第3話 守るべきもの
病院の窓は磨き上げられていて、外の灰色の雲を均一に映していた。
榊朱音の容態は安定している。医師はそう言った。数値も落ち着き、熱もない。だが看護師が部屋を出ると、御影純はカルテのコピーを机に置き、低い声で続けた。
「安定はしている。ただし、体内に“欠片”が留まっている」
晴はベッド脇で背筋をこわばらせた。朱音は眠っている。呼吸は深く、額には汗ひとつない。昨夜から続く緊張が、ようやく緩んだところだった。
「さっき、聖域の層を検めた」
純は指先で空を撫でる。薄い光の罫線が朱音の胸の上に一瞬だけ現れ、すぐ消えた。
「傷は閉じたが、残留魔の核が胸骨の近くに潜っている。大きさは小指の爪ほど。自力で出ていく気はない」
「取り除けないのか」
「外科では無理だ。物質というより“状態”だから。灯火で封じ、導き、押し出す。やり方はあるが、成功の鍵は君だ」
「俺がやる」
言葉に迷いはなかった。
純は小さく頷くと、ポケットからカードを取り出し、病室の角のコンセントに触れさせた。壁の内側で何かが開く気配がし、空気が静電気を帯びる。
「協会の地下礼拝堂に運ぶ。あそこなら儀式の重みを支えられる。ここは守りがあるが、薄い。長い作業には向かない」
狩谷がすでに廊下に台車を用意していた。無骨な金属のストレッチャーに、細い銀糸が目立たないように編み込まれている。点滴ポールには小さな鈴。音は鳴らないが、鈴の輪は淡く光っていた。
「寝たままで悪いな。姫さん、ちょいと借りる」
朱音は薄く目を開けた。眠気と現実が混ざる瞬間の、曖昧な光。
「……晴……?」
「俺がついてる。少し、場所を移すだけだ」
「じゃあ、お願い。私、晴の声があると落ち着く」
小さく笑って、また目を閉じる。晴はその手を握った。温度が確かだった。
◇
協会の地下礼拝堂は、無駄がなく、静かだった。
コンクリートの床に白い円が二重に描かれ、内側の帯に古い文字列が刻んである。壁は石積みで、ところどころに銅板のプレート。天井からは裸電球ではなく、白い光を球状に固めた灯りが下がっていた。電源は見当たらない。だが明るさは一定だ。
「科学で作った照明に、魔術の芯を通してある。揺れないだろ」
純が言う。
「ここは封印の時代にも崩れなかった“交差点”だ。縦糸と横糸がもっとも強く結ばれている。ここなら、欠片と向き合える」
朱音は円の中央にゆっくりと寝かされた。狩谷が四隅に短い柱を立て、細い鎖を張る。鎖は中心に向かってわずかに撓み、朱音の体を囲むように緩いドームを形作った。鎖の輪一つ一つが、耳を澄ませばわかるほどの微音で震えている。
「共鳴を抑える柵だ。外からの干渉を減らす。お前の炎は通す」
晴は礼拝堂の入口でコートを脱ぎ、袖をまくった。右手の灯火の印が、薄い鼓動に合わせて明滅する。
純が一歩近づき、目だけで問う。準備はいいか、と。
晴はうなずいた。
「やり方を言う。灯火は刃ではない。手術のメスでもない。触れるための手だ。胸骨の裏に穴を開けるな、道を開け」
純は床に指を触れさせ、円の外側に細い線を延ばした。線は晴の足元まで伸び、印の光とつながる。
「合図は私が出す。狩谷は周辺の継ぎ目を押さえる。晴、お前は“導く”に徹しろ。追い出すな、帰る道を示せ」
「帰る道?」
「欠片も元は魔術の断片だ。捨てられたものは、捨てた手を探す。扉を見せれば、そちらへ行く」
「わかった」
純は朱音の額に手をかざし、短く言葉を紡いだ。言語とも音階ともつかない、しかし意味が骨に伝わる響き。鎖が一斉にわずかに沈み、礼拝堂の灯りがほんの少し暗くなる。世界が集中する。
「今だ」
晴は膝をつき、朱音の胸元に手を差し入れた。触れたのは肌ではなく、薄い光の膜。膜は冷たい湖の水面のようにたゆたっている。指先から白い炎がにじみ、膜に吸い込まれていく。
光は朱音の胸の中へ入った。
