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灰街(はいがい)に咲く白き灯火  作者: 妙原奇天


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第4話 灰街の書庫

 灰街魔術師協会の本部は、地図から消された交差点のさらに下にある。

 御影純は何も言わずに階段を降りた。階段は踊り場ごとに材質が変わる。最初はコンクリート、次に鉄、次に石。古い時代の層が、そのまま積み木のように重なっているのがわかる。壁に等間隔で打たれた鋲に、指で触れると微かな温度差があった。縫い目だ、と純は言った。


「この先が“書庫”。封印の時代から、その前の“魔術大戦”までの記録が残っている。紙、金属板、石、そして記憶装置。入る前に、名前を置いていけ」


 踊り場の突き当たりに、黒い板が立っている。額縁のない扉のようだが、扉ではない。表面は鏡ではないのに、近づくと自分の輪郭だけが淡く映る。純が指先で板を叩くと、薄い鈴の音が鳴った。


「ここに名を預ける。呼ばれたときに返ってくるように。書庫は“忘れること”を嫌う」


 晴は板に手を触れ、名を告げた。「高倉晴」。板の中に音が吸い込まれていく。続けて純も名を置く。「御影純」。二人の声が消えたとき、板は暗い水のように波立ち、押し黙った。


 さらに階段を降りる。裸電球はない。天井から下がっているのは、小さな白い球体で、触れるとふわりと位置を変える。浮遊灯だ。灯りは生き物じみた間合いを保ち、二人の少し先を照らしてから、背後の影を払いに戻る。その動きは規則正しいが、規則の向こうに意思が見え隠れする。


 やがて、幅の広い扉に出た。扉は開いていない。閉ざされた面いっぱいに、細い文字の帯が重なっている。文字は新しいのに、意味は古い。読むのではなく、撫でて通るものだ。純は懐から薄い鍵を取り出した。鍵は金属ではなく、ガラスでもなく、光の骨のような手触りがある。


「合鍵。司書から借りた。開けたら、息を合わせろ」


 鍵が扉に触れると、文字の帯が一斉にほどけ、扉は音もなく引いた。冷たい空気が頬を打つ。乾いている。紙と革と樹脂の、混ざらない匂いが層になって流れ込んでくる。


 書庫は広いが、広さを見せつけない。不用意に視線を遠くまで運ぶと、棚の並びが意地悪く方向を変え、すぐに迷う。だから、灯りは近くを照らす。目の前の棚、足元の通路、手の届く引き出し。それで十分だと告げるように。


 通路の左右に、背の高い書架が立つ。革装の本、布装の本、金属の背を持つ書物、石板を納めた箱。引き出しの中には薄いカードが詰まっており、一枚抜くと、指先に淡い温度が移る。カードの裏に触れたとき、短い映像が脳裏に流れた。戦場。煙。誰かの笑い声。カードを戻すと、それはすぐに消えた。


「記録装置だ。封印の前に作られた。人間の断片的記憶を切り離し、媒体に刻む。一部は肯定、一部は懺悔、一部は呪い。扱いを間違えると、飲まれる」


「飲まれたら、どうなる」


「記憶が“お前を読む”。お前はページになる。閉じれば閉じたままだ」


 冗談ではなく、事実として告げる声だった。晴は不用意にカードを触る手を引っ込める。浮遊灯が進行方向を示すように前へ動き、純がその光の柱を追った。


 書架の中ほどに、円形のテーブルがあった。机の中央に埋め込まれた黒い盤が、指先を求めてわずかに呼吸するように波打っている。純が手袋を外し、人差し指で盤の縁をなぞる。白い線が浮かび、周囲の棚の背に刻印が響いた。


「“魔術大戦”の索引を開く」


 波紋が書庫の空気に広がり、棚の一角が自動で引いた。奥から現れたのは、金属の背表紙に細い鎖を通された書物。表紙には、数字ではない数の記号が並ぶ。純が鎖を解き、静かに机へ置いた。


「触れるのは私が先。晴、お前は読まれやすい。灯火は書類から見たときに“紙の火”に似ている」


「紙の火?」


「比喩だ。紙は火を嫌う。だが、灯火は焼き尽くすためではなく、明かすための火でもある。嫌われ、同時に求められる」


 純がページを開く。紙は厚い。繊維が強く、これだけの年月を過ごしてなお、角は立っている。そこに記されているのは歴史だが、今の教科書に記されたそれよりも具体的だ。年号は曖昧で、場所は異名で呼ばれる。人の名前は抜かれ、代わりに“役目”が残る。


