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落日

14

 まだ放浪中だった今年の春のこと。「アサハ血祭リノ如ク死ヌ。赤ク濡レタ髪ガ大地ニヘバリツクダロウ」という呪術文字がテントの裏地に現れた。アサとは何者なのかすぐに占いで調べ、彼女がウキョウの行く末に関わる存在だと知った。そして神託の正しさを何度も確かめ、そのたびにメレアガンのアサが惨殺され、悲報を聞いた少年が崩れ落ちるという景色を幻視したのである。

 彼女を喪失してウキョウは遅すぎる目覚めを迎えるだろう。大事な命を救えなかった後悔が絶望になる。二度と立ち直れず、成り上がる気力を失い、何もかも捨ててしまう。最悪の末路――破滅である。

 だから絶縁するべきだった。絶縁という行為には「彼女がその後どうなっても知ったことじゃない」という意思が含まれている。こういう割り切った考えをしておけば死に直面してもウキョウのショックは少ない。「アサは俺のせいで死んだ」とか「その前に何かしてあげたかった」などの思いも軽くなるだろう。巨大な渦潮から早く離れることで最悪の再起不能を避けられるのだ。

 マーリンにとっては苦渋の提案である。関係を断つという別の不幸を与えてしまうし、悪運の引力から逃れるのは難しい。二人が絶縁したとしてもちょっとした偶然で破滅のルートが復活してしまう恐れがある。悪い言霊を生まないよう細心の注意をしても結局悪あがきじゃないかと自分を疑いながら今日(こんにち)まで来ていた。

 それでも現在達成できるかもしれないベターな結末を少年に届けたい。

 ベストじゃなくても届けなきゃいけなかった。

「全てわたしの責任だ」

 (オール)を手放さないと決めた目の色をしている。

 突然恋に落ち、そして捨てられた五年前、相手は酷い男だったが当時はそいつではなく自分を責めた。自分に価値がないからこうなったと思い込み、自尊心を失い、周りの全員に笑われている感じがした。

 それから始めた放浪の旅。大きな目的は自尊心の回復だった。他人に対して誇れる自分に戻りたい。そこで占いを使った。旅先で出会った人たちの未来を見抜き、こうすれば幸せになるという方法を教える。やがてその通りになった彼らはマーリンに感謝するだろう。各地でそれを重ねていくことで少しずつ自信を付け直しそうとした。ウキョウとの邂逅でも同じだ。いつかありがとうと言われたくて村を訪ねた。つまりエゴでしかない。

