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灰街(はいがい)に咲く白き灯火  作者: 妙原奇天


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第2話 魔術師の末裔

 御影純と名乗った青年は、灰街駅前の立体横断の影に立っていた。昨夜の混乱を忘れたかのように、街は人と車の流れを取り戻している。だが信号機は一基だけ点滅を止め、スクリーン広告の一枚が周期的に雪のようなノイズを吐いた。人はそれを故障と呼ぶ。御影純は、それを呼び名だけで否定した。


「故障じゃない。死骸だよ。魔術の」


 硬質な声だった。聞き取りやすいのに、心の内側に沈んでくる。晴は無意識に右手を庇った。手の甲の灯火の印は、今は袖の内に隠れている。意識を向けると、皮膚の下で脈が静かに応える。


「俺は高倉晴。昨日は助けたわけじゃない。ただ、たまたま」


「灯火は“たまたま”では灯らない」


 御影純は灰街魔術師協会の身分証を示した。金属のカードに、見慣れない幾何学の刻印。光の角度で色が変わる虹層。晴が目を凝らすと、刻印の線が一瞬だけ動いた。心臓が早く打つ。


「……協会なんて、本当にあるのか」


「ある。表の地図には載っていないだけだ。灰街が科学都市と呼ばれる前から、別の図面がこの街の下に敷かれている。魔術が禁止されたとき、私たちは“白昼”から退いた。だが消えたわけじゃない」


 純は視線で合図し、歩き始めた。晴はついていく。昼の雑踏の中、二人の会話は奇妙に浮かなかった。周囲の喧騒が彼らを避けて流れていくような、そんな感覚だけが足裏に残った。


「数十年前に、封印が行われた。魔術は危険で、非合理で、人を曖昧にするものだと決めつけられた。議会は科学を掲げ、街の骨格を作り直した。配電網、通信、信号、監視網。合理の衣の下に、封じの結界が縫い込まれている。魔術は死に、科学に置換された。そう見せかけて」


「置換……?」


「混ざった、と言い換えてもいい。君が昨夜見たのは“残留魔”だ。封印で削ぎ落とされた魔術の思念。役目を失った残渣が、配線や電波に引っかかって都市に沈殿している。死骸のようで、死にきってはいない」


 スクリーン広告が再びパラパラと白い点を踊らせた。顔のないモデルが微笑み、次の瞬間には笑みが切れていた。映像の境目に微かに黒い影が挟まる。晴は息を呑む。


「見えるのか。印が目を開かせたんだね」


「……見えてしまう。けど、だからって協会に入るとか、そういうのは」


「今すぐ結論は要らない。君は保護対象だ。昨夜の灯火は封印の縫い目を引き攣らせた。残留魔は君を探す」


 晴は立ち止まった。人の流れが肩をかすめて通り過ぎていく。


「俺は、朱音を守りたい。それだけだ。巻き込むつもりはない」


「守りたいなら、選ぶんだ。逃げることも選択だが、逃げる方向の先に彼女がいるなら、それは守ることにはならない」


「脅してるのか」


「説明している」


 純は揶揄するでもなく、肩をすくめるでもなく、ただ事実を並べる手つきで言葉を置いていく。その平静が、かえって腹の奥を熱くした。晴は自分の声が強くなるのを抑えられない。


「昨日、俺が何を見たか、あんたにはわからないだろ」


「わからないさ。私は君ではない。けれど協会に来れば、君が見たことに名前を与えられる。名前が付いたものは、扱えるようになる」


 名前。音だ。手触りだ。輪郭だ。そうだ、と晴のどこかが頷きかけて、晴は慌ててその感覚を押し込めた。


「……朱音のところへ行く。それからだ」


「病院か。道はわかる。ついていく」


「勝手だな。協会の人間は皆そうなのか」


「皆ではない。私はそうだ」


 病院へ向かう間中、御影純は余計なことを言わなかった。晴が黙れば、黙って歩いた。横目に見える街は、晴の知る街であって、同時に知らない街だった。架線の影にひっかかる黒いしみ。電柱の根元に集まり、乾いた砂に溶けるように消える薄墨。物の表面に残る、指先の静電気のようなざらつき。昨夜の白い炎が、見えなかった層へ無遠慮に穴を開けてしまったのだとしたら、今の視界は穴の縁に立って下を覗き込む行為に似ている。


