1 出会いは自分の命を拾う
薬師のラダはナオヤに出会う。
惹かれいくが、踏み込めない。
やがて神殿の方舟計画とその一方的なナオヤの役割を知って…。
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木のへし折られる音に追い立てられて、ラダは必死に走って行た。
自分のはっはっと荒い息と血のめぐるどくどくという音が、頭の中で木霊する。
鎮めたい。
もっと気配を探らなきゃいけないのに。
ちらっとそんな事もかすめたが、余裕は無かった。
相手は気配を隠してもいない。
その毒のある爪が木に当たるたびに、めきっと折れる生木の音が上がっていた。
振り返るとタイムロスになる。
とにかく必死で走る。
なんでこんなに街の近くでコイツがいるんだ。
街道から見つけた薬草の匂いに、ふらふらと森に入った。
でも魔獣除けは掛けてるし、ここは街の外壁のすぐ近くなのに…。
魔獣のメタナーガ。爬虫類のワニに似たソレは、六本の腕を使って信じられない程に素早く動く。
しかもざっと見ただけで8メートルはある。
俺なんか一飲みだ。
こんな凶暴な奴は、岩山の奥深いダンジョンで遭遇するモノだ。
出合い頭に驚いてナイフで鼻先を削った。
怯んでくれたおかげで未だ生きている。
これからも生きていたいから、必死で走る。
でももう肺が熱くて、首の後ろから生暖かい腐臭の息を感じている。
とっさに左の木に腕を突いて右に跳んだ。
チラ見した視界の片隅で木が砕かれて、でかい鱗まみれの頭から飛び散っている木のかけらがみえた。
ひいぃぃひいぃぃ。
喉から出る息も、もう情け無い音だ。
終わりの無い逃亡劇に絶望感がつのる。
手にしているのは薬草採りのナイフ一本。
メタという名前のついたナーガの鱗に刺さるはずもない。
柔らかいのは鼻先の下と喉元…。無理だ。
頭の雑念のせいか、盛り上がった木の根に躓く。
とっさに右に転がった。
がずっ。
鈍い音が左の大地に突撃する。
地面に突き刺さった顎は、粘着な涎を垂らしながら持ち上がった。
縦に一本の虹彩の入った目がラダを捕らえる。
尻をつけたまま足を蹴って後ずさる。
そんな弱い獲物を嘲笑うかのように、その大きな顎が開いた。
腐臭と、黄ばんだ牙が赤黒い口腔を覆っている。
逃げ場のないラダは、ソレを口を開けて仰ぎ見ていた。
視界を影が飛ぶ。
鳥のような影がふっと横切ると、それはとんと、本当にとんと、メタナーガの頭に止まった。
剣の白い光が反射した時には、それは巨大な頭にすっと差し込まれていた。
ラダを食うための肉襞の洞穴が、ゆっくりと傾いていく。
粘着な涎がソレを追いかけて巻き散らかされ、陽を受けてキラキラと映った。
どおぉぉぉぉ…ん。
巨体が倒れると地面が揺れる。
足元に土埃を撒き散らして倒れ臥した頭には、きっかり正中に剣を差し込まれ、絶命してもびくびくとうねっていた。
はっはっはっっっ。
過呼吸ぎみの息が胸筋を揺らす。
助かった。
助かったのだ。
腰を落としたままラダはへたり込む。
「ケガはないか。」
メタナーガを疲れた様にぼんやり見ているラダに、声の主は手を差し伸べた。
答えようと視線を上げたラダは声を失った。
そこには黒髪で黒目の小柄な青年が立っていた。
魔力の強さは色で分かるという。
だから黒は至上の色だ。
ソレを髪にも目にも持っているのを初めてみた。
ん?と手を開いてその手を掴み、引いてくれる。
ようやっと立ち上がる。
恥ずかしい話、足が震えている。
彼はメタナーガの頭から剣を引き抜くと洗浄をかけてつかに戻した。
「街の近くにこんなモノがいるのか。どれほど物騒なんだ。」
彼は笑いながら、投げ捨てた自分の荷物を拾い上げた。
「いや、いない。初めてあったよ。マジでびっくりした。普通の魔獣避けしか掛けてこなかったから、本当にやばかった。」
ラダは汚れた体をはたいて彼に向き合った。
「俺は薬師のラダだ。おかげで生きている。感謝する」
笑を浮かべた顔を見て、ラダは相手がとても美しい事に気がついた。
小ぶりな顔の中で黒いまつ毛に縁取られた切れ長な目が、黒曜石の様に輝いている。
ちょっとした動きで上気したほほは、桃の様に滑らかで上がった唇から覗く歯の白さが眩しい。
鳥の様に飛んだということは、このすらりとした体にはしなやかな筋肉がついているという事だ…。
「薬師か。ラッキーだ。俺は薬草採りのナオヤ。ケチャ爺さんに頼まれてこっちへ来た。」
「ケチャ爺さんの知り合いか。最近見ないと思ったが、爺さんどうしたんだ。」
「山で脚を折った。もう引退だって奥さんに叱られてた。」くすくす笑う声も心地よい。
「どおりで。最近来ないんで薬草の在庫がもう無かったんだ。来てくれてありがたい。」
そう、往診帰りに詰んで行こうと考えるくらいに在庫が無かった。良かった。
「ちょうど良かった。案内を頼むよ。」
そう言いながら、ナオヤは転がるメタナーガを見る。
「この爪と睾丸を持って行きたい。バラすからちょっと待ってくれ。」
メタナーガの爪と睾丸は高い。
薬効と売値、両方で。そして肉も旨い。
「肉は持っていかないのか?」
「俺の鞄はもう一杯で。」
マジックバッグだか、初めての街に張り切ってきつきつに荷物を詰めてきた。
その答えにラダはにやりと笑った。
「俺の鞄はすっからかんだ。肉も牙もバッチリさ。」
そうして二人で巨大なメタナーガを解体した。