 始まりは小さな争いだった。街の電力をどこから引くか。地下水の権利を誰が持つか。境界線に立つ一本の煙突の所有。そうした、どこにでもある利害から、理屈が増え、憎しみが増え、魔術は手段から目的へ滑る。戦争という言葉が似合うのは終盤だけで、その前はもっと泥臭い。食糧の配給、夜間の灯火管制、病院の機能維持。書物の行間から、生活の匂いが湧く。


 晴は息を潜めて読み、純は必要な箇所だけを拾うように指で示した。やがて、別の巻が引き出される。革装の背に銀の糸が縫われた、それだけで特殊とわかる冊子。表紙には古い灰街の地図が刻まれ、角に小さな紋章が押されていた。


 純が目だけで問う。見たいか、と。

 晴はうなずいた。

 ページが開く。

 レンズで覗くように、地図の一点が拡大され、そこに家の名前が現れる。旧字、俗字、そして現在の戸籍に近い字に置き換えられたもの。


 榊。

 そこだけ、はっきりと読めた。


 晴は喉が鳴るのを指で押さえた。浮遊灯が少し明るくなる。書庫が反応したのかもしれない。純が次のページへ指を滑らせる。系譜。血の流れを図にしたもの。魔術の家系は直線ではない。枝分かれし、途切れ、戻り、養子が入って繋ぐ。図の中央に、ひときわ濃い線があった。そこに、小さく組み込まれた札。薄い金属片に、古い刻印。


 “灯火”。


 呼称は一つ、継承は複数。各代の使い手の傍らに、“従者”の印がある。従者と書いて“とも”。灯火は単独で動かず、常に誰かと歩いた。最後の継承者の欄は空白で、ただ一つ、赤い印だけが押されていた。失踪、と読み取れる符号だ。


「初代……榊家」


 晴の声は、書庫の空気に沈んでいった。言葉の重みが、背骨にそのまま落ちる。偶然ではない。朱音が巻き込まれたのは、晴が灯火を灯したから。それは半分の真実だ。もう半分は、彼女が“榊”だから。


「俺のせいで狙われた?」


 書物の角が視界の端で固く光った。晴はページから手を離し、拳を握る。指の関節が鳴る。答えを急ぐように。

 純は即答しなかった。返す言葉を探す時間が、本当に必要なのか、それとも晴に考える間を与えているのか、判別がつかない沈黙だった。やがて、彼は短く言う。


「どちらでもある。お前が灯したから“目印”が立った。榊の線があったから、そこに集まる理由ができた。理由は複数で、どれも半分しか正しくない」


「半分……」


「だから、守りたいなら強くなれ。半分の正しさを、力で補え」


 純は本を閉じ、鎖を戻した。手際は無駄がなく、容赦もない。背を向け、次の棚へ歩き出す。その背中に、晴は息を吸って言葉を乗せる。


「強くなる。今の“強い”じゃ足りないのは、俺だってわかってる」


「なら、やるだけだ」


 返ってきた声は短かったが、背中の角度がわずかに変わった。認めたのだ。言葉としてではなく、動きとして。


 浮遊灯が進行方向を変え、書庫の奥へ導く。古い装丁の棚を抜けると、金属の箱が並ぶ区域に出た。箱は同じ大きさで、表面に薄い番号が圧されている。扉には穴の開いたプレート。純が懐から別の鍵を出した。こちらは数字と相性が良い、冷たい鍵だ。


「ここが“記録装置”の区画。視聴は慎重に。——と言っても、見せるつもりがあるから連れてきた」


「何を?」


「魔術大戦で“封印”に至る直前の、協会の会議記録。灯火についての扱いが決まった場面だ。お前にとって甘くはない」


 純は箱の一つを引き出し、端末ほどの薄い板を取り出した。板には微細な穴が並び、触れると微かな振動が走る。床に置かれた台座に板を差し込むと、周囲の浮遊灯が少し暗くなった。代わりに、目の高さに薄い幕が生まれる。幕は布ではなく、空気に浮いた水面のよう。そこに、人物の輪郭が浮かび上がる。


