そういうとこだぞ
「そういえば、なぜオフィーリアが出迎えない? オフィーリアはどうした?」
ウィリアムが宮廷で宰相たちと激論を交わし、心身ともに疲れ果ててシャーウッド公爵家に帰ったとき。
いつもなら出迎えるはずの妻がいない。
不思議に思い執事に尋ねようとしたら、その有能な執事スチュアートもいない。
いるのは気の利かない第二執事のドース。
「公爵閣下。奥さまはご不在です。ここ一週間ほど」
「――は?」
「奥様はこの公爵家の王都邸宅にはいません。若君たちを伴ってお出かけになられました」
ドースは顔色も変えず、淡々と返答する。
彼は木で鼻を括ったような返答しかしないから不愉快だ。
しかし、妻が一週間もまえから不在だとは。
ウィリアムはまったく気がつかなかった。
宮中の仕事が忙しいと、どうしてもプライベートはなおざりにならざるを得ない。とはいえ、彼が王宮で忙しく働いている間、公爵家を守るのは公爵夫人たるオフィーリアの役目である。主人のウィリアムに断りもなく出かけるとはいかがなものか。それも、息子を連れてなど……。
「オフィーリアめ……。いったいどこを遊び歩いているんだ」
釈然としない心持ちで、ウィリアムは着替えのための人員を手配するようドースに命じた。
これが筆頭執事のスチュアートならば、わざわざ命じなくともすべて手配済みだと思い返せば、やはりドースは『第二執事』でしかないのだなとウィリアムは納得する。
そういえば、邸内がそこはかとなく暗い。
掃除が行き届いていないのか埃っぽい。
女主人がいないと邸内が荒れるというが、やはり公爵夫人不在という事実が使用人たちにも伝わるものらしい。
この邸内にはシンシアもいるが、彼女が女主人代行として采配を揮うのはまだ無理だ。シンシアは聡明な娘ではあるが若すぎる。その娘の教育も公爵夫人オフィーリアに任せた仕事のはずなのに、それらを放棄して遊び歩いているとはけしからん。
「……おとうさま……」
そのシンシアが泣き腫らしたような赤い目でウィリアムを出迎えた。
「やはり、わたしがこのお屋敷に来たから、奥さまは出て行ってしまったのでしょうか」
「あぁ、可愛いシンシア。そんなに泣いてはいけない。その大きな瞳が零れ落ちてしまうよ」
ウィリアムはシンシアを慰めると、彼女に宛てがった客間へ連れていき寝かしつけた。
愛らしい娘シンシア。ウィリアムと同じ金髪の彼女はつい一週間まえにこの邸に連れてきたのだが……。
(ん? 一週間まえ?)
ウィリアムはやっと気がついた。シンシアを連れてきた時期と、妻が出かけた時期が同じだということに。
◇
ウィリアムとオフィーリアはよくある政略結婚だった。
彼女が十八歳のときシャーウッド公爵家に輿入れした。
オフィーリアは艶やかなブルネットの髪がうつくしく、楚々として可憐で儚げな美少女だった。
それが、いつのまにか主人のいない間に遊び歩くような性悪な女になってしまった。
とはいえ、彼女は公爵夫人としての義務を最低限果たしている。
嫡嗣を生むこと。
オフィーリアはウィリアムと同じ金髪の息子をふたりも生んでくれた。
長男に次男。その次には娘も生んだ。完璧だ。
端的に言ってしまえばそれさえ勤めてくれれば、あとはどうしようと勝手である。世間ではそんな貴族夫人はあたりまえにいる。
だがウィリアムはオフィーリアに公爵夫人としての社交と同時に、広大な領地経営も任せていた。
本来はウィリアムが監督すべきではあるが、彼には元老院議員としての公務がある。領地経営などいちいち付き合っている暇はないのだ。
幸いオフィーリアを代理に立てても問題なく、領地の代官からは収益が上がっている報告が来ている。年に一度、それらの報告をまとめて聞くのがウィリアムの常であったのだが。
たった一週間オフィーリアが不在にしている間に、代官から面倒な指示を仰ぐ手紙が来てウィリアムを悩ませる。
いつの間にか優秀な使用人はいなくなり、邸宅に残されているのはドースを始めとする使えない者ばかりになった。彼らはいちいちウィリアムに指示を仰ぐので面倒くさいことこのうえない。
(私は元老院議員なんだぞ? 国政に係わる身のうえにもう少しで議長の地位に手が届く今、些末なことに煩わされている暇などないというのに!)
