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香らない山梔子  作者: 白石玲
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日陰のストレリチア

 


   日陰のストレリチア   


 俺はこのままで、世界一幸せなんだ


 日向を好むといわれているストレリチアを、日陰に置いたまま、もう2カ月も経ってしまった。咲きかけていたはずの花は、いまだに開くことがない。もう、咲かないのだろうか。

 玲の身体に宿ったと思った命が、生まれることがないとわかった日から、この家の時間はずっと止まったまま。毎日開花を楽しみに日当たりに移動させていたストレリチアを動かす気力さえなくした俺たち夫婦は、この先どうしたらいいのだろう。


 数日ごとに精神崩壊を起こしている玲をどうしていいのかわからないまま、もう、何日が経ったのだろう。実家へ行くといって今朝出ていき、義理の母に無事についたかをこっそりと確認し、俺はやっと家を出た。休日だから、本当は玲とふたりで過ごしたかったが、それでなくともここ2カ月、玲はほとんど外出していない。たとえ俺抜きでいくにしても、車で20分の実家までだけにしても、出かけるのは良いことだと思い、洗濯物を引き受けて、玄関先でキスを贈って見送った。本当は、あの精神状態の玲に車を運転させてもいのかどうか、それさえ俺はぎりぎりまで迷った。でも、せっかく一人で出かけたいという玲に、同乗すると言えなかった。電車で行けともいえなかった。電車に乗ったら、きっと駅か車内で妊婦さんか、赤ちゃんか、小さな子供か、もしくはそれら全部に出会うかもしれない。誰も悪くない。けれど、今の玲にはその光景はあまりにもしんどすぎて、きっと、立っていられなくなってしまうんじゃないか。そんなことを考えて、車の運転も満足にできない自身の脚を呪った。やっぱり、手元だけで操作できる車を買うべきだったのだ、なんて、今考えたって遅すぎる。


 梅雨が明けてからここしばらく、外気温は連日余裕で35℃を超え、まだ11時だというのに、今朝干した洗濯物は乾いて取り込んでから、自宅アパートからゆるい上り坂で20分の駅で、ホームに滑り込んでくる電車を待っていた。気温が高すぎて、何か、息をするのもしづらいようなホームから、ここまでしなくてもよいと思えそうなほどに冷えた車内に一歩足を踏み入れた途端、掌に何か柔らかくて小さなものが触れ、それは俺の手を掴み、少し勢いよく引っ張った。

「お兄さん、どうぞ」

 小さな子供特有の良く響く声に視線を下げると、幼稚園児くらいのひまわり柄のワンピースを着たとても可愛い女の子が俺の手を引き、入り口すぐの席へ俺を座らせようとしていた。

「あ、えっと・・・」

 女の子の着ているワンピースは今朝玲が着て出かけたものとそっくりだな、とか、どこかで見覚えのある子だな、とか、もしあの子が女の子で無事に生まれて育っていたらこんなふうに玲と同じ服を着たがる子だったかな、とか、妊娠発覚から10日間で生まれもしなかった我が子のことにまでぼんやりと思考を巡らせていると、今度は顔に近い高さから声がかかった。

「立っていたほうが楽ですか?」

 視線を戻せば、大人の目の高さの世界には女の子と似たきれいな顔立ちの俺と同い年くらいの男が立っていた。こちらには完全に見覚えがある。実際に言葉を交わすのは久しぶりだが、親戚付き合いで姿だけは見かけていたし、高校時代からの凛としつつも柔らかい声音をしっかりと覚えていた。

「いや、ありがとう。お言葉に甘えるとしようかな」

 そういって腰をおろせば、目線が近くなった女の子が嬉しそうに笑った。人からの厚意は断らずに受けること。ことに、こんな小さなレディやジェントルマンからしばしばもらう厚意にはそうするようにしている。

