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香らない山梔子  作者: 白石玲
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香らない山梔子

   香らない山梔子   


 たとえ何度、色が無くなったとしても


「山梔子の花って、すごくいい匂いがするの」

 そう言ったのは、亡き祖母だった。

 小さかった私はどれが山梔子の花なのかなんてわからなくて、いい匂いのする花を探して、よく散歩に行っていた近所の大学の植物園中の花を嗅いで回った。でも、結局『すごくいい匂い』って思える花には当たらなくて、がっかりして家に帰った。

 それから数年後、祖母が亡くなり、葬儀の際に訪れた火葬場の駐車場に白い花が咲いていて、『おばあちゃんが好きだった山梔子だね』と伯母が言うので傍へ寄って匂いを嗅いでみたけれど、私にはその匂いが全く分からなかった。だから今でも、祖母が好きだったという山梔子の花が一体どんな匂いなのか、私は知らない。


「不育症ですね」

 無表情に告げられたその聞き慣れない言葉に、私の心は何も反応しなかった。その時からではなくて、きっと、もっとずっと前から、めったなことでは反応しなくなっていたのだと思う。反応したら、傷ついてしまうから。なにを言われても反応しない。何を見せられても反応しない。何が起こっても、反応、しない。

 そして私の世界はまた、真っ白になった。


「玲ちゃんたちは、子供作らないの?」

 中学時代に仲が良かった5人の友人は全員20代半ばで結婚して、30を過ぎた今となっては、全員母親になっている。職場の後輩にすらどんどん先を越されて、産休育休、育児中の時短勤務の彼女たちの穴を埋めて残業するのは、気づけば私だけになっていた。

「子供がほしくて結婚したわけじゃないしね」

『作らないんじゃなくて、作れないんだよ』

 何年も前から作り慣れた笑顔でなんてことのないように答えた私の中で、声が枯れるほど泣き叫んでいる私の声は、実際に声になることはなく、彼女にその言葉が届くことはない。絶対に。

「子供可愛いよ!癒されるし!」

 6人グループの中で最初に結婚して母親になった彼女からは、事あるごとに『この写真で癒されて!』『今日のベストショット!』『疲れた体に元気チャージ!』そんなメッセージと共に、毎週のように彼女の自慢の子供たちの写真が送られてきていた。残りの4人がかわるがわる『癒される~』『超かわいい!』『栄養ドリンクより効果抜群だわ』なんて、そんな褒め言葉を入れ代わり立ち代わりひっきりなしに送りあう中、子供に関しての話題に私が1度もひと言も返事を返していないことには、誰も気づいていないんだろうか。

「別にそんなに子供好きじゃないしね」

「生んだら好きになるって!」

「そうかな?」

 もうこの話題は終わりにして。

 そんな気持ちを込めたそっけない返事にも、目の前の友人は自分の子供たちを見て目をきらきらさせているから全く気付いてくれない。

「玲ちゃんに子供生まれたら、みんなでママ友会出来るし!すごい楽しみ!」

 残念だけど、その日は来ない。多分、きっと、絶対に。

 誰の結婚式の時も、心から祝福できた。それはきっと、いつか私も結婚するからって、心のどこかで思っていたから。でも、私以外のみんなが親になって、私はなれないのだとわかった時から、出産を祝福することができなくなった。命が生まれるというのは、とても奇跡的で尊くて生まれてきたその命は、大げさに言えば、世界中の人に祝福されるべきであるのに、私は心からどころか、表面上で祝う事さえ、苦痛で苦痛で仕方なくなってしまった。誰かが妊娠したとか出産したとか、そんな話題には耳をふさぎたくなったし、通勤途中や休日の買い物で見かける妊婦さんもマタニティーマークも、小さな赤ちゃんや子供も、どれもこれも見たくなかった。見るたびに、叫びだしてしまいそうなほど、私は追い詰められていった。でも、そんな心のうちは誰にも知られてはいけない、見せてはいけない、平気なふりをしなきゃ。子供は産まれないんじゃない、産まないんだと、自分に必死に言い聞かせながら、何とか毎日を過ごしていた。

