弱者とオカルト商売
ちょっと長めのエッセイです
一応、書きたいことは最初の方にまとめてあります
皆さんは、ニューエイジ・ムーブメントなるものをご存知でしょうか?
いわゆる、宗教および宗教を名乗らないオカルト的思想の潮流です。
この潮流の一部は、金銭的詐欺や狂信的な自滅行為や他害行為と結びついて、大きな社会問題を招きました。カルトやセクトという単語でネット検索すれば、いまでもその過去の痕跡や、現在進行系の被害を確認することが出来ると思います。
そして、大なり小なり、何らかの分野でコミュニティを運営管理する立場に立つのならば、これらの宗教を隠れ蓑に悪用したり、その隠れ蓑すら使用しない反社会的および反検証的な傾向には決別する必要がありますし、怪力乱神を語る参加者はすみやかに退場させるべきだと思います。
逆にそれが出来ない、もしくはしないコミュニティは、その旨を明記すべきだと思います。明記して有れば、それを納得した上でそのコミュニティと言う名の新興宗教団体に入信するだろうからです。
そう、怪力乱神を語るコミュニティは、それがどんな分野のどんな知識を扱うものであれ、それは新興宗教と呼ぶべきものです。
このエッセイでは、なぜそうなのか?
どうして、誤った知識の流布をコミュニティ内で放置してはならないのか?
を、書いておきたいと思います。
ではみなさん、オカルトをご存知でしょうか?
デカルトじゃないよ(笑)
オカルトです。
オカルトとは、秘儀的、秘話的なもの。超自然的なもの。の事。と、言われています。
ここで言う超自然的とは、すなわち自然科学の枠を超えている。という、意味合いですが、残念ながらポジティブな意味は薄いです。有り体に言えば、実証検証に耐えれない憶測や誤認。詐術・与太話の類という意味合いが強いです。
では、自然科学とは何でしょう?
今の人達にわかりやすく言えば、学問の事です。
自然科学とは、人間と自然という対置の構図に基づいた考察に基点を置いた、検証と実験と考察を体系的にまとめた知識の体系です。まあ、いわゆる普遍的な意味での学問ですね。
少し横道にそれますが、日本語で普通というと、普遍的という意味がかなりの割合で含まれて、それ自体が妥当性・正当性を持つので、なかなかに気軽に使用するには敷居の高い言葉だと思います。功罪多い、闇深い言葉ですね。
閑話休題
さて、歴史的に見ると自然科学と宗教というのは面白い関係です。そもそも太古の人間の生息地域の大部分では学問と宗教は不可分的なものでした。
ウパニシャッド哲学、初期ギリシャの四大に関する理論、四象卜占(易学)などなど
これらはその手法からして明らかに自然科学とは異なり、実験検証よりも考察に重きをおいた知識体系でした。これは、過去の偉人たちが愚かだったからではありません。
簡単に言うと、その時代の計量機器・計測機器の精度が足らなかったか、もしくは存在しなかったからです。自然科学は実験器具なしには成立しえません。観測できないものは、学問の対象外なのです。
そして、観測できないものはオカルトの領域にカテゴライズせざるを得ないのです。
哲学は学問ですが、自然科学ではなく人文科学です。最大の理由は、人間の内面を定量的に観測する手段が無いからです。つまり、人間の精神活動を定量的に観測する計量機器・計測機器が存在しないということです。
逆に言えば、もしも人間を定量的な設計図を元に、精神的な意味でも寸分違わず量産する事が可能に成れば、哲学も自然科学として扱うことが出来るでしょう。それは、人体および人間の内面の計測と「実験による操作」が可能になった事の証左だからです。
果たして、このような人間の工業製品化が良いことなのか?というテーマについては、いまだに社会的合意を得られていないと思います。
ちなみに、私は人間の工業製品化や、哲学の自然科学化には不同意です。反対する立場を自認しています。最大の理由は、人間を工業製品のように扱うと、人間の尊厳の陳腐化が発生するからです。ただ、それは、このエッセイの本題ではないので、横に置いておきます
尊厳を持つものが正しいのか?
