コロナの前からも、わたし、ずっと悲惨だったから。でも、不幸じゃなかった。
コロナ禍の閉塞感から、それとは線を引いた大きな存在感に安寧が見出せると思い書き始めました。三度三度の食堂の日常を拾い始めていったら、その先の大きな存在は、大伽藍のように大きな穴を抱えている女の悲惨な生い立ちでした。
悲惨であるのに、この穴倉の暗い呪文をなぞっている間は、不思議と大きな安寧に繋がっていました。
「それじゃ、かずささんもさおりさんからいろいろと聞いてたんだ・・・・・さおりさんの旦那さん亡くなったのよ」
3ヶ月前、スコティッシュフォールドのおばあさん猫が死んだとき、客の引けた店でさおりさん、「この1年、ヒトとネコのどっちが先かなって思ってたら、猫の方が先に逝っちゃった」って告げてきた。
小雨模様の午後3時。
買い出しに出ているのか店はさおりさん1人だった。こんな天気で客はわたしひとりだけ。がらんの音と湿っぽい空気が店内を満たしていて、珍しく、待っていたように、さおりさん、口火を切って話してきたのだ。「分かっているの、肺がんで助からないの。もってあと半年だって」
それがあって、ここ三週間見かけないのを踏み込んで聞いてみたのだ。
「亡くなってちょうど一ヶ月。覚悟してたみたいだけど、帰ったら「亡くなっていた」って翌日短い電話がきたの。病院に入れずに家で面倒見てたから、さおりさん、そのあと全てひとりでしたんだろうな」
昔からの知り合いだからと手伝いで入っている香奈ちゃんは、わたしにそれだけ告げるとすぐに店の内側を向いた立ち位置に帰る。
客はわたしを除いてお食事中の2人客が1組だけ。あしらいに忙しいワケでもないのにこれ以上この場でそのことに触れられなくないのがわかり、わたしもそれに触れる前の顔に戻した。
泡の消えたハイボールは底になり、氷が溶けた分だけの水たまりをつくる体になっている。それでもお代わりの声を掛けるのは香奈ちゃんが他の動線に移るまではやめておこう。他の客でも早く来ればいいのに。そう思った。
ー あのとき、さおりさん、危ないのは離れて暮らすお父さんだって言ってたのに・・・・・猫も含めて女ばかりの所帯だって顔して話してたのに。
さおりさん、妻と同郷で齢が七つ下なのだ。話しの流れでそれを知ってから距離が縮まった気がして、お互いに同じ絵を見ているような話しになった。料理をつくって食べてもらうのが好きで、いつかはこうしたお店を持つのが小さな頃からの夢だったって。でも失敗したら後がないのは分かってるから、なんどもなんども大丈夫なのか、食べていけるのかなって言い聞かせて2年前に始めたお店。
「お店の名前、蔦吉にしないで音吉にしたの、正解だったね。始めたばかりのお店が死んじゃったばかりの猫とかぶっちゃまずいもんね」
蔦吉、音吉。むかし、辰巳芸者が男名を源氏名に付けたような名前。今までに飼った猫、皆んなそんな名前。死んだ蔦吉姐さんは17歳、あとに残った音吉は7歳。音吉は人間だったらさおりさんと同じ年頃だ。若くはないが、下り坂を眺めるにはまだ早い。妻なら二つ、わたしだったら五つ上。わたしの足なら下り坂に馴らしてもいいかもしれない。
猫の齢とひとの齢を重ね合わせて感傷的に傾きかけるのを揺り戻すように、さおりさん、あのあと、きっぱりと言った。
「もしも先に死んだのがお父さんだったとしても、わたし、それに引きづられたりしないよ。死んでしまったひとには悪いけど、わたし、このお店に命懸けてるんだもの。死んでしまったひとよりそのあとも生きていかなきゃいけないひとの方が大切だよね」
猫と一緒で娘がふたり、女ばかりの所帯。うえのお姉ちゃんは既に社会人になって県外に出ていて、下のお姉ちゃんは高校生で就職が決まってこの春巣立っていく。さおりさん、きっと、蔦吉も居なくなって急に広くなったリビングから前を、明日を見ていたみたい。