今いる使用人ときたら、着る服の種類から晩餐のメニュー、冬装備の支度にまでウィリアムの指示を待つのだ! 待たないと動けないのだ!
あいかわらず邸内は暗いし埃っぽいし、掃除ひとつ満足にできない愚か者ばかり。
使えないにもほどがある!
(せめてスチュアートがいれば邸内のことは任せられたものを!)
その有能な筆頭執事ときたら、オフィーリアと息子たちに付き添っているのだと聞いて目を剝いた。いったいオフィーリアはどこにいるのだ。
ほとほと困り果てたウィリアムは、オフィーリアの行方を探させたのだが――。
仕事を命じたのが使えない第二執事のドースだったせいかオフィーリアの行方は杳として知れず、ウィリアムが妻の所在地を知ったのは居場所を探させてから一ヶ月以上も経過してからになってしまった。
◇
ウィリアムがなんとか議会の合間を見繕って出向いた先は、王都とシャーウッド公爵領との中間地点にある閑静で小さな街。そこのこじんまりとした邸宅にオフィーリアと息子たちが滞在していると知ったウィリアムはわざわざ出向いてやったのだが、玄関先でスチュアートに阻まれた。
(おまえはどうしてここで執事ヅラして私を押し留めているのだ⁈)
シャーウッド公爵家の筆頭執事であるはずのスチュアートは、公爵家の邸宅ではない場所でウィリアムを前に一歩も引かない構えで冷たく言い放った。
「奥さまはご不在です。本日はだれのご訪問予定も伺っておりませんので、お通しすることは叶いません」
「おまえの主人はだれだ⁈」
ウィリアムが怒鳴ってもスチュアートの冷静な顔は崩れない。
「こちらの都合もありますので、先触れを頂ければご用意をいたしましたものを」
かえって残念な子どもを見るような目で睨みつけられる始末。
「おまえなど、馘首にしてやる!」
「ありがとうございます」
(こいつ! 自分が優秀なことを鼻にかけおって! 気に入らん!)
スチュアートは長年シャーウッド公爵家に勤める優秀な執事だ。その自分の能力をよく知っていて、簡単に馘首にしたら困るのはウィリアムの方だと解っているのだ。
そんなこんなで玄関先で揉めること小一時間。
執事はあくまでも突然の来訪者を邸内に入れないように立ち塞がり、ウィリアムは遠いところをわざわざ来たというのに追い返されようとした矢先。
小さな馬車が門を通過し、玄関前で止まった。
若い黒髪の従者の手を借りて降りてきたのは、うつくしい訪問着を身に纏ったオフィーリアであった。
彼女は玄関先にいたウィリアムに気がつくと、目を丸くして驚いていた。
「あら……閣下。いらしていたのですか。なぜこちらに」
今日の天気は晴れですねと言い出しそうなほど呑気な妻の言葉にウィリアムはいきり立った。
「オフィーリア! おまえは公爵夫人としての自分の立場を分かっているのか⁈ 勝手に住まいを移すなんて何を考えているんだ‼」
詰め寄ろうとしたウィリアムを押し留めた言葉は、先ほど妻と一緒の馬車から降りた黒髪の従者だった。
「こちらで揉めるのは得策ではありません。ここは応接室へご案内しましょう」
公爵家ではこんな黒髪の若い従者など見た記憶が無い。
(この小さな邸宅付きの従者か……もしかしたらオフィーリアの愛人か?)
怪しんで睨んでも従者は意に介したようすもなく、オフィーリアに手を貸して邸宅内へ入ってしまった。
渋々とオフィーリアのあとに続いたウィリアムだったが、有能な執事は彼の進入を阻んだりはせず黙って低頭しただけだった。
◇
応接室に通されウィリアムは驚いた。なんて居心地の良い部屋だろう。
日当たりがよく光りに溢れた部屋の温度といい内装や調度品といい、以前のシャーウッド公爵家本邸宅のようではないか。
お茶を持って来たメイドは公爵家で働いていた古参のメイドでさらに驚いた。
(こちらには、むこうで働いていた有能な者ばかりではないか!)
