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美しい首都

 朝早く、くるぶしから下を包む簡素な革靴の紐を締める。

 動きやすくて汗をよく吸う亜麻布のシャツを着て俺はランニングに出かける。

 首都の道はすべて石畳だ。

 たまに雨が降ると滑りやすくなるが、そのときは転ばないようにと注意することでバランス感覚が身につく。

 ナラデ村と違って晴れた日が多く空気がさわやかだった。

 三、四階建ての木造アパートが左右にならび、三角屋根が青空によく映える。

 道の人出はまだ少なく、ラフな格好のおっさんがあくびをしながら歩いていたりする。

 しっかりあごを引いて前を見ながら、できるだけ飛ばす。

 足腰と心肺をこうして毎朝いじめないとと基礎体力を伸ばすことはできない。

 タッ、タッ、タッ、タッ……。

 近所を五周してから大通りを下ってスパートをかける。

 視界が開けて噴水広場にたどりつく。

 壮麗な建物にぐるりと囲まれている首都の中心だ。

 噴水の縁石に座って少し休憩。

 真昼ならこの噴水広場は大騒ぎになる。

 数百の露店が集まり、なんでも買えるバザーが開かれるからだ。

 早朝の景色はそれとは違う。

 だだっぴろい石畳の上を鳩が歩き、わずかに風の音が聞こえる。

 平和でゆるやかなひととき。

 支柱の上に帆布の屋根を張るバザー用のテントを建てる人の姿がまばらに見える。

 場所取りをわざわざこの時間からしておきたい店は少ない。

 やがて立ち上がった俺はある店に声をかけた。

「よう、チーズ屋。今朝も早いな」

 少女が木箱に座ってゆったりと足を組んでいる。

 俺を見て飄々とした笑みを浮かべ、のんびりした声を返した。

「おやおやー? どちら様でしょう?」

 まぶたをやや下げた両目の色はおだやかなブラウン。

 ショートカットの栗色の毛先が内巻きになって頬を包む。

 たぶん同年代だろう。

 フェルト生地のケープを羽織っている。

 ケープとは腰あたりまでをふわっと覆って袖がない上着だ。

 黒にかなり近い紅色に染められたものを三枚も重ね着していた。

 足はロングブーツを履いている。

 膝までを覆うスエード製で、ケープと同じ黒い紅色に染められていた。

「開店時間はまだですよ? それとも上京してきたばかりで道案内が必要というわけですか? このあたりについてはそこそこ教えてあげられます。右手にある大通りを三つ進んで左に入って右手の四軒目のアパートの203号室に、『美容師めざしてます。あなたの髪を切らせてください』っていうけどめちゃくちゃヘタな人が住んでますよ」