晴の視界が、切り替わる。
暗闇。
そこに細い小径。
小径の両側に、形になりきらない影が並ぶ。影は人の残した落書きのようで、看板の消えかけた文字のようでもあった。
奥の方で、何かが丸く光る。
欠片。
黒い点を中心にした透明な球。小さな心臓みたいに、微かな脈打ちを繰り返している。
晴は右手を前に出した。白い炎はここでは眩しくはない。むしろ淡い灯りとして、道を照らす。
球の傍に近づくほど、空気は冷え、音が消えていった。
球の表面に、朱音の幼い頃の笑顔が一瞬映る。次に、昨日の病室、廊下、大学の屋上。ばらばらの記憶の切れ端が、球の表面で連続性を装って踊った。
晴が手を伸ばした、そのとき——
視界が別の色に染まる。
砂場。
小学校の帰り道。
夕映えの代わりに街灯のオレンジが落ちる時間。
泣いている朱音。膝に小さな擦り傷。
晴はランドセルを下ろし、ポケットの絆創膏を取り出している。
朱音は鼻をすすり、涙で光る目でこっちを見る。
「ずっと守ってね」
幼い声。
あまりにも軽く言われた約束。
晴は、子どもがするみたいに簡単に、しかし真面目にうなずいた。
「うん。ずっと」
その言葉が、小さな儀式のように胸に落ちた。
場面が、ふっと溶ける。
礼拝堂の空気が戻るのと同時に、球の脈が早くなった。
欠片が、晴に気づいた。
黒点がにわかに広がり、球の内側から針の束が伸びた。針は触れれば砕ける氷のように脆いが、数が多い。晴は掌を開いて白い幕を広げ、針を受け止める。
破片が音を立てずに散り、霧になる。霧はすぐにまた集まり、球の表面に貼り付こうとする。
晴は追い払わない。道を作る。
胸の奥、遠くに、礼拝堂の扉の気配がある。
そこへ続く薄い光の道を、晴は炎で描いた。
球の黒点が、そちらを見た。引かれている。
だが、動かない。
朱音の記憶が、球に絡みついている。
子どもの笑い声、運動会の歓声、美術室の木炭の匂い、夜のコンビニ、映画館の暗闇。
欠片は“餌場”を気に入っている。ここに留まる理由が、甘い。
「帰るんだ」
晴は言葉にした。言葉は白い息の形になって球に触れ、ゆっくりと染み込む。
欠片は迷い、震え、針を一本だけ歪めて、道の方へ向けた。
その瞬間、礼拝堂の鎖が一斉に鳴った。
外から圧がかかる。
純の声が遠くで響く。「押すな。保つ」
狩谷の声。「縫い目、右下、保持」
晴は呼吸を整え、もう一度道を示した。
球が、動く。
黒点が細く伸び、道に触れる。
白い炎と混ざり、形が少しずつ変わる。
硬い氷が、柔らかい水に移るみたいに。
球は欠片のまま、しかし別の状態になる。
朱音の胸の奥から、ほんの少し“冷たい気配”が離れていく。
ここで強く引けば、剥がれる。
だが、剥がれた傷は深い。
晴は力を抑え、見送るように手を差し出した。
道の向こうで扉が開く。
白い光がそこに在る。
欠片がためらい、ひとつ震え、そして——
出た。
◇
礼拝堂の空気が一気に軽くなる。
朱音の胸が小さく上下し、まつ毛が震える。
鎖の微音が静まる。
狩谷が即座に小瓶を差し入れ、空中に現れた透明な欠片をすくい取った。瓶の底には黒点がひとつ、点として残っている。
純が手早く封を施し、柱の根元に瓶を挿した。白い石が瓶の周囲で輪になり、封じの術が固まる。
「成功だ。朱音さんの体内からは反応が消えた」
晴は安堵と同時に、右腕に鋭い痛みを感じた。
見ると、前腕の内側に、くっきりとした灼け跡が走っている。
網目のような痕。
儀式の線と重なったところが、そのまま焼き付いた。
「無茶はしていない。けれど、灯火は“通す”ときに触れる。触れた分だけ、代償が刻まれる」
純が静かに言った。
「軽度の熱傷だ。だが模様が完全に消えることはない。おそらく今後も、使うたびに“記録”は増える」
晴は腕を下げ、拳を握って開いた。
痛みははっきりしている。だが、耐えられない類のものではない。
