第1話 灰街の灯火
──都会の夜は、まるで呼吸を忘れたように静かだった。
高倉晴は、キャンパスの裏門を出て、歩道に積もる灰色の埃を靴で払いながらため息をつく。
六月の終わり。
梅雨が明けきらない灰街は、いつも曇っている。高層ビルの谷間に溜まる排気と、空を覆う灰雲が、夕焼けの代わりに街を薄茶色に染める。
「提出期限、明日なんだっけ?」
隣を歩く榊朱音が、スマホを操作しながら問う。髪は肩までの長さで、耳のピアスが信号の明かりを反射してきらりと光る。
「うん。明日十七時まで」
「教授、また徹夜コース確定だね」
「まあ、今夜もカフェ難民だな」
二人は笑った。
高校からの付き合いで、気を使わずにいられる相手。朱音はデザイン科、晴は情報工学科。同じ大学、違う学部。会えば愚痴と冗談ばかり。
──だが、この夜が、そんな他愛のない会話の終わりになるとは、誰も知らなかった。
駅前のロータリーに着くころ、空気が変わった。
湿った風の流れが止まり、世界が息を潜める。
朱音がふと空を見上げ、眉を寄せた。
「……ねえ、空、変じゃない?」
「え?」
雲がねじれていた。
夜空に浮かぶ灰色の層が、螺旋を描くように回転している。まるで巨大な渦が空を吸い込んでいるようだった。
次の瞬間。
街路灯が一斉に爆ぜた。
ガラスが弾ける音が連鎖し、光の柱が次々と消える。暗闇が降り、静寂のあとに“音”が満ちた。
低い唸り声のような、金属が擦れるような音。
それは風でも機械でもない。
人々の足元から、黒い靄が噴き出していた。
「な、なにこれ……っ」
朱音が後ずさる。
靄は形を持たないはずなのに、確かに“生きて”いた。
人影を包み込み、触れた瞬間に皮膚を黒く焼く。叫びが上がる。逃げ惑う人々が交差点に殺到し、車のブレーキ音が連鎖的に響いた。
「朱音、こっち!」
晴は腕を掴み、脇道へ走る。
黒い靄は追ってきた。壁に張り付き、まるで意思を持つ生き物のように、蠢きながら進む。
逃げる途中、朱音の足が滑った。
膝をつき、転んだ拍子にスマホが地面に転がる。
「だいじょ──」
言いかけた瞬間、靄の触手のようなものが朱音の背を打った。
黒い線が皮膚を裂く。
血が滲み、朱音が悲鳴をあげて倒れ込む。
「朱音!」
晴は無我夢中で手を伸ばした。
そのとき、彼の掌に“光”が走った。
白い閃光が弾け、指先から火が生まれる。
炎は赤ではなく、淡く透き通る白。
それが靄を包み込み、燃やした。
空気が震える。
燃焼音でも爆発音でもない。
まるで、何か古い詩の一節を響かせるような“声”が、炎の奥から流れ出る。
──刻まれた血脈が、再び目を覚ます。
視界の端に、古びた円環の紋様が浮かんでいた。
晴の右手の甲に、光の印が刻まれている。
「な……に、これ……?」
彼は呟く。
白い炎はゆっくりと靄を焼き尽くし、やがて消えた。
残ったのは、焦げたアスファルトと、朱音の震える肩だけだった。
夜が戻った。
街は再び静まり返り、ただ遠くでサイレンの音が近づいてくる。
朱音の傷は浅かった。
だが、晴の右手に残る印は消えない。
炎の痕のように光を帯び、鼓動と同じリズムで淡く明滅している。
何度擦っても消えない。
皮膚の下に、何かが“在る”。
「……病院、行こう」
「うん……でも、晴。さっきの……火、見たよね」
「……見間違いだよ。きっと」
そう言いながらも、晴は自分でも信じていなかった。
朱音の目に映ったのは、確かに自分が放った光。
説明のつかない“現象”だった。
その夜、ニュースは一切報じなかった。
停電の原因も、異常な風も、どこにも記録されていない。
まるで“なかったこと”にされている。
翌朝。
大学のキャンパスは普段どおりに始まった。