 前に一度、小さな子供から席を譲られた大人が、『私はそんな歳ではない』と、怒っていたのを見た事がある。だが、そんなことは絶対にない。だって、譲られているあなたは、その小さな紳士より、ずっとずっと歳をとっているのだから。せっかくの厚意を、そんな心ない、カバーグラスのように薄っぺらくつまらないプライドに傷つけられたあの子は、あれから誰かに席を譲ることができているだろうか。たった一度のあの心ない言葉で、席を譲るのをやめてしまっただろうか。もしあの時、俺が何か声をかけていたら、どうにかして、あの子の心を守ることができたのだろうか。俺は電車で席を譲ってもらうたびに、それを思いだすのだった。今となってはどうしようもない、その結末を知る由もない、あの出来事を。

「ころんじゃったの?」

 もしも俺が80歳くらいの歳であれば、こんな事は訊かれないし、道行く人たちから時折気の毒そうな視線を向けられることもなく、席を譲ってもらうことは、特別なことではないと思ってしまうのかもしれないが、いまだ30代前半の実年齢と見た目にもかかわらず、杖をついて歩く俺が小さな彼女には不思議だったのだろう。

「昔ね」

「いたい?」

「今はそれほど痛くもないかな」

 俺が女の子と話していると、大きな掌が彼女の口をふさいだ。

「結季、あまりそう言うことを人に訊いてはいけないよ」

 声の持ち主は先ほどの男。

「仁村、別にいいよ。好奇心があるのはとても可愛いし、良いことだと思うよ」

 俺が言えば、相手・・・仁村晴眞は少し眉を寄せて考えた。

「元村さんはよくても、他の人にしたら困るので」

 大きな手に塞がれた口を自由にしようと女の子は両手で手を引きはがそうとしていて、その様子がとても可愛かった。

「そうか。手を離してやってくれ。彼女と話したいから」

 俺が言うと、仁村は仕方ないね、というように手を離した。学生時代、幾度となく見てきたこの諦めたような表情も、今見ると、あの頃よりも少し大人びて、声に出さなくても威力を発揮するようだった。

「結季ちゃん、俺には何でも訊いてくれていいよ」

「お兄さんなんて名前?」

 そこでまた、彼女の頭上から注意が飛ぶ。

「結季、人に名前訊くなら、先に自分が名乗りなよ」

 30過ぎの男が4歳の娘に向かって言うにはいささか冷たく思える言い方だが、慣れているのだろう、彼女はペロッと舌を出してから、俺ににっこり微笑んで自己紹介をした。

「わたしは仁村結季。4さい」

「俺は元村柊吾。32歳だよ」

 年齢付きで自己紹介をされたので、こちらも年齢付きで返してみた。

「もとむら・・・玲ちゃんとおんなじなまえだね」

「そうだよ」

「お兄さん、玲ちゃんのきょうだい?」

 年が近いから兄弟という答えにたどり着いたようで、俺はなんと説明するか迷った。

「この人は玲の旦那さんだよ」

 迷う俺に上から説明が入る。

「だんなさんって?」

 父親似の少し切れ長気味の瞳が見上げて答えを求める。

「この人は玲と結婚しているんだよ」

「けっこんって?」

 ひとつ答えるとひとつ質問が出る。周りに小さな子供がいない俺からすれば、とても微笑ましい光景だが、毎日この手のやり取りをしているであろう仁村は慣れた様子で大人に話すのと変わらない口調で彼女に答えを返していく。

「俺が結季のお母さんと一緒に住んでいたのと同じだよ」

「・・・じゃあ、いつか別々に住むの?」

 娘に話しかけるときの一人称も”お父さん”ではなくて”俺”のままであるところが面白く、玲が言っていた通りの親子だと思った。

「それはどうかな?」

 仁村がちょっと意地悪な笑顔を浮かべて笑う。ああ、さすが、俺たちの結婚に反対し続けていただけのことはあるね。今も、反対なのかな。

「そこは否定してよ」

 今のところ、というか、今後何年経とうと、俺は玲と離婚する予定はない。玲が俺を嫌わない限り、俺が彼女を1番幸せにできる男であり続けたい。

「それはわからないですよ。人生何があるかなんて」

 柔らかくふふっと微笑んで言う仁村。

 自分ではどうにもならない病気と入院、自分で決めたが達成できなかった目標、自分で決めたがうまくいかず選んだ離婚、世間の目が多少は寛大になったとはいえ、いまだ生きづらいだろう小さな娘を抱えたシングルファーザーの現状。