 顔は見えない。声も加工されている。だが、話の内容は明瞭だ。


 ——灯火は制御しづらい。

 ——灯火は民衆に過剰な信頼を生む。

 ——灯火は敵にも希望にもなる。

 ——封印の時代に移るなら、灯火は最初に畳むべきだ。


 反論もある。

 ——灯火は破壊ではなく浄化だ。

 ——灯火を消せば、残留魔がとどまる。

 ——灯火の系譜は、都市の“縫い目”と結びついている。


 議論は平行線のまま、最後に多数決で押し切られる。封印に際し、灯火の系統は“分散封印”。系譜を薄め、記録を断ち、道具と役務を他の流派へ移譲。灯火は言葉として残されるが、実体は隠される。


 幕が消える。

 書庫の空気が元に戻る。

 晴は口の中が乾いているのに気づいた。唾を飲み込み、歯の裏が冷たくなる。


「消された、のか」


「薄められた。消せないものを、見えないようにした。街の灯りと同じだ。電球を見れば電気だけが見える。だが、芯には細い糸がある」


「榊の線も、薄められた?」


「薄め、隠し、散らし、そして——残した」


 純は板を片付け、箱に戻した。

「誰かがいつか必要だと思った。必要だと思うなら、残す。誰かがいつか触れる。触れるなら、代償を払う。——そういう秩序で書庫は動く」


 晴はうなずきながらも、胸の奥の不快な熱をどう扱うか決められずにいた。自分の無力が嫌いだ。けれど、憎しみだけで動けるほど軽くもない。朱音の顔が浮かぶ。彼女の苗字が榊であることに、今さら意味が乗る。意味は刃になる。刃は向きを間違えると、自分を切る。


「俺のせいで狙われたのか」というさっきの言葉が、頭の奥で回る。純は振り返らない。晴は拳を握る。指の節がまた鳴る。痛みは現実だ。現実は刃を鈍らせる。


「強くなる」


 晴はもう一度、今度は静かに言った。

 純は短く答える。「なら、進もう」


 二人はさらに奥へ進む。書庫は降りるほど温度が下がり、空気が乾く。紙は湿気を嫌うが、乾きすぎると割れる。書庫はその中間を器用に保っている。浮遊灯の速度がわずかに落ち、棚の背が低くなる。石板の区域を抜け、最後に残ったのは、扉だけだった。


 封印の扉。

 書庫の底、ひときわ古い石の壁に埋め込まれた扉。扉自体は新しい。金属と樹脂と、何か説明の難しい素材の複合。表面には鍵穴がなく、かわりに丸い窪みが三つ並ぶ。上、右下、左下。三角形を形作る位置だ。


「ここから先は“禁域”。書庫の深奥で、封印の心臓部。鍵は三つ。協会の長、司書、そして——」


 純はそこで言葉を止め、窪みの一つに、指ではなく手の甲をそっと寄せた。灯火の印は純にはない。だが、彼は印のある者の反応を、誘い出す術を知っている。晴の右手が熱を帯びた。意志ではなく、呼応だ。

