第12話 新たなる灯火
夜が明けた。
空の端が薄くほどけ、黒でも灰でもない、洗い立ての白が高層ビルの輪郭にからむ。街路樹の葉は夜露を落とし、道路の端に溜まった砂は薄い筋を描いて、排水口へ向かっている。信号は規則正しく色を変え、横断歩道の上を最初の自転車が音もなく滑っていく。工事車両の警告灯がくぐもったリズムで回り、どこかのパン屋の排気口から甘い匂いが漂ってきた。
灰街は、再生の光に包まれていた。
病室のカーテンを透かして、朝日が白い線になって床まで延びている。朱音は瞼の重さを確かめるように、ゆっくりと目を開けた。視界が水に濡れたガラスみたいにゆらいでから、すっと澄んでいく。天井は見慣れた四角の並び。点滴のスタンド。窓際の丸い椅子。枕元には、包装紙が皺になったままの飴玉が三つ。司書が昨夜、置いていったものだ。
痛みはない。寒さもない。胸の奥の灯りは、静かに灯っている。透明の残響は、もう怖くなかった。息を吸うと肺が膨らみ、吐くと胸の中の輪が小さく音を立てる。祈りの縁は病院にも伸びていて、窓際の空気がほんのり温かい。
ノックの音。朱音が「どうぞ」と言うより早く、ドアが少しだけ開いて——杖の先が床を軽く叩いた。
「おはよう」
窓辺が明るくなる。逆光の中に、晴が立っていた。杖をつきながら歩く姿は、昨日の夜の透明とは似ても似つかないくらい人間らしい。顔色は悪くない。右目のあたりには相変わらず冷たい影があるけれど、その影はもう、彼のものだ。借り物の空洞ではない。
「おはよう。灰街は、もう大丈夫だよ」
晴が言う。彼の声に、金属的なひびはない。朱音は小さく笑って、枕を抱きしめるようにして体を起こした。
「その杖、似合ってる」
「似合ってない方が健康的だと思うけど」
「そうだけど。かっこつけてるわけじゃないなら、似合ってる」
「かっこつけじゃない。ただのリハビリ道具。先生が“演出に使うな”って釘を刺してきた」
ふたりで笑った。笑いは病室の白い壁に柔らかくぶつかり、音を立てずに落ちた。晴は窓辺の椅子に腰を下ろし、杖を膝に立てかける。朱音は彼の顔をじっと見た。目の下の薄い隈、指の節の小さな擦り傷、髪に残る埃っぽさ。どれも、やっと戻ってきた生活の証拠のように愛おしい。
「痛いところは?」
「ない。ちょっと、体の“中身”が場所を思い出してる最中って感じ。歩く速度を間違えると、右目が迷子になる」
「迷子になったら?」
「君のところに戻る」
「今だけは、許す」
「今だけ、なのか」
「当たり前。これからしばらくは、私の怒る時間がある」
「重罪だね」
「重罪」
晴は素直にうなずいた。「言い訳は、しない」
「なら、朝ごはんにあんパン二個買ってきてくれたら、少し刑が軽くなる」
「病人に甘いものを食べさせる共犯になってほしいの?」
「病人の幸せを確保するのが、共犯の役目」
「共犯者、やります」
晴が立ち上がろうとした瞬間、無遠慮な足音が廊下から近づき、ドアが勢いよく開いた。
「おう。元気そうだな」
狩谷が片手でカーテンを押さえ、もう片方の手でコンビニ袋をぶら下げている。袋の中身は丸わかりだった。あんパン二個、牛乳、オレンジジュース、そして地味に高いプリン。後ろから司書が眠たげな目で顔をのぞかせ、「病院食が出るまでの“つなぎ”ね」と言いながら、紙コップを配った。
「監督者に先回りされました」と晴。
「こういう役回りは、慣れてるの」と司書。「それより、御影。連絡。協会の臨時評議、九時から。君の資料が必要」
晴と朱音が目を見合わせ、すぐに司書へ視線を戻す。「純は?」
「朝から動いてる。礼拝堂の縁を街の施設に分配する手順、テスト中。学区の避難訓練と連動させる案も出てる。封印の外縁の解析チームは立ち上げ済み。名称は仮で“外縁観測”。揺籃の紐は——」
「切る」
晴が答えを先取った。司書はうなずき、眠たげな目をほんの少しだけ見開く。
「切るだけじゃ足りない。“選ばせるふり”の仕組みごと、記録とともに公開する。装置を捨てるのではなく、使い方を街に返す。君たちの物語のように」
「御影、忙しいけど、朝ごはんは食べなさい」と狩谷がプリンを差し出した。「これ、刑の軽減にも使える」
「使わせてもらいます」
小さな軽口のやり取りが続く間にも、窓の外の街は確かに動いていた。鳶職の若者がビルの壁を点検し、街路樹の根元でボランティアの高校生が清掃を始める。信号の点検車が交差点に入り、保育園の先生が園児たちに手を振る。どこかで拍手が起き、どこかで笑い声が響く。それは誰に向けたものでもない街の拍手で、街自身が街に「おはよう」と言っているみたいだった。