 どれひとつとして、俺と毎日顔を合わせていた高校生の仁村が思い描いていた人生設計とは合わない今日なのだろう。それでも、学生時代俺が遠くから見ていたのと変わらずに背筋を伸ばし、凛とした佇まいを崩すことのない仁村は俺よりもずっと強いのだろう。

「でも、結季も元村さんと家族なんだよ」

 思いだしたように言った仁村に俺は少し驚いた。そんなことを思っているとは思わなかった・・・どちらかと言えば、俺を避けているとばかり思っていた。

「え?」

「玲は俺の従妹で、元村さんは玲と結婚しているから・・・結季と元村さんの関係って、なんていうんだろう?」

 顎に手を当てて眉を寄せた仁村に、俺も少し考え込む。そもそも、俺と仁村の関係も・・・従妹の配偶者・・・もし、俺と玲の間にできたあの子が無事に育っていたら、その子供は結季ちゃんにとってはハトコという関係になるのだろうが、俺と結季ちゃんの関係を表す言葉が思い当たらない。

「とりあえず難しいな・・・とにかく、元村さんと結季も家族なんだよ」

 玲と仁村は元から仲の良い従兄妹同士だった。母親同士が姉妹で歳が同じで家が近く、同じ学校へ通い、同じ部活の選手とマネージャーだった二人。ひとつ年上の先輩だった俺と同じく部活を通じて玲が仲良くなったことにも、付き合い始めたことにも、もちろん結婚することにも、仁村は一度としていい顔をしなかった。一時はマネージャーをやめさせようとしたし、デートの邪魔なんか数え切れないほどされた。そんな、親戚きっての結婚反対派であるのに、結婚式の集合写真で驚くほど嬉しそうに笑顔で写っている仁村の演技力は素晴らしいと言うしかない。一見物腰柔らかで人当たりの良さそうに見える彼が実はとても芯の強いはっきりとした人間であることは、玲の従兄であると知る前から知っていた。

「結季ちゃん、今度、うちへ遊びにおいで」

 小さな手で俺の左手を掴んでいる結季ちゃんに目の高さを合わせて言うと、その切れ長気味の瞳は一転、くりくりとまん丸くなり、ビー玉のようにきらきらと煌めいた。

「ほんと?」

「ああ、お泊りに来てもいいよ」

 めったに泊り客がこない我が家に眠っている客用布団の存在を思いだしながら言えば、結季ちゃんは目を輝かせて喜んだ。

「元村さん」

 一方で“お父さん”はちょっと渋い声を出す。対応はそっけないけど、可愛い愛娘を玲がいるとはいえ、嫌いな俺に預けるのはやはり気が進まないのか。

「保育園は夏休み、ないか」

「ええ、でも、お盆の1週間は俺が休みなので、一応休ませるつもりですけど」

 子供の頃は夏休みに兵庫の祖父の家へ泊りに行くのが我が家の恒例だった。それが堪らなく楽しみだったことを、今ふと思いだしたのだ。結季ちゃんは仁村の実家から数駅のところに住んでいるし、母親のほうとは全く会っていないと聞いた。我が家だって近いけれど、知らない場所に行くのは俺の感覚から言えば楽しいものだ。

「何か予定ある?」

 仁村を見上げると、俺の言ったことをどう思っているのか、何とも読めない表情だった。結季ちゃんを喜ばせたいけれど、俺には預けたくない。そんなふたつの感情がせめぎ合っているのだろうか。

「本家と実家に顔を出すくらいです」

 本家というのは玲と仁村の母方の実家で、とても大きな商家だ。今となってはなんの商いもしていなくて、ただ広大な敷地に平屋の畳ばかりの広い家、どっしりと黒光りする武家屋敷のような門の、なかなかに入りづらい家だ。俺と玲も盆の墓参りと年始の挨拶には必ず行っているが、仁村とそこで会ったことはない。