なるほど、オフィーリアが引き抜いて連れてきたのかと合点がいった。
だからこそ本邸宅はあのように寂れる一方で、こちらの別邸が美しく整えられているのだ。
(シンシアを連れていった意趣返しか。子どもっぽい仕返しだぞオフィーリア)
たしかにシンシアは愛人の娘だ。
彼女を本邸宅に連れていったのはウィリアムの独断であり、公爵夫人であるオフィーリアには寝耳に水な出来事だっただろう。それの抗議行動として、彼女は公爵夫人の仕事をストライキしているのだ。
だが。
(おまえにだって、その若いツバメがいるではないか)
先ほどから黒髪の若い従者がオフィーリアの座る背後に護衛よろしく立っている。彼の表情はこちらに敵意を剥き出しだ。
ウィリアムの視線の先に気がついたオフィーリアが自分の背後を振り向いて驚きの声をあげた。
「あらやだ。あなた、なぜそんなところに立ってるの」
「僕は僕の好きな場所にいるだけなので、放置してください」
「……好きになさい」
オフィーリアはため息ひとつで従者の行動を容認した。
(ツバメの躾がなってないぞオフィーリア)
ウィリアムの見るところ、どうやらオフィーリアはこのこぢんまりとした邸宅で好き勝手していたのだ。若いツバメを囲って、ろくな躾もせずに。
敵意剥き出しでこちらを睨み続けるツバメだが、その存在を容認しようとウィリアムは考えた。この邸に居る分にはウィリアムに迷惑はかからない。
問題なのはオフィーリアが公爵夫人としての仕事を放棄し続けていることだ。
彼女には即急に本邸宅へ戻って貰わねばならない。
「こんな所に我がシャーウッド公爵家の別邸があるとは知らなんだな」
いつの間に買いあげて、いつから使っていたのか。
問い詰めて、オフィーリアの非を認めさせ、とっとと帰宅させるのだ。
ウィリアムはそう思ったのだが。
「この別邸はシャーウッド公爵家の物ではありませんわ。わたくしが母から生前贈与された個人資産ですもの。別邸というか……ここらあたり一帯がマクラーレンの母から相続したわたくしの個人資産ですわ」
オフィーリアの生家は躍進著しいマクラーレン侯爵家で、彼女の母は王家から降嫁した姫だった。
「それは……私が知らなくても当然か」
なんとなくばつが悪くて口ごもるウィリアム。
「そうですね……もっとも閣下はシャーウッド公爵家領地のことにもお耳が遠いようですけど」
オフィーリアは容赦なく言い放つ。
「そうだ。領地の代官から指示を仰ぐ手紙が何通も来ている。どうする気だ?」
「どうするもこうするも、わたくしは代理に過ぎません。閣下の領地のお話ですわ。閣下のご裁可が必要なのでしょう。お答えして差し上げればよろしいかと存じますわ」
「私には些末なことだ! 係わっている暇などない! 元老院議長の座が目の前にあるのだ!」
ウィリアムの言葉に、オフィーリアはため息をついて背後の従者に目配せをした。若い従者は部屋の壁際に立っていた有能執事に目配せをすると、彼は心得たように一礼して退室した。
「お話になりませんわね」
オフィーリアは優雅な所作で紅茶の香りを楽しむと、ティーカップに口をつけた。一連の所作は流れるようで気品に溢れ、流石は公爵夫人であると万人が認めるところである。
「おまえにはシンシアの教育も任せたはずだが」
「あぁ、そんな戯言も……聞いたような、聞かなかったような」
ソーサーにカップを戻した夫人が、うっすらとした笑顔を浮かべながら木で鼻をくくったような返事をする。
「わたくし、公爵夫人としての義務は果たしておりますが……その娘の教育なんて、公爵夫人としての義務の範疇外だと思います。御免被りますわ」
「……拒否すると?」
「当たりまえです。どこの世界に夫の愛人の教育を受け持つ妻がおりますの?」
シンシア・グレイ。ウィリアムの愛人である。
「宮殿をみろ! 王妃陛下は国王陛下の愛妾たちの面倒を見事にみていらっしゃるではないか!」
そうだ。この国の国王には愛妾が二名いる。そして彼女たちを監督しているのは王妃陛下である。
公爵夫人であるオフィーリアに同じことができない訳がない。
「閣下。国王陛下のご事情を引き合いに出すなど、不敬が過ぎましてよ。王家のご事情と閣下とでは、前提条件からして違うではありませんか」
「前提条件?」
オフィーリアは、出来の悪い生徒に教えねばならない教師のようにうんざりとした表情を一瞬浮かべた。
「国王陛下が愛妾を召し抱えたご事情は王妃陛下のご懐妊がなかったから。国王陛下は王妃さまを深く愛し尊重されていらっしゃいます。おふたりの絆が固く強く結ばれているのは臣下一同周知のこと。