人々はスマホを見て、授業に遅刻し、コンビニのコーヒーを片手に談笑している。
晴だけが、別の世界に取り残されたような感覚に包まれていた。
右手をポケットに押し込み、印を隠す。
あの光が何だったのか、誰にも話せない。
講義室の隅でノートを開いても、文字が頭に入ってこない。
ふと窓の外を見ると、灰色の空の向こうに黒い影が横切った。
鳥のようで、鳥ではない。
薄膜のような翼を持つ、異形の影。
──まだ、終わっていない。
夜。
大学の帰り道、晴は昨日と同じ道を歩いていた。
街は復旧している。割れたガラスも、燃えた痕跡もない。
まるで、最初から“事件”など存在しなかったように。
ふと、背後から声がした。
「高倉晴くん、だね?」
振り向くと、街灯の下に見知らぬ青年が立っていた。
二十代半ばほど。長いコートを羽織り、銀色の髪を後ろで束ねている。
日本人離れした雰囲気。どこか異国の夜を背負っているようだった。
「誰だ、あんた……」
「僕は黎。君と同じ、“印を持つ者”だ」
青年の左手に、晴と同じ紋様が浮かぶ。
淡く金色に輝く円環の印。
「昨日の夜、君は“残留魔”を焼いたね」
「……何の話だよ」
「隠さなくていい。君の掌が証拠だ」
黎の声は落ち着いていたが、その奥に“確信”があった。
晴は無意識に手を隠す。
だが、印が熱を帯びる。反応するように、白い光が零れた。
「やめろ……!」
「制御しないと、君自身が焼かれる」
黎が距離を詰め、手を取る。
その瞬間、景色が歪んだ。
夜の街が一瞬で灰色の砂に変わる。
人影も建物も溶けて消え、残ったのは広い廃墟のような空間だった。
「ここは……どこだ……?」
「灰街の“裏側”だよ。僕たち魔術師の血を継ぐ者が見る世界――“反映領域”」
黎の背後で、砂の海が波打った。
そこから黒い靄が浮かび上がる。昨日の“あれ”だ。
今度は数十倍の量。まるで街全体を呑み込むような黒の奔流。
「残留魔。人間の負の思念の集合体。灰街は、長年それを蓄積してきた。
昨日の君の覚醒が、封印を壊したんだ」
「俺が……壊した……?」
「だから、君にしか止められない」
黎は懐から短杖を取り出した。
先端が光を放ち、空中に幾何学模様を描く。
「見てろ」
杖先が振るわれた瞬間、空気が弾けた。
光の矢が飛び、靄を貫く。
爆発ではなく、光の雨。
その一撃で数体の影が霧散する。
「これが、魔術の力。君の中にも、同じ血が流れている」
晴は震える手で右掌を見た。
印が、再び光り出す。
胸の奥で何かが反応する。呼び起こされるように、白い炎が再び溢れた。
「……俺にも、できるのか」
「君次第だ」
晴は前に出る。
靄が迫る。
目を閉じ、朱音の声を思い出す。
――「一緒に帰ろう」。
次の瞬間、白い炎が爆ぜた。
光の波が広がり、黒い影を一掃する。
その輝きは黎の放った魔術よりも純粋で、真っ直ぐだった。
空間が震え、灰の雨が舞う。
黎が目を細め、口元に微笑を浮かべる。
「……やっぱり、君か。灯火の継承者」
光が収まると、再び現実の街に戻っていた。
晴は膝をつき、荒い息を吐く。
黎が手を差し伸べる。
「ようこそ、“灯火の継承者”。君の戦いは、今始まったばかりだ」
街の明かりが再び点き、夜風が頬を撫でた。
灰街の空には、誰も知らない小さな光が瞬いていた。
翌日。
朱音は病院のベッドで目を覚ます。
枕元には花と、晴のメモ。
――また、歩こう。
――今度は、光の下で。
彼女が微笑む頃、灰街のどこかで新たな黒い靄が生まれていた。
そして、その中心に立つひとつの影が、晴の名を静かに呟いた。
「……“灯火”、か。面白いね」
灰色の空に、再び不穏な風が吹き始める。
物語は、まだ始まったばかりだ。