 自分の性格の悪さが、心の狭さが、本当に嫌になる。

 いつからそうなったのか、もう思いだせないけれど、彼女たちの誰と会う時も、必ず子供がついてくる。おしゃれなホテルのランチに行って、仕事や趣味の話をしたいけど、5千円のランチに付き合う人も、数万円のワンピースにヒールの靴を履く人もいない。行くのはファミレスで、話すのは子供のこと、せいぜい千円のランチ、くたびれたトレーナーに泥だらけのスニーカーを履く。

 本当は子供を連れてこられるのも、子供の話をされるのも、生まないのかと聞かれるのも、何もかもずっと苦痛で仕方なかった。

 作らないんじゃなくて出来ない。産まないんじゃなくて産めない。

 でも、子供がいるのが当たり前の彼女は、そんな私の泣き叫ぶ声に、7年もずっと気付かない。

 苦痛なら会わなければいい。それはわかっているけれど、毎年1度は声をかけられ、忙しいと断ると、『この写真で癒されて』なんて、子供の写真を送られて、『玲ちゃんの都合のいい日でいいから連絡ちょうだい』なんて、悪気無く言われたら、断ることも難しいから、結局、会うことになる・・・まあ、みんなの顔を見るのが、ほんの少しは楽しみでもあるし。

 どうしてだろう。

 彼女たちと出会ったころは、共通の話題が沢山あって、一緒にいるだけで楽しくて、毎日飽きもせず、学校でも、放課後も、バイト先で、家に帰ってまで電話して、話が尽きることなんかあるのかなって、思うくらいだったのに。今の私は、みんなに話すことがないし、みんなが話している事は何も理解できない。私には娘も息子もいなくて、幼稚園も学校も習い事も無縁で、先生もママ友もいないから。

 そんなグループの集まりに、私は今年、初めて行かなかった。仕事が忙しくて、とても休みが取れない、夜21時以降しか時間が作れないと言ったら、当然、みんな会えないと言った。子供のご飯や寝る支度があるから、遅くとも16時解散。いつからか、それは暗黙の了解だった。

 私にも子供がいたら、何か変わっていたのかな。


『彼氏いないの?』

『結婚しないの?』

『子供作らないの?』


 結婚が遅かった私はこんな質問を何度も何度も、それこそ、飽きるほどされてきた。

 みんな何のためにこんなことを訊くの?

 私を傷つけるためだとしたら、それは大成功。

 でもそうじゃないなら、今すぐやめてほしい。

 そもそも私がその質問に答えたとして、その情報はあなたにとって絶対必要な何かなの?ただ話題に事欠いてなんとなくしているのなら、そんな残酷な質問、金輪際私も含めたほかの誰にも二度としないでほしい。

 話題なんてもっと他にもいろいろあるでしょ。

 人を全く傷つけない、どうでもいいような、人を楽しませられるような話題が。



 高校時代の女の子の友達は、30を過ぎた今では、誰も残っていない。

 3年間もある高校生活で、もともと女の子で“友達”なんて呼べる相手が、いたのかどうかさえ怪しい。

 高校生の頃、私の最も仲の良い友達は瀧だった。中学時代仲が良かった5人とは見事に全員別々の高校に行った。中学高校と学校が同じだったのは、バレー部で一緒だった瀧ひとりだった。

 瀧は細やかな気遣いと、頭の良さ、少々毒舌ではあるけれど、小柄で色が白くて、はっと人目を引くようなきれいな顔をしていた。一見すると、女の子みたいな。

 そう、『女の子みたいな』。

 瀧の毒舌具合は、同い年の従兄の晴眞に似ていて、引く人は引いてしまうかもしれないそれが、私にはかえって親近感になった。ただ、主にこのふたりのせいで、高校時代の私には女の子の友達がいなかった。瀧も晴眞も女の子から人気があった。だから二人と仲の良い私は、良く思われていなかった。誰かに面と向かって言われなくても、ひしひしとそれは感じていた。

