巨星
6
……。
ドアの下から手紙が差し込まれた。
ケンレー卿の筆跡だ。
『親愛なるウキョウくんへ。
誰に負けたか知らないが、かなり落ち込んでいるね。戦士は体こそ資本だから今はしっかり傷を治したまえ。
それから、もし同じ相手とまたやりたいと望んでいるのなら、やめなさい。タブーを破ってしまう。決闘における習慣では、数年間の努力をへてようやく再戦の資格ありと世間は認めるのだ。きみの恥になることは我慢しよう。
一人にこだわるよりも、他の百人を打ちのめしてランクを上げるほうが、絶対に良い。成り上がって村を救うというきみの目標を思い出せば、私のこの理性的な助言はきっと伝わるはずだ』
気を使わせている自分が許せない。
まだ俺は何があったのか打ち明けていなかった。
「知り合いの女と思ってナメてたら完敗しました!」なんて報告できるものか。
この申し訳なさをずっと背負わなきゃいけないとしたら……耐えがたい!
『負傷しました。完治まで十日の休みをお願い申し上げます』
ドアの外に張り紙をした暗い部屋。
敗北したあの日、俺は夜明け前になんとか起き上がることができた。
体を引きずって下宿に戻り、しばらくは脇腹が痛んでベッドで休んでいた。
しかし眠っていても一連の敗北の景色が忘れられない。
チーズ屋、いやメレアガンのアサ。
彼女に弾き飛ばされ、激痛とともに宙を舞い、橋に墜落し、しばらく話して彼女が去っていくまでの一部始終が、朝から晩まで目に浮かぶ。
霊に憑かれたみたいに逃れがたく、うわあっと幾度も叫んでしまう。
傷が治ってくると筋力トレーニングを開始。
部屋の窓を開け、外に向けて槍の素振りもした。
気分転換になると思ったが……それでも無残なフラッシュバックを見続けている。
外食をやめ、屋敷の人に朝昼晩を用意させた。
誰とも会話せず、トイレや風呂のほかは部屋を出ない。
思いがあふれて渦巻く。
恥ずかしい負け方をした自己嫌悪……。
五年かけて完成させた一天砕破が通じなかった落胆……。
彼女より上位の選手はどれだけ強いのかという不安……。
新人王がどんなやつでも構わないと以前豪語した虚しさ……。
自分を惨敗させたアサに対する逆恨み……。
一度の負けでダメになるほど俺は弱かったのかという戸惑い……。
どんどん心がおかしくなることへのさらなる自己嫌悪、不安……。
怒り、恐怖、動揺、卑下、罪の意識……。
黒い糸が縺れる。
感情が地下迷宮の底へ落ちていき、精神の根幹を侵し、それが具体的な症状として表われたのが、情けない事象を際限なく思い出すという「逃れがたい悪夢」であるらしい。
やがて次のような思いが頭を離れなくなった。
「雪辱を果たして楽になろう」
「つまりアサと再戦、リベンジ」
「勝てば悪夢を見なくなるはず」
わかっている、わかっている。
これではケンレー卿の意見に逆らってしまう。
マーリンや故郷の人の期待を裏切るし、世間も認めてくれない。
遊びで負けた子供が「今のなし!」とゴネているみたいに見られる。
一敗を引きずらず成り上がることに集中するのが俺の唯一の使命。
義務を妨げる恥ずかしい邪念は断つべきだ。
しかし逃れがたい悪夢は日々重量を増した。
苦しい。
暗闇を彷徨うみたいに耐えがたい。
何度でも甦るあの日の苦痛。
再戦する選択を俺はしなきゃいけないのか?
理性的な判断じゃないかもしれないが、大きな目標に向かっていく気持ちを取り戻すには、それをするべきなのか?
