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香らない山梔子  作者: 白石玲
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咲かないアングレカム

   咲かないアングレカム


 一生俺の、世界一大切な相手でいて


 祖母が庭に植えているアングレカムは、なぜか花が咲いたことがない。祖母が毎年がっかりしながらそれを見るのを気の毒に思い、高校で知り合った園芸好きの仁村に育て方を聞いて試してみたが、やっぱりその年も、花は咲かなかった。あとからその花ことばを知った時、なんとなく、俺のせいで咲かないのかもしれないと、そんなはずがないとわかっていることを頭の片隅で思った。祖母は今年もアングレカムを眺めているが、花はきっと、咲かないだろう。


 それは本当に偶然だったし、あの数秒でよく声をかけるという判断ができたなと、後から振り返ると思えるある意味ちょっと奇跡的な出来事だった。

「賀井?」

 普段こういう付き合いが好きなわけではないけれど、やはり会社組織に所属していると、否が応でも、こんな夜は年に数度はある。酒には割合強いけれど、飲むのが別に好きなわけではないし、一応元バレー部で体育会系出身者ではあるものの、ノリがいいタイプではないことも自覚している。歌も上手くないというか、強いて言えば苦手な俺は、2次会まで行くことは滅多になく、一次会で同僚たちと別れ、駅へ向かう途中に、ものすごく懐かしい顔とすれ違った。

「・・・瀧、か」

 高校時代とあまり変わらない、すらりとしたやせ形で、どちらかと言えば猫背気味な、気怠い雰囲気もそのままに、ただ、ブレザーがスーツに変わっただけの男。

「久しぶり」

「おー」

 こんな、感慨のこもらない返事も、また、高校時代の賀井そのままだった。

 一度も同じクラスになったことはないし、部活も、選択教科も、委員会も、なにも同じだったこともないのに、どうしてこれほど鮮明に覚えていたかと言えば、賀井が玲の初めての彼氏だったからだ。

 もちろん、紹介されたわけでもなく、玲が気づいたら賀井を好きになっていて、俺は友達の立場を守るために表面上はその恋を応援し、従兄の仁村に盛大に邪魔をされながらも、玲は賀井と付き合い始めた。俺は甘かったのだ。仁村がきっと阻止するから、玲は美人だけど、それを上回るくらいドジだし、とろいから・・・そんな人頼みの理由から、何をするわけでもなく、ただ黙って見ていたら、玲は賀井のものになっていたのだ・・・ものではないけれど。

 それに、俺が玲を好きだと気付いたのは、愚かにも玲と賀井が付き合い始めた後だった。たまに昼休みに一緒に食事をしているときの美味しそうに食べる玲の顔とか、放課後ふたりで帰るときの賀井を見上げる横顔とか、そんな玲をぼんやり追っていたら、いつの間にか好きになっていたと自覚した。でも、もう遅い。はっきり言って遅すぎた。

 結局ドジでとろいのは、俺自身だった。


「ねえ、ちょっと時間、ない?」

 大して仲良くもなかった賀井を誘ったのは、会えなくて連絡も取れない玲のことが、ふと頭をよぎったから。今現在の玲と関わりのない、誰かと話したかったのかもしれない。でも、賀井を誘ったのは、失敗だったのかもしれない。俺は過去を、手に入らなかった過去を、鮮明に思いだすことになったのだから。


「おまえさんは、後悔したことないか?」

 ふたりで適当な店に入ってカウンターに座れば、不意に賀井がポツリと言った。

 賀井とは玲の彼氏と玲の親友という、玲によって繋がれていた関係だったから、あまり話したこともないし、よく知っているわけではないけれど、仲が良かった仁村が言うには、掴みづらい不思議な男だといっていた。どこまでが本当でどこまでが嘘かわからない、賀井の話には脈絡がない。そんな仁村の言葉をふと思い出した。

