折れたオランダアヤメ
折れたオランダアヤメ
結季がいないほうが良かったなんて、思った日はないよ
結婚前、実家の庭で育てていたオランダアヤメは、俺が数日留守にすると、あっけなく折れてしまっていた。風が強いわけでも、大雨が降ったわけでもなく折れたオランダアヤメはまるで俺の心と同じだと自嘲したあの日から、もしかしたら俺の心の時間は止まっているのかもしれない。結婚しても、娘が生まれても、離婚しても・・・目まぐるしい変化に見舞われながらも、俺はずっと、同じことを考えていたのかもしれないと、最近気が付いた。
「たくみくん、あーんして」
「あーん」
娘が目の前で男にスプーンですくったアイスクリームを食べさせているのを眺めるのは父親として不愉快極まりない。そのうえ、相手の男が両耳合わせて5個もピアスの穴を開けて、切れ長の挑戦的な目で、苦い顔をしている俺を横目ににやりと笑うような、お世辞にも真面目で爽やかな好青年ではない場合は尚更だ。
「おいしい?」
「美味いけど、次はふたりきりの時にしよか」
飛び切り甘い顔で結季に微笑みかけた後、切れ長の、悪魔が宿っていそうなくらい真っ黒い瞳をちらりと俺のほうへ寄越して口の端をまた釣り上げた。
「前田、いい加減にしなよ」
「そんな怖い顔せんでくださいよ」
大げさに肩をすくめて、グラスの底に残った限りなく薄まったアイスコーヒーを飲み乾した。ブラック無糖な俺のコーヒーに対して、前田のそれは甘すぎて飲めないカフェオレだ。見た目と性格は俺よりずっとブラック無糖なのに、実際は俺には飲めないような甘いものばかり飲む。
「たくみくん」
「なに?」
「たくみくん、すきなひといる?」
結季の口から出た言葉に、俺は思わず飲みかけのコーヒーを吹き出すところだった。娘から恋バナを聞くのなんて、10年早い気がする。10年後だって聞きたくない。できれば一生聞きたくない・・・なんて言って、実際結季が結婚適齢期を超えても結婚していなかったら、俺は早く結婚してほしいなんて、いまとは真逆のことを思うのだろう。母親も、兄弟もいない、俺しかいない結季に、ひとりになる未来を過ごしてほしくない。俺は失敗してしまったけれど、出来れば、良い男と結婚して、結季が望むなら子供を産んで、家族を持ってほしい。なんて、結季の人生は結季の自由だと思いつつも、こんな勝手な希望を持ってしまっているのだから、俺は本当にどうしようもない。結季が生まれて4年、いまでも、俺が父親になって良かったのかどうか、俺にはわからないし、父親としての俺はいつだって、自信がない。
「いるよ」
「だぁれ?」
結季の質問に即答した前田が、次の質問に答える前にちらりと俺によこした視線で、俺はその答えを正確に予想した。
「結季ちゃん」
ほらね、予想通り。
「うれしい!」
甘く笑った前田の言葉に、結季は目をきらきらと輝かせてアイスクリームのグラスを押しのけてまでテーブルに身を乗り出した。
「結季ちゃんは?俺のこと好き?」
女の前での前田なんて知らないけれど、好きな相手・・・恋人とかの前だったら、こんな甘い声や顔をできるのかな。それとも、これは子供相手限定なのか。高校時代から、前田との付き合いは10年以上になるけれど、いつも煙に巻かれたように、その本心はうまく闇や霧の中に隠されている。まるで、俺に何か知られたくない秘密をずっと持っているような。
「うん!たくみくんのことすき!」
俺の隣に座っていた結季は席を立って、前田の隣に移動した。最近の結季は前田が絡むとその行動はいつも以上にすばしこくて、止める間もない。俺だって、昔取った杵柄で反射神経も運動神経も悪くないほうだと思うけれど。
「ありがとう」