といえば、これは全く意味の通らない問いで、そもそも、尊厳は正しさとは別の尺度なので、正否で語ることはできません。尊厳の根源とは、自滅回避のプログラムにすぎません。尊厳が無ければ、人間は自己保存の理由を持ち得ないので、それを保持するように宿命づけられて居るのです。
それは、強者であれ弱者であれ、人間を守るための基本的な原理なのです。
生きるために弱いものを食う。より優れたものを得るために、弱いものを不遇に置いてでも強者を優先する。
これは弱肉強食の原理であり、この現象は人間を含めて自然界でありきたりに観測される事実です。ただ、誤解してほしくないのは、尊厳とは関係なしに、この原理がすべてを支配していないことです。
簡単な話ですが、言語を持たないことを定説とされている野生動物の中にも、この原理に反した行動をとる存在は居ます。
具体的に言えば、子育てというものがそれに該当します。
子供は弱い存在ですが、親の食用に供されない場合が多いです。そこにどのような精神作用ないしは生化学的作用が存在するのかは、未だ証明されていませんが、これも生存本能の一種なのだろうという事は定説として通用しております。
人間の言うところの尊厳という概念は、いわばこの生存本能の中でも、特に自分とそれに親しい存在を、弱肉強食の原理から免責するために存在する作用を言語化したものだろうと、私は考えています。
閑話休題
さて、なぜここで横道に逸れてまで尊厳の話をしたかと言えば、オカルトを語るためです。
オカルト、という言葉が歴史において一般大衆に広く浸透したのは二度の大戦前もしくは戦中だと考えて良いと思います。
いわゆる人智学と神智学の系譜です。
念の為に書きますが、これらは学問とは根本的に異なります。
学問とは、検証と実証をともなった体系的な知識とその探求の歴史です。もっとも即物的な実験と縁遠い形而上学ですら、人間の理性や思惟と呼ばれる概念で、他のそれらを検証します。
つまり、検証して問わないものは学問と呼ばないのです。
その為、人智学と神智学は学問とは呼びません。
そもそもこれらの扱う、霊や神といったものは検証の対象にできないからです。一つに観察できない。二つに人間の理性の束縛を受けない。という特質を持つからです
数学に詳しい人ならば馴染み深いのかもしれませんが、一つの系の検証を行い、その仮説を証明するにはもう一つの系とそれに属する概念が必要になります。
X=0
1-X=1
Xがゼロ、すなわち存在しないという系を証明するには、1という数の存在からXという要素をマイナスしても、1という数の存在は不動であるという系や、それに類する他の系を用意する必要があるわけです。
例えば、
X=0
1+X=1
これもXがゼロである系を、1という数の存在にXという要素をプラスしても、1という数の存在は不動という系であり、つまりXはゼロ、すなわちXという存在は無い。という証明になりえます。
まあ、ゼロという数が存在の無を表示しうるのか?という話は、この際は横に置いておいてください(笑)
人間という系と自然という系の二つが存在して初めて、自然科学は成立するのです。
そして、霊や神の存在を観測できない以上、それらを自然科学のカテゴリ内で学問として扱うことはできません。霊や神の系はいまだ発見されていないのです。
さらには、人間理性の範囲外であると規定、想定される霊や神の存在を、人間原理を基本とした人文科学で扱うことも不可能でしょう。
つまり、霊や神をメインテーマに扱う人智学や神智学はどうしても、自然科学というカテゴリにおいても、人文科学というカテゴリにおいても、学問という範囲から逸脱し、宗教として扱わざるを得ないのです。
そして、ここで思い出して欲しいのが先程語った尊厳です。
学問的な検証のできない尊厳という概念。
実務的には福祉の分野で語られるこの言葉は、まさに宗教で語られる範囲の事で、この尊厳の対象を人間以外のものに置き換えたものが、信仰としての宗教やオカルトになるのです。
さて、このような疑似学問の人智学や神智学は、先の大戦前後に生まれ、様々なものに影響を及ぼしました。
ドイツでは人智学が一部の哲学者に影響を与えていますし、インド思想を取り入れた神智学は、それ以降のオカルト業界やオカルト作品、文学に影響を与えています。