 晴が一歩出る。

 窪みに、右手の甲を近づける。

 印が窪みの縁と共鳴し、白い微光が走る。

 扉が低く鳴った。木が軋むような、古い石が温まるときの音。

 残り二つの窪みは沈黙したまま。扉は開かない。


「それでいい。今は、触れたという事実だけが必要だ」


 純は扉から手を離し、周囲の壁を見回した。壁の石には、ほとんど磨耗し尽くした刻印がある。目を凝らし、手で触れ、残った凹凸で読み解く。

「この扉、内側からも叩ける構造になっている」


「内側?」


「昔の封印は、外から閉めたきり忘れるためじゃない。“戻るために閉じる”という考えもあった。中に入って作業をして、出るときに開ける。——だから、叩ける」


 そのときだった。

 扉の向こうから、かすかな音がした。

 一度だけ。

 間をおいて、もう一度。

 規則的ではない。誰かが、躊躇いながら、指で石を確かめるように、叩いた。


 晴と純は顔を見合わせた。浮遊灯がほんの少しだけ暗くなる。書庫が息を潜めたのがわかる。

 扉の向こうの音は、聞き間違いではない。三度目は、少し強かった。

 晴の掌が汗ばむ。印が熱い。呼ばれている。そう認めたくなるほど、直線的な反応。


「誰かが——いる」


 晴の声は抑えたが、熱は抑えきれない。扉に近づこうとする肩を、純がつかむ。力は強くないのに、動きが止まる。不思議な制止。

「動くな。禁域だ。扉は三つの鍵が揃って初めて開く。外からも中からも、一人では開けられない。——それが、ここがいまだに立っている理由だ」


「でも——」


「でも、だ。中にいる“誰か”が友かどうかは、扉を開けるまでわからない。敵であっても、正しい叩き方を知っているかもしれない」


「正しい叩き方?」


「符号。封印に入る者は、いくつかの叩き方を覚える。救護、危険、静粛、交代。叩き方で外の判断を促す。今のは——」


 純は耳を澄まし、扉の石に指を触れた。

 薄い響きが骨に伝わる。

 もう一度、向こうから叩く音。

 間隔、音の高さ、石の共鳴。

 純はうなずいた。


「救護。短く、弱く、ためらいがある。長く叩ける余力がない」


「助けなきゃ」


「助ける。だが、順番がある。中にいるものが何であれ、扉を開けた瞬間にこちら側が“低い方”に落ちることがある。ここは高い。あちらは低い」


「低い?」


「圧だ。外界と禁域では、理の密度が違う。低い方に流れ込む。お前は今、炎を持っている。流れに引かれやすい」


 晴は拳を握ったまま、息を整えた。頭に血がのぼると、書庫の空気の乾きが痛くなる。

「じゃあ、どうする」


「今は、ここにいる司書を呼ぶ。鍵は三つ。この場で揃えられる二つを揃え、三つ目を待つ。呼び鈴は——」


 純が通路に目をやると、浮遊灯の一つが自ら明滅し、通路の先を指し示した。司書は近いのだろう。書庫は生き物のように協力的だ。

 扉の向こうの叩きは、弱くなった。

 晴は扉に掌を当てた。冷たい。だが、冷たさの奥に微かな熱がある。人の体温ではない。仕組みとしての熱。生きているというより、働いている熱。


「待ってろ」


 晴は小さく言い、扉から手を離した。

 純は頷き、浮遊灯とともに一歩だけ下がった。

「晴。ここで誓え。扉が開くとき、何を守るか。誰を先に立てるか」


「朱音。仲間。街」


「順番を間違えるな。順番があるから、守りが成立する」


「わかってる。俺は——」


 言葉を区切る前に、通路の向こうから足音が近づいた。

 柔らかい靴の音。

 吸い取るような気配。

 灯りが道をあけ、白髪の司書が現れた。受付に座っていた眠たげな目の女だ。彼女は眠そうなままの目で、扉と二人を見比べ、薄く笑みを作った。笑みは慰めではなく、確認の笑みだ。


「叩いたのは、内側。救護。よく聞き分けたね」


「扉を——」


「開けるとは言っていない。開ける準備をする。順番を守る。約束を確かめる。名前を返す。——そのために、ここで少しだけ“読む”。」


 司書は晴の肩に手を置いた。軽いが、逃げ道を塞ぐ手でもあった。

「灯火。読むのが嫌なら、ここで帰りなさい。嫌ではないなら、少しだけ、君の“守るべきもの”を、書庫に見せて」


 晴は一度だけ目を閉じ、開いた。

 逃げる理由はない。今、逃げたら、扉の向こうの叩きが骨に残る。

「読む。見せる。俺は、守る」


 司書は頷き、扉の左下の窪みに自らの指をそっと置いた。古い印が淡く光る。もう一つの窪みに、どこからともなく現れた別の手が乗る。狩谷だ。息を切らし、汗を拭いながら、無言で頷いた。

 三つの窪みすべてが、静かに灯る。

 扉が、低く鳴る。

 内側から、最後の叩きが返ってきた。

 それは、救護の符号ではなかった。

 新しい叩き方。

 短く、鋭く、明確な意思。

 ——名乗り。

 扉の向こうの誰かが、ゆっくりと、確かに、名を名乗っている。


 司書が目を細める。純が息を呑む。狩谷が肩で笑う。

 晴の印が、熱を超えて、痛みを越えて、光になった。


「聞こえるか、晴」


 純の声が遠くで響いた。

「君が選んだ道の先で、誰が待っているか。——目を逸らすな」


 晴は扉に顔を向けた。

 厚い金属の向こうから、古い血の震える音がする。

 叩きは一度止まり、今度は扉そのものが、内側から、静かに押された。


 ——誰かが、ここへ戻ってこようとしている。

 ——そして、扉は、開く準備を始めていた。

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