「うちも同じだ」

 俺が長い療養を経てようやく社会人となってから、相次いで祖父母が亡くなり、両親は俺が高校生のときに引っ越してきた家を売り払って兵庫の家へと戻ってしまったが、兵庫の実家へ行くのは正月だけだ。盆の間は本家と、玲の実家へ行くだけ。

「どこ行っても混んでますしね」

 何かを思い浮かべて苦い顔をする仁村。俺は基本的に誰とでもすぐに仲良くなれるし、人混みもにぎやかで楽しく、苦だと思ったことがない。まあ、朝を超満員電車で通勤しているとかだったら、さすがに辟易するのかもしれないけれど。夏休みの人混み位なら、イベント感が出て楽しいものだ。

「そうだね・・・仁村、本家に行く日は決まってる?」

「いいえ」

「良ければ一緒に行かないか?」

 仁村が離婚したのは結季ちゃんが生まれて2年くらい経ってからだったが、元の奥さんが結季ちゃんに育児放棄とDVを行っていたことで、仁村は生後間もない結季ちゃんを連れてすぐに家を出て、長い離婚調停の間別居していた・・・そのことはすぐに本家へ伝わり、本家のお母さん・・・遠すぎて正確な玲との関係性は忘れてしまったが、とにかく本家の偉い人から、離婚を止められ、離婚するとしても、娘を引き取ってシングルファーザーをするなど言語道断だと厳しく非難され、以来、本家へは結季ちゃんを実家に預けてひとりで訪問しているという話を聞いたことを思いだした。

 俺の家は由緒正しくもなんともないし、両親も兄も姉も物事にあまりこだわらないから、そんな堅苦しい場面は玲と結婚するまで一度もなかった。だから、正直言えば、そんな思いまでして本家へあいさつに行かなければならないのか、なんて思いはするけれど、それは玲や仁村が決めることであって、俺は玲の夫として彼女の決定に従うべきなことも、大人としてはわかっている。学生時代の俺だったら即行で断っていたと思うけれど、大人になった俺は、昔よりも相手のことを少し考えられるようになった代償に、少し、発想が不自由になったようだ。

「はい?」

 俺からの誘いがあまりにも意外すぎたせいか、珍しく仁村の声が裏返って返ってきた。

「玲のことが本家の人たちの耳にも入っていると思うから、できれば、仁村に一緒にいてもらえたら助かるんだけど」

 結婚してからずっと、本家へ行けば子供はまだかとせっつかれる日々が続いていた。ほしいけれどできなくて苦しんでいると、何度も言いかけて止めた。その答えは何の解決にもならず、ただ玲を更に苦しめるだけだと知っていたから。だからいつも本家への挨拶の日は顔の筋肉がこわばりそうな笑顔を無理に張り付けていた。それはきっと、玲も同じだったのだと思う。だから、それもあって、妊娠検査薬がくっきりと陽性になったあの日、玲は今まで見たことがないくらいに飛び上がって喜んだのだ。やっと子供がもてる、親になれる、これでもう、何も言われなくて済む・・・そんなすべてへの喜びと安堵が、玲にあんなに嬉しそうな顔をさせたのだと思うと、現状は、玲を殺して俺も自殺したいくらい、過酷なものだ。

 自分の身に不幸が降りかかるとは、人はあまり思わないものだ。俺自身もそうだった。高校時代走ることが何より好きだった俺は30過ぎた今は具合が悪い日は杖を突かなければ歩くこともできない。玲と結婚して最高に幸せだったが、俺たちは望んでもなかなか子供に恵まれなかった。いくつもの病院を渡り歩き、大きな総合病院にかかって半年、玲はやっと妊娠した。結婚して5年が経っていた。だが、その命は産まれることもなく、それどころか、胞状奇胎という聞き慣れない病名を告げられ、玲の身体に大きな病の可能性を残したまま、ただの流産のほうがよほどましだったと思えるほどの入院生活や手術といった苦痛を玲に強いて、いまだに玲の精神を崩壊させたまま、玲が元に戻る日が来るのを、俺も玲も何も言わずにじっと耐えている。来るかわからないその日を待つのは今までの人生のなによりも苦しく、辛い毎日だ。こうして無理にでも外へ出なければ、俺まで頭がおかしくなりそうなのだ。それはたったここ2カ月ばかりの間に起こった出来事なのに、どこか遠い昔のようにも思えて、俺も玲も、仕事へ行って家に帰るだけという流動的な毎日をただ無理やりにこなしているだけだった。

