罪業
15
十三歳までケイはド・トロワで生まれ育った。
穏やかな性格で両親と村人に愛されて一つの悩みもなかった。
自分はこのままのんびり暮らし、いつか好きな人に出会い、この村らしいささやかな幸せを得るだろう――そんな未来を疑わなかった。
ところが遠い首都にボル・ヒューリグレイヴという男がいた。
追放派との全面戦争に勝って政権を握った、この当時二十五歳の怪物には、年上の妻に子ができないという問題があった。
数年前に政略結婚し、するべきことをしているのに、想像妊娠すら起きない。
騎士派の棟梁を世襲させる男児が欲しかった。
グレティーン王国では宗教的に離婚が禁じられ、「石女を捨てる」ことができない。
政治家らしく体面を保ちつつ実の息子を作るにはどうすればいい?
『――そうだ。別の女に産ませ、妻の子だとしよう』
妻を幽閉して屋敷の人間を口止めすれば世間にバレない。
そして悪魔的なアイディアが浮かんだ。
次の女は好みで選ぶ。
内密に出産させるから貴族の血筋である必要はない。
王国中を探して最も魅力を感じた娘を我が物にしよう。
『これは戦争の覇者に与えられる当然の権利だ』
大軍がド・トロワを襲った。
家々のドアを蹴破り、村の十代の少女を連れ出し、道に整列させた。
馬に乗ったボルが震える娘たちの前に現れる。
まるで事務作業をしているみたいに彼の顔つきは変わらない。
ケイに目を向け、じっと全身を観察する。
ボルの側近が『おいお前。もっと見せろと閣下がお考えだぞ。わからんのか』と告げた。
逆らえば殺されるだろう。
はらり、はらりと着衣を地面に落とす。
ボルが無表情のまま側近に伝えた。
『目的は果たした。旅を終えよう』
首都では希望がなかった。
館に閉じ込められて十九歳までに五人の子を産んだ。
子供たちはすぐに引き離され、正妻の子としてお披露目され、一度も抱けなかった。
両親のこと、村のことを思わない日はない。
屋敷のメイドが一度だけ故郷について教えてくれた。
最初の子を生んだ直後のことだ。
『ケイ様。あなたは妹がいるようです』
『妹……?』
『名前はアサ。ケイ様がここに連行される直前にあなたの母は身ごもっていたようですね。もっとも、出産のあとは両親ともに病気になり、その子を村人に預けるしかなかったようですが。これは一人の人間としてあなたに伝えなければと思ってお伝えしました』
『私の妹……アサ……』
メイドは次の日から出勤しなくなった。
「一人の人間として」決死の覚悟で話してくれた彼女に感謝しつつ、ケイは思いを募らせ、涙を流す。
お父さん、お母さんに会いたい。
村のみんなに会いたい。
アサに……会いたい!
女児ばかり産んで「役立たず」とされ、しかも「容貌が衰えた」ため、ケイはド・トロワに送り返された。
両親はすでに病没。
顔なじみの人たちが涙ながらにケイを出迎えた。
そして妹は六歳になっている。
父母の面影を残すその遺児は希望のない目の色をしていたが、ケイを見つけると表情をみるみる明るくし、屈託なく両手を広げた。
『――アサのお姉ちゃんなの? だっこして!』
姉は妹を抱き上げ、頬にキス。
このとき心に決めた。
『残りの人生はかわいいこの子と過ごそう。でも村にいると昔を思い出して辛くなる。北のはずれの山小屋に住めないかしら。自然の中にいればお腹の痛みも和らぐでしょう』
六年に五度の分娩でボロボロになり、長くは生きられないと察していた。
無理を承知でこの話を村人にすると彼らは快諾。
欲しいものをいつでも届けるし面倒事はなんでもすると申し出てくれた。
誰もがこの姉妹を可哀想に思い、たとえ短い時間でも自由にさせたかったのだ。
二人の静かな生活はこうしてスタートした。
――アサは当時を覚えていない。
産まれたときから姉と暮らしてきたつもりだったが、実際は両親と別れて姉が来るまでの間、心を閉ざしていて何も記憶に残らなかったのだ。
死の床についた姉から真相を聞いて全身の血が沸騰する。
「なにそれ!? そんなっ、ひどすぎる! お姉ちゃん、どうして笑ってるの!? あいつが憎いとか殺したいとかならないの!?」
「アサと暮らせたからもう幸せよ。この人生はいいものだった」
「……!」
穏やかに妹を見つめた。
「あなたはボルを恨んじゃだめ。前向きに自分らしく生きてほしいの。いろいろあったけど全部私のことだからあなたは背負わないで。わかった?」
「そんなお願い、聞けないよ……!!」
「お姉ちゃん、アサが幸せになるのを楽しみにしてるからね。がんばれアサ! 愛してる! それから……あとは……」
手の力が抜けていき、
「あとは………………バイバイっ」
微笑みながら瞼を閉ざす。
「お姉ちゃん!!」
ケイは翌日に安らかな表情で逝った。
棺のなかに手向けられた白百合が村民の涙で濡れる。
礼拝堂に響く彼らの嗚咽を聞きながらアサは姉の青白い頬に口づけした。
この冷たい味を忘れない。
ボル・ヒューリグレイヴに必ず、必ず、罰を与える。
決闘というものが首都にあるらしい。
そこで勝ちまくれば田舎娘でも地位を得て貴族と対等になる。
誰もが私に一目を置くそのときに、奴のしたことを告発しよう。
正体を暴かれ、非難され、惨めに落ちぶれてしまえ。
他にできる復讐があるだろうか。
ボルを恨むなと姉は望んだ。
でも許せないのだ、人のふりをした鬼畜がのうのうと生きていることが。
これはもはや自分の問題だった。
胸の中で燃える赤黒い炎。
