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香らない山梔子  作者: 白石玲
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気づかれないルコウソウ

   気づかれないルコウソウ


 俺はそこにすら、たどり着きませんでしたけど


 通勤途中にいつも通りかかる植物公園のフェンスに、ふと洋紅色の星形の花を見つけた。細い葉や茎は緑色のフェンスに絡みつき、花が咲くまではこの植物に気づきもしなかった。しばらく続く緑のフェンスにたった一輪だけの紅い星。まるで、夏の夜空に輝くさそり座のアンタレスのようだ。

「写真撮ろ」

 ふとこの花の名前が知りたくなり、iPhoneのカメラに収め、LINEで仁村さんに送った。

 高校時代のひとつ上の先輩の仁村さんは、そういう職業ではないのに、やたらと植物に詳しい。俺にとても懐いてくれている仁村さんの4歳の娘の結季ちゃんは、そんな仁村さんの影響か、一緒に歩いていると、そこかしこで植物を指さして名前を訊いてくるが、仁村さんがそれに答えられなかったとか、調べたとかいう場面には未だ一度も遭遇したことはない。どんな雑草っぽい植物の名前さえも、ぱっと見ただけでほぼ即答だ。だからきっと、この花の名前も知っているだろう。

「・・・返信早っ」

 仁村さんも出勤途中なのだろうか、返事はすぐに来た。

「・・・ルコウソウ」

 無機質にたった一言だけ返された返信が、見た目は物腰柔らかな仁村さんとは正反対なのはいつものことだ。

 聞き慣れない星形の花の名前を、俺は記憶にすり込んだ。


「ビールでええ?」

「はぁ」

 玲さんが参戦してこないグループLINEの会話を俺が止めると、今度は個人LINEに連絡が来て、俺は仕方なく、なぜか、押田さんとふたりで飯を食うことになった。全く共通点のない押田さんと。友達なのかと問われたら、答えは微妙で、じゃあどういう関係かと問われても、何とも答えがたい。高校は同じで先輩ではあるけれど、部活も委員会も多分体育祭のチーム分けですら一緒になったことも世話になったこともない。

 それなのにどうして、俺の気持ちはこの人にばれてしまったのかと、未だに不思議に思っている。まあ、今更ばれてどうってことはないし、本人にさえばれなければ、もう、どうでもいいと半ばやけくそ気味に思っている俺だからどうでもいいといえば、いいのだけど。

「ええ加減、他当たりや」

 そして、ここ数年ですっかり聞き飽きたこのセリフ。

 もう、この台詞も何度目だろう。他当たれるくらいだったら、とっくにそうしている。ずっとひた隠しにしてきて、本人にも、その夫にも、保護者張りにうるさい彼女の従兄にも、彼氏だった男にも、親友にも、絶対にばれていないはずなのに、本当にどうしてこの人は、いつ気づいたのだろう。しかも、押田さんって、玲さんの何なのだろう。

「どうでもいいじゃないですか」

 想い続けたってなにも起こらない。報われるはずのないことは、俺自身が一番よくわかっている。それでも、想うことをやめられないのだから、この感情は、人間が持っているどの感情よりもきっと厄介だ。俺が最も頻繁に感じる怒りの感情よりもずっとずっと、俺の心や頭の大部分を長い間占め続けているこれは。

「見とると痛々しいねん」

「じゃあ見ないでください」

 いらいらと言い返しても、あの言葉が俺のために放たれていることは俺が一番よくわかっている。この人は、注意してくれているのだ。でも、俺はそれを素直に聞けない。元から、素直な性格でもない。どちらかと言えばひねくれて、もうむしろ、ねじ曲がってねじ切れているような性格だという自覚はある。