 その上、学年人気の割と高い押田になぜか声をかけられるようになり、苦手なパソコンの教えを請おうとしたひとつ下の巧は無意識の年上キラーだった。そんな4人のおかげで、高校時代は女の敵は女だと嫌というほど実感した3年間だった。

 振り返ると、この高校時代も私の世界は真っ白かった。

 明るく楽しくふるまってはいたけれど、高校時代はそれなりに辛いことも結構あった。イマドキこんなことする?なんて思うような定番の嫌がらせは大体されたし、あることない事陰口を言われるのなんて、日常茶飯事すぎて、いちいち反応なんてしてられなかった。私に彼氏ができても、その嫌がらせはなかなか減らず、嫌がらせに気づいた彼氏の絢斗は牽制をかけようとしてくれていたけれど、それは却って事態を悪化させるとわかり、私は私で明るく楽しくふるまうことで、絢斗にも、瀧にも晴眞にも心配をかけないように気を付けるようになった。懸命に作った私を瀧や晴眞は信じなかったかもしれなかったけれど、ただそっと見ていてくれた。高校を卒業するまで、私は『明るく楽しい私』を作って演じ続けた。

 最初は疲れ果てたけど、いつしか慣れていって、『明るく楽しい私』がいつもの私になった。そして私はそのまま卒業して大学に入っても、やっぱり『明るく楽しい私』でい続けた。


 そんな私に、ある日声をかけてきたのが高校在学中は同じ部活だったにも拘らずろくに話したこともなかったひとつ上の元村さんだった。

『三井は、どこで気を抜くの?』

 その日たまたまひとりで大学内のカフェテリアにいた私の隣に座り、人懐っこく顔を覗き込んで言われた一言に、私は凍り付いた。

『・・・どういう意味でっ』

 かろうじて、いつもの声のトーンを取り戻して明るく切り替えしかけた私に、元村さんは何故かチーズケーキを口に突っ込んできた。しかも、明らかに自分の使っていたフォークで、自分の食べかけのチーズケーキを。顔と名前は知っていたけど、ほぼ初対面の相手からのこの仕打ちに、私は怒りを通り越して素が出てしまった。

『どういうつもりですか?』

 家の外で久しく出したことのない、素の低い声の私に、元村さんは特に驚くわけでもなく、人懐こい瞳を楽しげに揺らした。

『お?案外そういう感じか』

 高校入学の時に兵庫から神奈川へ引っ越してきたらしいと聞いた、そのどこか関西訛り風の柔らかな口調は同じ関西人の押田とも、毒を吐かないときの晴眞や瀧とも違って、私のほうが毒気を抜かれて怒る気力がうせてしまった。

『ずうっと気はってたら、疲れん?』

 人を怒らせておいてにこにこと隣でチーズケーキを食べ続けて、睨んでやれば、『もっと食べる?』なんて、食べかけのそれを笑顔で差し出してくる、ものすごく変な人。それが第一印象だった。

 でも、今振り返るととても不思議だった。

 ほとんど関わりがなかった元村さん・・・柊吾が、どうして私が『明るく楽しい私』を演じていたことを知っていたのか。


 それから私はいろいろありはしたけど、柊吾と付き合い始めた。

 どちらかと言うときりきりしてしまう素の私を相手にしても柊吾はいつもおおらかに笑っていたし、優しくて穏やかで人懐こくて、そんな柊吾が大好きで、この人とずっと一緒にいたいと思った。大学1年から付き合い始めて、就職して、柊吾はひとつ年上だから、25か26くらいには結婚したいな。きっと中学時代の友達の中で、私が1番最初に結婚することになる。なんて、そんな淡い勝手な人生設計をしたりした。