 朱音は一般病棟の四人部屋で、カーテンに囲まれていた。ベッドの上の顔色はまだ少し青い。けれど目は強い。晴が顔を出すと、からかうような笑みを浮かべた。


「お見舞いにプリンは? ないの?」


「プリンの前に、謝るのが先だろ」


「謝る? 何に」


「巻き込んだ。昨日の」


「巻き込まれたのは私は街だと思ってるけど。晴はむしろ、助けた側」


 朱音は軽く眉を上げ、晴の袖を指さした。


「それに、そこ。隠し事は苦手って顔に書いてある」


「……見えるのか」


「ううん。でも、隠しているときの晴の顔は昔からわかる」


 晴は観念して袖をまくった。灯火の印が光を薄く返す。病室の白色灯でも、確かにそこに“何か”が在ることがわかった。朱音の目が丸くなる。驚きのあとに、納得の色が落ちた。


「やっぱり。昨日、燃えたとき、私、見たもん」


「怖くなかったのか」


「怖かったよ。けどね、怖いとすごいは隣同士だと思う。晴が手を伸ばしてくれて、私、助かった。ありがと」


 言葉が胸に刺さって、晴は視線を逸らした。御影純は一歩下がって、場を壊さない距離を保っていたが、会釈で名乗った。


「御影純。灰街魔術師協会の者です。榊さん、昨夜の傷は……」


「だいぶ良くなった。消毒しに来る看護師さんが優しい」


「よかった」


 純は室内のスイッチや壁の角、テレビのスピーカー穴を無遠慮に見回した。職業病のように、触れずに点検する目だ。晴は小声で制した。


「やめろ。病院で変な目をするな」


「ここは安全だ。聖域の認定がある。協会の印が入っている」


「いつの間に」


「昔からだよ。封印のときに、病院、学校、図書館、それから神社仏閣には、保護の層が重ねられた。生き延びるための最後の網だ」


 朱音の視線が晴から純へと移る。彼女は真剣に尋ねた。


「協会って、晴を連れていくつもりですか」


「保護する。選ぶのは彼だ」


 朱音はしばらく晴の顔を見、ふっと肩の力を抜いた。


「選びなよ、晴。私のためにも」


「俺のために、じゃないのか」


「それも込み。私、晴に守られっぱなしは嫌なんだ。守るって、ただ前に立つだけじゃないでしょ。選んで、進むこと」


 病室の空気が変わった。洗剤の匂いの奥で、薄い鉄の匂いが遠くへ下がる。晴の胸の奥で、昨夜と同じ場所が熱くなる。言葉を探していると、廊下の向こうで小さな悲鳴が上がった。


 純がすでに動いていた。カーテンが揺れる前に、彼は廊下へ出て、目で危険をなぞる。晴も続く。看護師が落としたトレイの上で、金属製の器具が転がった。床の点検口の隙間から黒い煙が糸のように立ち上り、薄膜になって空に拡がる。その膜は蛍光灯の光に反射して、灰色の虹を作った。虹はきれいだった。だから余計に、気味が悪い。


「ここ、聖域じゃないのか」


「聖域でも漏れはある。封印の縫い目は街じゅうにある。灯火に引かれる」


 純はポケットから細い一枚の板を取り出した。透明な板に回路の影が走っている。板の一端に触れると、薄い光の罫線が空中に立ち上がり、符の形へと組み替わった。魔術というより、回路図の投影に近い。光の枠が虹色に揺れ、看護師の頭上で薄膜に重なった。膜は軋み、やがて破れ、黒い霧が床へ落ちる。霧が踊る前に、純は靴先で床を軽く打った。床材の中に縫い込まれていた白い糸目が光に反応し、霧を吸い込む。小さなため息が病棟の空気から抜けた。


「……今の、何だ」


「魔術と回路の接続。結界は織物だ。科学は縦糸、魔術は横糸。縦糸だけでも布はできるが、手触りは固い。横糸だけでは形を保てない。混ぜて、街は立っている」


 看護師が礼を言い、何事もなかったかのように仕事へ戻っていく。彼女らはこの異常を見ていないのか、それとも見えてもそういうものだと流しているのか。晴にはわからなかった。ただ、純の一挙一動が、昨夜の異能と同じ“別の現実”に触れていることだけはわかった。


「協会へ来るか?」


 廊下の端で純が振り向く。晴は朱音に視線で問うた。彼女はうなずく。


「行って。戻ってこい」


「すぐ戻る」


「うそでもいいから、ちゃんと生きて戻るって言いなさい」


「生きて戻る」


 晴は言葉にして、少しだけ笑えた。純が先に立つ。病院を出ると、午後の光は薄く、雲はきれいに扁平だった。街はあいかわらず灰色。けれど灰色の諧調は昨日より多く、まるで色見本帳みたいに並んで見える。