溶けてしまいそうな笑顔で結季を抱き上げてお礼を言う前田は、いつものこいつを知らなければ、本当に子供好きな穏やかで優しい青年だ。まあ、大人の偏見で言えば、耳元のピアスを見なかったことにすれば、だけど。
「どういたしまして」
俺たちに向かってはめったに・・・一度として見せたことないような笑顔で結季に対応する前田を見て、こんな顔もできたのかと、最近はよく思う。知り合ったばかりの頃は、いつもつまらなそうな退屈している顔をしていた。何にも誰にも興味なさそうに、いつ見ても大概ひとりで、協調性なんか持ってなさそうなのに、なんで団体競技のバレーボールなんかしてるんだ、と思うような男だった。そんな前田が、唯一執心した相手それが・・・。
「そういえば、玲さん、どうしてます?」
それが俺の従妹の玲だった・・・前田から直接聞いたことはないけれど、俺はそうだった・・・もしかしたら、今もそうだと思っている。玲のほうが誕生日が早いから、正確には従姉なのかもしれないけれど、しっかりしているように見えて抜けてるし、一緒にいれば俺が兄で玲が妹の兄妹によく間違えられていたから、これで合っているのだと思う。
「俺は連絡とってない」
「え、そうなんすか?」
玲がずっと不妊に悩んだ末にやっと妊娠したと思ったら、胞状奇胎という500人だか1000人にひとりの病気だということが分かり、度重なる検査と、2度の手術を経て、ようやく、昨日久しぶりに出社したと、玲の夫である柊吾さんから連絡をもらったばかりだ。玲本人からは俺にすら何も連絡がない。だから俺も、玲のことを誰にも話していないし、俺から玲へ連絡もしていない。
今の俺が娘のいない独身のままだったら、もしかしたら連絡を取っていたのかもしれないけれど、そんなことは、今考えても仕方のないことだとも思えた。起きた出来事は変えられないし、取り消せないし、そして記憶力の飛び切り良い玲は、きっと何も忘れない。どんなに辛くしんどい出来事でも、事細かに記憶してしまう。人間は生きる為に忘れてゆく生き物だと何かで読んだことがあるけれど、俺の知る限り、今のところ玲にその機能は備わっていない。もしかしたら玲は、人間じゃないのかも。
「元気なんじゃない?」
「・・・・・・」
前田にしては珍しく驚いたような顔をして俺をじっと見つめた。前田の目は不思議だった。大きいわけでもないし、切れ長で、どちらかといえば目つきの悪い、普通の日本人と比べてもひときわ真っ黒い瞳。ただ、ごくたまにこんな真剣な話をする時に見つめられると、まるで目が離せなくなるような、息ができなくなるような、そんな印象が昔からあった。誰のことも恐れない、玲に陰で『大魔王』なんてあだ名されている俺が、ひとつ下の後輩にこんなことを感じているなんて、きっと誰も知らないだろう。前田の前で、普段の俺の自信はぱりぱりと安っぽい音を立ててひび割れていくような気さえしている。
「なに?」
「いや・・・仁村さん・・・」
言いよどむ前田が珍しくて、俺はもしかしたら、前田の方が玲の現状を知っているのではないかと思った。
あの真夏の水族館の日以降、俺は柊吾さんと連絡をとることが多くなった。直接玲には連絡できない俺に、柊吾さんは週に幾度か玲の様子を伝える連絡をくれるようになった。
「前田、玲と連絡とってるでしょ?」
玲が前田とだけはLINEで連絡を取り合っている事は柊吾さんから聞いていた。俺は個人的に前田とするやり取りは待ち合わせ時間とか行き先なんかの事務連絡だけだから、前田と玲がどんな会話をしているのかは全く想像できない。人を和ませることの上手い物腰柔らかな押田や玲と気が合う瀧ならともかく、どうして、唯一連絡を取っている相手がこの前田なのだろうという疑問は、日に日に膨らんでいた。
「ええ、まあ」