朱音の指が、ベッドの上でわずかに動く。
晴はそちらを向いた。
「……晴?」
目が開く。焦点が合う。
朱音は周囲を見渡し、礼拝堂の天井の灯りに驚き、そして晴の顔を見て笑った。
「ここ、どこ?」
「秘密基地。安全な、場所」
「ふふ。そういうの、好き」
朱音は胸に手を当てた。
「重いのが、なくなった感じ」
「欠片は出した。もう大丈夫だ」
「ありがと。……右腕、どうしたの」
「ちょっと擦っただけ」
嘘は下手だ。朱音はすぐに気づく。
じっと見て、ため息代わりの笑みを浮かべた。
「代わりに痛いの、私じゃなくてよかった」
その一言で、痛みの意味が変わる。
晴は笑って首を振った。
「代償で済むなら、安い」
狩谷が「言うじゃないか」と肩をすくめ、純は目を伏せてから、少しだけ表情を引き締めた。
「忘れるな。代償は支払いだ。支払い続ける覚悟がいる。今日の痛みは、今日の選択の証明に過ぎない」
「わかってる。選んだのは俺だ」
純はうなずき、床の線を撫でて礼拝堂の力を落とした。灯りが柔らかくなる。
「朱音さんはこのまま三十分休ませる。脈と呼吸は安定だ。晴、お前は冷却と軟膏。狩谷」
「氷と薬、持ってくる。ついでに甘いもの」
「プリン」と朱音。
「やっぱり」と晴。
「それと、灯火用の包帯。模様を無理に隠す必要はないが、今は刺激を避けろ」と純。
狩谷が扉の向こうへ消える。礼拝堂には三人。
静けさが戻り、どこか遠くの配管が低く鳴った。
「晴」
朱音が小さな声で呼ぶ。
「さっき、夢を見た。砂場で、転んで、泣いて、晴に絆創膏貼ってもらって……ばかみたいに“ずっと守ってね”って言ってた」
「覚えてるよ」
「覚えてるんだ」
「忘れてない」
朱音は目を細め、ふっと息を漏らした。
「私、守られてばっかりじゃ嫌なんだよ。本当はね。だから、私も守る。晴のこと」
「脅すなよ。俺、弱いから」
「知ってる。弱いところ、昔から見てる。でも、弱いって、優しいの反対じゃない。晴は、怖くて、でも前に出る。そういうの、私、好き」
言葉が、真っ直ぐ入ってくる。
礼拝堂の空気が温かく感じられた。
晴は視線を落とし、焼け跡にそっと触れた。
ここに、今日の選択が残る。
これからも増える。
それでいい。
◇
狩谷が戻ってきたのは十分後。
手には氷嚢と薬と、コンビニのプリン。スプーンは二本。
朱音が嬉しそうにうなずき、晴は冷却剤を腕に当てる。ひやりとした感触が火照りの膜を剥がす。
純は短い書類を二枚取り出した。ひとつは朱音に、もうひとつは晴に。
「朱音さんへの説明書。体調の変化、夢見、耳鳴り、胸の圧迫感がある場合の連絡先。協会の直接回線。診療の名目で通るようになっている。変な営業は来ない」
「なんか、頼もしいなあ。地下にこんなちゃんとした窓口があるの、ずるい」
「ずるいが、目立たないのが取り柄だ。もう一枚は晴、お前の稼働記録。今日は儀式一回、対価軽度、印の反応良好」
「成績表か」
「日誌だ。自分の足跡を忘れないために書く。灯火は、“忘れたふり”を嫌う」
朱音はプリンを一口食べ、スプーンを掲げて言った。
「私も日誌つける。患者側の日誌。目に見えないこと、ちゃんと残す」
「心強い協力者だ」と狩谷。
「協力者で終わらないよ。友達で、クラスメイトで、幼馴染で、時々監視役」と朱音。
「監視?」と晴。
「サボらないように見張る。あと、無茶しないか。代償は安いって顔してるときに、止める役」
純がわずかに笑った。
「それは私たちも同意だ。晴、お前はたぶん、すぐ“異端”と呼ばれる側に立つ。筋を通すために、枠の外で火を使う。灯火はそういう気質と相性が良すぎる」
「異端、ね」
「誉め言葉ではない。だが、非難だけでもない。異端が道を拓くこともある。問題は、その先に何を置くかだ。守るべきものを見失うな」
守るべきもの。