「基本的にあまりしないかな」

 何についての後悔か、主語がなかったから、ここまでの人生全体のことについていえば、まあ、あまり後悔はないといえた。

「・・・玲のことも?」

 俺の顔を見る気すらないような切れ長の瞳がすうっと細められて、賀井の思考はきっと、高校時代へさかのぼっていった。

 高校生にしてはすごく大人っぽくて、若干人相が悪いというのが第一印象だった彼の顔は、30過ぎた今もあまり変わらないまま、むしろ、高校時代はプラス5、6歳に見えた年齢がその見た目を追い越し、彼を若く見せ始めていた。

「どうかな」

 全く後悔がないといえば、それはきっと嘘になってしまう。それでも、相手が賀井でなければ、大人としての俺の返事は『後悔していない』になるはずだ。でも、肩書とか、立場とか、理性とか、全部捨てきって、ただの男になってみたら、答えは『後悔してる』になってしまうのだ。

「瀧、おまえさん、結婚したか?」

 利き手である左の薬指に嵌っていたプラチナのリングを賀井はそっと抜き取ってテーブルにぞんざいに投げるように置いた。

「気が進まないけどさせられそう」

「強引な女に捕まったか?」

「顔も知らない相手」

 家柄を重んじる祖父母と両親によって週末ごとと言っても過言ではないような頻度で設定されているお見合い相手の写真なんて、俺は見もしていない。誰でも同じ。祖父母と、両親が納得して、ただ瀧の家を守るためだけに結婚する相手。俺にとっての結婚は、好きな相手と愛し合って、幸せに温かい家庭を作って楽しく生活することではない。何代も前から由緒正しく続く瀧家を途絶えさせないために、もっとはっきり言ってしまえば、跡継ぎの、さらに言えば男の子を育てるためだけに行われる儀式。俺はそう捉えていた。でなければ、当たり前のように好きになった相手と幸せに結婚する周りの人たちと自分の人生を比べて、苦しさで、息をすることもできなくなってしまうから。

「俺はずっと、後悔してる」

 賀井と玲が別れた理由を、俺は知らない。

 ただあの日玲が、まるで何かのドラマのように大雨に打たれてびっしょりと濡れた玲が泣きはらした目を隠しもせずに俺の家に来たことだけは今も鮮明に覚えていた。夏なのに、俺に触れた玲の指先は、凍ってしまいそうなほど冷たかった。

 あの日、あの瞬間、俺は間違いなく賀井を憎んだ。

 玲を幸せにできる唯一の男だと信じてずっと仲の良い友達のふりをして苦しいまま身を引いたのに、こんなふうに玲を泣かぜて俺にすがらせた賀井を、俺は確かに世界一嫌いな男だと認定したはずだった。

 でも大人になった俺は、そんなことは頭の隅に追いやって、こうして賀井に声をかけて、隣で酒を酌み交わしている。これはこれで良いのだ。誰かを憎むことは、とてつもない負の感情で、負の感情は、きっと俺に何ももたらさない。忘れられるなら、忘れてしまえ。今日ここで、賀井と話して、憎む相手ではなく、他の何か、もっと前向きな感情を持てる相手に変えてしまえ。

「賀井?」

「とっかえひっかえしても、玲以外じゃダメだ・・・結婚したら、忘れられるかもと思ったのが、間違いだった」

 口の端だけを釣り上げて笑った賀井の横顔は、きっと俺自身の顔だと思う。後悔していないふりをして、本当は死ぬほど後悔している。


 そもそも玲とは、中学が同じだった。小学校の時は別学区で、中学で統合されて出会った。実家同士は少し離れているけれど、それは代々地主の無駄に広い我が家が学区の限りなく端の際に位置しているからに過ぎない。玲の家と仁村の家は近所だけど、子供の頃病弱だったという仁村は入退院を繰り返し、病院との通院の兼ね合いで私立の中学に通っていたから、中学時代の仁村を、俺は知らない。

 中学に入学した俺は、幼馴染の結城に人数が足りないからどうしてもと言われて、まったく興味のなかったバレーボール部に入部した。そしてそこにマネージャーとして入部してきたのが玲だった。1年の最初からいたわけではなく、玲が入部してきたのは、中学2年の終わりころだった。何故か誰もいつかず、何人も入れ代わり立ち代わりしていたマネージャーがついに途切れてしまい、困った結城が半ば強引に捕まえてきたのが玲だった。結城と玲は1年の頃からクラスが同じで、いつも顔を合わせれば口喧嘩をしていて、仲が良いのか悪いのかイマイチわからなかったけれど、玲は結城の頼みを、しかもバレーボールのルールも知らない上に、人気のないバレー部マネージャーなんて言うめんどくさいのをああしてきいてしまうくらいだから、結局は仲が良かったのかもしれない。