「わかりました。いつにします?」

 断られると思った誘いは快諾とはいかないが、了承はされた。それはきっと、俺の誘いであることなんかすっ飛ばして、玲のためになるなら、という、ただそれだけのことだとはわかっているけど、俺は嬉しかった。なんたって仁村は、この俺が高校時代からこれほど時間をかけてなお、仲良くなれない唯一の相手なのだから。

「予定が何もないからね、仁村の好きな日で」

「・・・16日にしようかな・・・15日までは他の親戚と鉢合わせする確率が高いから」

 口うるさいらしい本家の親戚との付き合いを嫌う仁村らしい答えだった。

「ねえ、結季も行っていい?」

 大人の会話に我慢していたようだが、どこかへ行く予定を立てていることだけは理解したようで俺と仁村の手を握る。

「あー・・・どうしようかな」

 小さい娘を見下ろして仁村が首を傾げる。

「連れてって」

 俺たちの顔を交互に見て瞳をくるんくるんと回す。

「連れていったらいいんじゃないか?」

「でも・・・」

「もし、何か言われるようだったら、墓参りの間は俺が預かるよ。玲と仁村が行けば、さして文句は出ないんじゃないかな」

 直系の血族ではない俺はいなくてもおそらくそれほど非難は受けない。血族であるが母親のいない結季ちゃんは本家の親戚からはいないもののように扱われているのだと、いつか玲が怒って帰ってきた日を思いだした。

「じゃあ、それでいきましょうか」

 仁村が俺の言葉に同意をしたのは、俺の記憶の限りこれが初めてだ。

「ところで、今日はどこへ行く予定?」

「すいぞくかん!」

 どちらにともなく問えば可愛い答えが返ってくる。

 そう言えば、玲も水族館が好きだった。結婚前のデートではよく行った。ナイトアクアリウムで、水族館に泊まったこともある。そんな大好きな水族館に、そういえばもう何年もいっていないことに、俺はいま気が付いた。どうして、こんな楽しい場所のことを忘れていたのか、自分でも不思議だ。玲を一番くらい、楽しませられる場所なのに。

「それは楽しみだね」

「でも、お父さん楽しそうじゃないの」

 ぷくんと頬を膨らませて仁村を見上げる。せっかくなら仁村にも楽しんでもらいたいのだろう。俺が父親だったら、たとえ楽しくなくても楽しいふりをすると思う。でも、それをしないのが仁村なのだ。相手が娘でも、自分を決して曲げない。芯の強さを通り越して、我が強いだけになっているような気もする。

「混んでるから嫌だって言ったんですけどね」

 まあでも、こんなに可愛い娘の頼みにも渋い顔をする仁村は、とてもしっかりした父親なのだろう。この仁村に育てられているから、結季ちゃんは嫌なことははっきり嫌だということができる子だと、玲が言っていたのを思いだした。

「羨ましいよ。代わりたいくらいだ」

 もし、玲との間に子供を授かることができていたら、こんなふうに小さな娘と手を繋いで、水族館に行ったり、食事をしたり、そんな今もあったのだろうかと、ありもしない今を想像してしまう。

「じゃあ、代わってもらってもいいですか」

「え?」

「元村さん、水族館楽しめそうじゃないですか。俺は植物園に行きたかったのに結季に押し切られたんで」

「いっしょにいこ!」

 結季ちゃんは俺の手を掴んでパタパタと上下に振る。

「えっと・・・」

「元村さんは、どこ行くとこだったんですか?」

 行き先は特になかった。ただ、玲のいないあの家にひとりでいることに耐えられずに出てきただけ。ひとりでいれば、嫌でも思いだしてしまう苦しい記憶から逃れたかったのだ。決して忘れない、一生のみ込み続けなければならない苦い記憶を。