そんなおふたりだからこそ、お世継ぎ問題のために仕方なく愛妾を召し抱えられました。そしてその愛妾たちは王妃陛下のご実家の家門の令嬢です。王妃陛下の承認のもと選定された令嬢ですわ。王妃さまの監督下に置かれるのは当然と言えましょう。
ひるがえって閣下のご事情は? シンシア嬢とやらは、閣下がご自分で見繕って懇ろになった娼婦でございましょう? そして我が公爵家にはわたくしの生んだ息子が二人もおります。いまさら跡目争いに参加させるために愛妾を囲うと仰るの? 本邸宅に連れ帰るというのはそういうことでしょう? 愚かとしか言えませんね。
つまり、わたくしがシンシア嬢とやらの面倒をみる義理は爪の先ほどもありません、ということです」
お分かりいただけまして? とオフィーリアは澄ました顔でいる。
(そういうとこだぞ)
ウィリアムはこんな彼女が嫌いだ。
いつも自分が正しいと信じて疑わない尊大な態度が大嫌いだ。
昔はこんな女じゃなかったのに。もっと楚々として可憐で儚げな美少女だった。彼女はいつのまにこんなにも傲慢になってしまったのだろう。
公爵夫人という立場が彼女を変えてしまったのか。
「あくまでも、本邸宅に戻るつもりもなく公爵夫人としての仕事もしないつもりか」
何を考えているのか分からない笑顔のまま、オフィーリアがウィリアムを見る。
「わたくしも貴族夫人としての心得はありましてよ? けれど許せないラインというものはありますわ。閣下はそのラインをいとも容易く踏み越えて踏み抜いて踏みつぶしておしまいになったの」
オフィーリアの笑顔は変わらない。けれどウィリアムは首筋に切れ味の鋭い刃物を突き付けられたような心地になった。
「……シンシアのことか」
ウィリアムが絞り出すような声で告げれば、オフィーリアの笑みは深くなった。まるで『よくできました』と言わんばかりに。
「わたくし、そもそも愛人など余所に住居を与えて囲うものだと思っておりましたわ。それが閣下ときたら、本邸宅に連れ帰ったりするから……」
オフィーリアの濁した言葉は、ウィリアムを愚かだと見下していた。
本邸宅に愛人を連れ帰ったりしなければ、自分も出奔したりしなかったのにと。
「エリカからの訴えがありましたの。『もう二度とあの人を父親だと思いたくもない。汚らわしい』と」
エリカ・シャーウッド。オフィーリアが生んだ第三子。オフィーリアと同じうつくしいブルネットの髪と、ウィリアムと同じ青い瞳を持つ公爵家唯一の公女である。
「けがらわしい、だと?」
まさか、実の娘にそのように評されているとは思ってもいなかったウィリアムは面食らった。
「えぇ。可愛い愛娘の訴え、納得がいきましたわ。そもそも閣下。あの子を息子たちと差別していましたよね? ただご自分の髪色を受け継がなかったというだけの理由で」
ウィリアムは息を呑んだ。
差別? そんなこと、していただろうか。
「わたくしたちの間に、もともと愛情などありませんでしたが信頼はあると思っておりました。けれど、人として尊敬できない振る舞いをする男に対して信頼なんて消え失せましたわ。
わたくし、閣下と同じ邸で生活するのは御免被りますわ。気持ち悪くて。この話、息子ふたりにもしましたのよ。そうしたらふたりとも憤慨してしまって……」
「ダミアンたちにも話したのか!」
「あたりまえです。自分の父親の所業、同性としてどう感じるのか問うてみましたわ。答えは同じ『キモチワルイ』でしたわね」
「っていうか、公爵閣下はもともとナルシストだからね。ナルシストのうえマザコンでロリコン。どこに出しても恥ずかしい、立派な変態だ」
公爵夫妻の会話に横から口を挟んだのは、オフィーリアの背後に立つ黒髪の青年だった。
「きさまっ! 従僕のくせに賢しげに! 下がれっ!」
ウィリアムはオフィーリアの背後に立つ青年を睨みつけ強く叱責した。
だが彼は不遜にも呆れ果てたような表情をしながら腕組みをし、逆にウィリアムを睨みつけた。とても主の前でする動作ではない。
「ウィリアム・シャーウッド公爵閣下。本当に、判りませんの?」
オフィーリアの表情がガラリと変わった。
先ほどまでは貴族夫人として優雅な笑み(アルカイックスマイルと言われる内心を見せないそれ)で取り繕っていたのに、今はどうだ。嫌悪感を露わにした蔑むような顔でウィリアムを睨む。
ウィリアムは妻の急な変化に戸惑った。
(『ほんとうに、わかりませんの?』とは、どういう意味だ?)