 でも、現実はそんなに上手くも甘くもなかった。

 やっと色が付き始めた私の世界はまた真っ白くなる。

『・・・どうして』

『さあ、どうしてかね』

 大学3年の夏休みに突然倒れた柊吾は、急に歩けなくなって、大学病院に入院した。毎日のようにいろいろな検査が行われたのに、原因はずっとわからないまま、ただ日にちだけが過ぎて、長かった大学の夏休みも終わって、秋になったら一緒に行こうって言ってた箱根の紅葉狩りもいけなくて、イルミネーションを見に行こうって約束したクリスマス当日も、柊吾はまだ病院のベッドの上にいた。

『年末年始は、外泊できるの?』

 そのころの私はほぼ毎日、大学が終わったらバイトまでの短い時間を柊吾の病室で過ごして、バイトが忙しくなってきたら、週ごとの時間を優先してバイトをやめて短期単発バイトに変えて、周りが着々とし始めた就活準備も何も手につかないまま、ただ1分1秒でも長く柊吾と一緒にいたくて、できる限りの時間を病室で過ごしていた。

『大晦日の1泊だけね』

 だから、玲との時間は作れないよ。

 柊吾は優しいから、そんなことは言わなかったけど、大晦日と元旦だけなら、家族と家で過ごすべきだとわかっていたから、私は何も言わなかった。ただ、クリスマスである今日、場所が病室で、イルミネーションもツリーもプレゼントもケーキも何もなくても、ただ柊吾と一緒に入れさえすれば、それで満足だと自分に言い聞かせた。好きな人のそばにいられる。これ以上の贅沢なんて、きっとない。誰が何と言おうと、その時の私にはなかった。

『そろそろ、帰るね』

 面会時間が終わる館内放送が流れてから、もう5分は経ってしまった。そろそろ帰らないと、看護師さんに怒られてしまう。

『玲、クリスマスプレゼント、受け取って』

 歩けないから、外出も禁止で買い物なんか行けないはずなのに、柊吾が私に小さな封筒を差し出した。

『え?でも、私・・・』

 私が用意したら、柊吾はきっと気を使うから、今年は何も用意しないで、ただ会うだけにしようと思って、私は交換できるプレゼントを持っていなかった。

『玲は、俺がほしいものをくれたらいいから』

『でも、今日は・・・』

 何も持ってないよ。そう言いかけた私を遮って、柊吾は私の手を取って、その年の夏休み前、柊吾が歩けなくなる前にあった私の誕生日に買ってくれたお気に入りの指輪をするりと抜き取った。

『これ、俺にちょうだい』

 それが何を意味しているのか分ったから、私は声が出ないまま首を振った。

『クリスマスプレゼントは、交換するものだよ』

 それは去年のクリスマス、自分はいらないという柊吾に私が言った言葉だった。

『柊吾からのプレゼント、いらないから・・・それ、返して』

 指輪に手を伸ばしたけれど、上半身は問題なく動く柊吾はその長い腕を高く上げて、私から指輪を遠ざけた。狭い病室では上手く身動きが取れなくて、その手を掴むこともできなかった。

『玲へのプレゼントは、もう渡したから』

『いらない』

『玲、いいこだから、俺の言うことを聞いて』

 私は首を振った。

 でも、その振動で、目に溜まっていた涙が零れてしまった。

『元村さん、面会時間終わりですよ』

 担当の看護師さんが回ってきた。もう、帰らないといけない。でも、帰れない。だって、今ここを出たらきっと、柊吾は・・・。

『玲、暗いから、気を付けて帰って』

 いつものように柊吾は笑うから、私はもうその顔が見れなくて、病院なのに、走ってエレベーターホールに向かった。もう戻れない。それなら早くここから出たい。それなのに、そんなときに限って、エレベーターはなかなか来なくて、どうしてここは12階なの、なんて、どうしようもないことに腹が立った。