晴はプリンを半分ほど食べ、残りを朱音の前に差し出した。「共犯だし」
「じゃあ、半分いただく」
スプーンがプラスチックの容器に当たって、小さく鳴る。その音が妙に現実的で、朱音は自然に笑みをこぼした。昨夜の透明の光も、爆光の記憶も、確かに現実だった。だけど、こういう音も現実だ。パンの袋が擦れる音。牛乳のストローを刺す音。カーテンのリングがレールを滑る音。そういう音が、灰街を街にもどしていく。
「俺、行ってくる」と晴。「純に資料を渡して、評議の様子を見て、それから大学へ顔を出す。昼には戻るよ」
「戻ってきなさい。怒る時間が、昼から夜に移動するだけだから」
「はい」
杖を確かめて立ち上がる晴を、朱音は視線で追った。彼の歩き方は、まだ少しぎこちない。けれど、踏む足音は街のリズムに合っている。ドアの前で晴は振り返り、片手で軽く額に触れた。
「ただいまって、ちゃんと言うから」
「言いなさい。毎回」
「毎回、言う」
ドアが閉まる音。廊下の足音に混ざって、狩谷の鎖が軽く鳴った。司書は丸椅子に腰を下ろし、朱音の脈をとる。指先が温かい。「大丈夫」と短く言う。その一言だけで、朱音の胸の輪はすとんと落ち着いた。
評議は九時から。灰街の朝は、もう日常を始めている。
◇
協会本館の臨時評議室は、いつもの重苦しさがいくらか薄らいでいた。中央の円卓に書類が広がり、壁際のスクリーンには結界の分布図が映っている。御影純は前列に資料を置き、簡潔に説明した。礼拝堂の祈りを街の施設へ分配する新式。鎖を結び直しに専用化する運用。学生ボランティアとの連携。避難訓練の新ルール。「正解を与える」のではなく「選択の結果を可視化する」方針。
「“選ばせるふり”を二度とやらないために、手順を公開する。手順が公開されれば、手順を巡る議論が始まる。議論の場を、こちらから用意する」
誰かが手を挙げた。「揺籃計画の件は?」
「公表する。名前を濁さない。関与者の免責は、街が決める。協会は記録を渡し、場を整える」
反発はあった。沈黙もあった。だが、昨日までと違うのは、一人ひとりが自分の言葉で反対したり賛成したりできていることだった。形だけの合唱はない。小さな合図が多い。合意の前に、合図が必要だ。純はその合図を拾い、ひとつずつ確かめ、必要な修正を短い文に落とした。
評議の後、ロビーに出ると、晴が壁にもたれて待っていた。学生のバックパックを肩から下げ、杖は邪魔にならないよう短く縮められている。目が合うと、晴は軽く手を上げた。
「大学、顔出す前に報告。外縁観測のチーム、今日の午後に初会合。俺は参加しない。学生の授業を優先する。純、君が行ってくれ」
「当然だ。ここは私の仕事だ」
「あと、大学の掲示板に、昨日の夜のことの“説明のしかた”を書いた紙が貼ってあった。“災害時の情報整理”って名目で。誰がやったのかわからないけど、悪くない。二次被害の防止にもなる」
「街が自分で動いている。いい兆候だ」
「……それと」
晴が少し言い淀む。純は瞬時に察した。「朱音さんのことなら、すぐに行ってこい。病室で待っている人を待たせるな」
「ありがとう。——大学には顔を出す」
「出ろ。普通の生活は、“やめない”ことが大事だ」
晴はうなずき、エレベーターに乗った。ボタンの上に、誰かの落書きのような丸いシールが貼ってある。小さな白い輪。昨夜、街に無数に浮かんでいた帰還の輪を模したものだろう。子どもじみているのに、妙に頼もしい。これを見て踏み出せる足が、きっと街のどこかにある。
◇
大学のキャンパスは、朝の半分のざわめきを取り戻していた。芝生の上にブルーシートが敷かれ、ボランティアの受付が仮設で開いている。講義棟の壁には、ガムテープで貼った案内。「本日の○○学は三限へ」「レポート締切延長」「協会連携ボランティアは学生課で受付」。食堂からはカレーの匂い。隅の方では軽音サークルが音量を絞って練習している。音を出すことに罪悪感が残る空気のなかで、それでも、音楽は流れる。
晴が学内に足を踏み入れると、最初に声をかけてきたのはゼミの後輩だった。「先輩、生きてたんですね」と、悪びれない笑顔。次に隣のクラスの友人が肩を叩いた。「ニュース見たよ。よくわかんないけど、なんかすげえ」。さらに、教授が階段の上から眼鏡を押し上げ、「レポートは延長するが、延長を言い訳にするな」といつも通りの声で言う。