拳を握って唇を噛む。
お姉ちゃん、ごめん。
私はあなたに逆らいます。
絶対に成り上がって無念を晴らしてあげるんだから。
木箱に座って深くうなだれながら彼女は語り尽くした。
それから溜息が聞こえる。
私は全てに疲れてしまったというような響きだ。
アサの前に立っている俺は二の句が継げない。
彼女が抱えてきたものは重すぎた。
到底受け止めることができず、ここでどんな反応をしても安易な同情にしか見えないのではと思える。
「わかったでしょう、私は最愛の家族を裏切った悪人です。天国のお姉ちゃんに何も言い訳できません。上京するために村人を騙してお金を集めて、チーズ屋さんの面接ではデタラメの経歴を話して、子供たちにもウキョウさんにも本音を隠しつづけて……ボルが死んだから全部終わりです。お姉ちゃんのためにならなくて、何もいいことが残らなくて、嘘を重ねただけ。私は詐欺師です。悪い女です。笑っちゃいますよ」
石畳にポツポツと涙が落ちている。
「私の人生、何だったんでしょう。いや、簡単なことですね。馬鹿が馬鹿にふさわしい末路を辿るだけです。犯罪をしたら牢屋に入れられるみたいにこの結果は決まってたんでしょう。賢いお姉ちゃんはきっとこうなると知っていたんです。だからボルを恨むなって遺言したのに、私は言いつけを聞かなくてこんな惨めなことに……この情けなさも悪行の報いですよ。昔の人が言ってるじゃないですか、こういうのが因果応報だと」
俺は彼女が悪人とは感じない。
あのような幼少期を送れば誰でもアサと同じ選択をしたんじゃないか。
むしろ不幸に耐えてよく頑張ったほうだ。
人間が人間らしく姉を愛してここまで来たことを誇っていいと思う。
しかしそれを伝えて慰めになるのか。
結局俺は孤児だから真の家族を持つ人の気持ちがわからない。
上っ面の優しい言葉を考えて手をさしのべればかえってアサを傷つけてしまう気がする。
ダメだ、助けたいのに助けられない。
激流の対岸に取り残された人を見ているかのようだ。
俺たちの距離は遠すぎる。
「というわけで、成り上がる意味がなくなりました」
震え声が地面に向けられる。
「成り上がって権力者になったらボルの過去を暴露する……やっぱり今でも『なんでそんなことを』と思います。これがお姉ちゃんのためだと信じていたんでしょうか? ……信じていたから馬鹿なんでしょうね、やれやれ」
二度と顔を上げないんじゃないかという様子。
「ウキョウさん、こんな馬鹿に関わっちゃいけません。こいつはまわりも不幸にします」
アサ……。
「決闘はやめようと思います。でもウキョウさんは気にしなくていいですよ。村を救うという夢は私と違って素晴らしいじゃないですか。私もそういう夢を持ちたかったと憧れてました。だからどこかで応援してます。あなたはあなたらしく、ウキョウさんのままでいいんです。支えてくれる人たちを大切にして今後も頑張ってください。ですから、こんな女、どうか忘れてください」
……。
ああ……。
何も、言ってあげられなかった……。
追放派にとってボルの死はチャンスに他ならない。
本格侵攻を始めた。
対峙するのは騎士派が率いる王国軍。
十数年で平和ボケし、兵法も士気も失っていた。
イモータル川の戦いで国軍は大敗する。
ふとした拍子に湿地の水鳥がそろって羽ばたいたのを追放派の奇襲と勘違いしたからだ。
混乱して陣形を乱し、そのあとに本物の奇襲を受けて壊走した。
ヒューリグレイヴ家は敗北を知って顔を真っ赤にした。
すぐに国内をまとめて戦争に勝てる体制を作らないと、内部から政権転覆の動きがあるかもしれない。
ボルの弟の一人が叫んだ。
「クソッ、こないだにもっと粛清すればよかった! わずかに残した王党派の閣僚と、我々を裏切るかもしれん王族の一部を、今すぐ幽閉しろ! 彼らのあらゆる役職は騎士派が引き継ぐ。ヒューリグレイヴの軍事独裁制こそが山猿のごとき追放派を滅ぼすのだ!」
三十人以上の王侯がこうして宮殿を追われた。
政権の目は民衆にも向けられ、
「どうせ盗みや物乞いをしている貧民どもが首都に寄生している。敵のスパイがいるかもしれん。だから全員徴用してしまえ! 我々はこの栄華を保つために何でもするぞ!」
スラム街を大軍が襲う。
老人も幼児も縄でつながれた。
数万人の労働力が「確保」され、軍に入れられたり、東部に点在する砦を修築する工事に回されたりした。
アサを慕っていた子どもたちはこれで散り散りになってしまった。
そして人道的な観点からこの政策に反対した修道院は、「政治を知らないクソ坊主め!」という理由で兵を送られ、焼き討ちにされている。
独裁政権は次に誰をターゲットにするかわからない。
再び戒厳令が出た町は騎士派の騎兵だけが歩いている。
政治を批判すれば庶民でも逮捕されるそうだ。
外に出られない俺はアサのことを思う。
「こんな女、どうか忘れてください」と告げられ、そんなことできるかと言い返したかったが、彼女がそのセリフに乗せた思いの重さもわかるので、結局俺はアサとの関係について何も決断できずに無意味な日々を過ごしていた。
このままじゃいけないのはわかる。
でも何も見えてこない。
考えようとしても世の中の混乱のほうに気を取られてしまう。
夏の終わり頃、東部の戦線は膠着した。
強制労働で整備した砦がそこそこ機能したらしい。
ここから和平の話し合いが始まるのではと期待した人もいただろう。
しかし大きな流れは止まらなかった。