 そしてようやく来たエレベーターのドアを閉めようとした時、そのドアが抑えられた。

『これ、忘れ物だから届けてほしいって、元村君から』

 それは私が病室の床に落とした柊吾からのクリスマスプレゼント。

『・・・ありがとう、ございます』

 やっとのことでお礼を言うと、看護師さんはにっこり笑って、私を送りだしてくれた。握りしめた封筒の中には便箋が1枚だけ入っていて。


 今までどうもありがとう。玲が健康で素敵な人と、幸せになることを祈っているよ


 そんな残酷な別れの言葉が柊吾の綺麗な字で綴られていた。

 柊吾が私にくれたクリスマスプレゼントは、回復する見込みのない原因不明の病を抱えた恋人からの自由だった。私はそんなもの、1度も望まなかったのに。

『クリスマスプレゼントには、ほしいものくれるって言ったじゃん』

 クリスマスの翌日、諦めきれなくて病院に面会に行った私に告げられたのは、専門の検査をする為に、柊吾が他県の病院へと転院したという事実だった。転院先を聞いたけれど、個人情報は教えられない。そんな言葉で、柊吾に繋がる道は閉ざされてしまった。

 それからしばらく、私と柊吾の時間は止まったままだった。

 今度こそ、点や線さえも消えきって、私の世界はただの白紙の紙になった。


 柊吾の病気のことも、別れを告げられたことも、誰にも何も言わなかったのに、柊吾は私を支える為に、晴眞に連絡してしまって、晴眞は瀧や押田や巧に話して、結果的に私は4人に救われたけど、専門や短大を卒業して、次々と就職や恋人との同棲を決めていく中学時代からの5人の友達には柊吾と別れたことすらいえないまま、私も社会人になって、ただ毎日家と会社を往復している間に数年はあっという間に経過して、今度はみんな結婚し始めた。

『玲ちゃんは結婚しないの?』

『結構長く付き合ってるよね?』

 そう、私と柊吾は先に結婚していった5人のどの夫婦より早く出会って、誰より長く付き合っている・・・はずだった。

『まあ、まだ別に、独身って自由で楽しいし』

 これも嘘だ。

 私だって結婚したい。

 誰より早く結婚したかった。

 みんなは結婚できる健康で働ける人を好きになっただけ。

 私は結婚できない病気で働けない人を好きになっただけ。

 人を好きになって、結婚したいと思うことは同じで、そこに優劣があるわけでもないのに、私の望みは叶わない。みんなが次々結婚していく中で、それはすごくしんどかった。でも、まだ若かったから、私もいつか、柊吾じゃないかもしれないけれど、誰かをまた好きになれたら、みんなみたいに幸せな顔してウエディングドレスを着れるはずだから。そう自分に言い聞かせれば、招かれた結婚式で『明るく楽しい私』を演じて、心からのお祝いの言葉を言うのは、まだ簡単だった・・・少なくとも今の、子供が産めない私より、あの時の私のほうが、ずっとずっと気持ちが軽かったと思う。


 中学時代の5人の友達がみんな結婚してその中のひとりに最初の子供が生まれて、晴眞も結婚して結季ちゃんが生まれて離婚して、押田は医学部を卒業して、瀧のお姉さんが全員結婚して、巧がデザインした服が初めて店頭で販売されるようになったころ、私はやっと柊吾と再会した。

『あっと、すみません』

 不自由そうに杖を突いて、ゆっくりと歩くその姿を見た瞬間に私は彼に突進してその腰に抱き付いた。柊吾は自分の杖が私に引っかかったとでも思ったらしく、反射的に謝罪の言葉を口にしたけれど、私の顔を見て、はっと顔色を変えた。こんな悲しそうな顔をした柊吾を、私は知らない。入院していたあの頃でさえ、こんな顔をしているのは見た事がなかった。

 記憶の中の柊吾はその長い脚のおかげかどうか、走るのがすごく早くて、あの晴眞ですら追いつけないようなスピードだったから、私は逃げられないように、とっさに抱き付いた腕に力を込めた。