結季の時とは違って、俺への返答は相変わらずそっけない。こんな前田との事務連絡以外のLINEなんて、考えただけで俺は苦痛だけど。
「じゃあ、知ってるんだよね?」
胞状奇胎のことを・・・という言葉はあえて飲み込んだ。
「多分、仁村さんが知ってるのと同じこと知ってますよ」
前田と玲は妙な縁でつながっていた。もともと前田は、玲と仲が良かった瀧の部活の後輩で、バレー部所属なのに、パソコン操作に超詳しいという、どちらかと言えばインドア少年だった。そして玲はパソコンが大の苦手で、授業に全くついていけず、どうしようもなくなってその玲をどうにかするべく白羽の矢を立てられたのが前田だったのだ。面倒くさいことは一切したがらない前田が、どうしてその役を引き受けたのか。先輩の瀧の頼みだったとはいえ、嫌なことはいやだと断る前田が。その理由を俺は偶然ふたりがパソコン講座をしているところを見かけて気付いた。わからないながらも懸命にキーボードを叩いてマウスを操る玲を眺める前田の、いま結季を見る以上に穏やかで優し気なその表情で。
「でも、不可抗力ですよ」
結季が自身の小さなバックから出した、これまた小さな折り紙で器用に鶴を折りながら、決して俺を見ないまま、ぼそりと言った。
「え?」
「俺、玲さんが病院に行った翌日に、出かける約束してたんすよ」
玲は結婚してからも、柊吾さんが優しいから、その優しさに甘えて、独身時代と変わらずに俺たちと出かけている。みんなでも、ふたりでも。一度柊吾さんに嫌ではないのかと訊いたことがあったけれど、彼の答えは、俺だったら絶対出せないものだった。
『玲は自由にしているから輝いているんだよ』
そんなこと、俺だったら絶対に言えない。だから玲は、俺でも前田でも、瀧でも押田でも、そして元彼の賀井ですらなくあの人を選んだのだとわかった。自分を自由に輝かせてくれる人。女性はきっと、自分を輝かせてくれる男に、本能的に惹かれるものなのではないだろうか。結季にもそんな相手が、いつか現れたらいい。今じゃなくて、20年以上後の、いつかね。
「そうか」
「玲さんが行きたがってた美術館のチケット手配してたんですけど、それが、キャンセル不可のやつで、だから、俺に美術館に行けない理由を言わざるを得なかったんだと思います」
目を伏せて話す前田は、その重すぎる理由を知ってしまったことを後悔しているのではなく、そんな重く、できれば誰にも言いたくなかっただろうことを自分に説明させてしまったことを申し訳なく負担に思っているのだろう。
「たくみくん」
「ん?」
大人が話している間はなるべく黙っている。教えていないのに、結季はいつの間にかそうするようになっていた。大人ばかりの中で育てているせいで、どこかほかの子供のように子供っぽいところが欠落しているように思えて、少し心配な部分でもある。そんな結季が、あまり気を使わずに年相応の子供のままで接している相手が、玲と、そしてこの前田だ。何故かはわからないが、俺はそうだと思っている。
「お外であそぼ!」
前田が折った鶴やウサギを大切にバックに仕舞って、天気の良い外へと視線を投げる。
「そろそろ出ますか」
「そうだね」
玲がいたら、俺か前田が全額おごったりしてしまうけれど、今日は結季の分を換算して割り勘した。それでも、前田は受け取ったお釣りを結季にお小遣いとしてあげてしまっていた。
「たくみくん、ありがとう」
「どういたしまして」
結季は俺と手を繋ぐことは滅多にないのに、玲や瀧や前田とはよく繋いでいる。押田はいつも繋ぎたがっているけれど、なぜかあまり人気がない。押田本人は負け惜しみ宜しく背が高くて自分とは繋ぎづらいのだろうというけれど、この前押田よりもずっと背の高い柊吾さんとは1日中手を繋いでいたから、ただ単に、押田とは繋ぐ気分にならないだけなのだとわかった。言ったらがっかりする押田の顔が見られるから、今度会ったら言ってやろう。