 マネージャー不在の間のつなぎ役をしていたこともあって、俺は入部以来、何かと玲と一緒に行動することが多かった。今までのマネージャーたちとは違ってさっぱりしてはきはきして、いい意味で男っぽい性格の玲はすごくかかわりやすい相手だったし、仕事を覚えるのも早かったから、俺は玲と一緒にいた相対的に見れば短い部活期間がとても楽しかった。

 高校の入学式も玲と一緒に行った。同じ中学の出身者が玲と俺しかいなかったし、そうじゃなくても道に迷いやすい玲を初日に迷子にさせるわけにはいかないという、変な責任感もあったと思う。それは、今思うと、多分俺から玲への淡い恋情だったのだろうけれど、当時の俺は全く気付きもしなかった。

 高校でも当然俺はバレーをするつもりでいたし、玲はマネージャーになると思っていたけれど、結果は違った。

『え?テニス?』

 入部届けの紙を提出する日、玲の入部届けに書いてあったのは『テニス部』だった。それも『男子テニス部』。

『魔王に捕まっちゃって。あーあ。瀧とバレー部は入りたかったな』

 職員室前で肩を落とす玲に、俺のほうががっかりしてるよと、口には出さなかったけれど、俺は心の中で確実に言った。そして、『魔王』って誰なの?

 魔王の正体はすぐにわかった。入部届けを出す前に、玲の手頸を無遠慮に白い手が掴んだ。

『俺の言う通りにしてる?』

 俺と玲をはるか上からのぞき込んで微笑んだその顔はすごくきれいで、髪型こそ違うけれど、よく見れば玲にそっくりだった。陽に晒されたことがないのかと思うくらい真っ白な肌に、少し切れ長気味の、青っぽい白目の瞳。きりっとした眉に、細い鼻梁。玲を男にしたら、多分こんな感じどころか、まさにこうなんだろうなと思わせたその男は、玲の従兄の仁村だった。

『確認して。これで文句ないでしょ』

『俺が出しといてあげる』

 玲がバレー部にきた日から、結城以上に玲と仲良くなった俺は、俺よりもずっと玲と仲が良さそうな仁村を、不思議な気持ちでみていた。

『誰この男?』

 玲の入部届けを確認してから俺の存在に気づいたらしい仁村はその瞳をすっと細めて、値踏みするように俺を見た。普段、本当に親しいごく一握りの人以外の前では、中性的な顔立ちとふんわりと優し気な容姿も相まって柔らかく見えるし、第一印象では大方好感を得るだろう仁村は俺に対しては初対面からこんな態度だったから、俺と仁村のお互いの第一印象は最悪だった。そう知ったのは、高校を卒業して何年も経った後、大分最近のことだけれど。

『親友。中学のときバレー部で一緒だったの』

『へぇー』

 仁村は言いながら頷いたけど、俺には一言も何も言わなかった。そして、俺も仁村に何も言わなかった。そして入部届けを出すと同時に、玲は仁村に拉致されてしまい、俺は玲とふたりできた廊下を、ひとりで教室に戻った。


「・・・やめておけ」

 串が頬に刺さってるんじゃないかって思うくらい豪快に焼き鳥を頬張って、泡盛をぐっと煽った賀井が、静かだけど、妙にはっきりした声で言った。

「え?」

「好きでもない女と結婚なんかするな。お互い大事な時間使って、不幸になっただけだ」

 賀井が長い指の左手を居酒屋の暗い電球にかざして、親指で薬指をこすった。まるで結婚指輪の痕を消そうとするように。

「奥さんは賀井のことが好きなんじゃない?」

 気だるげで大人っぽくて、サボり魔なのになぜかある程度頭はよくて、高校時代からよくモテていたと思う。玲という彼女がいても、それを知ってかどうかはわからないけれど、賀井が告白されている場面を見た事が何度かある。