「そんなやつに用はない」

「ご近所さんがタダでカットしてもらって、しなびた雑草みたいな髪にされました」

「タダほど怖いものはねえな」

「その人、右手が震えてハサミがカチャカチャ鳴るんですよ。あがり症なので」

「美容師向いてねえよ」

「まあ全部私の作り話ですけど。そんな人がいたら怖いじゃないですかー」

「……そりゃそうだ」

 想定内だった。

 いつか良妻になれそうなおとなしい雰囲気なのに、口を開けばいつもこの種の適当なことばかり言っている。

 ヒリーと彼女は名乗っていた。

 俺はチーズ屋と呼ぶことが多い。

「いつも出まかせばっかりよく思いつくな」

「えへへー、お褒めに預かり光栄です」

「けなしてるんだよ」

「さてさてウキョウさん、冗談はさておき、おはようございます。今日もトレーニングお疲れ様です」

「ああ、おはよう」

 足を組み替えたヒリーがまた冗談を言いそうなニヤけ顔になる。

「そういえば何か賞をもらったんですよね? 何だったか忘れましたけど」

「覚えてて言ってるだろ」

「『この国でいちばん寝グセがすごいで賞』でしたっけ?」

「違うわ」

「『足の親指の爪が固いで賞』?」

「固くないッ」

「そんな! 他に表彰されるようなウキョウさんのとりえがあるんですかっ!」

「なんか無理にボケてないか!? 決闘の優秀新人賞だよ! 前に教えただろ」

「冗談ですよー、わかってます」

「でも、まあ……どうでもいい賞だ。上に新人王もいるし」

「ストイックですねー」

「現時点の強さより、最後に成り上がれるかが大事なんだ、決闘ってやつは」

「言うことが深いなあ。こないだ親戚が奥歯を抜いたあとの穴みたいに深いです」

「馬鹿にされてる?」

「まさか。私はウキョウさんを尊敬してますよ、目標に向けてまっすぐでピュアなところを」

「ああそう」

「ちなみにその奥歯を抜いた親戚も実在しませんのであしからず」

「だろうな」

 このいい加減な少女と毎朝言葉を交わしていた。

 関係性は一応、客と店員。

 何度も買い物をしているのにあいさつだけで済ませるのは愛想がないと思い、会えば雑談するようにしているのであり、決して相手が女だからではない。

 知り合ったのは最近だ。

 俺はそのころ「幻のチーズ」を探していた。

 一度だけ食べた、忘れられない味。

 ナラデ村が最悪の凶作に見舞われて食糧が尽きてしまったことがあった。

 真冬になるとキャベツの根からヘチマの種まで食べきってしまい、もうどうしようもない。

 一軒の家でみんな背中を寄せ合って毛布を纏い、飢えと寒さに耐えていた。

 そんなとき鍛冶屋のジョンおじさんが震える指を前に向けた。

『お、おい……! あそこにチーズがあるぞ……!』

 太鼓のような形の物体が土間に置かれている。

 確かにそれは丸ごとのチーズだった――しかし明るく毒々しい紫色のカビに覆われていた。

 家主によると、何年も前にその色になってしまい食べる気がなくなり、とはいえ捨てるのはもったいないから靴を履くときの腰掛けとして使っていたらしい。

 食べて大丈夫なのか?

 いや、うだうだ言ってられない。

 木や土にかじりつく前に試そう。

 そこでスパッと切ってみると、中には鮮やかなピンク色のカビがいっぱい生えていた。

 外は紫、中はピンク、汚れた洗面台みたいな配色。

 飢えていなければ吐き気がして絶対チャレンジしていない。

 意を決し、小さく切ってもらったものを恐る恐る毒見してみると、

『うっ…………………………ん? え? うわっ、うまい!!』

 すごいクセのなかに旨味が凝縮されていた!

 俺たちは飢餓から救われた。

 そして一冬で食べきってしまったこの最高のチーズにまた出会いたい、似たものはないだろうかと、上京してからはチーズの店を訪ね歩いた。

 探して探して、ついにこの店で発見した。

 ブランドものとして高値がついていたが買わない選択肢はない。

 あのチーズがほぼ再現されていて最高においしかった。

 今では毎日ちょっとずつ食べている。

 ちなみにヒリーは店の家族ではなく従業員だ。

 去年田舎から出てきて住み込みで働いているという。

「しかし毎朝バザーの場所取りなんて眠いだろ」

「私この時間は起きてることが多いんで平気です。手足が冷えるのだけ我慢して、店長が商品を持ってくるまでダラダラしてれば給料が出るというわけです。いい仕事ですよー」

「へえ」

「ウキョウさんはいつも私を気にしてくれますねー、ありがとうございます」

「ただの人付き合いだ」

 さっきも言ったように客と店員という関係のなかで愛想よくしているにすぎない。

「じゃ、そろそろ行くわ」

「帰りは気をつけてくださいね、朝帰りのおじさんを踏んだりしないように」

「踏まねえよ」

「たまに酔っぱらいが雑魚寝してますからねー。ま、さておき、いつものチーズは五日後に入荷です。またよろしくー」

「ああ、じゃあな」

 背を向けて再び走り出す。

 フルスピードで近所をあと五周するのが俺の日常だ。



 いつも思うのは、今の自分は応援してくれる人のおかげだということだ。

 ナラデの村民は孤児の俺を十五歳まで支えてくれた。

 マーリンは成り上がるための手段のすべてを通信教育してくれた。

 それからもう一人、

『私は若いとき決闘に憧れていたんだが、生来病弱でそれができなかった。だから若い者を支援したいと思っていたんだ! ウキョウくん、私というパトロンがいる限り、生活の憂いはありえない。思う存分、上をめざしてくれ!』

 と言ってくれたケンレー卿を忘れてはいけない。

 この老齢の男性はだいぶ痩せていて、髪が白く、いつもニコニコしていた。

 俺の「身元保証貴族」だ。

 首都に移住する人間は前もって、自分が善良であることを、どこかの貴族に保証してもらわなきゃいけない。

 治安が悪くなったり人口が増えすぎたりするのを防ぐルールだ。

 決闘に参加しなくてもこの保証は必要になる。

 つまり貴族のツテがないと上京はできない。

 俺には幸いツテがあった。

 亡母のはるか遠い親戚が中流の貴族だった。

 ナラデのみんながそこで尽力してくれて、そのケンレー卿という老貴族を紹介されたのだ。

 彼は俺に職を与え、しかも自宅に住ませてくれた。

 貴族は三~五階建ての屋敷で暮らしている。

 通りに面して横長で、レンガや石材で造られ、アーチ形の窓がたくさん並んでいるという見た目の、パラッツオと呼ばれる建築だ。

 ランニングを終えた俺はその豪邸の通用口から入っていく。

 長い廊下でケンレー卿とすれちがった。

「やあ、ウキョウくん! 今日も頑張っとるね!」

「おはようございます」

「その調子でどんどん鍛えてくれ! 男でも触りたくなるようなバキバキボディを手に入れることが頂点をめざす第一歩になるだろうからね。いつも応援しているよ!」

 バシッと尻を叩かれた。

 地方出身の決闘選手はふつう自分でそこらのアパートを借りて自活する。

 俺みたいに厚遇されるのは珍しい。

 その理由を少し前に聞いたら、彼は前掲の『私は若いとき……』のセリフを言い、目尻をしわしわにして笑っていたものだ。



 さて、仕事の支度をしなければ。


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