普通が戻ってくる。戻ってくるからこそ、晴は足を止められない。講義のメモを取る。図書館で資料の貸出期限を確認する。食堂でカレーを半分だけ食べ、残りを後輩に渡す。笑い、頷き、時々、深く息を吸う。この街で生きていくという手順を、ひとつずつ体に戻していく。
昼前、晴は病院に戻った。廊下は慌ただしさがやわらぎ、看護師の足音が規則的に往復している。病室のドアを開けると、朱音はベッドの上でノートを広げていた。表紙には大きく「怒る時間」とペンで書かれている。
「戻りました」
「ただいまを言いなさい」
「ただいま」
「よろしい」
朱音はペンを置いて、少し真面目な顔をした。「私、自分の家のこと、調べ直す。榊の線のこと。捨て子だったって話も、正面から受け止める。逃げない。でも、一人ではやらない」
「一緒にやる」
「御影も巻き込む」
「もちろん」
「司書さんにも、甘える」
「賛成」
怒る時間は、話し合いの時間でもあった。朱音は偉そうに腕を組み、晴は素直にうなずく。晴が突き飛ばしたこと。突き飛ばした理由。あの瞬間にできた傷と、それでも残った信頼。全部、言葉にした。言葉にするたびに、病室の空気が少しずつ透明になっていく。
午後、御影純は協会の作業着に着替え、礼拝堂の縁を街の公共施設へ配る作業を指揮した。図書館、公園、駅前広場、学校の昇降口、町内の集会所。どこも、小さな輪が目に見えないまま組み込まれていく。輪は誰でも踏める。踏んだからといって何かが起きるわけではない。ただ、足の裏で「戻る」という感覚が、ほんの一瞬だけ体に巡る。それだけで、人は勝手に強くなる。
夜。朱音は退院の許可が出て、病院の玄関で晴と並んだ。風は少し冷たく、星は薄く見えた。街路灯の光が、ふたりの影を歩道に重ねる。
「お腹、すいた」
「同じことを、今、考えてた」
「じゃあ、あんパンと、コロッケパン」
「コロッケパンは俺が担当」
「私はあんパン。——ねえ、晴」
「うん」
「普通の学生としての生活に、戻れる?」
「戻る。戻らないと、戻りたい誰かの輪が減るから」
「灯火は?」
「消さない。奥で揺らす。——必要な場所でだけ、使う」
「それが、私の“怒る時間”の条件」
「遵守」
笑い合いながら、ふたりは商店街へ歩いた。閉店間際のパン屋のガラス越しに、トングでパンを掴む店主の動きが見える。大学帰りの学生、スーツの会社員、買い物袋を提げた親子。誰もが疲れていて、誰もが普通で、誰もが今日の夜を終わらせる準備をしている。
協会の前では、御影純が古い掲示板に新しい紙を貼っていた。「祈りの縁の使いかた」。難しい言葉は少なく、絵が多い。丸い輪、矢印、笑顔の顔。通りかかった子どもが立ち止まり、指で輪をなぞる。指の先に、わずかな温かさ。子どもは不思議そうに首を傾げ、母親の手を引いた。純はそれを見て、無言でうなずいた。
その夜、街の至るところで、小さな出来事が重なった。
駅前のベンチで、老人が落とした財布を若いカップルが拾い、当たり前のように手渡した。
コンビニの前で、制服姿の少年が見知らぬ子の靴紐を結んだ。
マンションの非常階段に座っていた女の子が、スマホをしまって空を見上げた。
パン屋の店主が売れ残りのパンに小さな紙を貼って「ご自由にどうぞ」と出した。
そして、礼拝堂では司書が眠たげな目を閉じ、杖の先で床の輪を一度だけ叩いた。輪は静かに鳴り、街全体へ広がっていく。
晴はその輪の音を、胸の奥で聞いた。透明の炎は、奥で静かに揺れている。熱はない。焦りもない。必要ならば、また呼べる。呼んだ時に誰かの体温を奪わないように、使い方を変えた。変えられた。ひとりで変えたのではない。朱音と、純と、司書と、街の人たちと変えた。だから、迷わない。
「ただいま」
夜の交差点で、晴は小さな声で言った。隣の朱音が「おかえり」と返す。返事は風に溶けて、街灯の光にやさしく照らされた。まるで、街そのものが二人の会話に相づちを打ってくれたみたいだった。
◇
翌朝。通学路の角。電柱に貼られた回覧の下に、誰が貼ったのかわからない白いシールが一枚。丸い輪。通りかかった小学四年生くらいの女の子が、その輪にそっと指を置いた。指先が、ほんの少しあたたかい。女の子は驚いて、顔を上げて左右を見た。母親の姿は少し先。急いでいる。信号が変わる直前。
女の子は足を一歩、輪の上に重ねた。胸の中で短い音が鳴る。帰る音。彼女は意味がわからないまま、それでもにっと笑って、走り出した。足音が軽い。背中のランドセルがぱたぱた揺れる。角の先の横断歩道で、信号が青になった。
灰街のどこかで、新たな灯火が、またひとつ点いた。
<おわり>