「どうだろうな・・・もう何週間も口もきいてないし、顔もろくに見てない」

 玲と付き合う前の賀井のことを、俺はよく知らないけれど、そういえば、仁村が苦々し気に言っていた。

『賀井って、誰かにいたずらしかけたりからかったりするような笑いしかしないと思ってたんだけど、玲見てる時の顔見たら、ムカつくくらい穏やかな笑顔だったから、練習ついでに校庭30周させてみたんだよね』

 でも、ちょっと目離したら途中で消えた。

 確か、そんなオチだった気がする。

「じゃあ、玲と結婚したら、幸せになってた?」

 たとえ、どんなことが起こっても?

 本当に訊きたいことのほうはネギと一緒に飲み込んだ。

 俺の質問に、賀井は長いこと無言で考え込んでいた。そしてやっと開いた口から出たのは。

「・・・どうだろうな・・・わからん」

 そんな賀井らしくもない、頼りなげな言葉だった。

 そう、未来は誰にも分らない。過去を振り返って、あの時こうしていれば、もし、こうだったら・・・。なんて、考えたところで今は何も変わらないし、変えられないし、進むのは時間だけ。確実に言えるのは、時間は止まらないし、そんなことを考えてる時間がもったいないということだけ。

 それでも、俺は考えてしまう。手に入れられなかった今日を、変えることができたはずの過去のあの日のことを。


 玲が元村さんと結婚する前、俺は一度だけ、チャンスを手にした。玲と結婚するチャンス。

『結婚してるって、そんなに偉いの?』

 賀井と別れて以来、長続きする彼氏がいなかった玲は、26を過ぎて、周りの女友達や会社の同僚が結婚し、更には後輩たちにすら先を越され、既婚者や妊婦や子供のいる人は仕事が優遇され、唯一の独身者である自分にばかり負担がかかっていると、下戸だから普段はほとんど飲まないのに、珍しく泥酔するまで飲んで、愚痴って、酔いつぶれて、その日はなぜか玲とふたりだけで、いつもは介抱してくれる押田もいなかったから、俺は初めて、どうしようもなくなって、玲を実家へお持ち帰りするに至った。

 いつもは離れの部屋にひとりで泊める玲を、あまりの泥酔具合にひとりにするのが心配になり、俺も離れに居座ることにした。徹夜なんてほとんどしたことがなかったけれど、その日は徹夜をしようと決めた。夜遅かったため、家族の誰にも気づかれることなく、俺は玲を家へ連れ込んだ。

『瀧・・・なんで私は結婚できないのかな・・・』

 酔っても普段はこんなふうに泣きごとや愚痴を言わない玲が珍しくて、俺は、玲の精神が、大分参っていることを知った。玲は酒に弱く、酔うとキス魔になるし、めちゃくちゃなこと言うけれど、ネガティブ思考に飲み込まれるところは見たことがない。怒りはするけど、ポジティブだ。でも、その夜は違った。

『結婚できるよ。玲はいいこだからね』

 酔っているから、きっと朝に目を覚ますころには俺との会話内容なんて、覚えていないだろう。だから俺は、あんな答えを言ってしまった。

『・・・じゃあ、瀧が私と結婚してよ・・・』

 酔った玲が潤んだ瞳で俺に詰めよった。俺だって男だし、玲のことは好きだ。こんな据え膳みたいなことをされて、理性の糸が切れそうだった。実際、1本、2本と、実際は見えるはずも聞こえるはずもないその糸が切れる音を聞いた気がした。

『・・・玲と結婚したら楽しそうだね』

 答えた俺の声はきっと震えていたけれど、玲は酔っていたから、気づかないよね。

『・・・結婚してくれる?』

 答える前にぐっと飲み込んだ息の音も、きっと気付かなかったはず。

『・・・できたらいいね』

 曖昧な俺の答えは、玲を苦しめることになった。できもしないのに『できたらいい』なんて、俺はずるい。自分のために、ずっぱり断らずに可能性を残した答えを返した。でも、玲はかなり酔っているから、きっとこの会話は玲の記憶には残らない。だから、だから、心の奥にずっと仕舞っていた俺の希望を言うくらいは、許される。そんな甘い俺の考えが、玲を、そして俺を苦しめた。