 俺は子供の頃からこんなんだった。

 人に興味がなくて、冷たくて、ひとりが好きで、趣味はネットサーフィンとギターとか言う超インドア派・・・クラスでだって、まったく目立たない俺の名前を、覚えているクラスメイトは何人いたのだろうと思うくらいだ。まあ、俺だって、他人に興味なんかないから、クラスメイトの名前なんて大して覚えていなかったけど。

 そんな俺が生まれて初めて好きになった相手は高校時代に出会ったひとつ年上の先輩だった。彼女は美人で、明るくて、楽しくて、高根の花すぎて、知り合いになるチャンスすら持てそうになかった。

 でもある日、そんな俺に彼女から声がかかった。その理由は、彼女がパソコンを全く使えないから。彼女は俺の部活の先輩だった瀧さんと仲が良く、そこから俺のことを聞いて声をかけてきたらしかった。

 その日から週1で鍵のかかるパソコン教室で放課後彼女とふたりきり。柄にもなく毎回どきどきと息苦しいほどの動悸をひた隠しにして、どうにかそれに気づかれないように、でも、どうしたら彼女に俺に興味を持ってもらえるのか・・・毎週水曜日の放課後を待ち遠しく思っていた。それでも俺はこのねじ曲がった性格をすぐに変えることもできず、パソコンが全く使えない彼女についつい意地悪したり(好きな子はいじめたくなる性分なもんで)、毎度鍵を貸し出す際に俺たちを下世話に疑うパソコン担当教師に『ババア興味ないんで』なんて言ったりして、彼女を怒らせていた。


「玲、何があったんやろな」

 俺と押田さんも、俺と仁村さんも、玲さん以外の共通点がないから、話題は必然的に玲さんのことになる。まあ、バレーボールをやめて久しい今、瀧さんとだって、玲さんのことくらいしか共通の話題はないのかもしれないけれど。

「さあ・・・まあ、なんだかんだ言って、玲さんも人妻ですからね。ああ頻繁に俺たちと会うのもどうなんすかね?」

 高校時代から、玲さんは男の俺から見ても、女友達が少なかった・・・というより、嫌がらせをされているようにも見えた。原因はたぶん、玲さんの従兄の仁村さんと、玲さんの親友ともいえるほど仲の良い瀧さんが、ふたりとも女生徒から人気があったためだと俺は推測している。そんなわけで、玲さんはいつの間にか仁村さんと瀧さんと、瀧さんの後輩の俺と、そしてどういうつながりなのかイマイチ不明なこの押田さんと仲良くなり、友人としてのその距離が近づいたり離れたりしながら、いつの間にか俺たちは大人になって、カメラ付きの二つ折りガラケーでメールと電話だった連絡手段は、俺を筆頭にiPhoneとLINEに取って代わり、個人個人に連絡するのが面倒になった俺はグループを組み、その中でとりとめもない話をして、時々飯を食ったりするようになった。ひとりだけ学年が下の俺も社会人となってしばらくが経ち、玲さんは元村さんという高校の先輩と結婚し、仁村さんは一度結婚して娘を引き取って離婚し、瀧さんは由緒正しい家柄上家を継ぐべく連日の見合いをさせられ、俺と押田さんは未だ独身。俺が結婚しない理由は・・・きっとまだ、玲さんのことを引きずっているからだと、自分でもわかっている。

「元村さん、玲に興味なさそうに見えたんやけどな」

 俺は高校時代、接点がなかったから元村さんがどんな人なのかは、イマイチわからない。ただあの人も目立つ人で、授業も部活もサボりが多いと噂で、授業中にふと見れば、裏庭で昼寝なんかしているようなどうしようもない人に見えた。そんな人のどこが良かったのか・・・なんて言うのは、結局、多かれ少なかれ玲さんに惹かれていた俺たち4人を一瞬で出し抜いて彼女を見事に掻っ攫っていった元村さんへ向けた、負け犬の遠吠えなのだとはわかっているけれど、どうしても、いまだに俺たちの誰一人として、玲さんと元村さんの結婚に納得していなかった・・・少なくとも、俺はそうだ。