 協会は、地図のどこにも記されていない扉の向こうにあった。古い書店の裏、配電盤のフェンスの影、交換機の点検ダクトの先。純は何度か曲がり角を選び、何度か戻り、晴に「一度見た動線は覚えろ」とだけ言った。やがて鉄の扉にたどり着く。警備のプレートには電話会社のロゴ。純がカードを当てると、ロゴは砂のように崩れて、古い紋章が露出した。


「ようこそ、灰街魔術師協会。正式名は長い。外では言わない」


 扉の内側は冷たく、乾いていた。廊下はコンクリートの素地で、蛍光灯は黄ばみ、奥の壁には年代物の配管が走る。けれど空気は澄んでいる。湿った路地のにおいはここで途切れ、紙と金属と古い土の匂いに置き換わる。


 受付のカウンターに、白髪の女性が座っていた。瞼の重い、眠たげな目。だが視線が晴を一度なぞると、その眠気は霧のように消えた。


「灯火。久しい響きだね」


「仮登録を頼む」と純。


「名前は」


「高倉晴」


「晴。良い名だ。下へ」


 カウンターの裏から、古いエレベーターが開いた。錆びた網の扉を手で閉め、レバーを押し下げる。エレベーターはきいと音を立てて落ちるように下り、止まった。扉の先は小さなホールだった。石壁に埋め込まれた本棚。書物の背が不規則に並ぶ。真ん中の円卓には黒い端末と紙の帳簿が同居していた。壁の一部がガラスになっており、その向こうでは若い男女が透明な板に図形を書いている。図形は回路でもあり、紋でもあった。


「ここが協会の表の顔。裏はもっと暗い。後で見せる」


 純は円卓に灯を入れた。卓面の表層が淡く明るみ、正確な方位と時間が浮かび上がる。晴の手の印が応え、卓面の一部が小さく脈打った。


「反応良好。血統が合っている」


「血統?」


「君の家系に、灯火の系譜がある。協会の記録からは途切れているが、印が答えている」


 晴は首を振った。


「うちの家族は普通だ。父さんは普通の会社員で、母さんはパート。親戚に占い師が一人いるけど、半分は趣味みたいなもんだ」


「普通の皮膚の下に、普通じゃない血が眠ることは珍しくない。封印の前、魔術師は血を隠して暮らすことも多かった。記録は断たれ、伝承は家庭の迷信に落ちる。灯火は代々、見つからずに消えていった」


 純は言葉を切り、晴に向き直った。


「君は久しぶりに“見つかった”。君が灯した」


「俺が封印を歪めたって、外で言ってた」


「事実としてはそうだ。責めるためじゃない。歪みはいつか起きた。君はきっかけに過ぎない。だが、きっかけは責任を伴う。持ち物の説明書を読む責任と、一度握ったものを投げ出さない責任」


「軽くはないな」


「軽いと困る」


 短い沈黙のあと、ホールの反対側の扉が開いた。黒いスーツの大柄な男が現れる。肩幅が広く、顔は熊に似て厳ついのに、手には湯気の立つマグカップ。彼は晴を見て、口角を上げた。


「印の匂いがすると思ったら、坊やか。俺は狩谷。純の先輩。半分は保安、半分は雑用」


「半分でいいのか」と晴。


「半分が二つで一つ。魔術師の算数だ。コーヒー、砂糖は?」


「ブラックで」


「渋い。純、お前の担当か」


「仮。様子を見る」


「様子を見る間に食われるなよ。残留魔は控えめに見えて食欲旺盛だ。昨夜の件で街の腹が鳴ってる」


 狩谷はマグを置き、壁のガラスを指差した。透明板に見慣れないグラフが揺れる。前日より今日の方が、黒い波形が盛り上がっている。地点名がいくつか光る。市役所、中央市場、学生会館。


