第四話 物語は居候の幽霊と共に(後編)
十分後——。
「あのー、生きてますかー?」
幽霊と思われる白い着物を着た幼女に生存確認をするという矛盾。
だが、このままでは困る。金縛りにあい、テレビから半分体を出した幼女を眺めて、はや十分。体は痺れ、全身が痛い。
そしてなにより、トイレが限界なのである——。
ユウタは緊張が和らいだことで、下の方もゆるゆるになってしまい、このままでは幽霊だとはいえ、小さな女の子の前でエム字開脚で放尿するという大惨事になりかねない。
「おい! 生きてんなら返事してくれよ!」
無反応——。
これは、かなりまずい状況である。開かれた股の前にぐったりと倒れたら少女がおり、少女の頭とユウタの股との距離は約五十センチ。放尿した場合、言い逃れることは無謀である。
ぐっと歯を食いしばり、膀胱に力を入れる。
「おい……、頼むよ。なんでもするから許してくれ……」
「……ホント?」
さっきまで一ミリも動かなかった少女が、その言葉を待ってましたと言わんばかりの速さで食いつき、ひょっこりと顔を上げた。ユウタは、こいつ起きてただろ、と怒りがこみ上げてくるのを抑え、平静を装う。
「本当だ、だから、あっ……」
——やばい、ちょっと漏れた。
ユウタは咄嗟に歯を食いしばり、上を見上げる。
「……お兄ちゃん、どうしたの?」
少女が心配そうに、少し潤った純粋な黒い瞳で、ユウタを見つめ、ユウタはぶちまけたい思いと、下から込み上がってくるものを押さえつけ、深呼吸をする。
「だ、大丈夫だからね、動けるようにしてくれると、お兄ちゃん嬉しいなー」
「……えっと、でも、それは——」
少女は眉をひそめ、困った表情でぼそぼそと呟くように喋るため、声が小さくて後半が聞き取れない。
「頼む、なんでもするから、約束する」
ユウタの大人としての威厳などどこにもない、神に忠誠を誓ったかのような表情に、少女は少したじろぐ。
「……にげない?」
「もちろん!」
引きつった笑顔を強調し即答。少女は頬杖をついて黙考し、柔らかな印象を与える大きな目を細める。
「……わかった」
不満げな顔をしつつも少女はうなずき、ゆっくりと腕をユウタの首に回す。
「え! なにしてるの⁉︎」
「……じっとしてて」
動揺を隠せないユウタに対して、凛とした表現を崩さない少女。
そして、少女の唇がユウタの唇に重なる——。
「……」
「おい! なにしてんだよ!」
咄嗟に少女の肩を掴み、少女を離す。
「あれ? 動いてる……」
体が動いている事に気がつき、確かめるように手の指を動かし、勢いよく立ち上がる。
——あ、半分、漏れてる。
バレないように光の速さで、居間から逃げ、いろんなものを処理して帰ってくると、幽霊は平然と小さなテーブルの前に座っていた。
「……おなか、すいた」
ユウタが漏らしたことについて、ツッコミがないことに安堵する。
「お腹すいたって、幽霊ってなに食べるんだよ」
「ラーメン!」
少女のこもっていて、よく集中しないと聞き取れなかった声が、急に元気になる。
「え? 幽霊ってラーメン食うんだ」
「幽霊じゃない、ゆる子」
「ゆる子?」
「……うん、ゆる子はゆる子だから」
強気の少女にユウタは気後れする。
「あぁ、わかったよ、ゆる子だな」
「そう」
ゆる子は機嫌を取り戻し、満足げにうなずいた。
ゆる子の提案を聞き入れ、買いだめしてある貴重な即席麺を躊躇う気持ちを必死に抑えながら開封した。
「はいよ」
目の前に出された出来立てのカップ麺を前に、あまり変わらないゆる子の凛とした表情が少し和らぐ。
「……いいの?」
ゆる子は餌を前に飼い主に「待て」と言われた犬のような表情でユウタを見ていた。
「いいよ、熱いから気をつけて食べろよ」
子供らしい無垢な笑顔にユウタは目を逸らす。
「あつっ!」
「おい、だから気を付けろって!」
「……ごめんなさい」
そう言うとゆる子は、冷たい息で麺を冷やし、また食べ始める。
滝が逆流するかのように、勢いよく麺が吸い込まれていき、そんなに一気に口に入れて窒息死するんじゃないかと考えているユウタを横目に、少女は口いっぱいに麺を啜った。
柔らかそうなほっぺたが膨らみ、熱いものを食べたせいで少し赤らんでいる。
長く綺麗に並んだ睫毛と少し垂れた目が、幼さと柔らかくフワッとした印象を与え、腰まである艶のある黒髪と汚れを知らない黒く澄んだ瞳が、凛とした大人しさを感じさせる。
「……お兄ちゃん、そんなに見られたら、恥ずかしいよ」
ゆる子と急に目が合い、ユウタは恥ずかしさで伏し目になる。
「なんでもねぇよ、それよりお前は何しにきたんだよ」
ユウタがそう言うと、からになったカップ麺を前に、ゆる子は真っ直ぐな眼差しでユウタを見つめた。
「……えっと、呪い殺しにきたの」
「うん、それは、無理だ」
即答。
「……そんな、、なんでも言うこと聞くって言ったのに……」
幽霊は理不尽に呪い殺すものだと思っていたユウタは、死を直談判する幽霊もいるんだなぁ、とその献身的姿勢に関心しながらも、落ち込むゆる子を横目に、腕を組み呆れた顔をする。
「いや、普通に考えてそれは無理だろ。てか、なんで僕に死んで欲しいんだよ」
「……」
ゆる子は俯いたまま、黙っていた。
「えっと、じゃあ、これ食ったなら帰ってくれない?」
「だめ! 今帰っちゃうのは、絶対だめ!」
黙っていたゆる子が勢いよく立ち上がる。その焦った表情からただ事でないことを感じ、ユウタは尻込む。
——嫌な予感しかしない。
また、ユウタの危機感知レーダーが反応していることに気がつき警戒すると、ユウタの強張った表情を見て、ゆる子は落ち着きを取り戻し、その場で正座する。
「だいじょうぶだよ、ゆる子がお兄ちゃんを守る。
お兄ちゃんが殺されても、ゆる子が死なない限りお兄ちゃんは死なないから」
「——ん? どういうことですか?」
「……えっと、ようするに、お兄ちゃんはもう人間じゃないの——
さっき、お兄ちゃんが動けなかった時にかけた、ゆる子の呪いでお兄ちゃんは半分死んで、ゆる子と繋がったの。
だから、お兄ちゃんは死なない代わりに、ゆる子のお願いは絶対に聞かないといけなくなったの」
——は?
「……これで、ずっと一緒だね、お兄ちゃん」
少し照れながら、ユウタを見つめるゆる子。
こうして、須藤裕太の新生活はスタートしたのである。