2か月前、難しい顔して客のいないカウンターに座り便せんに向かってた。お客の入ってきたのも気付かない熱心さだったので、「誰かの付け文」なんて軽口たたこうとしたら、間髪入れず「娘の高校に出す始末書なの」って口を塞がれてしまった。原付バイク乗ったのがばれて、校則違反、停学2週間に喰らったのだ。
― それで下のお姉ちゃん、身体と時間持て余して手伝いに来てたのか。
平日のお午時間なのを気も留めずに「親孝行な子だ」なんて、のんきな顔して大人げない真似をして、思い出すと顔が赤くなった。
「バイク乗ったのだって遊びじゃないのよ。お店始めて、わたしが日中こっちにいるようになってから、あの子、うちに居場所なくなっちゃって、しょっちゅうお店の手伝いしてくれているの。あの日だって、店のリフォームで貯まった段ボールとか皆んないらないものバイクに乗っけて運んでくれて。それを、そっくり見つかっちゃうなんてわたしに似て運に見放されてるわよね」
それを聞いて無性に腹立たしくなった。
「担任の先生も、事情が事情だからって申し訳なさそうな顔して呉れて。でも、規則は規則ですからって、娘は2週間の停学、親は観察日記兼始末書の提出」
それを聞いたら余計ムカムカしてくる。申し訳ないと思うなら、理不尽だと思うなら、こんなこと先に進めなければいいのに。うっちゃらかしておけばいいのに。余計なこと構わなければいい。各々が決めた小さな正しいことばかりを几帳面に前に進めて、融通の利かないヤツらばっかり増えやがって。
「いつまでもこんなのにかまけちゃいられない。夕方のお客さんに間に合わなくなっちゃう」
さおりさんの店は飲み屋ではない。オシャレな小さな白い暖簾だけど「食堂」と染め抜かれている。昼の11時30分から夜の7時30分まで。彼女の言葉を借りれば「途中休憩みたいな3時間」を挟んで通しでやっている。だから、わたしみたいな平日の端境時間に定食の主菜や副菜を摘まみに日の高い時分の晩酌2杯楽しむ客にはありがたい。手伝いの女性と一緒に仕込み作業を行っているから、本当の休憩はないのだが、ながら作業は休憩と一緒くらいに受け止めている。
「この時間、お客の煩わしさがないから」なんて。
それって、日の高いうちから夕方きめてる絶滅危惧種には最高の褒め言葉だから、端境時間を利用して妙な近づき方をするたちの悪い客はいない。似たもの同士、横の繋がりは意識せずに、時折したり聞いたりのさおりさんのお喋りを箸やすめに気持ちよく過ごしてる。
チキンのクリーム煮、マダラのラード炒め、インゲン豆のヨーグルト和えに男爵イモのプデイングなオムレツ。主菜副菜どっちにしたって、腹の重くならない酒のあてになる。
「こんなご時世になると、うちのお客さんって本当に宝よね」
お客の誰の顔を目当てでなく褒めちぎる。笑わず押しつけず、いつもどおりの素直な顔で。
― こんなご時世
どの店もどのお客も、あたまに浮かぶのは同じ言葉。
コロナ。或いはコロナ禍。
「お上が8時までってお達し出す前からうちは19時30分で店じまい。うちのお客さん口がキレイだから、店の灯りを消す20時には店は今夜の匂いを消して明日の顔に変わってる」
店にひとの気配が入るのは、11時から20時まで。さおりさんたちは開店と閉店の30分前に入いる。お客が最初の口に入れる30分後に合わせて、新しい火を入れたり器に移し替える作業にかかる。
「うちのお父さん、昔っからいろいろ病気持ちになるひとだったから。今みたいに施設なんてなくて、重くなれば病院、居られなくなったらうちでお布団引いての繰り返し。いつもうちのお母さん、三つくらいのお仕事掛け持ちして、昼と夜区別なく何回もアパートのドアの開け閉めしてた。幼い頃からずーとそういう家に馴れちゃってたから、うち、学校から帰ると、手洗いしてお父ちゃんの汚れ物の後始末するのと、家の料理するの身に付いていったの」