「そうでもないと思いますけど」

 どうして二人が付き合って、どうして結婚したのか、俺は知らない。玲さんの高校時代のほぼすべてを染め上げた元彼の賀井さんが玲さんと別れた時点で、俺にもチャンスが巡ってきたはずで、そのチャンスをものにして玲さんが欲しかったのに、俺がどんなに頑張っても、玲さんは俺には振り向いてくれなかった。そして玲さんが生涯の伴侶として選んだのは、元村さんだった。

「人妻っちゅーてもな・・・玲は玲で、人妻な前に俺らの友達やから、そこ気にする必要ないんちゃう?」

 押田さんはなんというか、変なところで鋭くて、変なところで頭が良い。多分俺よりずっと、頭が良い人なのだ。そんでもって食事のマナーとか、相手への気遣いとか、細かい礼儀作法とかには口うるさいのに、人間関係については、ちょっとおおらかというか、ぬるい。

 数年前、玲さんが結婚してしまった時、俺はもう、玲さんと何でもなく遊んだり飯を食いに行ったりすることなんかなくなるだろうと思っていたのに、実際玲さんは独身時代と変わらずに俺たちと遊んでいた。そして瀧さんと俺はそれをちょっと心配し、仁村さんはたぶん、元村さんが好きではない・・・はっきり言えば嫌いだから、それを喜んでいて、押田さんは当然だと思っていたようだ。

 でも、俺は気づいてしまった。仁村さん、瀧さん、俺、押田さんの4人の中で、押田さんだけなのだ。押田さんだけが玲さんに全く恋愛感情を持っていない。俺を含めた他の3人は多かれ少なかれ、玲さんにそういう気持ちを持って接しているから、人妻になった玲さんが俺たちと会うことを、無意識に玲さんが自分の妻だったら、みたいなある意味妄想が働いてちょっとためらってしまったりするのだろう。

「気にしますよ」

「そうか?」

 俺と押田さんのふたりしかいないのに、焼き鳥を丁寧に串から一つずつ外して皿に乗せているあたり、この細やかさはきっと押田さんと言うより、押田家のやり方のような気がした。押田さんの家族に会ったことはないけれど、きっと、家族間で日常的にこういった細やかな気遣いが無意識に行われているのだろう。

「押田さん、もし結婚して、奥さんが他の男と飯食いに行くって言ったらどうします?」

 押田さんはたぶん、もてないほうではないだろう。ただ、俺から見れば、結構めんどくさいタイプで、俺たち(ほぼ玲さんと俺)にすら礼儀作法とか口うるさい。母親というよりは、親戚のおばちゃんみたいなタイプだ。

「うーん・・・行かせないんちゃう?」

 頼んでおいて好き嫌いが割と激しい押田さんは皮とかハツとかレバーを避けて、モモとねぎだけ食べている。そういえば、食事の作法には人一倍厳しいのに、好き嫌いが人一倍激しいのもこの人だ。

「ほら」

 俺はそらみた事かと思いつつ、押田さんの箸に触れられさえしない残りの焼き鳥を拾っていく。甘いもの、辛いもの、しょっぱいもの。和菓子以外はあまりこだわりがないから、結構どんな味でも食べる事が出来る。和菓子は餡子がまずい時点でお断りだ。最近はなぜか、泥の味がする餡子によく当たる。

「俺やったらやで?」

 店員に自分のワインと俺のビールを勝手に頼みながらあくまで自分ならだ、と強調する。でも、元村さんだって、本音は行かせたくないのではないだろうか。男だったら、多かれ少なかれ、そんな独占欲や嫉妬は持っているんじゃないだろうか。