「特にどこって言うこともなくて」

「じゃあ、丁度いいですね」

 仁村はその柔らかな物腰からは想像できないほどはっきりとした性格で決断力もあり、高校時代から年下だとは思えない相手だった。大人になってしまえば、たった一つの年の差なんてもう気にもならないが、それでもちょっと圧倒されてしまう。自分のペースを作るのが上手いのだ。

「結季ちゃん、一緒に行ってもいいかな」

「うん!」

 数駅先で乗り換えるため、俺は結季ちゃんを膝に乗せた。

「脚、大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ」

 結季ちゃんは軽いし、家のソファーだったら時と場合によったら玲を膝に乗せることもあるしね・・・と、声に出さずに返事をした。

「結季絶対寝ないでよ。もうすぐ降りるからね」

「へーき」

 結季ちゃんの重さはとても心地よくて、俺のほうが眠ってしまいそうだった。

「元村さんも寝ないでくださいね」

「あ、ああ・・・寝そうだったね」

 乗換駅で降りて、反対側のホームから別の電車に乗る。海沿いの街へ続いているこの電車には小さな子供の家族連ればかりが乗っていた。玲の妊娠発覚以来、外へ出るとどうしても、妊婦や小さな子供に目がいってしまう。眺めたところで、手に入るわけでもないのに。どうしようもないのだ。無意識だから。

 玲もそうなのだろう。きっと、俺以上にしんどくて、辛い。なんて酷なことなのだろう。せめて玲だけでも、この苦しみから救うことができたら。

「もとむらさん」

「え?」

 電車から降りるときから、結季ちゃんはずっと俺と手を繋いでいる。この小さなぬくもりにも俺は無意識に生まれなかったあの子を重ねている。

「なんか、結季のその呼び方は違和感あるね」

「じゃあ、なんてよぶの?」

 こんな小さな子供と話すことなど滅多にないし、ましてや、名前を呼ばれる関係になったこともない。だから、俺には答えられなかった。

「他のみんなはなんて呼ばれている?」

 玲が仁村と結季ちゃんを含めた仲の良い高校時代の友人と時折遊びに行くのは知っている。それが全員男だということも知っているけど、俺は特にどうも思っていない。俺の友達や仕事仲間に話すと異常だと言われたりするけれど、俺自身が気にしないのだから、玲は自由にしていい。俺にはそれを制限する権利も義務もないと思っている。それに、何故かはわからないけれど、俺は、玲に裏切られない絶対的な自信を持っているから。その自信がどこからくるのかと問われても、答えられはしないのだけど。

「あー・・・瀧は苗字にくん付で押田はおっし―って呼ばれてます・・・前田だけ、なぜか名前にくん付で呼ばれてますけどね」

 高校時代部活も違う玲の友人たちとは結婚式の一度しか面識はないが、玲からよく聞いて写真を見せられるので、顔は思い浮かべることができた。前田というのはひとつ年下の後輩の、玲が毎度ナマイキだと言っていたピアスをした男の子だ。子供にモテそうもない容姿だったが、人は見かけによらないのだろう。苦い顔の仁村の様子から、結季ちゃんが前田を名前にくん付で呼ぶことをあまり快く思っていないことが分かって少しおかしかった。