むかし話がはいると、子ども時分の話しになると、さおりさん、西国の声に変わっていく。ちょっと懐かしそうな、でも寂しそうな哀しそうな声。
お客の混むのがお午と夕方なのは他の店と一緒だが、自分の胃袋と生活スタイルでいつでも自由にやってきて食べたり飲んだりすればいいというのがこの店のポリシー。さおりさんたちはお店にいる間、料理を出し料理を作り届いた食材の下ごしらえを続ける。だからお品書きは二つに分かれ、仕上げる度に始末の度に書き直す。
いまのお料理 ラムの北インド風(残り薄)
アンコウのくずれ煮(鍋半分)
なまり節のサラダ(残り3皿)
卵とトマトの炒めもの
つぎのお料理 シマ腸おでん(鍋いっぱい)
真イワシの根菜炒め(大皿いっぱい)
甘エビのサラダ(10皿)
グリーンピースの白和え(10皿)
ご飯と汁物(ハイボールもサワーも此処では汁物と呼んでいる)は、家にあるものと変わりないからと個別の名前は出したりはしない。「そろそろご飯」「お酒お代わり」で済んでしまうから。たまに聞いてくる客もいるが、別に料金表貼ってるからそれで足りるでしょうと、にっこり。
お代
主菜(お肉、お魚)500円
副菜(平皿、小鉢)300円
ご飯(2杯まで)300円
汁物(お酒は3杯まで。それ以外の汁物でご飯を頼まれた方はご飯料金に含まれます)400円
アルコールがなければご飯と一緒で2杯まで。酒も2杯にすると、口のキレイなお客でも文句が出るからと3杯。お念仏唱えるみたいな低い声して「馬鹿の三杯汁」「馬鹿の三杯汁」と唱えながら、特別でない美味しさを過ごす。 ー 特別なんていらない。毎日毎日一度見せる美味しそうに過ごす顔があればいい。それが愛おしい。それが懐かしい。
「此処でのことって、奥さんやお母ちゃんがして呉れんのと一緒でしょ。うちのお父ちゃん、お母ちゃんが夜の仕事に出かけると、寝たふりしてたの止めて、すぐにうちに熱燗つけさせはった。焼酎と違うてお酒だったら、うちが料理に使たようにすればバレんから云うて。魚の煮付けも、イモの炊いたんのでも薄味にせんとあかんかった。それをうちの手ずから食べさせてあげるん、飲ませてあげるん。お父ちゃんの両方の掌、腕ごと使えんようなっとるから。病人が食すんやからお番菜みたいなもんにしたらあかん云うて、薄味仕立てでするっと飲み込む舌触りが、お父ちゃんのノドには丁度ええ云うて」
コロナ、コロナ禍でも、この店の日常は変わらない。マスクの作法だけは新しく加わったけど、自分の箸廻りさえ汚さず静かに飲み食いする客ばかりのこの店で、どのような作法が周囲を傷つけないかは、誰もが心得ている。溌剌は似合わなくても病的なそぶりは微塵もない。音のしない水のせせらぎのような清冽。
むかしから毎日毎日、一日一日を隠れた日常で生きて、いまコロナ渦で線を引いとる世間様たちよりももっとむかしから手前に一線を引いた者たちばかりやから・・・・・
この店で、お上が心配する飛沫感染が漂うことはない。
「お母ちゃん、いつもおらんから、子どもはうち一人やから、学校から帰ると、寂しがりの屋のお父ちゃん、首を長ごうして待っておったの顔してうちを迎えてくれる。冬の寒い日なんか、移る病気やないから早う入いり云うて、微熱のせいか少し高い体温で温うなった布団に入れてくれて、お話してくれる。・・・・・・怖いお話。うちみたいなエエ子で可愛い女の子が食べられるはなし。お下げ髪ごとあたまから一環の終わりやったらええのに、お腹の少しだけ胸よりもぷっくりしたへその下辺りを、もぞもぞと長い時間かけて食われていく。腸の詰まったお腹の中が空洞になっていく。