「元村さんだって本当は行かせたくないんじゃないですか?」

 俺だったら絶対嫌だ。玲さんが俺の妻だったら、もう、多分、仕事も辞めさせて、外出も一人では禁止して、平日は一歩も外に出さない。休日は俺とのデートのみ。なんて、そんな監禁みたいなことしそうな自分を思うと、ああ、結婚相手が俺じゃなくてよかった。とか、思わなくもない。

「あの人束縛しそうなタイプちゃうやろ・・・むっちゃ自由人っぽいし」

「俺、元村さんのことよく知らないんで」

 俺が初めて元村さんの顔をまともに見たのは、玲さんと元村さんの結婚式の時だ。背がとても高くてすらりとしていて、そのわりに柔らかいブラウンのくせ毛と纏う雰囲気でふわんと陽気で人懐っこい人だった。明るくて、妻である玲さんの男友達とか言う、普通ならちょっとなんで呼ぶんだよ、とか、思いそうな俺らにも気さくに話しかけてきて、心からの笑顔で『来てくれてありがとう』なんて、いうような人だった。

 その感じが、玲さんの元彼の賀井さんとまるで正反対で、どっちかと言えば賀井さん寄りな俺は、最初から見込みなかったのかもしれないと思ったりもした。

「俺な、思うねんけど・・・玲に会うたのが、きっと俺らの運の尽きやねん」

 俺がぼんやりしている間に、グラスワインだったはずの押田さんの前にはボトルワインが置かれて、もうすでに半分くらいに減っていた。仁村さんも瀧さんも俺も、割と酒に強い方だと思うけど、押田さんは別格だ。泥酔した仁村さんよりさらに飲んでいても、意識ははっきりしているし、全員をタクシー乗り場へ連れていってタクシーの運転手に住所を告げて押し込むのは、いつも押田さんの役目だ。ひどい時は、自分だって相当飲んでいるのに、家まで送る面倒見の良さを持っている。俺だったら絶対ごめんだ。

「は?」

 確かに俺は玲さんが好きで、一方的に愛して、でも、振り向いてもらえたことは1度もなくて、辛くて、苦しくて、どうしようもないと思いながら生きてきたけど、それでも、玲さんに出会わなければよかったと思ったことは1度もない。

「俺な、玲の見た目が好きやから、玲に会うてから、いまひとつ恋愛に真剣になれへんっちゅーか・・・どんな子と付き合うても、玲のほうがええ女やなとか思うてしまうんやな」

 ふふっと寂しげに笑った押田さんは、当然、酔っているわけではないんだろう。

「あ、押田さんも恋愛感情とか持ってたんですね」

 押田さんは玲さんの見た目が好きだったのか・・・ことあるごとに『女らしくない』、『女子力がない』、『ほぼ男やん』、なんてことを玲さんにズバズバと言っていたから、俺はてっきり、まるで玲さんを女としてみていないのだと思っていた。

「前田もそうやで」

 そんなのわかりきってますよね。俺が玲さんに恋愛感情持ってるとか。

「はい?」

「前田かて、玲に出会わんかったら、他の女選んで、今頃結婚しとったかもしれへんし」

「・・・どうっすかね」

 玲さんは元村さんと結婚してしまって、俺が彼女を手に入れられる可能性なんて、ほとんどない。付き合っている相手もいない。目下、俺の恋人にもっとも近いのは27歳も年下の結季ちゃんかもしれない・・・なんて、アホっぽいことまで考える始末。

 まあ、結季ちゃんが16歳になるまであと12年・・・12年後の俺は、43歳・・・もしもその日がこのまま来て、結季ちゃんが仁村さんに『紹介したい人がいるの』とか言うセリフの後に連れていったのが俺だったりしたら、あの人はいったいどんな顔をするのだろう・・・いつも冷静で、どこか余裕を残して笑っている仁村さんの顎が外れるくらい驚く顔も見てみたい気はする。でもそれをする為には、12年後の俺がいまとほぼ変わらない容姿をキープしている必要がある。芸能人でもないのに、そんなことできるんだろうか。自身にそっくりだと言われる歳の離れた兄を見ている限り、体形は年々劣化の一途をたどっていく感じは否めない。