『・・・心配しなくても、もう二度と走れないよ』

 テニスじゃなくて、陸上をやったらもっと成績あげられたかもね。なんて、楽しそうに笑っていたくらい、走るのが好きだったのに、どうして神様は、柊吾からそれを奪っていったのだろう。神様がいるならきっと、柊吾はすごく嫌われている。人当たりが良くて誰とでもすぐに仲良くなって大らかで穏やかで、作らなくても素のままで心底明るく楽しい柊吾を。そんな神様さえも嫉妬して意地悪されてしまうような柊吾を、私はまだ好きなままだった。

 それから、大学を数年休学し、今年やっと卒業したという柊吾は、当然就職活動どころではなく、仕事もなく、ただ毎日どうしたらいいかわからなくて、今まで過ごしてきた街をゆっくり歩いて回っているのだと話した柊吾は、きっと、それを最後にここから完全にはなれようとしていたのだと思う。

『結婚したいの』

 最初の悲しげな顔はすぐに隠して、いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべて近況をぽつぽつと話す柊吾に私が言うと、その顔は一瞬驚きを見せたけど、すぐに嬉しそうな顔になった。

『おめでとう』

 かつて付き合っていた恋人。別れたくて別れたわけじゃなくて、別れるしかなかった相手。その相手の結婚報告に、こんな笑顔を出せるなんて、この人はどこまで・・・。

『結婚したいの』

 もう一度言うと、柊吾は少し首を傾げた。

『結婚したんじゃなくて、結婚したいの』

 まっすぐいうあたしに、柊吾は首を傾げたまま、考えているようだった。

『・・・そういう相手に、巡り合えたってことで、いいかな?』

 健康で素敵な人と、幸せになる。柊吾が望んだそれを、私は叶えられそうになかった。

『うん。だから、私と結婚して』

 柊吾は私のプロポーズに迷わず首を振った。

『無職の男と結婚する女性なんて、いないと思うよ』

『私が稼ぐから』

『玲の負担になりたくない』

 それから何十分も、再会した場所のまま、ずっと立ち尽くしてこのやり取りをしていたけれど、柊吾の脚に限界がきてしまった。

『ごめん、玲。そろそろ、立ってられない感じ』

 左脚をさすりながら申し訳なさそうに言った柊吾に、私は愕然とした。脚が悪いってわかってたのに、私は自分の感情ばかり優先して、柊吾のことが何も考えられていなかった。こんな私に、柊吾と結婚する権利なんて、あるのだろうかという考えも頭をよぎった。

『ごめん、どっか、お店に・・・』

 言った私に柊吾は首を振った。

『もう、帰らないと』

 それでも私は諦められなかった。柊吾と結婚したかった。別に稼いで養ってもらおうなんて思わない。男が稼いで女を養うなんて、いったい誰が決めたの?

 それから何年も私は柊吾を説得し続けた。その間に柊吾は仕事を見つけ、同じ年齢の人たちに比べたら、その半分くらいの稼ぎでしかないけど、無職ではなくなった。

『柊吾と結婚したいの』

 欲しくなかったクリスマスプレゼントをもらった日から、もう10年も経っていた。

『この脚じゃ玲から逃げ切れそうにないね』

 そう言ってやっぱり笑った柊吾は私に今度は本当に欲しかったクリスマスプレゼントをくれた。

 杖を突いて挨拶に訪れた柊吾に、両親は良い顔をしなかったし、はっきりと反対もされたけれど、私はそれをはねのけて翌年柊吾と結婚した。



 実は、また妊娠いたしました!出産予定は2月の後半です。


 不妊治療の末にやっと初めて授かったと思った命が稽留流産だとか、子宮外妊娠だとか、胞状奇胎だとか、そんな聞き慣れない病名をどんどんつけられて、町医者から協同病院、総合病院、大学病院と次々たらいまわしにされて、1度目の手術では足りなくて、2度目の手術もして、その後も肺への転移や私にはよくわからない血液の数値の検査を毎週のように繰り返して、やっと、やっと少し気持ちが持ち直して、およそひと月ぶりに出社した日の帰り路で、そのLINEは届いた。