お父ちゃんは得意がって何度も何度も同じ話を繰り返し聞かせる。女の子はうちの名前に変わって、ぷっくりのお腹はぴっちりのお尻に変わって。最後はいつも『血がドクドクどく、ドクドクどく』のアヒル口の口真似を延々と続けてくる。そんな怖がるうちに、無うなった掌の代わりにイザリですり減った肘の先っぽの真ん丸を器用に小指みたいに震わせて、涙いっぱい貯めとるうちの睫毛ぬぐって、―いつもお母ちゃんの代わりにお父ちゃんの奥さんやって呉れておおきにー云うて大きなくせにゴツゴツがひとかけらもない両手でうちを挟んでくれて、そのうちものすごう眠うなって、気がつくと、お母ちゃん帰っておって、怒ったり、泣いたり・・・・・うち、目を覚ましたらあかんことが分かって、そのまますやすや寝たふりして、しばらくすると、お母ちゃん夜のお仕事の匂いに変わって、出て行きはる。あんまりたくさん泣いたり怒ったりしたら夜のお仕事に差し支えるって、お父ちゃん、肩抱きながら慰めはったわ」
さおりさんの日常はむかしからちっとも変わらない。子どもだった頃から毎日毎日のお三度と身内の面倒をみていくのは一緒。
― 身内やもの、己れの身体と一緒やもの、いつでもどんなときでも変わりようがない。ー
それはコロナ、コロナ禍でだって変わらない。年老いた猫が死んでも、身内の大人たちが嬲りあって消えてのうなったり、死んでしまって本当におらんようになってしまっても、一人ひとちが一人っきりなのはいつもどんなときでも一緒。
― こないな身体やもの、性根やもの。くらべる相手のおらん独り身や
特別なんていらない。ほかと比べんといかんような心持ちにならんで済む。日常はうちが生きている限りいつだって普通。
「うち、お母ちゃんともお父ちゃんとも本当の親子やないねん。お母ちゃんの夜のお仕事で一緒だった女、嘘つきの女、お店からもお母ちゃんからも金借りてそれみんな踏み倒して逃げてしまった女、その女の子どもなんよ。そのひと、うちをお母ちゃんに押しつけるとき、うちのお父ちゃんあんたの彼氏やゆうて出てったん。
お母ちゃん、その話ししながらうちのほっぺぶつねん、足の指つねるねん。今朝は手足も痛うないし気分がいいからって、お父ちゃんがパチンコしに出払ったとき、次のお仕事までの間だけ、息抜きするみたいにうちを打つねん、つねるねん。同んなじ処だけ何回も、人差し指と中指の指の腹だけ使うてな。うちがヘマしてぶつけた小さなアザしか残らんよう、あとでうちの裸をお父ちゃんが見たときに言い訳できるよう、虐待の痕は遺さへん。お父ちゃんに捨てられたら、お母ちゃん生きていかれへんからな。
うち、早う大人にならんとあかん境遇やったから、すぐにませたガキになりよった。卒業してチューガクになったら、お母ちゃん可哀想なヒトやと思った。哀れな目で、上からの女の目で見てやってん。せやけど、なんで急にのうなってしもたんやろう。うちがお母ちゃんと同んなじ背の高さになった晩、夜のお仕事にいったあとお母ちゃん蒸発してしまった。下着ひとつ余計に持ち出しておらんから、蒸発ゆうのが一番ぴったりや。お母ちゃん、出かける前に、うちと同んなじ背格好になって、おっぱいも同じになったらお古のブラあげるって、なんでかその晩上機嫌やった、のに。
工場やお店や警察の大勢の人がこんな小っちゃいアパートにしゃがむこともできんほどやってきて、好き勝手に話すだけ話して帰って行った。
あないにやかましかったのが皆んな一度にいなくなって、すっからかんのスコーンの声だけ響いた。あんまりはっきりスコーンが聞こえたんで、振り返るとお父ちゃんが口真似でスコーンっていってる。少し薄ら笑いしたいつもの顔やけど、こんなことのあった夕暮れに聞くと、お母ちゃんがなんでのうなったか知っとる顔に見えた。