「玲・・・どないしたんやろな」

 何も知らないだろう押田さんに、色々と知りすぎている俺は返す言葉が見つからなかった。

「・・・・・・」

 嘘を吐くのは簡単だ。面倒な時は迷わず嘘を吐いて生きてきた。でも、今、押田さんに嘘を吐く気は起きなかった・・・かと言って、真実を口にすることもできない。

 玲さんがどうしてグループLINEに参加してこないのか、いつもなら月に一度は会うのに、どうしてずっと無言で音信不通なのか、なぜ俺たちの中の誰も、その理由を知らないのか・・・俺は実は知っている。それは俺が他の3人よりも玲さんと近しい関係だから、とか、そんな色っぽい理由ではなくて、本当に、痛いような偶然だった。


 玲さんからそのLINEが来たのは、玲さんと美術館に行く約束をしていた日の前日だった。美術館は去年できたばかりの最新の設備を兼ね備えたデジタルミュージアムで、その存在をニュースかなんかで知ったらしい玲さんは、去年の年末からずっと行きたがっていた。

 でも、都内のそこそこ行きづらい場所で、結季ちゃんを連れていくにはちょっと疲れさせてしまいそうでみんなで行こうというのを多分、ためらったのだろうけど、俺の個人LINEにメッセージが来て、しかもそれが、

『ここに行くなら絶対巧だって思ってたの』

 なんて、人妻のくせに俺の事をほだそうとしてるかのようなセリフを言われれば、玲さんに恋い焦がれている俺はいとも簡単に落ちてしまうもので、俺はキャンセル不可で、その上美術館にしちゃわりに高いチケットをネットで予約した。そして約束の前日、玲さんからキャンセルの連絡が来た。


 実は、明日の予定をキャンセルさせてもらいたくて・・・2、3日前から腹痛が続いてて、今日病院に行ったら、子宮外妊娠しているかもしれないといわれて、大学病院で検査を受けることになりました。

 チケットまでとってもらったのに本当にごめん。お金は、今度会った時に返すので、ちょっとかしておいてください。

 気を使わせたくないし、心配をかけたくはないから、知らせてしまった巧には気も使わせて心配もさせて申し訳ないけれど、他のみんなには黙っていてもらえると助かります。


 要約すると、こんな内容。

 玲さんがずっと子供を欲しがっていたのは知っていた。本人の口から、不妊治療がしんどいという言葉も聞いたことはある。でも玲さんは、いつだって明るく楽しく、左遷も、不妊治療も、ストーカーも、パワハラも、どんなに深刻な状況でも笑って俺たちに話してくれた。その彼女が、初めて俺に誰にも言わないでくれと、口止めした。もちろん、俺からは誰にも何も言わないと約束した。

 それから数日、俺は玲さんがどうしているのかということばかりをぼんやりと考えて過ごした。そして、玲さんから、手術は一度終わったが、子宮外妊娠ではなく、胞状奇胎という病気であり、月末にまた手術をするのだという連絡が来たのは、先月の中ごろのことだ。聞き慣れないその病名を、俺はネット上で何時間も拾った。

 でも、拾えば拾うほど、その病気は子供がほしい女性にとっては酷なもので、治療の辛さもさることながら、その後の検査、症状の転移、そして極めつけは、1年間の妊娠禁止。もう何年も子供がほしくて頑張ってきて、俺は詳しくわからないけれど、結婚したの遅かったし、年齢的にもそろそろどうにかしないとね、なんて冗談っぽく笑っていた玲さんを思えば、俺はもう、いたたまれなくて、返すLINEを打っては消して、打っては消して、結局送ることができたのは、ありきたりな薄っぺらい中身の内容な言葉だった。玲さんを励ましたいのに、励ますことさえ烏滸がましい。大丈夫ですよ、そんなことを言いたくても、何が大丈夫だというのかと問う自分がいて、結局送れない。だって、事態は全然大丈夫ではないのだから。次頑張って下さいとか、また妊娠できますとか、次はちゃんと生まれますよ、とか、そんな無責任なことを言えるわけがない。俺は神でも、仏でも、医者ですらない。