 ああ、まただ。

 いつもなら、みんなに混ざってありきたりなお祝いの言葉をすぐに返信できたのに。この時は指が動かなかった。なぜなら、2月22日が、私にたった1度だけ訪れた妊娠の兆候から割り出された出産予定日だったから。本当なら私も、こんなふうにLINEを送って、みんなから沢山の祝福を返してもらえたのかな、なんて、ありもしないことをちょっとでも考えた自分が悔しかった。

 2月まで、まだ半年もある。それなのに、こんなふうに堂々と妊娠報告が出来るのは妊娠したら必ず子供が生まれてくるって、信じてるからでしょ。私だったら、絶対できない。だって、私は知ってるから。


 恋人がいても必ず結婚できるわけじゃない。

 結婚しても必ず妊娠できるわけじゃない。

 妊娠しても必ず子供が産めるわけじゃない。


 そして、子供を産めても、その子が一生、私が生きている間に無事でい続ける保証なんてない。出産予定通りに無事に生まれたとしても、その後元気でい続ける保証なんてない。必ず立って歩けるようになる?必ず元気に走れるようになる?・・・必ず、大人になる?

 生まれなかったあの子みたいに、私より先に死んじゃうかもしれない。

 きっともう一度そんなことが起きたら、私はもう、私を演じられない。私の精神は崩壊したまま、二度と戻ることがなくなるだろう。

 保証がない事が何よりも怖くて、私は不妊治療をやめたいと柊吾に言った。あれだけ時間もお金もたくさん費やして、結果は何も残らなかったどころか、私の身体は病気になった。手術代も通院費も馬鹿にならないくらい高い。柊吾のために健康で働き続けなきゃいけなかったのに、みんなと同じように子供がほしいなんて、親になりたいなんて望んだから、私には罰が当たった。私が稼ぐからって、私は健康だからって、そんなことを言って結婚したのに、結局私は健康ではなくなって稼げなくなった。それを柊吾は、どう思うのか、答えを聞くのはすごく怖かった。もしかしたら、離婚するというかもしれない。今まで使った、時間は返せないけれど、柊吾と一緒に懸命に節約しながら捻出したお金を返してほしいと言われるかもしれない。

 でもそれは杞憂で、柊吾の答えはごく簡単なものだった。

『じゃあ、俺は一生玲を独り占めできる』

 そう言って、あののほほんとした人懐こい笑顔で私を抱きしめた。

 その時確信した。私は正しかった。柊吾と結婚して、健康じゃなくても、子供がいなくても、お金がなくても、私はこんなに幸せになった。


 世界が真っ白になって、少し色が付いて、また真っ白になって、また少し色が付いて。子供が産めないのだという事実は私に何度も精神崩壊を起こさせた。柊吾がいて幸せだと思える日もあれば、妊娠や子供の話をされて世界で一番不幸になったように思える日もあった。何カ月も何カ月もずっと、それは繰り返されて、やがて季節は冬になった。

 クリスマスプレゼントに柊吾にマフラーを編んでみたけど、仕上がりはどうしようもなくボロボロで、結局バーバリーで高いのを買って渡したのに、柊吾は手編みのマフラーばかり使っていて、恥ずかしいからやめてと言ったのにやめないから、年末実家にいった時に晴眞に会って柊吾のマフラーが私の手編みだとばれてしまって、編み物の才能がないのに晴眞と結季ちゃんの分も編むことになってしまった。