「玲ちゃんに会いたいね」
前田の手をぶんぶん振り回しながら歩く結季が何気なく言った。
「玲さんちょっとお疲れみたいだから、もうちょいしたらまた誘おうな」
「うん!」
本当は今日、玲も一緒のはずだったが、昨日の夜から具合が悪いと俺には柊吾さん経由で連絡があった。だから、俺と前田と結季だけになったのだけど、考えてみれば、俺はこうして前田とふたり・・・結季がいるけれど・・・になったのは初めてだ。なぜなら、玲を通してでなければ、俺は前田と接点が全くないからだ。
約束の日に玲が来なかったことは今までほとんどないから、結季もきっと、この状況に何らかの異変を感じはしているのだろうけれど、玲のことを、結季は何も聞いてこない。まだほんの小さな子供なのに、まるで大人の気遣いを持っているかのようで、この先、結季のこの性質がどんな風に作用するのかが見えなくて、俺は怖かった。親として、俺は結季を間違った方向に導いている気が、いつもしている。
「ここで見てるから、行ってきな」
「うん!」
小さな子供が自由に遊べる小動物のいる公園で結季を遊ばせながら、前田とふたり、ベンチに座る。
「俺、玲さんに悪いことしたなって、思ってます」
「思わなくていいと思うよ」
それは、誰が悪いわけでもない。ただ、強いて言うならば、タイミングが悪かったのだ。誰の、とかではなくて。
「俺には、話したくなかったんじゃないですかね」
玲が前田に話したかったのかどうかはわからない。ただ、グループLINEに参加してこないまま沈黙を守っている玲は、今きっと、誰とも何も話したくないのだろうと思った。玲が参加しないのは珍しいから、全員がなにかしらを感じているのだろうけれど、誰もそれに何も言わないまま、だらだらとLINEは続いていて、一向に玲は参加してこなくて、そしてそれを、昨日前田が止めた。
『じゃあ、次会う予定は年末にでもしましょうよ』
いつも2、3、カ月に一度は全員ではなくでも玲を必ず含む誰かしらが会っていたけど、前田はそれすら止めた。LINEが続くのが、玲の負担になると思ってのことだろう。そして、その前田の一言以来、誰も何も返していないまま、今日は夕方になろうとしている。
「俺さ、玲とは話してないんだ・・・全部、柊吾・・・元村さんから聞いてるだけで」
「元村さんも、苦しいんじゃないですかね」
前田と柊吾さんは、俺の記憶の限りでは玲の結婚式で一度会っただけだ。お祝いの席ですら不愛想な前田にも、柊吾さんは来てくれたことへの感謝を丁寧に述べていたのが印象的だった。あの人は穏やかで、誰とでもすぐ仲良くなってしまうという不思議な性質を持っている。結婚に大反対して、式すら妨害しようとした俺にさえ、その感謝は向けられて、俺は毒気を抜かれてしまったのだけど。
「想像を絶するって、こういうことなのかな」
血のつながりなんてないはずなのに、まるで柊吾さんの何かを受け継いでいるように知らない子供とすぐに仲良くなって、ずっと仲の良い友達だったみたいに遊んでいる結季を眺めて、子供に恵まれない玲と柊吾さんを思って、ふたりに対してなにもできない自分を思って、ああ、俺は無力なんだと、改めて思った。
「でも、人間って、そんなもんじゃないっすかね」
「ん?」
「まあ、玲さんたちほど苦しいかって言われると、何とも言えないんですけど、俺もそれなりに、きついなって思うことはあるし、仁村さんだって、完璧じゃないじゃないっすか」
前田の言う通りだ。誰にでも苦しいことはある。ただそれを、表に出さないで、上手く隠しているだけで。今の玲のように隠しきれなくなったら、それはもう、相当追い詰められた状態なのかもしれない。それなのに、そう思っているのに、俺はどうして、玲に今日も何もできないままこんなところでベンチに座っているのだろう。