オフィーリアの顔と、彼女の背後にいる従者の顔を交互に見る。
ふたりともよく似通った外見――オフィーリアは艶やかなブルネット、従者は黒髪――でウィリアムを不機嫌そうに睨んでいる。
「そうか。その男がおまえの愛人か」
「――は?」
「ふたりともよく似ている。暗い髪色をして、おまえの生家の人間か?」
ウィリアムが睨むとふたりは絶句してなにも言えない。
これが彼女の弱点か。
この点を突き、この場を有利に運ばせる……なんとしても妻を王都へ帰宅させなければならない。
いつも元老院議会で舌戦を繰り広げているのだ。妻の行動ごとき舌先三寸で操作できないでどうする。
ウィリアムがさらにことばを紡ごうとした、そのとき。
「下種の勘繰りというか、人間とは自分が基準なのだとつくづく実感しますね」
そう言いながらノックもなく入室してきた若い男―――彼も長い黒髪を背後でひとつに結んでいた――が、まっすぐにオフィーリアのもとへ進むとぶ厚い茶封筒を彼女へ渡した。親し気で遠慮のない動作から、どうやら彼もオフィーリアの従者(愛人?)らしいと窺えた。彼はオフィーリアの背後に周り、先ほどウィリアムに暴言を吐いた青年の背中を軽く叩いている。
そして視線をウィリアムへ寄越しながら口を開いた。
「ほら母上。やっぱり判らないみたいですよ」
「え? ははうえ?」
オフィーリアは三人の子どもを生んだ。
男子ふたり、女子ひとり。
オフィーリアを『母上』と呼ぶのは長男のダミアンと次男のハーヴェイ……。
「いや、……だが、……あの子たちは、金髪だったじゃないか……私の子はふたりとも、金髪だった!」
長男も次男も、ウィリアム譲りのうつくしい金髪を持って生まれてきた。瞳の色はオフィーリアと同じこげ茶色だが……。
目の前に立つ従者ふたりの瞳の色は……オフィーリアと同じこげ茶色……。
髪は、どちらも漆黒。まるで染めたように、不自然なまでに漆黒……。
染めたように?
「『私の子はふたりとも』……ねぇ……。わたくしの生んだ子は、三人とも閣下のお子ですよ。……わたくしのブルネットを譲り受けたエリカは、ご自分の子とはお認めにならない、というわけですか……やれやれ。偏見にしてもヒドイわね」
オフィーリアはとうとう扇子を広げて顔の下半分を隠した。
「髪の色だけが目印だから、僕たちの顔なんて覚えてないんだよな。息子を妻のツバメだと勘違いするようなゲスい父親なんて、恥ずかしくて二度と肉親だなんて名乗って欲しくないね」
この辛辣な物言いは次男のハーヴェイ。たしか……確か年齢は……十八歳だったはずと、ウィリアムは震えながら考えた。
「それでも血縁上は父親だ。残念なことにな。だが我々は父親を他山の石とすることはできる」
こちらの髪の長い方は兄のダミアンか。
なぜあのうつくしい金髪をわざわざ漆黒に染めてしまったのかとウィリアムは愕然とする。ダミアンは二十歳になった、はずだ。
「あぁ……反面教師ってやつか。そーだね。兄さんの言うとおりだ」
オフィーリアの愛人だと思った従者は、ウィリアムの息子たちだった。
ここ何年も会っていない。
仕事にかまけて息子たちとの交流をおざなりにしていたが、そういえばダミアンは髪が長かった……ような気がする。ウィリアムは彼の息子たちの顔すらよく覚えていなかった。
オフィーリアの先ほどの問いかけ『ほんとうに、わかりませんの?』とは、このことだったのだ。
『ほんとうに(ご自分のお子の顔すら)わかりませんの?』
「先ほど弟が言ったとおり、公爵閣下はナルシストだからご自分の金髪を受け継いだ我々のことはそれなりに目をかけてくださった。……まぁ、顔まで覚えておられなかった程度ですがね。
けれどエリカのことは一切顧みられなかった。その存在から無視されていた。ブルネットに生まれたというそれだけで。あの子は父親譲りのとてもうつくしい青い瞳を持っていますがね」
ダミアンが冷たい瞳で父親を見ながら言う。
「兄さん。『父親譲り』なんて言い方したらエリカが怒るよ」
ハーヴェイは父親の顔など見ないで言う。