ー 知っとるだけやない、仕組んだやろ、仕掛けたやろ。うちらの知らんお母ちゃんの身体だけ溶ける草噛んで、あたまからがぶり、おしりからぺろり蟒蛇みたいな口開けて、その腹の中に納めたやろう。
「かるかん、どうぞ」
酒を終えても今日の腹じまいとならない客には、摘まんだ舌あとだけ遺して腹には貯まらぬこの白くふんわりした菓子を小皿にふたつ、ほうじ茶と一緒に運んでくれる。鹿児島の軽羹とは違った杏仁豆腐の酸味を感じるこの菓子を食べると、飲んだ酒も食した料理も昨夜の晩餐の記憶となって距離を置く。これで、「もう1杯」とならないのが不思議だ。「みんな口のキレイなお客やから」のおだてばかりのはずもなく、いつもさおりさんの手の下から出てくるふた切れの正体は分からずじまい。
それなのに、だれも尋ねない。食わなくなってから1月が経つ。
なんで、お父ちゃんが、そないな芸当が出来るん。そないな器用な真似、肘膝の先からの両手両足のないお父ちゃんが、パチンコ行くのにも戸板に乗せた身体を心張り棒使こうて躄らんと台に乗るにも兄ちゃんふたりに両手両脇抱えられんといかんお父ちゃんが、どうやってお母ちゃんをスコーンと消せるねん。
うち、知ってるねんでぇ。お父ちゃん、両手両足隠して持ってはるの。ぴったりに絞った膝と肘のその巾着袋の中にキレイに折りたたんで持っとるの。ううん、そうやない。ばらばらにした四本、ビリヤードのキュー入れる革袋の中に、湿ってカビが生えんよう除湿剤入れて大事に抱えとるの、知ってんねんでぇ。もっと言ってあげよか。お母ちゃんをスコーンと溶かした草、葉っぱの方からやのうて根っこの方から噛んでいくと、消えたもんが元通りになるの。生まれるときのお母ちゃんのお腹の中におった時みたいに生えてくるの。
見たんなら知ったんならしょうがない。お前のいうとおりや。お父ちゃん、己れの両手両足ちゃーん大事に仕舞ってる。ほしいときに出せるよう一番大事な処に仕舞っとる。どこやろな、しってるやろ。しっとるから、反対に口から出まかせ云うとんのや。ホントのこと云うたら、お父ちゃんと金輪際離れられんよなるの怖いからな、お父ちゃんも怖いんやで、お母ちゃんばかりやのうて神さま世間さまちょん切って、修羅の背中だけ向けて生きるんや。
いやや、いやや。この家からお母ちゃんいう駒がのうなったら、うち、お父ちゃんふたりっきりになったら、くっついたっきりもう一生離れられんようになってしまう。こんな小さな背中やのに、真っ暗な穴を掘って躄りのお父ちゃんの臍から下に譲らないかん。
そないに心配せんかて、お父ちゃん丸まって入るさけぇ、いったん入ったら、もう二度と抜けんでもええんやったら、膝から下どころか太ももの付け根からばっさりお前に呉れてやる。溶かして半透明の白い柔らかいきめのええ甘いお菓子みたいに姿かえて、小そうなる。見えんくらいに小そうなる。神さんからも世間さんからも見えんくらい小そうなって、そうした敵の目を欺いてお父ちゃんとふたりで生きてくれ、なぁそれがええ、それしか残ってないのんはお前も承知のはずや。
外は雨。あれから雨の続かない日は訪れてはこない。ズボンをまくり傘をさして、それでもこの店に通っていく。もう隣の店もその隣の店も看板を下ろしたまま。客が来ないと分かっていて開ける店はない。開けていない店を目当てに来る客はいない。ひとの顔の見えなくなった通りは降り続く雨のせいばかりでないが、すっかり街の匂いを無くしてしまった。屋並みばかりが並ぶ建物しか見せてこない。