 今は自分の醜さがわかった。そして人生を変えられた人に対して責任を負わねばならないと痛感する。

 貧しい村で貧しいなりの幸せを得るかもしれなかった少年を、自分が小舟に乗せたのだ。

 一人だけ逃げ出すような卑怯者にはなりたくない。

 彼のために全力を尽くす。

 最後の瞬間まで諦めない。

 もしも沈没するなら、わたしも運命を共にしよう。

 それが大人というものじゃないか。


   ★★★


 噴水広場の鐘塔(カンパニーレ)は時刻を毎日知らせて市民に愛されている。

 だが他の場合でも鐘が鳴ることはあまり知られていない。

 国家的な慶事あるいは弔事があったとき。

 今回は――葬式のほうだ。

 内務大臣ボル・ヒューリグレイヴ、薨去。

 寝耳に水の知らせが首都を駆け巡る。

 政府の発表によれば彼は慢性的に体調不良だった。

 それが慰霊式典を主催した頃から急激に悪化したという。

『一族が驕り高ぶらず王国に仕え、永遠に栄えるよう望む。それが叶わぬなら、神々よ、いっそ我が命を縮めたまえ』と声明を出したあの時期だ。

 彼の言葉は現実になってしまったらしい。

 不治の病と診断され国中の名医をかき集めたが甲斐なし。

 五人の娘に看取られた最期は安らかだったという。

 こうした経緯は市民感情を混乱させないように今日まで極秘にされていた。

 広場は露店が姿を消し、代わりに数百人が整然と列を作って少しずつ進む。

「稀代の忠臣」の病没を彼らは悼み、遺体の安置された屋敷を弔問し、静かに頬を濡らしていた。

 空虚な鐘の音が響く。

 屋敷の屋上に並ぶ赤旗は冥福を祈る半旗にされ、時が止まったみたいだ。

 王国は国民全体の服喪を十日間と決めたらしい。

 変わり果てた景色を一瞥し、俺は引き返す。

 路地裏に用がある。



 アサの目は真っ赤に腫れていた。

 俺の到着に気づいて顔を上げたが、自分がこの場にいちゃいけないみたいにすぐ下を向いてしまい、木箱から立ち上がろうとしない。

 最近会うたびに彼女は弱々しくなるが今日は特に背中を丸くして体が一回り小さく見える。

 蝋燭の火のゆらめきみたいに存在が希薄で今にも消えてしまいそう。

 俺は息を飲み、どんな声をかけるべきかわからないまま、とにかく尋ねた。

「あ、あんた、どうしたんだ」

「……」

「もう冗談はやめたのか? また聞かせてくれよ。ここで何を言えばウケるのかいつも考えてる芸人魂の持ち主なんだろ?」

「……」

「アサ……」

 食堂の裏手は昼でも陰鬱で人気(ひとけ)がない。

 ここで話したいという手紙が届いたのは今朝だ。

 起床してすぐ執事長からボルの訃報を聞いて鳥のように叫んだ俺は、あれほど閣下と親しかったケンレー卿が弔問すら行かないらしいと聞いてまた叫んだ。

 何がどうなってるんだ。

 ケンレー卿は執事長にもわけを語らなかったという。

 拷問を生き延びてから寝室に籠りきりなので本音を聞くことはできない。

 俺は世間から取り残されたみたいに廊下で立ち尽くす。

 すると屋敷のメイドさんが声をかけてきた。

『いつのまにか玄関扉に手紙が挟まってたのでお渡しします』

 来てほしいという場所と時間をアサの筆跡が示している。

 そして涙の跡が便箋に滲んでいたのだった。

 裏路地で彼女がぽつぽつと言葉を紡ぐ。

「……やっぱり私は元凶(わざわい)です。マーリンさんの言う通りでした。あなたはこんな女に関わっちゃいけません」

 どうしてそうなる。

「私は悪人の末路を辿ります。大切な家族を裏切ってきた罰が下るんです。大きな不幸が近くにいるあなたも巻き添えにするでしょう」

 家族……前もそのセリフを聞いた。

 キーファンハイデ橋で俺に詰め寄ったマーリンがまるで家族をたしなめるみたいに見えたという話だったっけ。

 アサ、あんたは何を抱えてるんだ。

 なんで今いきなり世界が終わったみたいに落ち込んでるのか、最初からわかるように教えてくれよ。

「ええ……私は終わりです。人生の意味がなくなりました。家族のために復讐したかったのに、今はもうできない」

 復讐が、もうできない?

 力のない声が続いた。

「だってボル・ヒューリグレイヴが……人のふりをした鬼畜が……死んでしまったんです。まるで勝ち逃げのように……」



 首都から歩いて一ヶ月かかるド・トロワという小さな村がある。

 王国の北部国境に近く、冠雪した山脈から乾いた冷風が一年中吹き下ろす。

 アサはこの村のさらに北で育った。

 礼拝堂の裏の丘を強風に逆らって登り、森の中の道を抜けると、荒涼とした台地が広がる。

 くすんだ色の草むらとゴロゴロした岩石が入り混じり、その向こうには一軒の山小屋。

 枯れた大木の下にみすぼらしく建っている。

 この家の暮らしは意外と穏やかだった。

 住んでいるのは子供のアサと、十三歳離れた姉のケイ。

 姉は血色が青白く、よく体調を崩し、夏でも上着を五枚、六枚と重ねている。

 でもすらりと鼻筋が通ってどんな動きもお姫さまのように洗練されているしいつでも笑顔が温かい。

 暖炉の前で織機(おりき)を動かすことが多かった。

 ケイが作る毛織物は布地も毛布も絨毯もこの上なく細やかで美しい。

 しかも優しさがこもっている。

 アサは今でも、首都のあらゆる生地に勝る王国一の織物だったと信じて疑わない。

 機を織りながら姉は妹にたくさん語りかけた。

 おとぎ話や歴史の話、料理や織物の作り方など。

 読み書きや算数、魔法のことも教えてくれる。

 アサは姉の膝に乗って目を輝かせながら聞いた。

 お姉ちゃんは何でも教えてくれる。

 ご飯もお菓子もおいしいし、夜はベッドで抱きしめてくれた。

 最高のお姉ちゃんだ。

 他には何も要らない。

 姉が世界の全てだった。

 だが、アサが十歳、ケイが二十三歳のとき、腹から血を流して姉が倒れる。

 アサが急いで麓のド・トロワ村に助けを求めると医者だけでなく多くの村人が山小屋に駆けつけた。

「大丈夫だよアサちゃん。お姉ちゃんはすぐ良くなる」

 顔を知らない人たちも口々にそう言い、姉妹の世話をスタート。

 ケイはベッドで毎日看護された。

 村人は交替で食事を作り、掃除、洗濯もする。

 アサには子守唄まで聞かせてくれて、至れり尽くせり。

 まるでこの日が来る準備をずっとしていたみたいに。

 姉の病状とともに彼らの手際が気になると、今まで感じていなかった疑問が次々に現れた。

 ケイは月に一度麓に下りるかどうかなのに村人に愛されているらしい……なぜ?

 考えてみれば毛織物の材料となるウールは彼らが「厚意で」持ってきていた……なぜ?

 豊かじゃないはずなのに野菜や穀物、燻製肉もよく分けてくれた……なぜ?

 春や夏にこのあたりで放牧をする羊飼いはみんなお姉ちゃんを訪ねて「調子はどうだい? 困ったらいつでも知らせてくれよ」とあいさつする……なぜ?

 そもそも姉妹がポツンと二人暮らしというのがおかしい。

 不便だし危ないはずだ。

 なのに誰かに守られてきたみたいにそういう不安は感じなかった。

 自分たちの生活はもしかして村人に与えられているのでは?

 だとしたらなぜ?

 姉が結婚と無縁の日々を過ごしているのと関係あるのだろうか。

 考えると眠れなくなった。

 ケイは寝たきりになっていたが彼女に聞くしかなかった。

 村人が寝室にいないときを見計らって姉の手を握り、傷つけないように声のトーンに気をつけながら、

「お姉ちゃん、昔何があったの? みんなわざわざ山小屋に来るなんて優しすぎるよ。私に言ってないことがあるなら教えて?」

 ケイはハッとした顔になって何度もまばたきしたが、やがて穏やかな笑みを浮かべた。

「そうね、アサにはいつか話したかったの。ううん、話さなきゃいけなかった。できれば背負わせたくないけど、いずれ誰かから聞くことになるなら、私の遺言として伝えるわ」

「遺言って! お姉ちゃん!」

「自分の体だからわかるの、もう長くないって。いろんなことがあったけど今は安らかな気持ちよ。ああ、本当に、いろんなことがあった……」

 遠い目を天井に向けてケイが語り出す。


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