「あぁ、すまない……そしてマザコンなのは……まぁ、男はある程度仕方ないとは思うが。おばあさまも若かりし頃はうつくしい金髪だったとか。白髪になってしまった今では会いに来ることすらしないと、おばあさまもお嘆きですよ。
あぁ、意外そうな顔をなさってますが、我々は領地へ頻繁に赴いていますからね。領地の本邸宅にいるおばあさまとの交流もあります。
閣下が帰らないあいだに妹が母とおばあさまとの仲を取り持ちましたよ。おばあさまはもうブルネットに対する偏見は解消されています。
……そんなに意外ですか? 嫁姑の仲をどうしようもできなかった方には。孫娘の魅力のお陰かと思いますが、閣下は何年も、それこそここ十五年ほど帰っていらっしゃいませんよね」
事、ここに至ってようやくウィリアムは気がついた。
妻も息子たちも。
だれもがウィリアムを『閣下』とか『公爵閣下』とか、肩書で呼んでいる。
とても、他人行儀に。
結婚したばかりのオフィーリアに名前で呼ぶことを許したはずなのに。
幼いころの息子たちは『おとうさま』とか『ちちうえ』とか、呼んでいたはずなのに。
ダミアンの冷たい声は続く。
「そして、エリカが訴えたのは自分が父親から無視されているという事実だけではないのですよ閣下。いいえ、それだけならばなにも言わなかったとあの子は言ってましたよ。
たとえ、目の前にいてもいない者として扱われようとそんなことは我慢できたと。
金髪の愛人……あなたが連れてきたシンシア嬢、でしたか? あの娼婦が自らエリカに言ったそうです。『おとうさまの愛情はすべてわたしのものです』と。そして赤裸々に閨での父親のようすを語って聞かせたのだとか。嫁入りまえの公爵令嬢に。
閣下。あなたはご自分の愛人に、それも自分の娘と同じ年の愛人に『おとうさま』と呼ばせているんですって? 閨でも。本当の娘にならないかと提案しながらその娘を孕ませたんですって?」
そうだ。
シンシアは妊娠している。彼女が妊娠したからこそ、王都邸宅へ引き取ったのだ。
……ウィリアムの子どもをちゃんとした環境で生ませるために。
ダミアンは言葉を続けた。
「もしかしてエリカが金髪に生まれていたら……なんて邪推ですかね、ロリコンの公爵閣下」
長男の声は平坦で感情の乗らない冷たいものだった。
そしてその眼差しも冷たかった。
――軽蔑しきった眼差し――
先ほどオフィーリアはなんと言ったか。
息子たちにも話したと。同性としてどう感じるのか聞いてみたと。
彼らの返事は『キモチワルイ』だと。
同じ邸内に愛人を入れてしまったから、彼女は娘に会う機会を得た。
公爵閣下の閨の秘め事など、娘が知る必要ないことを愛人はぺらぺらと暴露した。
その暴露話は公爵夫人と子息の耳にも届いた。
結果、実の息子からこんな軽蔑しきった瞳を向けられるようになってしまった。
その場の重苦しい空気にウィリアムは口を閉ざした。
◇
「さて。閣下。先ほどは開口一番に『自分の立場を分かっているのか⁈』などと苦言を呈しておられましたが、わたくしはよく存じ上げておりますわ。忙しく働いておりましたとも。領地に戻り、家門の皆さまとお会いしておりました」
長い沈黙を破ったオフィーリアは、ぶ厚い茶封筒――先ほど長男が彼女に手渡していたそれ――をウィリアムの前に差し出した。彼は条件反射的にそれを受け取った。
「家門の皆々さまにお会いして、シャーウッド公爵家当主、世代交代に関する嘆願書を募ってまいりましたの」
慌てて茶封筒の中身を出してみれば、そこにあったのは当主交代の嘆願書(家門の主だった当主たちや親戚ほぼ全部、領地の代官などの署名入り)と、爵位継承とそれに伴う名義変更に関する書類の数々だった。
ダミアンが冷静な顔のままオフィーリアの後に続けて言う。
「あたりまえのことですが、閣下の個人的な閨での趣味を言いふらしてなどいませんよ、恥ずかしい。
閣下の趣味のせいではなく閣下が元老院議員という役職を手放す気がなく、領地経営を母上に任せきりになっている現状と私が成人を迎えたという事実を説明しただけです。結果、一族の皆々さまから世代交代するようにと総意を得ました」