 翌日、玲は何もなかったかのように帰っていった。やっぱり玲は覚えていない。俺はそう思ったけど、玲は覚えていた。ただ、言わなかっただけで。俺がそれを知ったのは、玲と元村さんの結婚が決まった後だった。

 当日まで新郎には内緒にしたいからと、玲のウエディングドレス選びに駆り出されたのは俺だった。

 ドレス選びの会場は当然のごとく新郎新婦のカップルばかりで、俺は係の人に何度か新郎に間違われながら、あれでもないこれでもないと、まるで昔、まだ姉たちが嫁ぐ前にその買い物に付き合わされた時のように玲とふたりして、長い時間をかけてドレスを絞り込んだ。

 どうして新郎の元村さんではないのか、どうして従兄の仁村ではないのか、どうして押田や前田ではないのか、どうして、俺なのか。その俺の問いに、玲は笑って『瀧が一番センスいいから』なんて笑ったけど、これはきっと、俺とふたりだけで結婚式という行事に関わる日を作る為の玲なりの口実だったと、後から思った。

 ドレス選びは半日かかり、でも1日に試着できるのは3着だけで、玲の結婚式の半年前の1ヵ月の週末を全部、俺と玲はドレス選びに費やした。

『瀧、ごめんね』

『え?』

 その月の最後の日曜日。ドレスをやっと決めて、その帰り。別れ際に玲が言った『ごめん』は、何に対する謝罪なのか、一瞬分らなかった。週末全部付き合わせてごめん?新郎に間違われてごめん?ランチおごらせてごめん?

 でもなんか、どれも『ごめん』は当てはまらない。だって玲の中で、『ごめん』はほぼほぼ『ありがとう』に変換されるから、俺はこの長い付き合いの中でよほどの時でない限り、玲から『ごめん』と言われたことはない。

『ううん、先に結婚してごめんねって意味の『ごめん』だよ!』

 驚いた俺の顔に、玲がいたずらっ子のように笑って舌を出して見せた。

『なに?自慢?嫌味?』

『どっちもー!』

 子供のように跳ねながら手を振った玲の、笑っているのに泣きそうな顔を見て気付いた。この『ごめん』は、自慢でも、嫌味でもない。


『あんなことを言っておいて、あなたを選ばなくてごめん』


 俺は自分が結婚という契約を結ぶにあたって、かなり条件の悪い男だと自覚している。俺はいま時珍しい4人姉弟の一番下。つまり、姉が3人いる。瀧の家を継ぐのは男児と決まっている。誰が決めたのかは知らないけれど、少なくとも、俺が生まれるずっと前、母が嫁いできたときにはそう決まっていた。だから、俺がいるのだ。姉たちはそんな俺を案じて、婿をとることをそれぞれ申し出てくれたが、いつも助けてくれた姉たちには本当に好きな相手と結婚して幸せになってもらいたくて、全部断って、去年やっと、3番目の姉がバージンロードを歩くのを見届けた。俺は瀧の家を一歩も出ることができない。おそらく無理をして俺を生んだ母に肩身の狭い思いをさせないために。瀧家を代々守ってきた祖父母や父を落胆させないために。先に嫁いだことを姉たちに後悔させないために。

 玲の母方の本家は、瀧家並みに厳しい家で、盆や正月には必ず挨拶の顔見せをして、墓参りをして、そのあと親戚一同で食事会があるのだが、その堅苦しい雰囲気は苦手で、子供の頃から行くのが毎回苦痛でならないと、いつだったか玲に聞いたことがあった。

 俺の家と似ているね、といったら、全然違うよ。瀧の家の人はみんな優しいじゃん。なんて、玲は言ったけれど、それはいま、玲が『お客様』として我が家に来ているからに過ぎない。もしこれで、玲と俺が婚約でもして『お客様』から『婚約者』ひいては『瀧家の嫁』なんてことになろうものなら、玲にとってあの瀧の家は、その母方の本家よりも堅苦しくて厳しくて、息も吸えないような牢獄になってしまうと、俺はわかっていた。