俺だって苦しい。
でも確かに、玲ほど苦しくないかもしれない。
これでもし、俺が配偶者に死なれてシングルファーザーをしているのだとしたら、それはきっと、どうしようもないほど、同じことを経験した人でなければ理解できないほど、苦しく辛いのかもしれない。そしてたとえそうだとしても、結季がいるのといないのでは、その苦しみの度合いは更に変わってくるのだろう。ひとりではないということは、それだけで救われるのだ。結季がずっと、俺を救ってくれているように。玲がずっと、柊吾さんに救われているように。
俺は小さい頃から玲のことが好きだった。周りの大人たちは、従兄として好きなのだろうと思っていたようだが、それは違う。幼稚園の裏庭でキスをしたときから、俺はずっと、女としての玲を見て好きになっていった。小学校、中学、高校・・・間際に受験変更をしてまで、玲と同じ高校を受験した。従兄妹同士でも結婚できるとちゃんと調べて、玲に他の男が寄り付かないように牽制して、ときには玲の彼氏だと嘘を吐き、玲に好きな男ができれば相手のあることないこと吹き込んで諦めるように仕向け、失恋させては泣かせ、慰めては俺に頼ってくれるように、俺のほうを向いてくれるように、俺を、男としての俺を好きになってくれるように・・・さんざん手を尽くした。それでも、俺は玲にとって従兄のポジションから抜けることは一度もなく、皮肉にも玲の初めての彼氏の座を獲得したのは俺の部活仲間で1番仲が良かった賀井で、俺が死ぬほど望んだ玲の夫の座を手にしたのは、俺が最も嫌いだった、部活の先輩の元村さんだった。
「俺も、しんどいと思う時があるよ」
今でも玲のことが好きなら、前田は今も、俺と同じようにしんどいよね。俺は一度は割り切って別の人と結婚して、可愛い娘を手に入れたから、本当は、前田よりも苦しくないのかもしれないね。今も玲のことが好きなの?だから今日まで独身なの?そんな言葉が、つい口に出かかって飲み込んだ。それを訊いても、どうしようもないことだから。
「意外っすね」
「え?」
「仁村さん、弱音とか吐きそうにない人だと思ってました」
一見繊細そうに見えるらしい俺は、多分、結構精神的に強い方だと思う。
「吐かないようにしてるんだけど、なんだろうね」
強く見せる事。俺はそれに、こだわりすぎているのかもしれない。男だから、大人だから、親だから、強くしっかりしていないといけない。でも、本当にそうなのだろうか。その強さは必要なのか。
「玲さんが影響してんじゃないっすか?」
「玲が?」
「俺、玲さんの話聞いて思いました。人生なんて、いつ何が起こるか絶対予測ができない。だからこそ、言いたいこと言って、やりたいことやって、絶対後悔したらダメなんだって」
普段あまり喋る方ではない前田にしては、ずいぶん長いセリフだった。それだけ、玲の胞状奇胎という病は、俺にも前田にも衝撃を与えたのだ。
「そうかもしれないね」
「玲さんに会いたいっすね」
「そうだね」
「しばらくは、俺らに会うのもしんどいでしょうけど」
会おうといえば、体調が良ければ玲は出てくるのだと思う。事情を知っている俺と前田なら、会うのかもしれない。ただ、玲は人を心配させたくないと、無理して楽しそうに平気そうに振舞うのだろう。だから、俺は玲から連絡がこない限り、自分からは何も連絡しないと決めていた。
「元村さんが言ってたよ。前田が玲を救ったって」
「は?」
「玲にLINEしたでしょ」
本当は、この話を前田にするつもりはなかった。だって、玲と直接やり取りで着ている前田を更に喜ばせる話題なんて、癪だから。俺はそんな心の狭くて醜い人間。自分でよくわかっている。