『閣下の個人的な閨での趣味を言いふらしてなどいません』と聞いたときは少なからずホッとしたウィリアムだったが、そのあと続けて『恥ずかしい』と切り捨てられ落胆した。
(そうか……恥ずかしい、のか……)
「閣下。とっとと公爵家当主という座を私に譲りなさい。そうすればあなたはやりたくもない領地経営の煩わしさから解放されます。私が成人した今、母上だけにその重責を担わせるのは心苦しいですからね」
そのこげ茶色の瞳が冷たく感じるのは気のせいではない。
「領地経営なんて本来は当主の仕事で、夫人はそのサポートって立ち場だけどな。どっかの誰かさんは妻に丸投げで、そのこともおばあさまはお怒りだったけど」
「結婚して二十年、どっかの誰かさんは公爵家のことより国政に携わっていたい人なんだよ」
息子たちふたりが他人事のように言う。
散々な言われようだ。
ナルシストでマザコンでロリコン。どこに出しても恥ずかしい変態。汚らわしい。
(私と同じ髪色でいるのも、嫌がるほどか)
息子たちの態度にウィリアムは眩暈と冷や汗を感じたが、それよりも茶封筒を差し出されたとき危惧したのは別のことだった。
「離婚したい、のではないのか?」
当然、オフィーリアは離婚を言い出すかと思っていたウィリアムだった。この茶封筒の中身も離婚に関する書類だと。
オフィーリアは彼の問いにきょとんとした瞳を向けた。
「いいえ。その希望はありませんわ。大切なわたくしの娘エリカの嫁入りまえに実家で両親が離婚騒ぎを起こしたなんて醜聞、あの子のためにも避けたいですもの。
でも同じ邸で生活を共にしたいとは思いません。エリカの立場を慮れば、自分と同じ年の少女を愛人として同じ邸に迎え入れたうえに『おとうさま』と呼ばせている事実を知り、さらにその愛人は父親の子を身籠っているなんて……。実の娘としては落胆を通り越して軽蔑……いいえ、唾棄すべき存在に成り果てても致し方ありませんでしょう? そんな存在と同居なんて、とてもとても。……もし、あの子が金髪に生まれついていたら、その欲望を実の娘に向けていたのかしら……なんて、おぞましい想像ですわね」
オフィーリアが扇でそのうつくしい顔の下半分を隠しているせいで、冷たく睥睨するこげ茶の瞳しか見えない。母と息子たち、同じ色の瞳がウィリアムを冷たく睨む。
「わたくしは、家督を速やかにダミアンへ譲っていただければ、それで。
わたくしはわたくしの持ち物であるここで過ごしますわ。あの本邸宅で閣下は愛人とよろしくなさればよいかと」
もともと政略結婚で結ばれた貴族の夫婦などそんなものでしょうとオフィーリアは笑う。
清々しさまで感じるアルカイックスマイルは貴族夫人らしい完璧な微笑みであった。
◇
結局、ウィリアムは爵位譲渡と家督を譲る書類へサインした。
一族の総意(嘆願書の署名には実母の名まであった)であるし、常日頃から疎んじていた領地経営から解放されるチャンスでもあったから。
ただ、本邸宅での生活改善のためスチュアートを復帰させようと躍起になったが、それは叶わなかった。
「先ほど、閣下ご本人から、馘首を言いつかっておりますので」
頭を下げたスチュアートがしれっと口にするので、ウィリアムは腹を立てた。
「こちらに有能な者ばかり連れてきおって! 嫌がらせにしても質が悪い!」
オフィーリアに向けて放った怒鳴り声は、一礼から顔を上げた有能な執事がぴしゃりと否定した。
「いいえ、閣下。奥さまが選定した訳ではありません。奥さまは自分の働く場を自分で選ぶ機会を与えてくださっただけです。こちらには自分で考えて動ける者が来たにすぎません」
ウィリアムは、彼の言葉に真っ向から反抗するスチュアートを憎々し気に睨んだ。
「そして私は『シャーウッド公爵家当主』にお仕えする立場ですので」
執事はそう言うと、新公爵家当主へ向かい深々と頭を下げたのだった。
◇ ◆ ◇
「あの人、最後までエリカの居所とかは聞かなかったわね」