「まあ、いいじゃないっすか。生きててくれたら、それで」

 それはこの上なく正直な俺の今の気持ちだった。きっとしんどいだろう。今までのどんな時よりもしんどくて、『精神的には100回くらい自殺してるんだけどね(笑)』なんて、おどけたふりしたあの返信は、きっと今の玲さんの真剣な本心なのだろう。だから、生きていてくれたら、今はそれだけで充分なのだ。

 そして、完全に癒えることはないのかもしれないけれど、少しでも気持ちが楽になって、俺たちに何かできることがあったら、気が向くことがあったら、また俺たちと、無理に楽しそうにしなくていい、面白くないのに笑わなくていいから、ただ一緒に飯食いましょうよ。酒飲みましょうよ。玲さん、超下戸だけど。そして、またチケット取って、今度こそ、デジタルアートミュージアム行きましょ。俺、何回でもチケット手配するんで。

 伝えたいことはこんなにあるのに、どうして俺は、何一つ伝えることができないのだろう。それが堪らなく悔しくて、虚しくて、そして、そういう自分に堪らなくイライラした。

 俺はいつもこうだ。周りの誰かが何かをしてくれるたびに、相手に何も返せない、素直になれない、うまく立ち回ることができない、無力な自分に、常にイライラしている。

 俺が一番腹を立てている相手は、きっといつだって、俺自身だ。

 口うるさくはあるけれど、本気で怒ったところを見た事がない押田さんの声が、今日はいつも以上に穏やかに聞こえる。

「まぁな・・・欲言ったら、楽しく幸せでいてくれたらええんやけど」

 今はちょい無理なんやろな。

 ワイングラスを傾けたとき、何も知らないはずの押田さんの声のない言葉が聞こえた気がした。

 ある日突然訪れた不幸から、人は立ち直るまで、どれくらいの時を要するのだろう。そもそも、命にかかわる不幸は、完全に癒える日など来るのだろうか・・・三十を過ぎて未だ近しい身内が亡くなったことのない俺には、なにも理解できないのかもしれない。

 どうしたら、何をしたら、俺はあなたを救えるんですか。

 仁村さんは、俺の返信が玲さんを喜ばせたと言ったけれど、俺にできることは、たったそれだけですか。たったつかの間、あなたの心を軽くするだけの、触れたら溶ける、雪よりも儚い一瞬だけ。

「まあ、玲はひとりちゃうしな」

 そうだ。ひとりじゃない。

 俺なんかが何かしようなんて、やっぱり、烏滸がましいのかもしれない。

「こういう時は、玲が結婚しとって良かったなって思うわ。ひとり暮らしとかやったら、心配で押しかけとるかもしれんな」

 そう言って結局ひとりでボトルワインを飲み乾して、押田さんは笑った。

「おんなじ家に帰ってきてくれる人がおるっちゅーのは普通に思えて、案外特別なことなのかもしれんな」

「・・・そうっすね」

 なんてうなずき合う俺らには、同じ家に帰ってきてくれる相手はいない。

「ほな、ひとりの家にでも、帰ろかな」

 財布からカードを出した押田さんに、俺は現金で半額を払おうとしたけど、やんわりと掌を向けて断られた。

「は?」

「今日は俺の都合で俺が誘うたんやし、俺のおごりで。その代わり、今度は前田が誘ってや」

「俺のおごりでですか」

「当たり前やろ」

 俺が押田さんを誘う日は来ないかもしれない。

「寄り道せんと、はよ帰りや。明日も仕事やろ」

 外へ出ると、夜の空気はほんのり涼しかった。押田さんと俺は最寄り駅がここだから徒歩で帰る。少し飲みすぎた感はあるけれど、タクシーに乗るほどでもない。そもそも、すたすた行けば、自宅アパートまで10分くらいだ。