 だから、玲に結婚してほしいと言えなかった。俺と結婚したら、玲も瀧の家から出られなくなってしまう。男の子が生まれなかったら玲が責められてしまう。年に2回の本家訪問ですら苦痛だとこぼすほどだ。きっと瀧の家に嫁いだら、その堅苦しさに玲の心はあっという間に死んでしまうだろう。いや、でも玲だったらもしかしたら、あの前向きさと明るさで、瀧の家を変えることができるかもしれない・・・いや、たとえ玲であっても変えることはできない。きっと、やっぱり、玲の心が死ぬだけだ。そんなどうしようもない、不確定な未来への不安が、俺をずっと引き留めている間に、玲は元村さんと結婚することになった。

 でも、結局は俺と結婚しなくてよかった。玲がどうして連絡をくれないのかを知った時、俺は心底そう思った。そしてその最低な自身の思考回路に、絶望した。

 こうして振り返るときっと、俺には玲と結婚する権利なんて、最初からなかったのかもしれない。なくてよかった。


「いまの生活は幸せじゃない?」

「それもわからん」

 高校を卒業して以来、賀井に会ったのは今日が初めてだけど、その見た目通り、すごく酒に強いらしい。ビールは1杯目だけで、その後は泡盛や日本酒ばかりどんどん重なるアルコールの多さに、やけ酒になっているのかと思いもしたけれど、当の本人は顔色ひとつ変えずに淡々とまるで水のようにそれを流し込み続けている。

「・・・幸せってなんなんだろうなぁ・・・」

 あまり口数の多くない賀井からぽつりとこぼされたその一言に、俺はなぜだか笑ってしまった。

「何かおかしいか?」

「なんか、賀井でもそんなこと考えるんだなって」

 淡々として、周りの目は気にしていなくて、誰が何と言おうと、自分自身の生き方に自信を持っているような、そんな人だと、いつか玲が賀井のことを言っていたから、それは惚気だね。なんて思いながらも、俺の中での賀井も、そういう迷いのない男のまま時が止まっていたらしい。

「そりゃあ考えるだろ。もう若くもないしな」

 なんて、見た目はあの頃のまま、疲れたように笑う賀井は、あの卒業式の日から、いったいどんな人生を歩いてきたのだろう。

「まだ人生前半戦じゃない?」

「どうだかなぁ」

「だってまだ31だよ」

「こんだけ酒飲んでたら早く迎えがくるかもしれん」

 見た目は20代なのに、言うことは50代くらいの賀井は、俺よりいろんな経験を積んできたのかな。どっちがいいとか悪いとか、そう言うことではなくて。

「そう思うなら、ちょっとは抑えたら?」

「一滴の酒も飲まんで長生きしようなんて、俺は思わんよ」

 そう言いながらまた新たなグラスに口をつける賀井は、やっぱり、自分の生き方に自信をもった人のままのような気もした。

 人の意見に左右されないその強さが、羨ましいような、眩しいような。

「賀井、電話鳴ってない?」

「ん?」

 居酒屋の喧騒の中でかすかに聞こえた音を拾う。

「いいよ、出て」

「すまん」

 俺に一言断りを入れて、座ったまま、通話ボタンを押した途端に電話の向こうからかすかに聞こえた声はキンキン高い声だった。

「おー、すまんすまん、駅で友達と会って、晩飯食ってた。おー、帰るけど、まだかかるから、先に寝とけ。明日な。約束する。はいはい。じゃあ、早く寝ないと明日起きられんぞ?うん、おやすみ、いい夢見ろ」

 相手が何を言っているかはわからないけれど、電話からこぼれるその声音からどうも怒っているらしいことはわかった。それでも賀井はすごく穏やかな顔で、いつになく優しく落ち着いた声で、宥めるように言い聞かせて短い通話で何か明日の約束が交わされて、電話を切った。