淹れ直して貰った紅茶を片手に、オフィーリアはため息をつく。愛娘は当然母親と一緒にこの邸にいるのだが、彼女は父親がいる間は自分の部屋から一歩も出てこなかった。
アレは帰ったから皆で一緒にお茶しましょうと誘っても、
『アレの入った部屋の内装や家具を一新してくださいませ!』
と言って断られたとスチュアートが頭を下げる。空気の入れ替え程度ではだめらしい。
「とりあえず、書類にサインして帰ったから良かった」
ダミアンがまとめた書類を茶封筒に戻しながら言う。
「その書類、提出するのは貴族院だよな? 現職の元老院議員が爵位を息子に譲渡するなんて知られたらどうなるか、あの人解ってたのかなぁ」
ソファに腰を下ろしたハーヴェイ(公爵がいる間は母の背後でずっと公爵を睨んでいた)は、兄の手元にある茶封筒を見ながら疑問を口にする。
「さあ? 王宮で働く皆に引退するという事実を知られ、議員職までも引退を迫られる可能性が高いはずだけど……あの人にそんなところまで知恵は回らないと思うわ」
ほんと、こういうところがだめなのよとオフィーリアは肩をすくめた。
ウィリアムは議長の座が目の前だと世迷言を口にしていたが、それは彼が描いた彼だけにしか見えない理想に過ぎないと、兄(現マクラーレン侯爵家当主、元老院議長)から聞いている。
兄からは再三『あの血筋に奢った口先ばかりの無能をなんとかしろ』と要請されていた。
結婚から二十年。いろいろ手を尽くしたつもりだったが、どうにも夫は話半分に聞く癖があるようでどうにもならなかった。
今回のこれ(愛人引き取りと別居騒動)はよいきっかけになったとも言える。
穏便に当主交代が完了したのだから。
まぁ、夢を見るのは個人の自由だ。変態にだって夢を見る権利くらいあるだろう。犯罪さえ犯さなければ、変態を取り締まる法律なんてない。致し方ないのだ。
「母上は、本当に離婚しなくてもいいの?」
せっかくのチャンスだったのにとハーヴェイは母親にきいた。
彼女はいつものアルカイックスマイルを浮かべながら答えた。
「わたくし、虫は嫌いだけど……この世から撲滅しようなんて考えはないの。目につく場所にいなければ、それでいいのよ」
その表現だと……彼女は自分の夫を虫と同列に扱っていることになるのではと、息子たちは考えたが。
一転、公爵夫人は晴れやかな笑顔になり言った。
「何はともあれ、新当主就任のお祝いをしないとね。エリカも呼んでちょうだい。場所を移しましょう」
◇
その後。
ウィリアムは固執していた元老院議長の座への夢を断たれるどころか、議員職さえ勇退を迫られ窮地に陥った。
シャーウッド公爵家当主の母となったオフィーリアは、彼女の子どもたちの後ろ盾になるのに忙しく、前公爵に割ける時間などなかった。
二十歳になったばかりでシャーウッド公爵家の当主になった長男ダミアンも、領地経営に従事するために忙しかった。
そんな兄を支えるためにハーヴェイは奔走した。
母や兄ふたりを支えるためにエリカが女主人代行で家政を切り盛りした。
誰の援護も受けられなかったウィリアムは、そのまま議員職を勇退した。
ある日、オフィーリアはウィリアムからの手紙を受け取った。
ウィリアムの愛人が生んだ子どもの肌の色がどう見ても異国のそれで自分の子どもとは思えないといった主旨の手紙であった。
不貞だと罵られた愛人は赤子を置いて逐電。赤子は孤児院へ送られたのだとか。
「娼婦相手に不貞なんて、ナンセンスだわ……ほんと、そういうところよねぇ」
◇ ◇ ◇
オフィーリアが息子の嫁の生んだ孫たちと楽しく過ごしていた一方。
彼女より十歳年上のウィリアムは、王都の広い本邸宅でひとり寂しい老後を過ごすこととなる。議員手当もなく、本人の個人資産のみでの生活はすぐに枯渇し、不満だらけだった使用人すら雇えないありさまとなった。
生活援助を求める夫の手紙を、オフィーリアは鼻で嗤って打ち捨てた。
【END】
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