「押田さんは?」

「俺は非番やから」

 にっと笑ってウインクされた。男相手にされても、キモいだけっすよ。

「だから誘ったんすか?」

「翌日仕事やったら誘わんわ」

 なんて、いかにも自分の都合を優先したように笑ったけど本当は、急にLINEを止めるようなことをした俺が心配だったから、すぐに会おうとしてくれたって知ってますよ。だって押田さん、就職してからずっと、自分が前日残業でも夜勤でも、翌日早番でも、いつだって土日休みの俺らに合わせて遊びも飯も付き合ってくれてますもんね。隠してるのかもしれないですけど、ずっと前から知ってます。

「ほな、おやすみ。ええ夢みぃや」

 玲さんみたいなことを言って、押田さんはひらりと手を振った。

「おやすみなさい」

 先に背を向けたのは俺のほう。なぜなら、押田さんはいつも、最後まで相手を見送りたい人だから。LINEの返事も、最後自分で止めたい人。

 ひとりになって家までの道のりをのろのろと歩く間、さっきの押田さんの言葉を考えていた。


『おんなじ家に帰ってきてくれる人がおるっちゅーのは普通に思えて、案外特別なことなのかもしれんな』


 恋人はいないのか、結婚はしないのか、ずっと独身でいるのか。30を過ぎた途端、あちこちからそんな言葉をかけられては、余計なお世話だと一蹴してきた。一昔前でもあるまいし、一生独身で何が悪い。

『まあ、男の30なんてまだ若いから』

『男だから、まだまだ大丈夫』

 そんな無責任な言葉も、何度か聞いた。男の30ってなんだ。若いってなんだ。男だからってなんだ。女だったら大丈夫ではないのか。そもそも、大丈夫ってなんだ。恋人がいなきゃ、結婚してなきゃ、一生独身だったら、大丈夫じゃないのか。恋人がいない人より恋人がいる人、結婚していない人より結婚している人、子供がいない人より子供がいる人。そのステータスが多ければ多いほど、人は偉いとでもいうのだろうか。何が幸せかは、ひとりひとり違うし、自分に恋人がいるから、結婚しているから、子供がいるから、そんなくだらない主観で、人の幸せを計ろうとするなと、俺は余計な世話を焼こうとしてくるやつらに言ってやりたい。

 そもそも、幸せな結婚生活なんて、いったいどれくらいの割合で手に入れることができるものだというのか。

 誰かを愛して、その相手から同じように愛されることは、奇跡みたいなことだと思う。世界にはこんなに人があふれているのに、きっと半分以上の人が、その相手とまだ会えていない、もしくは、永遠に会えることがないのかもしれない。愛の形は人それぞれだけど、誰かを愛してしまったら、やっぱり、俺は、その相手に愛されたいと思ってしまった。そして、それは、きっと叶わないと、もう知っている。


 玲さん、いまどんなに苦しくて辛いのか、俺は想像することすらできないけど、でもきっと、あなたはいつでも俺より幸せな人であり続けるはずだし、そうであってほしい。なぜなら、世界にたった一人の、愛する人に愛されて、その時間がこの先どれほど続くのかはわからないけど、少なくとも今は、その傍にいる事ができるのだから。

 どんなに辛く苦しい時でも、その闇に引きずられないで。自分のそばに、幸せな光がある事に、どうか気づいて。

 そしてそれをかみしめて。

 きっと光が、闇を払うから。



「俺はそこにすら、たどり着きませんでしたけど」



 ルコウソウの花言葉・繊細な愛


 どうか生涯、貴女が俺のこの繊細な愛に気が付きませんように。



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