「人の集まる場所ばかり」と晴。


「人の思いが多い場所。残留魔は思念に寄る。市役所は手続きの不満が積もる。市場は売る買うの欲と焦り。学生会館は、まあ、若さの蒸気だ」


「学生会館……」


 晴の喉が詰まった。彼のキャンパスの、あの白い建物が脳裏に浮かぶ。純は晴の顔を見て察した。


「行くか」


「行く」


 狩谷がコートを晴に投げた。内側に縫い込まれた銀色の糸が光る。


「それ、借り物。着てろ。護符が編んである。見栄えは悪いが効く」


 階段を上がり、白髪の受付に会釈をして外へ出る。街の音はさっきよりも重かった。夕方のラッシュ前の時間帯。雲は低いが、雨にはならない湿度。晴はコートの襟を立て、歩幅を純に合わせた。


 学生会館はキャンパスの中心にある。ガラス張りのロビーに、サークルのポスターが整然と貼られていた。音楽、映画、ボランティア、ゲーム制作。どれも明るい色で、どれも少し褪せている。晴と純が入ると、館内の空調の風向きが変わったように感じた。人の声が遠のく。足音だけが床に吸い込まれる。


「見える?」と純。


 晴は答えずに天井を見上げた。空調の吹き出し口の周りに、黒い汚れが花のように広がっている。目を凝らすと、その花は呼吸していた。触手の細い影が伸び、ポスターの角に触れ、紙の端が黒ずむ。受付の側で、学生が咳をした。もう一人が眉間を押さえる。晴の右手の印が、袖の下で熱を持った。


「来る」


「下がって吸わないように。灯火は出すものだ。吸えば肺が焼ける」


 純は透明の板を取り出し、光の罫線を走らせる。晴は一歩前に出た。白い炎は命じられもせず、印からにじみ出る。昨夜のような暴発ではない。炎は薄い布のように手の周りにまとわり、揺れる。晴が掌を上に向けると、布が弧を描く。天井の黒い花に向けて、そっと押し上げる。


 白い布が黒に触れた。布は破れず、黒が縮んだ。火は燃やすだけではない。形を変え、温度を選び、必要なものを焦がさずに不要なものだけを焼く。そんなふうに、白い光は動いた。ポスターは焼けない。天井材も焦げない。黒い花だけが、霧のように退いた。


 だが、退いた霧は床に落ちる前に集まった。集まることを選び、形を得る。人の形でも、獣の形でもない。骨格のない塊。けれど顔だけは器用に模す。受付の学生の顔、ロビーの少女の顔、晴自身の顔。未完成の顔が複数重なり、歪な笑いを作る。


「やめろ」


 晴は一歩進み、炎を濃くした。白が強くなると、黒は薄くなる。単純な押し合いではない。押し戻せば、別の縫い目から黒が滲む。純が言った通り、残留魔は思念に寄る。ここにいる若者の焦り、羨望、鬱屈。黒はそこから芽を出す。晴は焦りを飲み込み、掌を開いた。炎の布を広げる。包む。押し潰すのではなく、抱く。焦らずに、熱だけを上げる。


 黒の塊の表面が波立ち、形が崩れた。中から鋭い針の束が飛び出し、晴の肩をかすめる。護符の糸が弾き、火花が散った。狩谷がいつの間にか入口に立っていて、指鉄砲の姿勢で空を撃つ真似をした。音はしないのに、黒の頭上で光が弾ける。欺瞞のきらめき。黒は気を取られ、少し崩れた。純の板がロビーの床に幾何学を走らせる。床のタイルの目地が白く光り、円と線が重なって、網が張られた。晴はそこで布を絞る。白い熱が網に沿って流れ、黒の核だけが浮かび上がる。


 核は小さかった。ビー玉ほど。晴はそれを掌の真ん中に引き寄せ、閉じる。熱は痛みを越えて、最後に冷たくなった。掌を開くと、透明な欠片が一つ残っていた。光を当てると、欠片の中心に小さな黒点がある。星のような、黒子のような。純がそれをピンセットでつまみ、ガラスの小瓶に入れた。


「回収。これは解析へ。君の制御は上出来だ」


「上出来でも、肩は痛い」


「痛いのは生きている証拠」


 狩谷が笑い、ロビーの学生に向けて何でもない顔で手を振った。彼らは何も見ていないようにノートを拾い、友人を呼び、ロビーの音はすぐに戻る。晴はそれを奇妙に感じつつも、救われる思いもした。日常は強い。強いからこそ、残留魔はその影に潜む。


「協会に戻る。報告と登録。選択の話も、今なら頭に入りやすい」


 戻りの道すがら、純が歩きながら説明した。協会の構造、役割、規律。魔術を使える者の階梯。灯火の系譜に固有の術理。白い炎は古い時代に“慈火”とも呼ばれ、破壊の火ではなく浄火として恐れられ、同時に求められたこと。封印の過程で、その火は最も早く禁じられたこと。理由は簡単、効きすぎるからだ、という純の皮肉に晴は笑えなかった。