それでもこの店の灯りはついている。十一時から二十時までは、中に人が入り、これから入る人のためにせっせと料理をつくっている。世情がどう変わろうとお三度する手と口は変わらない。数もかたちも変わらない。さおりさんがいなくてもさおりさんの店は続いていく。香奈ちゃん美紀ちゃん由美ちゃんの手がつくり、江藤さん墨田さん是永さんの口が食べる。これからも世間がどんなに変わっても、お店に人の居る限り、つくる掌と食べる口のある限り。人は生きてる限り食べる生き物だから、身内が死のうが世間がすべて敵に廻ろうが、悲しかろうが苦しかろうが食べていく。食べて悲しがり食べて苦しがる。毒でも何でも腹に収めなければ生けてはゆけぬ。
女ばかりの住処の奥の二畳間に布団が敷かれ、ミイラになった男がひとり冷たい身体を横たえる。溶けたカルシウムの棒みたいに軽く白くなってもう何十年経つんやろう。ピクリと動かんのにまだ子どもを成そうとする。女の子ふたり授かったんやから今度は男ん子がいいな。息も出せん口からアブクばかりがそれを囁き、歌い続ける。
女の子ふたりも授かったいうに、ててごの真似事ひとつさせてもらえんと、布団しか収まらん部屋に押し込められてこの日を迎えんばならんとは、のぉ。
ー あんさんはええお父ちゃんや、優しゅうて家族思いで、不慮の事故さえなかったら、うちもこない朝昼晩と働かんでも、娘ふたりに母親の顔だけ向けて育ててやれたのに
お前んが繰り返し聞かせてる繰り言丸写しで覚えてどれくらいたつやろう。3年、5年、10年、20年。したの姉ちゃんがまだ高校生やったから20年は経ってはおらんか。でも、経ったかもしれん。お母ちゃんが居のうなったあと、お前とふたり何処ともしれんまま彷徨うて、どこぞで孕んだかかも分からんまま、ここまでたどり着いて。やっと親子三人と思う矢先、お前はあらん限りの白布で、今日限り躄ることさえ許さん形相でぐるぐる巻きにしよった。それから先は何も見えん話せん毎日やった。聞こえてくるものだけが許される毎日やった。赤子の声が響いたときは、見せてはもらえん不憫よりお前と血を分けたものの誕生に涙が止まらんかった。どう転んでも、お母ちゃんのいた3人の時のこと考えたら、お前んから赤子を授かるのは理不尽や不条理や。人の道に反した所業や。せやけど、命はこうして宿り育っていく。それも二つも。二つ目はお父ちゃんの分からんところで営まれたのやもしれぬ。二十年もこうして音だけの世界におっては、時のことも含めてものごとの分別は真っ直ぐにはいかんことが骨身にしみてよう分かる。
せやから、もうそないなことは、今更もうどうでもええことや。
何度も何度もオカミの声がサイレンと一緒に屋並みばかりの通りを奔ってく。お達しは、どんなにキレイに歌おうが耳から入ったりはしない。冷たい両手であたまを押さえ込んででも無理にも読まそうとする企みは、海のように流れては来ない。あの両手で押さえ込んで眉間の大きな血管が沸騰しアブクをあげて屍のように横たえる者がどんなに現れようと、執行する段になってそれを翻すことはない。
わたしたちは、ここで、こうして過ごすより寄る辺はない。スコテッシュフォールドよりほか生きてるもののない侘び住まいで白く軽くなった骨を相手に功徳のためとポリポリ食すさおりさんに較べ、端にも掛からぬ毎日をこうして恥を忍んで生きながらえる。
― うち、ほんまに女の子ふたり産んだんやろか。この腹にお父ちゃんの子を宿すなんぞ、お母ちゃんに誓って出来るはずはないそないな大それたこと、ほんまに生き通おしたんやろか
お母ちゃん、お父ちゃん、娘ふたりには名前がない。名前をもらわれぬかりそめの親子。子である親子も親である親子も、ほうじ茶そえたカルカンふたつよりもはかなく溶ける淡雪のよう。
ー 恥を忍んで生き通す
と、三度繰り返す。繰り替えさなければ、わけの分からぬ穂先に追いやられていく閉塞感のやり場がない。
ただ、目の前に延々の苦海を泳いできたさおりさんの存在だけが救ってくれる。コールタールのような重く冷たい海を日の出の希望も持たずに延々と漕ぐ音だけが、今を踏みとどまれる希望だ。