《五》奸慮背反(わるだくみ)-2-
雲の上を歩くような足取りで、廊下伝いに父の書斎の前までやって来た世凰は、そこで立ち止まり、厚い扉を両手でゆっくりと押し開いた。
〈父上!・・・〉
知らず知らずのうちに、彼は心の中で父に呼びかける。
何事にも几帳面だった父らしく、整然と配置された黒檀の書棚、広い机、そして、ゆったりとした椅子・・・。
父は黒檀を好み、屋敷内の調度のほとんどを、それで統一していた。綺麗に磨き上げられた机の上に古い書物を広げては、よく思索に耽っていた父だったが、幼い世凰が時折入ってゆくと、いつも椅子に座ったままの姿勢で振り返り『こっちたへおいで、世凰』やさしく彼の名を呼んで手招きしては、よっこらしょと抱き上げてくれた。
その時の、父の腕の力強さ、胸や膝の温かさ、そして『重くなったなあ、世凰は!』と、頬ずりした髭の感触・・・。
それらのすべてが、一挙に脳裏へと押し寄せて来て、今さらながらその存在の大きさを思い知らされ、彼は愕然としたのだった。
見回せば、壁や調度は言うまでもなく、果ては天井に至るまで、点々と飛び散った血痕が生々(なまなま)しく残り、当夜の惨状を伝えて余りある。
さらにその上、床の錦毯に染み込んだ血汐の夥しさはどうだ。
〈父上!あなたは一体、どれだけの血を流されたのでしょうか⁉・・・〉
居間へ向かって引き摺られてゆく血の足跡を辿りながら、世凰の胸は、新たな怒りと悲しみに、張り裂けそうに痛んだ。
そして―居間の入り口に立った彼は、一瞬立ち竦み、全身を凍りつかせて瞠目した。
寝台の前に、余りにも無惨に残された深い血溜りの跡・・・。
父は間違いなくそこに倒れ、体中の血を流し尽くして絶命したのだ。
忽ち、弾かれたようにその場に駆け寄った世凰は、錦毯の上にがっくりと膝をついた。
「ち、父上!・・・」
低く押し殺した嗚咽と共に、どす黒く変色した上、乾いてごわごわになったその痕跡に、両の掌を押し付けた。
掌を通して、何かが・・・密やかに温かい何かが、彼の中へと流れ込んでくる。
父の想い、であったかもしれない。
「お許し下さい、父上!さぞや、御無念だったことでしょう・・・己の勝手気儘を通す余り、あなたをお守りすることさえできなかったこの世凰は、世に二人と無き親不孝者でございます‼」
そこに今でも父が倒れているかの如く世凰は語りかけ、苦悶の極みに我が身を嘖まれつつ、彼に詫びるのだった。
重い悲しみに打ち拉がれて、よも暫くの間蹲っていた彼は、やがてふらふらと立ち上がると、居間を出て書斎に戻り、今一度、改めて周囲を見渡した。
ついこの間まで、部屋の中を重厚に飾っていた貴重な書画骨董の類は、崔王秀を始めとする親戚連中の手によってその大半が持ち去られ、目ぼしい物は何一つとして、残ってはいない。『御形見分け』と称する古い習慣にかこつけた、あからさまな略奪であった。
恐らく高価な品は、根こそぎと言っていいほど、崔が一人占めしたのだろう。
それ計りか、よく調べてみなければはっきりとはしないものの、領地に関する重要書類を収めた文書棚の鍵までもが、開けられた形跡がある。
だが、今そんなことはどうでもいい・・・。
世凰は、よろめきながら踵を返し、見るからに覚束ぬ足取りで書斎を後にして、さらに長い廊下を、漂いながら離れへと向かった。
扉を開けた世凰を、姉が生前愛用していたかぐわしい香の匂いが、そっとやわらかく、そしてこの上もなくやさしく、包み込んだ。
けれどなぜ、この部屋の美しい女主人は、彼を出迎えてはくれないのだろう?