「効きすぎる、ね。さっきみたいに、何もかも燃やしそうになる」


「燃やすべきでないものが何かを、君は自分で決めねばならない。協会は枠を渡すが、責任は渡さない」


「枠だけ?」


「枠だけで充分だ。枠は器で、器があると熱に手が届く」


 協会に戻ると、白髪の受付が帳簿をめくる音がした。狩谷が欠片の瓶を渡し、純が端末から報告を送る。晴は円卓の前に座り、コートを脱いだ。肩の護符に焦げが走っていた。狩谷はそれを見て、手早く針で糸を繕う。


「取り返しのつかない焦げじゃない。大丈夫だ」


「なんだそれ」


「魔術師の裁縫」


 白髪の受付が晴に紙を差し出した。誓約書だった。長い文の中に、いくつかの太い言葉がある。秘匿、責務、境界、監視、救護。晴は一度全部読んで、目を閉じた。朱音の顔が浮かぶ。病室の白いカーテン、手の温度、目の強さ。生きて戻れと言った声。


「俺は……」


 言いかけて、唇が乾く。純が黙って水を差し出した。晴は一口飲む。冷たさが喉から胸へ下りる。心はまだ熱いのに、言葉は冷たくなっていく。冷やさないと、選べない。


「俺は、協会の保護を受ける。ただし、俺が守りたいものを守るために使う。筋が違うことを命じられても従わない」


 白髪の受付が頷いた。


「それが正しい。誓約書にその文言はないが、心に書いておけばいい。紙より強い契約がある」


 純が薄く笑い、狩谷が親指を立てる。晴はペンを取った。名を書き、今日の日付を書き、最後の欄に灯火の印を軽くかざす。紙の表面に白い筋が一瞬走り、消える。受付はそれを見逃さない目で見届け、紙を奥へ運んでいく。


「これで君は協会の保護下だ。住まいの周囲に簡易の守りを張る。家族には軽い説明を用意する。嘘のようで嘘ではない説明だ。実際、街は危険で、私たちは安全のために動く」


「朱音の病室も」


「すでに印をつけた。君の灯火も重ねれば強くなる」


 晴は息を吐いた。胸の中で、昨夜から積もっていた重たい砂が少し崩れる。代わりに別の重みが置かれた。形のある重さ。持ち上げ方を学べば、運べる重さ。


 そのとき、地下の空気が微かに震えた。狩谷が顔を上げ、純が端末を見る。壁のガラスに波形が立ち上がる。市役所、中央市場、学生会館に続いて、病院の名が点灯した。


「早いな」


 純の声に、晴は椅子を蹴って立ち上がっていた。


「病院に戻る。朱音が」


「行け。狩谷、車」


「もう回してる」


 走る。階段を上がり、鉄扉を押し開け、灰街の湿った空気に飛び込む。夕方の光は薄く、街の輪郭が灰の濃淡で硬く見える。狩谷の四角い車が角から現れ、ドアが自動で開く。純が助手席に乗り、晴は後部座席に滑り込む。エンジン音は静かで、速度は速い。街の信号は協会の回線で幾つか優先に切り替わる。科学と魔術の混ざった街は、必要に応じて道を空ける術を持っている。


「病院の聖域が揺れてる。灯火、準備を」


 純の声に、晴は右手を見た。印は強く光り、痛みはない。吸うでも吐くでもない、ただ在る光。晴はそれを掌に集めて、静かに握った。


「御影さん」


「何だ」


「さっき言えなかった。ありがとう。来てくれて」


 純は少しだけ振り向き、すぐに前を向いた。


「礼は後で。仕事が先だ。守りたいものを守るために、今、力を使え。選ぶのは君だ」


「選ぶ」


 晴は短く答えた。選択は、いつもどこかで始まっている。昨日灯った火は消えない。消さない。車は病院の前に滑り込み、ブレーキの音が短く鳴った。晴はドアを蹴るように開け、薄い夕闇の中へ飛び出す。コートの護符が風を切り、灯火の印が掌に白く咲く。


 非日常の入口は、もう遠くではなかった。足元に、扉は口を開けている。晴はそこへ踏み込んだ。朱音が待つ場所へ。灰街の灯りが点り始め、その一つ一つが白い火の粒のように見えた。

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