晴は朱音の手を見る。
指が細く、爪は短い。絵を描くから、いつも色の跡が残る。
その手が、今は何も持っていない。
だからこそ、守りたいと思った。
「——俺は、見失わない」
はっきりと言った。
朱音が笑い、狩谷が肩を叩き、純が短くうなずく。
◇
儀式の片付けが済む頃、礼拝堂の灯りが少しずつ通常の明るさへ戻った。
朱音をストレッチャーで上階の簡易病室へ運び、休ませる。
晴はその扉の前で一礼し、礼拝堂へ戻る途中、石壁に掛かった古い写真に目を留めた。
白黒の写真。
若い男女が五人、同じように円の中央に誰かを寝かせ、儀式をしている。
その中に、小さなプレート。
“灯火の継承者、記録あり。代替わり四回、所在不明二件、帰還一件。”
「帰還一件?」
背後から純の声がした。
「昔話だ。封印の直前、灯火の一人は街を出た。十年後、ここに戻り、礼拝堂を“交差点”として再定義した。今の整備の基はその人の仕事だ」
「名前は」
「ここにはない。残すことを望まなかった。灯りは灯ることだけが役目じゃない。暗がりを知らない灯りは、すぐ風に消える」
純は写真の埃を指で払った。
「だからこそ、お前には見張りが必要だ。狩谷、私、そして榊朱音。異端は一人で立てば折れる。三本の足で立て」
「わかった」
晴は焼け跡の上に包帯を巻き直した。布の上からでも印の鼓動が伝わる。
腕は重い。だが、軽い。
「帰ろう」
純が言う。
「朱音さんはここで休む。夜にもう一度診る。お前は家へ戻って、家族に顔を見せろ。普段どおりの夕食を食べる。日常は守りの一部だ」
「はい先生」と狩谷。
「先生ではない」と純。
「先生っぽい」と朱音の声が扉の向こうから聞こえ、三人は笑った。
◇
協会を出ると、灰街は夕暮れの色を惜しむように、ビルの端を薄紫に染めていた。
信号は正常に動き、スクリーン広告は音を絞り、街路樹の葉は湿りを含んで重たげに揺れている。
晴は空を見上げた。
雲は低いが、割れている。
隙間から白い星がひとつ、早くに顔を出していた。
ポケットでスマホが震えた。
朱音からのメッセージ。「プリン、おいしかった。代償の腕、ちゃんと冷やして。帰り道、気をつけて」
短い文が、体温を持っていた。
晴は「了解」と打ち、スタンプを一つ送る。
画面を消し、深く息を吸った。
痛みは残る。
選んだ重みも残る。
けれど、足は前に出る。
御影純が横に並び、歩幅を合わせてくる。
「今日の選択で、お前は“灯火の使い手”になった。道具ではなく、使い手だ。——そして、おそらく近いうちに、“異端の灯火使い”と呼ばれる」
「呼びたきゃ呼べばいい。俺は、守るために使う」
「ならば、筋は通せ。枠の中に敵がいることもある。枠ごと焼けば簡単だが、その煙は遠くまで届く」
「焼かないよ。必要なところだけ、焦がす」
純はそれで十分だとでも言うように、短くうなずいた。
灰街の街路灯が一斉に点いた。
昨夜、爆ぜて消えたはずの灯りは、何事もなかったかのように路面を照らす。
だが晴には、その光の芯がわかる。
科学の縦糸に通された、細い魔術の横糸。
それが都市を、ぎりぎりのバランスで立たせている。
車道の向こうで、子どもが母親の手を引いて歩いていく。
母親は疲れているが、子どもは元気だ。
信号が青になり、二人は小走りで渡る。
その何気ない光景が、晴の胸にやけに強く刺さった。
守るべきもの。
名前は一つではない。
肩に載せるのも一つではない。
だが——
晴は、右腕の痛みを抱えたまま、歩き出した。
灯火は消えない。
消さない。
その選択が今日、礼拝堂で“刻まれた”のだと、焼け跡が確かに教えてくれる。
灰街の夜が来る。
光は点り、影は伸びる。
その境目に立つ覚悟は、もうできていた。
守るために。
昨日の約束を、今日も続けるために。
——ずっと守ってね、と言われたあの日から、途切れずに。