「まあ、しましたけど。ただの返事っすよ」
「玲に『友達付き合いだから無理しなくていいんですよ』って、送ったでしょ?」
「送った内容までダダ漏れなんすか、そこの親戚関係は」
グループLINEに参加してこなかった玲が、不可抗力だったとしても、前田にだけは連絡していて、その前田が言ってくれたことが嬉しかったと話してくれたと元村さんが言っていた。玲が嬉しそうに話すこと自体が久しぶりで、きっと元村さんも嬉しかったのだと思う。
「玲が、すごく喜んでたって」
「ソレハヨカッタデスネ」
片言で無機質に返された返事に俺は内心嫉妬していた。玲が人生で一番落ち込んでいるときに、唯一玲を喜ばせたのは夫の元村さんでも、従兄の俺でもなく、前田だった。
「俺さ、ずっと玲のことが好きだったんだ・・・多分、今も好きなんだ」
「はい?」
俺の唐突な告白に、前田は珍しく驚いたらしく息を飲む音が聞こえた。
「気づかなかった?割と全面に押し出して、隠してないつもりだったんだけど」
真剣な話の後で、それを笑い話にしてごまかそうとする俺はなんともぎこちなく、からからと乾いた笑いを立ててみたけど、前田はじっと真剣なまま、一言も発しなかった。
「前田?」
「好きなのは知ってましたけど・・・てっきり、兄妹愛的ななんかだと思ってたんで・・・」
多分、周りの友人やクラスメイトはみんなそう思っていた。たった一人を除いて。
「だから、しんどい」
もしもこれで、玲がただの高校の同級生とか、元カノとか、血縁関係が全然ない、過去の片想いの相手で、好きだったけれど、会えなくなって、会わなくなって、何年も経って、それで、こうして大人になった今日、ふとした時に卒業アルバムとか見つけてめくって、ああ、そういえば高校時代は彼女のことが堪らなく、結婚したいくらい好きだったな。なんて、綺麗な思い出にできたのかもしれないけれど、実際の玲は俺の母親の姉の娘で、端的に言うと俺の従妹で、どんなに疎遠になっても、親戚付き合いの集まりで年に1度は会って、遠縁の親戚の葬式とか結婚式とか、最近では親戚が年寄りか若い人の二極になっているおかげで、年数度は会うことになっている。だから、そんなときに夫の柊吾さんを伴って、子供はいなくても、訪れたどの夫婦よりも、下手したら、その日の新郎新婦よりも仲睦まじいふたりを見て、俺はもう何年も、もしかしたら一生吹っ切れないかもしれない本気すぎる初恋の痛みをじくじくと抱えてかろうじて平気なふりをする日々が続いている。
「仁村さん・・・」
結季は真っ白いウサギを抱っこして、楽しそうに笑っている。
「結婚して、結季が生まれたことは、すごく良かったと思うし、そのことに関しては、何も後悔はしていないけど・・・偶にふと考えるんだ。もしも俺が、ずっと玲のことだけ追いかけて、玲が俺に応えてくれていたとしたら・・・今日は全く違う1日になっていて、玲があんな辛い毎日を過ごす必要がない、別の人生があったかな、とか」
病気の原因はわからない。
玲が悪いわけでも、もちろん元村さんが悪いわけでもない。
どうして玲が、玲と元村さんがこんなに辛い目に遭わなければならないのかを、俺はずっと考えている。考えても仕方がないとはわかっていても、考えずにはいられないのだ。
もしも、だったら・・・そんなこと、玲が病気になるまで、考えたこともなかったのに。
もしも、過去に戻れたら・・・。
もしも、玲が病気になる前に戻れたら・・・。
もしも、俺が玲と・・・。
「ないですよ」
「え?」
「ないですよ。別の人生なんて」
転んで手と膝が泥だらけになった結季が傍に来て、前田は結季を抱っこして近くの水道へ一緒にいって手や傷口を洗わせた。こうしてみれば、まるで、前田が結季の父親のようだ・・・うん、間違っても恋人にはならないな・・・15年後はわからないけど。
