第一話 押しかけ嫁? ベルセリール様
朝の陽が、アルベルムの海辺の都市をやわらかく照らしていた。
古びたレンガ造りの屋敷の窓から差し込む光は、そこに住む少年――クレセルイ・クアトルムの銀の髪をゆっくり照らし出す。
彼はまだ十四歳の少年だったが、その姿にはどこか年齢以上の静けさが宿っていた。銀色の髪は首元まで軽やかに流れ、整った輪郭と青い瞳がどこか夢見がちな輝きを湛えている。その瞳は、今は静かに研究書を見つめていた。
机の上には、数冊の研究書と、昨日の夜中まで作業していた魔石加工の道具がそのまま広がっている。魔力の封入に失敗した結晶が転がり、乾いた音を立てた。
「ふう……」
クレセルイはひとつ息をつき、背もたれに体を預けた。
今日、この屋敷に“客”が来る。
いや、“婚約者”と呼ぶべき存在だった。
ベルセリール・アルドラシル・クシュル・クーデリア。クーデリア王国の第四王女――。
政略結婚。形式上はそれにすぎない。だが、彼女は本当に来るらしい。王族として、国益のために、このアルベルムの街で、問題児扱いされている僕と同居することを選ばされた少女。
突然と、父が僕に手紙を送ってきた。内容はお前の妻となる者が決まったからその者とこれからは共に生活するようになどと描かれていた。
そして、相手はなんとあのクーデリア王国の第四王女様らしい! 何やら問題ばかり引き起こす? らしく、嫁に出すとなったらしい。
「すみませーん!クレセルイ・クアトル様いらっしゃいますかー?」
ここには使用人一人といない、今や問題児としてあるクレセルイは使用人すらつけてもらえなかったのである。そのため、凄く静かであるために、その美しい声にクレセルイは気がつく事が出来た。
玄関に向かうと、そこには白のサマードレスに黒リボンをあしらったワンピースをひらひらと揺らす、ピンク色の長い髪と狐耳の少女が、にこにこと笑って立っていた。
彼女の瞳は宝石のように澄んだ青で、くるくると楽しげに輝いていた。その小柄な体躯からは想像できないような活気と自信がにじみ出ていた。
「おはよう、クーちゃん! お邪魔するね!」
「……え?」
思わず固まった。
「え、えっと……ベルセリール、様……?」
「様なんていらないよ。クーちゃんって呼んでいい?」
「は……はあ……初対面でちゃん?」
狐耳がぴょこぴょこと動く彼女は、まるで王族という肩書きなど忘れてしまったかのように無邪気だった。
――それは、初めて誰かと過ごすこの家の朝だった。
「……この荷物、どこに置こうか?」
ベルセリールが持ち込んだのは、見た目以上にずっしりとした大きな鞄だった。
中には、衣服や洗面道具、調味料らしき小瓶、そして何より――
「包丁と、鍋と、調理道具と、それからお米と塩! あとね、スパイスもいると思って」
「それ全部、持ってきたの? いや、どうして包丁が……」
「ふふっ、だって私、料理するの大好きなんだ。クーちゃんが朝ごはん作るの面倒だったらと思って!」
にこにこと笑うベルセリールの言葉に、クレセルイは苦笑を浮かべた。
「……そういえば、君、王女だったよね? 本当に王女? 偽物なんじゃないの?」
「失礼な! 私は王女だよ! いまぁ……王女の身分剥奪されてるからアレだけどぉー」
「ふふ、そうなんだ。でも姫様が料理ってどうなの?」
「姫様が料理しちゃいけない決まりなんてないでしょ?」
「普通はしないと思うけど……そう言う意味でもなくてさ……」
「ふっふっふ、そう私は普通じゃない! だから追い出されたんだよ?」
「えーと……そっかぁ……」
その言葉は、冗談めかしていたが、どこかに微かな寂しさを感じさせた。
けれど、彼女はすぐに明るく笑う。
「でもね、ここに来られてよかったって、今は思ってる! アルベルム学園都市カッコいいし!」
――この子は、どうしてこんなにも真っ直ぐなんだろう。
クレセルイは少し目をそらしながら、言葉を選んだ。
「……とりあえず、台所はこっち。そんなに広くはないけど、調味料くらいはあるよ。あまり使ってないけど」
「わあ、楽しみ! じゃあさっそく作ってもいい?」
「え、今?」
「今でしょ!」
狐耳がふわっと揺れて、彼女は台所に駆けていった。
クレセルイは呆れたように後を追いながら、ほんの少し――心の奥が、温かくなるのを感じていた。
長いこと、ひとりで過ごしていた家に、誰かの気配がある。
それがこんなにも、賑やかで、眩しくて、騒がしいものだなんて。
やがて、ふわりと香ばしい匂いが屋敷に広がった。
「お待たせ、クーちゃん! 焼きたてのパンと、たまごのキッシュ、それからお野菜のスープもあるよ」
「……すごい。これ、朝食のレベルじゃない」
「ちょっと張り切りすぎちゃったかも? でも、クーちゃんに食べてもらいたくて」
食卓に並べられた料理は、どれも美しく整えられ、香りも見た目も完璧だった。
クレセルイは一口、スープを口に運び――目を見開く。
「……おいしい。なんでこんな味、出せるの?」
「内緒だよ? 王族の料理番にこっそり教わったんだ~」
クレセルイはスプーンを止め、静かに言った。
「ありがとう、ベールちゃん」
「えへへ、どういたしまして。あ、クーちゃん、ちゃんと“ちゃん”付けで呼んでくれたね?」
「……うん。これから同居するんだし、呼び方くらいはね」
「ふふ、よろしくね、クーちゃん」
そうして二人の、静かで、少し不器用な共同生活が始まった。
始まりは、ひと皿の料理。
けれどそれは、確かに彼らの距離を――少しずつ、近づけていく。