そして、ニューエイジ・ムーブメントもまた、それらにさらに自然回帰やシャマニズム復興などの要素を取り入れて、千変万化に発展しました。
人によっては、UFO要素もニューエイジ・ムーブメントに数えますし、UFOや宇宙人を擬人化する際に神智学の影響が見られる事もあります。この辺りは、外野として監視する分には、キワモノ設定のラノベやナンセンスギャグとして面白いものがあり、Falloutシリーズのような一部のゲームでは、それらを茶化す向きもあります。
さて、普遍的宗教の普遍的役割は、人々に救いをもたらすことです。それは、理性だけで生きていくのに辛い人間に、理屈抜きの救いを与えるという意味です。人の集団的な生存本能に基づいて、それを肯定するものなのかもしれません。
人は救われるためには、少なくない金額を対価として支払ってしまいがちです。それは、愚かな行為ではなく、砂漠で水を買い求めるのと同じで、本能的な当たり前の行為です。
しかし、砂漠の水は他の地域の水に比べて割高なものです。
普遍的な宗教ならば、買い手の足元を見て割高な水を売るような阿漕な行為はしないでしょう。
しかし、ニューエイジ・ムーブメント時代に現れた新興宗教の多くは、破滅的な金額の寄付や労役。社会からの物理的な隔離による、社会制度からの離脱。そして、社会の外側に逸脱する王国とも呼べるコミュニティを形成したのでした。
それらの諸団体は、犯罪行為の露見により滅びたものも有れば、巧妙に違法行為を回避しつつ離散集合、団体名変更などを繰り返して存続しているものや、穏健化して擬態適応もしくは社会復帰を果たしているものまで、様々な末路をたどりました。
救いを求めるという事は、弱さを持つことです。これは悪いことではなく、人間として当たり前のことです。常に強気の態度で居られる人間は、たぶんどこかで狂っています。人は何かに適応して強くなることで、自分に弱さも作るものです。
そして、一部の霊感商法や宗教を隠れ蓑にした詐術は、そういう強さを伴う弱さに付け込むものです。
オカルト商売とも言える霊感商法や宗教を隠れ蓑にした詐術というものは、むしろ向上心という強さを持つ人間こそをターゲットにして、その人間の弱さを探し出して巧みにその弱さに付け込んでくるのです。
この弱さをもつ強く有能な人間を巧みに籠絡する商売は、一般的には「ニセ科学」や「カルト」と呼ばれています。個人的かつ趣味的なオカルト知識の探求も、それを誠実な執筆以外の商売に転じた段階で、悪質な商法になってしまうのです。
さて、ここまで読んで、なら私は大丈夫。
だって、ニューエイジとか知らないし、宗教もしてないし、ニセ科学商品も買ってません。
と仰るかもしれない。
しかし、オカルト商売は、世の中のいたる所にあり、ネットの特にツイッター上でもありふれています
オカルトは、超自然的な秘儀だけではなく、秘話もまたその範疇に含みます
あなたは最近、ここだけの話。や、速報性の高い著名人の秘密の行動、陰謀を追いかけていませんか?
無論、そういうワイドショーや更にその向こうの闇を、個人的に覗き込んで、もしくは覗き込んだつもりに成って楽しむ分には問題ありません。
しかし、その秘話や怪文書を、さも事実のように他人に話した段階で、あなたもやはり検証不能なオカルトを悪用していることになるのです
とかく、今のネットはフェイクニュースだらけ。フェイクを検証するのは難しいです。
しかし、その手法は100年前のオカルト的詐術や、十数年前のニューエイジムーブメントなどと何ら変わりがありません。
検証、実証をすっ飛ばした情報を事実として扱う。その横着さこそが、オカルトを悪用した弱者から収奪するビジネスそのものなのです。
ぜひぜひ、お気をつけください。
そう言えば、最近スピリチュアルや健康ブームが再燃していますね。
あなたは、それらを利用する際に、しっかりと検証実証されているか、確認していますか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました
スピ系や陰謀系を擁護するコメントについては拒絶する予定です
実証検証されないものに言及するつもりも、奨励するつもりもありません。
それらは、個人で密やかに楽しむものだと思います。
投稿日同日、12:20頃
人智学と神智学、尊厳についての記述が一部足りなかったために追加、及び文脈の修正