前田はいつもなのか、結季がいるからなのか、ボディバックから消毒液と絆創膏を取り出して甲斐甲斐しく結季の手当てをする。
「たくみくん、いっしょにうさちゃんだっこしにいこ」
結季が前田を誘っている。どうして子供好きでも、愛想がいいわけでも・・・むしろ子供嫌いそうで愛想が悪い前田に結季が懐いているのか、俺はずっと不思議に思っていたけれど、いま、なんとなくわかった。
高校時代、玲にパソコンを教えていた時も、俺たちが持ち始めたばかりのiPhoneの操作にちょっと躓いた時も、冷たくそっけなくあしらうふりをしつつも、ちゃんと理解できるようになるまで根気よく教えてくれる。その根気良さと面倒見の良さを、きっと結季は見抜いているのだ。他の大人のように適当にあしらわない。子供相手でも、ちゃんと向き合って相手の話を聞き、冷たくそっけなく見えても、実はちゃんと最後まで相手に付き合う優しさを持っている。
「いまな、お父さんと話してるから、それおわったらいくから、ウサギ選んどいて」
「うん!」
すりむいた結季の膝に仕上げの絆創膏を貼って、小さな頭をポンポンと撫でで再び小動物の囲いの中へ送り出す。
「また結季に誘われてたね」
「わりに積極的な恋人なもんで」
「まだ俺、許してないよ」
「婚約までは自由恋愛でしょ。まあ、そのうちお許しが貰えるかもしれませんしね」
あまり冗談を言わない前田は、結季とのことだけはこんなふうに冗談めかして話すということも、最近気が付いた。
「もらえないと思うけど」
「本気出したらいけるって思ってるんで」
「まあ、考えておくよ」
本気なのか冗談なのかがいまいちわかりづらいけど、これが本気だったらそれはそれで面白いと俺は思った。年齢差27歳のふたり。結季が16歳になったら、前田は43歳。うーん・・・許せるかな?前田は前田のままでいいけど、結季の晩年を想像したら、やっぱりもっと若い男のほうがいいかな・・・でもまあ、人生なんて、いつ何がどこで誰に起こるかなんてわからないから、若い男と結婚しても早くひとりになるかもしれないし、前田が120歳くらいまで生きるかもしれないし。
「そういえば、前田は別の人生はなかったって、言い切れるんだね」
子供といると、話はしばしば中断する。
「そうですね」
「どうして?」
「だって、例えば玲さんが仁村さんと結婚したら、結季ちゃんいないじゃないっすか。たとえふたりの間に娘が生まれたとしても、それは結季ちゃんじゃない。そんな人生、考えられます?」
身長差から、少しだけ俺を見上げる前田の切れ長の挑戦的な目が笑って、お気に入りのウサギを選んだらしい結季の呼びかけに応じて、囲いの中へ入っていった。
遠目に見る前田と結季は、相変わらず親子に見えて、大人だけのときは無表情であることが多い前田は、結季といるときはあんな子供みたいに声をあげて笑うんだな、なんて、そんなことに今更気が付いた。
あれから幾度植えても、俺が1日でも家を空けると、どうしてか折れてしまったオランダアヤメ。結婚して家を出ることが決まったときに俺はついに諦めて、それ以来、1度も植えていない。そのオランダアヤメを、また植えてみようと思った。でもきっと、また折れてしまうだろう。でも、それでいいのかもしれない。俺のオランダアヤメはきっとこの先何度植えても何でも折れて、決して花は咲かないだろう。でも、きっと、それでいいのだ。
花を上手に咲かせる人は、花を自由に輝かせている人なのだから。
「・・・結季がいないほうが良かったなんて、思った日はないよ」
オランダアヤメの花言葉・メッセージ
この想いは俺が永遠に君に送れない、メッセージなんだ。