月曜日
ふわりと、初夏の香りが頬を撫でる。
その少し酸っぱいような香りを胸に吸い込みながら、ゆっくりと布団から這い出てコップ1杯の水を口に含む。
学校はもう登校しなくていいらしい、あと7日で終わる世界では、何も学ぶことなどないということだろう。
いや、単に教員が教えるための時間を無意味に感じたからかもしれない。
だが、彼は学校に行こうとしていた。
別に彼は勉強が好きな訳ではないし、かといって部活が大好きな訳でもない。
ただ彼は学校に行く以外の選択を取ることが出来なかった。
理由は単純、やり残した事があるからだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
当然のように電車は動かない。運転手は家族と触れ合うのに夢中なのだろう。
幸い彼の家はさほど学校と遠くなかった。自転車の鍵をスルリと差し込み、力強くペダルを踏み込む。外は閑散としていて人の影は見つからない。
しばらく自転車を走らせていると緑色の校門が見えてきた。錆び付いていて御世辞にも綺麗とは言えないようなその校門をくぐり自転車を止めて教室に向かう。
駐車場には自分以外に数人の人影が見えた。おそらく彼らも同じ目的で来たのだろうか、あるいは別の目的があるのか。
教室に入り持ってきた鞄を机に置く。
彼の目的まで、あとは待つだけとなった。
「おい亮おはよ!……学校来るなんて暇だねぇ、死ぬ前にしたいこと無いんかぁ?」
「うるせーよ、お前だって来てるじゃねぇか!似た者同士だろ、仲良くしようぜ?」
何時もの風景、何時もの会話。
だが、その内容だけは何時もとは違っていた。
そこに小さな悲しみを感じながら、亮と呼ばれた彼は会話を続ける。
「……んで?お前は誰狙いなんだ?安心しろ1週間で全部パァだ、秘密もクソもねぇよ」
「お?亮は青春しに来たんか?人は見かけによらないねぇ……」
「うっせぇ、茶化すなや!つかこんなときに学校なんてそれ以外の目的がある奴なんているか?」
「ここに1人いる、俺以外の家族が、最後に会っておきたい知り合いに挨拶回りに行っちまってよ……寂しく1人で家にいるのも癪だし遊びに来たってわけ」
「なんだ、つまんねぇな」
彼の友人らしき男性はカラカラと笑う。そのまま2人は他愛も無い会話を交わしながら1日を使った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
結局、彼は目的を達成することが出来なかった。
家に帰る支度をしながら彼は明日をどうしようか考える。目当ての人が今日来なかったからといって、日曜日までに1度も来ない可能性は0ではない。だが、彼も会いたい友人は他にいるのだ。たった1人に構っている余裕はない。
帰り支度を終えた彼は、教室を出ようと扉に手をかける。
「……亮」
教室を出る直前、彼は友人に呼び止められる。
その真っ直ぐと澄んだ瞳に、彼は吸い込まそうになる。
「亮、ありがとな。お前と会えて楽しかったよ」
「……柄でもねぇ事言うなよ、お前らしくもない」
「……それでもだ、もう会えないだろうしな」
「…………臭い言葉だな、本当にお前らしくねぇや」
軽く言葉を交わし彼は教室を出る。下駄箱へと進む彼のその後頭部に、折り紙で出来た紙飛行機がぶつかった。
《お前が待ってた奴、多分金曜には来るよ。俺の彼女が言ってた。教室で女子会やるんだってさ、笑えるよな。
頑張れよ。》
折り紙の翼に書かれたその何度も見たことのある文字を読みながら、彼は後ろを振り返ることなく手を振った。
彼の後ろからも、手を振っている気配がする。
何年も続けてきた、何時も通りの帰り際の一コマ。
あの親友と2度と会うことはないだろう。でも、彼はこれでいいと思っていた。
豪華な別れなんてらしくない。
俺の親友には、これで充分だろうとでも言うように、彼は無言で学校を出た。
教室に響く誰かの嗚咽は、風に吹かれて消えていった。