「そうか・・・どうしようかな」

 あだ名にしやすい苗字でもないし、そもそもこの苗字は玲と同じだし、だからと言って『柊吾くん』と結季ちゃんに呼ばれるのも、なんか違う気がする。

「柊吾さんのほうが自然かな。元村さんって、家族なのになんか遠いし」

 自分のはるか頭上でなされている会話にも、彼女はしっかりと耳を傾けている。

「しゅうごさん」

 俺を見上げて父親の言いつけ通りに呼び方が訂正された。

「なんか、結季ちゃんの話し方って大人みたいだね」

「周りに大人しかいないからこうなったんでしょうね」

 ああ、結季ちゃんのためにも、俺たちに子供がいたらよかったな。なんて、何気ない一言ですらそれに結び付けてしまう俺は、自分自身ですら、相手をするのが心底しんどい。


「わぁ・・・入っていい?」

 たどり着いた海辺の町の水族館は、俺がのほほんと構えていたよりはるか上をいく人混み具合だった。入り口はチケットを買うだけで長蛇の列。第5まであるらしい駐車場の空き具合を示す電光掲示板は赤色で“満車”の文字を点滅させていた。

「結季、ダメ。そこでお金払ってチケット買わないといけないから」

 相変わらず俺と手を繋いでいる結季ちゃんに言って、仁村はチケット売り場に並ぶ。俺は結季ちゃんの手を引いたまま後を追った。

「仁村、俺払うよ」

 財布を出せば、掌を向けて断られる。

「誘ったのこっちなので、俺が払います」

 それでも、俺が食い下がるのには理由がある。

「金額が、代わらないんだ」

「え?」

 俺は財布から障害者手帳を出した。

「あ・・・」

 料金表示だと、本人と介助者1名は半額。つまり、俺と仁村は結局は大人ひとり分だけ払って、結季ちゃんは無料なのだ。

「\2400になります」

 結局、仁村は俺がいてもいなくても同じ金額だからと俺に財布を出させなかった。これがもし高校時代の俺と仁村だったら、俺は仁村に言うことを聞かせられたかもしれないけれど、たった一つの年の差しか持たず大人になった俺に勝ち目はないらしかった。

「結季ちゃん?」

 仁村がチケットを買う間、俺と手を繋いだ結季ちゃんは、じっと入り口を眺めていた。家族連れでにぎわっている。ああ、玲との間に子供がいたら・・・。どの家族を見ても、俺はまた無意識にそう思った。

「お待たせしました。行きましょうか」

 すたすたとその容姿で周りの視線を集めながら軽快に戻った仁村がチケットを差し出す。本人は見られているのに気づいていないのか、それとも、慣れているから気にしないのか。

「ああ」

「入っていい?」

 結季ちゃんがきゅっきゅと手を引っ張る。おそらくこれは、自分の意見を言う時の彼女の癖か、もしくは仁村に言われてこうしているのかもしれない。結季ちゃんと仁村では、俺でもそうだけれど、身長差がありすぎて、人が多いと声を聞き逃してしまいそうだからこの癖はとても助かる。

「すごく混んでるから、柊吾さんとちゃんと手繋いででよ」

「うん!」

「引っ張ったらだめだよ」

 俺の脚が悪いことへの配慮も忘れないあたりが、仁村のすごいところだと、心の中で感心した。

「わかった」

 夏休みの水族館は仁村の予想通り、表以上に中は更に激混みで、水槽を間近で見るのが難しいほどの混み具合だ。

「みえない!」

 結季ちゃんの背丈だと、水槽の目の前に行かなければ何も見えない。でも、人が多すぎて前には行けない。

「よし、ちょっと待って」

 起きてから時間が経てば、だんだんと具合が良くなって、午後はほとんど杖がいらなくなる。結季ちゃんくらいの重さなら、抱き上げても問題ない。

「元村さん、俺、やりますから」

 俺がしようとしたことに気づいた仁村が慌てて結季ちゃんを受け取ろうと俺に近寄る。

「大丈夫なんだ。午後は割と杖いらないくらい、痛み引くから」

「でも・・・」

「杖持ってて。やってみたかったんだ」

 結季ちゃんを肩車すると、彼女は大喜び。

「元村さんの肩車ってすごい高さになりますね」

「結季ちゃん頭ぶつけないでね」

「そこまで低い場所なさそうだから大丈夫だと思いますけどね」

 周りはお父さんお母さんと子供という、家族連ればかりだ。入り口で結季ちゃんが、じっと見ていたのは、家族というよりも、誰かのお母さんなのだと、今気づいた。俺が無意識に小さな子供を目で追うように、彼女もまた、無意識に母親を目で追っているのだろうか。


