瞬だけ観覧席の上の窓を越えて、さらに上の影を見た。

 協会上層部の「観察室」。

 ガラスのさらに上に、厚い壁で覆われた小窓がある。普通は黒い。だが今は、薄く色が動いた。誰かが、見ている。

 司書が通信を切る直前、低い声で言った。

「——異端が生まれた、と、あちらは言うだろうね」


 晴は純を見た。純は肩を竦めもしない。

「上では、灯火が“使える”ことより、“制御した”ことを恐れる。暴走は止められる。だが、静かな火は止めにくい」


「俺は、何者なんだ」


「灯火の使い手。街の縫い目を縫い直す針。——それ以上でも、それ以下でもない。名札は勝手に増える。異端、希望、脅威、便利屋、厄介者。好きに呼ばせておけ。お前が自分を呼ぶ名を、間違えなければいい」


 足元の織り地が柔らかく戻り、試練場の壁に嵌め込まれた扉が開いた。退場の合図。狩谷が太い腕で晴の肩を軽く叩く。

「終わったら甘いもの。礼拝堂は固い味ばっかりだからな。朱音ちゃんにも持ってく」


「プリン二つ」


「三つにしろ。司書も食う」


 軽口が、緊張の隙間にうまく入る。晴は頷き、観覧席の階段を上がった。ガラスの向こうで朱音が待っている。扉を開けると、彼女は開口一番に言った。


「よかった。……怖かったけど、最後、きれいだった」


「きれい、か」


「うん。白かった。怖い白じゃなくて、安心する白」


 言葉の選び方が朱音らしいと、晴は思う。色で世界を捉える彼女の目は、灯火の色の違いをまっすぐに拾う。

「ありがとう。止めてくれて」


「私、何もしてないじゃん」


「してた。言ってくれた。優しいって」


 朱音は照れ隠しのように髪を耳にかけた。

「本当のことを言っただけ」


 狩谷が紙袋を掲げて振り、純が短く咳払いをして場を締める。

「解散。晴は休め。今日は身体の“底”を使った。変に元気に感じても、あとでどっと来る」


「はい」


 通路を出る直前、再び試練場の空気がわずかに変わった。上層部の観察室の小窓が、音もなく閉じる。厚い壁が、また一枚分厚くなったような錯覚。廊下へ出ると、司書がいつの間にか立っていた。眠たげな目の奥に、薄い鋭さが覗く。


「晴。上は、あなたを“異端”と呼ぶだろう。大きく扱い、うるさく見張る。——でも、異端は、必ずしも悪い言葉じゃない」


「知ってます。書庫で学びました」


「ならいい。あなたはまだ、扉の音を忘れていないね」


 封印の扉。内側からの名乗り。

 晴はうなずく。司書は満足そうに頷き返し、廊下の端へ去った。


 休憩室で、三人と一人でプリンを食べた。たわいない話。大学の課題、狩谷の古いバイクの修理、司書の嫌いな香草。笑いの温度。灯火の白が胸の奥で静かに呼吸しているのがわかる。

 朱音がふいに思い出したように言った。

「ねえ、封印の扉。あれ、いつ開くの」


「鍵が揃って、約束が揃ったとき」と純。

「約束?」


「順番の約束。守るべきものの順番。外の言葉で言い換えれば“優先順位”。異端はそこを間違えやすい。強くなったから、全部できると思う。——全部はできない」


 晴はスプーンを握ったまま、うなずく。

「知ってる。だから、決めてる。朱音、仲間、街」


「最後に自分が入ってない」と狩谷。

「入れる。四番目に」と晴。

「四番目か。まあ、順番が決まってるなら、時々入れ替えもできる」と狩谷は笑った。


 その夜、協会の上階では、静かな会議が続いていた。

 議題は一つ。灯火の使い手・高倉晴の扱い。

 「異端をどう管理するか」

 「制御可能な異端は、それでも異端だ」

 「使えるうちは使う。切るときは早く」

 ——そんな声が、厚い壁に吸われていく。

 司書は上のフロアを見上げて、眠たげな目を細め、踵を返した。書庫では、封印の扉の向こうから、また短い叩きがあった。

 名乗りの符。

 それは、今日の試練場の白と、どこかで響き合っていた。


 晴は自室のベッドに倒れ込み、右腕の焼け跡を見た。新しい薄い線が一本、増えている。痛みは穏やかだ。

 画面が震え、朱音からのメッセージが光る。

「今日の白、きれいだった。また明日」

「また明日」と打ち、電気を消した。

 目を閉じると、白い粉のような光が瞼の裏に広がる。

 暴れる炎ではない。

 静かに灯る、場所を選ぶ火。

 それを保てるかどうかは、明日の自分次第だ。


 異端が生まれた、と誰かが囁くなら、好きに囁かせておけばいい。

 名前は外がつける。

 意味は自分で選ぶ。

 守るべきものの順番を、間違えない。

 それだけを確かに握りしめ、晴は静かに眠りに落ちた。

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