 更にそれを晴眞と結季ちゃんが瀧と押田と巧に自慢したおかげで、私はさらに3人分もマフラーを編まなければいけなくなった。もう今日は、2月22日なのに。

「おかえり。早く暖まって」

 インターホンを押してないのに、私が玄関で鍵を探している音を聞きつけてドアを開けてくれた柊吾はとても穏やかに笑っていて、その笑顔だけで、私は暖まった気がした。

「あっためてくれるの?」

 コートを脱いで入ったリビングは確かに温かかった。

「じゃあ、抱き締めようか?」

 背の高い柊吾が後ろからぎゅっと私を抱きしめて私の首のあたりに顔を埋めると、柊吾の緩やかにウェーブのかかった柔らかな髪の毛がくすぐったかった。

「なにか軽くつまむ?」

 柊吾は料理が上手だ。今日は夕食を食べて帰ると伝えたから、ひとりでワインを開けていたようだ。

「お風呂入ってきていい?」

「どうぞ」

 当然のように、暖められた浴室と、熱い湯船。

 ああ、私の夫は完璧だ。

 ゆっくり浸かっていたかったけれど、柊吾の顔も見たいなんて言うぜいたくな悩みから、結局さっさとあがってリビングのラグに転がってみた。

「風邪ひくよ。ほら、おいで」

 ドライヤーをもって待ち構える柊吾の傍に這っていき、甘えるように膝に頭をのせると、柊吾の長い指が私の長い髪の毛を梳きながら、ドライヤーが緩く当てられる。

「はい、おわり」

「うん・・・柊吾・・・もっと早く結婚したかったよ・・・」

 そしたら、もっと柊吾と一緒にいる時間が増えたのに。

「・・・俺を責めてる?」

「ううん」

「結婚は最後だったけど、出会ったのは誰より最初だよ」

 私と柊吾が初めて出会ったのは私が高校1年生の時。確かに、あの5人の友達の誰よりも早く、人生の伴侶に出会った。

 それから今日考えていたことを少し、柊吾に話した。

「でもね、私、最初に結婚しなくてよかった」

「なんで?」

「最初に子供産まなくてよかった」

「どうして?」

「だって、もし私が最初に結婚して、最初に子供産んでたら、私が誰かを傷つける方になってたかもしれないでしょ?」

 私を傷つけ続けているなんて、彼女たちはきっと知らないし、思ってもいない。彼女たちに悪気はない。悪意もない。言ってしまえば、私が勝手に傷ついているだけ。

 それでも、傷つく方はしんどいのだ。時に、立てなくなるくらい、傷は深いのだ。

「だからね」

「うん」

「知らず知らずに誰かを傷つけるくらいなら、誰も知らない間に傷ついてるほうが、いいと思う」

 強がってそんなことを言ってみたけど、身体は心の痛みに正直で、表面張力に耐えきれなかった涙が零れた。

「・・・いい味」

 その涙が私の輪郭から伝い落ちる前に柊吾の舌がぺろりと猫のように舐めとった。

「あれ?一粒で終わり?」

「・・・びっくりして、涙止まった」

 そう言った私を柊吾が抱きよせて、ウェーブのかかった柔らかい彼の髪の毛が私の頬をくすぐった。

「どんなに傷ついても、俺が絶対癒してあげる」

「・・・子供が産めなくてごめんね」

「そんなこと気にしないよ」

「・・・お父さんにしてあげられなくてごめんね」

「玲の夫であるだけで充分だよ」

 リビングのラグの上で抱きしめられながら、涙が止まらなかった。私はあなたに、なにをしてあげられるの。声にならない声で言った私の言葉を、柊吾はなぜだか聞きとったらしい。

「俺と結婚して、俺に玲を独り占めさせてくれる。それ以上幸せなことある?」

 私の顔を覗き込んで笑った柊吾に、また涙が零れて頬を舐められた。柊吾は常に、私の人生に色を塗り続けているようだ。



「たとえ何度、色が無くなったとしても・・・」



 山梔子の花言葉・洗練


 この先この身に何が起ころうと、私は私の人生を洗練し続けるだろう。



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