『お帰り、世凰!』
なぜ、いつものようにそう言って、笑いかけてはくれないのだろう⁉」
〈姉さま!世凰が、戻って参りました。私の名を呼んで下さい!どうか、お顔を見せてください‼〉
「隠れんぼは嫌いです。私はもう、子供ではないのですから・・・」
空しい繰り言だと、自分でも解りすぎるくらいによく解っている独白を、尚且つ虚ろに呟きながら、惨劇の名残りを色濃く留めた室内の至る所、隈無く姉の面影を求め、彼は視線を彷徨わせる。
その視線の先ざき、綾織りの錦毯を赤黒く染め抜いて咲き乱れる花、花、花・・・。
それは、血だ。
愛する香蘭が、紛れもなく彼のために流した、美しい血汐なのだ。
その花を、こともあろうに土足で踏みにじり、浅ましくもあくなき略奪は、行われたのだった。
衣装箪笥数棹丸ごと、から始まって、珠玉匣、櫛笥などは言うに及ばず、香水瓶・粉盒・その他、化粧道具・装身具一切、果ては針線匣に至るまでも悉く奪い去られた香蘭の居間には、僅かに二つの品を除いては、何も残されていなかった。
一つは、亡き母が輿入れの際に持参した、祖母譲りの古い鏡台。そして今一つは、同じく、古い寝台である。
母の形見ともなったそれらを、香蘭は、幼い日からずっと、大事に大事に使って来たのだ。
両方共に、職人芸の粋を極めた格調高く見事な品であったが、本当の物の価値を見極める審美眼などさらさら持ち合わせていない連中にとっては、ただの古びたがらくたであるに過ぎず、まさに無用の長物と足蹴にでもして、目もくれずに打ち捨てて行ったのだろう。
がらんとした部屋の中で、それらは寂し気に、だが誇り高く存在していた。
蓮老人が、密かに香蘭の形見を忍ばせてくれたという鏡台の奥引き出しを開けた世凰は、ふくいくと香焚きしめた白絹布に包まれた、小さな品を見出した。
手に取ってそっと布を払うと、そこには、嘗て姉の黒髪を飾っていた翡翠の簪があった。
濃緑麗しい極上の翡翠玉に、超一流の職人の手による細やかな細工が施された稀有の逸品で、今となってはとても値がつくまい、と言われるほどに見事な品であった。
崔王秀が我がもの顔で采配を振るう葬礼のさなか、このままでは到底、形見のひとかけらさえも世凰の手には渡るまい、と覚った蓮老人が、香蘭の柩の重い蓋を閉ざす寸前に、咄嗟の機転で親族一同の目を外らせ、素早く、遺体の黒髪から抜き取ったものだった。
まかり間違えば、親戚中から村八分に遇い(誰もが、その簪を狙っていたにもかかわらず)、死人の持ち物を掠め取ろうとした不心得者として、身の置き所すら失ってしまう危険性をも顧みず、最も貴重な姉の形見を世凰の手に残してくれた彼の心意気たるや、何ものにも勝る誠意の表れと言えよう。
「蓮小父上、忝う存じます。御志、決して忘れませぬ!」
日頃は地味で全く目立たぬ存在である蓮審陳の思いがけない厚意に、少なからず驚きながらも、世凰は心中深く、彼への感謝の念を湧き上がらせるのだった。
亡き母の形見として香蘭が受けついだその簪は、彼女にぴったりと似合い、身に備わった気高さを一層際立たせては、世凰の憧憬を掻き立ててやまなかった。
成長してからの彼が帰省するたびに、姉はその簪を髪から抜き取っては彼に見せながら、口癖のようにこう言ったものだ。
「これを、あなたのお嫁さんになる方に差し上げようと思っているの・・だから、早く可愛い女性をお見つけなさいな」
「だって・・・姉さま」
彼女の言葉を聞くといつも、世凰は反論した。
「その簪は、母さまのお形見に、姉さまが貰われたものでしょう?第一、私は嫁などを迎える気はありません。だからずっと姉さまがお持ちになっていればいいのです」
すると香蘭は、決まって寂しそうに微笑んだ。
「母さまのお形見だからこそ、あなたの妻となる女性に受け継いで頂かなくてはならないのです。私はもう一生、誰の所へも嫁がない女なのだから、このまま私があの世へ持って行ってしまうことにでもなれば、それこそ母さまに対して申し訳ないでしょう?大丈夫よ・・いつかきっと、あなたがこの簪を差し上げたいと思う方が、現れるに違いないわ」
そう言って、再び簪を髪に戻した。
「そういうものなのかなぁ⁉私には一向にピンときませんけれど・・・」
「そういうものなのよ、世凰・・・」
ふっと儚げに瞳を翳らせ、やさしく彼の前髪に触れた姉の白い指先は、今、何処の虚空をさ迷い続けるのか・・・。
「姉さまっ‼」
堪えに堪え、耐えに耐えて来たものが、一挙に彼の魂を突き抜け、真紅の奔流となって迸った。
〈もう泣かぬ‼決して二度と・・・だから・・・今だけは、思い切り泣かせてくれ‼〉
世凰は、簪を握りしめたまま、崩れるように冷たい寝台の上に身を投げた。彼の号泣を、今この時、一体誰が咎めることなど出来ただろうか⁉・・・。