どうすりゃいいんだ。
そのころの首都はある男の話題で持ちきりだったらしい。
人徳にあふれた忠臣。
あるいは国を牛耳る怪物。
貴族たちは三つのグループに分かれている。
王党派、騎士派、追放派。
追放派は十数年前に政争で破れ、その名のとおり東の隣国へ追われてしまった。
現在、騎士派が政権を握り、王党派が下にいる。
騎士派のトップにはヒューリグレイヴ家という一族が君臨していた。
家系の者を次々と要職に就け、勢いは終わりそうにない。
実は王妃陛下(新人表彰式に臨席されていたお方だ)はヒューリグレイヴ家のご息女でいらっしゃる。
やがて王子がお生まれになれば彼らは外戚としていっそう栄えるだろう。
一族は自分たちの棟梁=本家のもとで結集していた。
今の本家相続者はボル・ヒューリグレイヴ。
王妃陛下の兄である。
四十歳で数多の荘園を持ち、国の内務大臣をしていた。
俺は以前に会っているが――すごい男前だ。
噴水広場に面した彼の屋敷は、一階は白い石材、二~四階は赤レンガで造られていて、コントラストが美しい。
ヒューリグレイヴ家を象徴するたくさんの赤旗が屋上でたなびく。
背の高い鐘塔が併設されていてガランガランと時を告げる。
応接室に入るとシックな大テーブルが中央にあり、天井が高い。
そびえるような周囲の壁には、善政をすれば栄えて悪政をすれば廃れると寓意する、二種類のグレティーン王国の未来図が描かれている。
ケンレー卿が『お偉いさんに新年の挨拶をしよう』と言い、上京したてだった俺を連れてきていた。
部屋に現れたボルの瞳は名馬のように生き生きしていて、
『お待たせしたな、ケンレー卿。そして横にいるのは決闘選手のウキョウ君だな。話は聞いている』
よく響く美声。
鋭角なシルエットの黒マントをまとい、鷹の羽根を差した鍔広の帽子をかぶっている。
あごひげは自然に整えられ、栗毛のロングヘアは不思議と清潔感がある。
彼の四人の娘(十四歳、十一歳、十歳、九歳)が続いてやってきて、歓迎の音楽を演奏してくれた。
窓を見れば円形の噴水広場が一望できる。
なんて優雅な世界だろう。
ボルはケンレー卿と歓談しながら途中で俺を呼び寄せた。
『君は成り上がりたいそうだね』
『は、はい』
『成り上がるとはこの美しい娘や立派な屋敷などを手にすることだが実はそれだけではない。国の政治に加わる責任を負うことになる。君は政治についてどのように進めるべきと考える?』
『えっと……政治は弱い人を助けるべきだと思います』
『それは正しいが、正しさの一つだ』
『正しさの一つ?』
『政治に加わる者は、これをやりたいという信念が必ずあり、それは個々人で違う。全員が別の正しさにこだわれば国家はバラバラに引き裂かれるだろう』
『ハッ……!』
『国家は人の集まりだ。人の心に寄り添い、理解し合うことが政治の第一原則だと思わないか。私はこの原則に従い、たとえば王党派であるケンレー卿と仲良くしている。こちらが王党派に提案するとき、相手が下だからと無理を通せば遺恨を生む。必ず彼をパイプ役として折衝するのだ』
なるほど、政界では威厳がなさそうなケンレー卿にそんな働きをさせていたのか。
『騎士派だけが大事で他は人にあらずという思考はヒューリグレイヴ家の栄華を瞬く間に損なうだろう。政治は驕り高ぶってはならない』
『おお……その通りですね……!』
と、このように思慮深さもある人物だった。
ボル・ヒューリグレイヴについて俺は良いイメージしかない。
そんな彼が世にも珍しい寛大さを示したという。
きっかけは国王陛下の兄が謀反を起こしたことだ。
この兄殿下はそもそも、長男の自分が次の王であると信じて傲慢なところがあったため騎士派の支持を得られず即位できなかったらしい。
フラストレーションを溜めた彼はついに反逆を表明する。
『ヒューリグレイヴの悪党どもは力を用いて官職を奪い、財産を盗み、私刑を行い、人心を乱し、王族を無視する、史上最大の悪である。私はこれを追討したいが一人ではできない。よって全国民が協力するべきだ。同意しない者はボルの一味であるから罪は免れない。追討で活躍した者は、私の即位のあと、必ず褒賞を与えよう』
やはり傲慢だったのに同調する王党派貴族がそこそこいたのは不思議だった。
兄殿下とその協力者は首都を脱出。
北部の山々で立てこもろうとしたがその前に騎士派の軍勢が追いついたようだ。
反乱軍は壊走し、兄殿下は流れ矢に当たって薨去、つまり亡くなられた。
ボルはその戦後処理で異例の決定をした。
『謀反に加わり捕らえられた者は処刑や流刑が普通だが、私はそうしない。地位を捨てて修道院で過ごすならその罪を許そう』
騎士派の中でもだいぶ反発があったらしい。
政界の危険分子を根こそぎ潰すチャンスじゃないか、と。
しかしボルは一喝。
『互いを理解し、対話で解決するのが我々なのに、謀反の発生と平和の崩壊を反省せず、逆にいきり立って闘争を求めるとは何事だ。諸君がそうしたいなら、まず私を処刑してからにしたまえ』
みんな黙ってしまったそうだ。
こうして彼の名声がまた高まったらしい。
この大臣がいる限り王国は安泰だ、と。
……あとから人づてに聞いたことなので「らしい」「そうだ」を連発させてもらった。
俺は世間を気にしている場合じゃない。
十日間の部屋ごもりの後ふらふらと朝の噴水広場に行ったら彼女はいなかった。
場所取りをしている他の店で聞いた。
「すみません、アサ……ヒリーって女がいるチーズの店を知りませんか?」
「よそのことは分からないよ」「知らないなあ」「こっちは自分の商売で手一杯でね」「そんなことよりうちの商品を見てくれ」
情報ゼロ。
あいつはどこへ?
翌朝もその次の朝もいなかった。
まさかもう会えないのでは……嫌な予感がする。
しかしそれでいいだろうとも思う。
雪辱を果たすチャンスがなくなれば他の決闘に集中せざるをえない。
ランクアップ、成り上がりという本来の目標に戻ることができる。
再戦のタブーを破らずに済んで、ケンレー卿に逆らうこともなくて、いいことずくめ。
理性が導く、幸せで恥ずかしくない選択だ。
ただし逃れがたい悪夢をずっと抱えたままになるが。
ああ、そう思っていたら、また敗北のフラッシュバックを見た。
激痛に沈んだ屈辱の記憶。
路上で倒れたりはしなかったが胸と頭の中がおかしくなって収まらない。
俺は永遠に苦しみつづけるのか?