 キラキラの流れ星みたいなイワシの群れに、その背に乗りたくなるイトマキエイ、ふわりふわりと舞う花弁のようなクラゲに、腹のほうが反応しそうなタカアシガニ。水族館というのは、見ていて飽きない。いつだったか、女性は水族館が好きで、男はそうでもないとどこかで読んだけれど、俺はどうもそれを基にすると女性的な感性を持っているようだ。

 結季ちゃんの希望で最前列でイルカショーを見た俺たちは一時びしょ濡れになり、結季ちゃんはアシカと握手をして、ペンギンショーも見て、お土産屋さんでなぜか俺と玲と仁村と結季ちゃんはお揃いのキーホルダーを買った。楽しい今日のお礼に支払いは俺がした。


 水族館の後に、海の家を何軒か回り、海辺で貝殻やシーグラスを拾い、浜辺を走り回って、一度は結季ちゃんがかぶっていた帽子が波にさらわれて、取りに入った俺は膝までびしょ濡れで、完全に2色に別れたデニムに結季ちゃんは大笑い。俺たちと離れてひとり浜辺に座っていた仁村はふたり連れの女の子に逆ナンされていた。

「大丈夫か?」

 ふふっと笑って女の子をあしらっていた仁村のもとへ行くと、仁村がにやっと笑って俺の手を掴んだ。

「これが俺のツレだから、ごめんね」

 その仁村の答えに、女の子たちは無言で去っていった。彼女たちに意図的に勘違いをさせた仁村は楽しそうにからからと笑った。

 そんなこんなであっという間に16時過ぎ。

 帰りの電車の中で、結季ちゃんを膝に抱き上げると、疲れたのだろう、ぐっすりと眠ってしまった。

「重くないですか?」

「なんか、心地よい重さだね」

「そうですか?」

「子供って、すごく温かいんだね」

「暑いですけどね」

 玲も結季ちゃんも挟まないで、俺と仁村だけでちゃんと会話が成立してる。それが俺の今日の一番の収穫だ。

 帰りの電車も、家族連れが目立つ。その中で、4歳の女の子とふたりの男。

「ゲイのカップルっぽいですね、今日の俺たち」

 仁村がポツリと言った。

「ああ、そうだね」

 玲が好きなアメリカのドラマにも女の子を育てているゲイのカップルが出てくる。

「なんか俺、思うんですよね」

「うん?」

「家族って、どんな形でもありだなって・・・まあ、俺自身が、こういう家族の築き方だからって言うのも、ありますけど。同性愛者のカップルでも、片親の親子でも、子供が養子でも・・・子供がいない夫婦でも」

 その言葉にはっとした。

「元村さんと玲は、いい家族だと思いますよ」

 子供がいなくても。

 きっと、そう言いたかったが、言えなかったのだろう。

「妻の従兄と、その娘と、4人家族になるのもいいかも」

 俺と、玲と、仁村と、結季ちゃんと。

「考えときます」

 俺が降りる駅まであと2駅。結季ちゃんが小さく伸びをした。


 子供がいる他の家族から見れば、子供がほしくても恵まれない俺と玲は日陰にいるように見えるのかもしれない。


「ただいま」

 アパートの下で見上げたわが家には、灯りが点いていた。玲よりも先に帰って俺が彼女を出迎えたかったのに、と思いながら玄関を開けた。

「おかえり!見て、柊吾!」

 俺が鍵を開ける音を聞いて、玄関までかけてきた玲が抱えてきたのは、ずっと日陰に置いたままだったストレリチアの鉢植えだった。

「あ・・・!」

「花が咲いたの!」

 日陰のストレリチアにも、花は咲くのだ。

 俺は鉢植えごと玲を思いきり抱きしめた。

「柊吾?」



「俺はこのままで、世界一幸せなんだ」



 ストレリチアの花言葉は・ひとり占め


 俺は死ぬまで、君をひとり占めしていようと決めた。



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