「引き留めてごめん。奥さん?」

「娘」

 指輪から結婚している事はわかっていたけれど、目の前の賀井と、父親というのがなんとなくうまく結びつかなくて、驚きが顔に出てしまった。

「父親には見えんだろ」

「あ、ごめん。ちょっとびっくりして」

「幼稚園の参観会とかに行くと他の保護者にそんな顔される」

 賀井の口から出るあまりの言葉の似合わなさに、仁村と結季ちゃんを参考に想像はしてみたけれど、やっぱり似合わな過ぎて無理だった。

「悪い意味じゃないよ」

「じゃどんな意味だ?」

「なんだろ?」


 結季ちゃんが生まれたときの仁村は毎日がすごく大変そうだった。奥さんはネグレクトでDVで、でも仁村には怖いくらい執着してて、離婚をしたくないが、結季ちゃんは必要ないというとんでもないことを言ったらしく、滅多に人を頼らない仁村に頼まれて、俺は実家の両親や祖父母や姉たちと結季ちゃんを預かったことも何度かあった。実家暮らしなのは俺と玲だけで、離婚のことで両親に心配をかけたくないと言っていた仁村は、従妹である玲には頼れなかったのだろう。だから結季ちゃんは、最初は俺に一番懐いてくれていた。今は前田にとられてしまったけれど。


「可愛い?」

「は?」

「娘」

「俺に似てるって言われてる」

 見せてくれたロック画面の女の子はちょっと釣り目でほくろの位置まで賀井と同じで笑ってしまった。でも、すごく可愛い子だ。

「奥さんと仲良くしてみたら?こんなに可愛い娘いるんだから」

 電話してる時に見せた賀井の穏やかな顔は、きっといつか仁村が言っていたムカつく顔と同じなのだろう。

「そうだな」

「それにお酒も控えて長生きしたら?」

「親があんまり長生きすんのも考えもんかもしれん」

 賀井らしいその薄情とも取れる考えに、俺はまた笑ってしまった。まあ、現実問題として、この超高齢化社会では、あまり長生きしてもらっても、子供や孫世代は大変な思いが増えるだけなのかもしれないけれど。まあ、それは支える側の心の持ちようかもしれない。

「でも、あんまり早く居なくなったら悲しむよ」

「花嫁姿でも見たら、とっとと逝かんとな」

「孫の顔は見なくていいんだ?」

「子供は好かんから」

 賀井はやっぱり高校時代とあまり変わっていなくて、いい意味で、周りの目は気にしていないみたいだった。

「そろそろ出ようか。娘さん起きて待ってるかもしれないよ」

「多分な」

 そう言って店を出て、駅まで並んで歩いた。

「そういえば、電話の最後に言ってた」

「最後?」

「うん、『いい夢見ろ』って」

 いつの頃からか、玲と夜に電話したり、LINEしたりすると、最後に絶対くる。


『いい夢見てね』


「ああ、昔から姉貴が言ってて、ガキの頃からの夜の挨拶みたいなもん」

 あれは、賀井と付き合い始めてからだったんだね。そして、いまも玲の中で大事に使い続けられているんだ。

「賀井、いま幸せ?」

 駅からは反対方向だった。

「さあなぁ」

 高校時代と同じ、よく読めない、人を食ったような笑みが返ってきた。

「幸せそうに見えるよ。付き合ってくれてありがとう。おやすみ」

「おう、いい夢見ろよ」

「賀井もね」

 最後に連絡先を交換して、俺たちは別れた。


 玲と賀井は別れてから1度も会っていないと言っていたけど、玲は今でも賀井の言った言葉を大事に覚えていて、日常的に使っている。会わないし、連絡も取らないし、ふたりの人生の道が行き合うことがこの先あるのかどうかもわからないけど、ふたりはあの言葉で、いまも繋がっていた。

 玲にとって、愛しているという形ではないけれど、賀井が大切な相手であることに変わりないように、俺にとっての玲もまた、かけがえのない大切な相手であればいいのかもしれない。たとえ、結婚という形で結ばれることが永久にないとわかっていても。



「一生俺の、世界一大切な相手でいて」



 アングレカムの花言葉・清純


 俺の清純なこの想いは決して花を咲かせることのない代わりに、永久に枯れることもない。


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