《五》奸慮背反(わるだくみ)-1-
世凰が、夜を日に継いで広東郡の屋敷に戻って来たのは、それから五日後のことであった。
宏大な館は、遠目にもしんと静まり返り、沈鬱な空気が周囲にまで充ち満ちている。
ところがどういう訳か、門の周辺はおろか、何処にも葬礼のための飾り付け一つ施されておらず、何となく、様子もおかしい。
阿孫が先に戻って来ている筈なのに、一体どうしたことなのだろう?
少なからず不審に思いながら近づいてゆくと、偶然、門内から、一人の男がひょっこり姿を現した。
何やら調子外れな鼻唄まじりに、小銭をチャラつかせて出て来たその男は、世凰の亡き父・貞徳の腹違いの弟で彼にとっては叔父に当たる崔王秀の屋敷に仕える下男・丁羅である。
自分の目の前に立っている若い貴公子を見た途端、その丁羅の鼻唄は、掌で弄んでいた小銭と共に、跡形もなく何処かへ消し飛んだ。
これぞ『木偶の棒』とばかりにその場に立ち竦んだ彼は、次の瞬間、慌てて廻れ右をし、猛然と門内に走り込もうとした。
「まて、なぜ逃げるのだ⁉」
素早く世凰に腕を摑まれ、珍妙な格好で急停止した。
「あ、あのっ・・・あの、えーっと、世凰さま!」
滅多に口にしたこともない若さまの名をやっと思い出した丁羅は、口をモグモグさせてその名を呼びながら、一方では、何とか彼から逃れるべく、必死に手足をバタつかせた。
「丁羅、葬礼の準備はどうなったのだ⁉阿孫は何をしている⁉」
いかに丁羅がじたばたしようと一向にお構いなく、世凰は、厳しい口調で彼を問い詰めた。
「そ、葬礼などっ!葬礼など、とっくの昔に済んじまいましたよっ‼」
苦し紛れに思わず口走ってしまってから丁羅は、忽ち怯え切った表情を引き攣らせて、世凰の顔色を窺った。果たしてどんな目に遇わされるかと、急に怖気立ったのだ。
「なに⁉」
世凰は、耳を疑った。
当然、自分の帰りを待って取り行われるべき葬礼が、既に終わってしまったなどと信じられるだろうか?
「そなた、出まかせを申すと承知せぬぞ‼」
彼の腕に、知らず知らず力が籠った。
「い、いててっ!いてっ‼でで、出まかせなどあーた、言うわきゃないでしょうがっ‼いっ一昨日、うちの御主人さまが、ツツ崔王秀さまが、一切合切取りしきられてですねえっ!・・・」
世凰は、泡を吹き散らしてまくし立てる丁羅を無言で突き放すなり、キッと前方を見据えながら邸内へ入って行った。
今まで散々(さんざん)に引き寄せられた挙句に、今度は急に突き放されてしまった哀れな丁羅は、体のバランスを保つ術さえ知らず、実に妙ちきりんな格好で、スッテンコロリとその場にひっくり返った。
突然、勢いよく開かれた扉に驚いて、人々の目が、一斉に部屋の入口へと向けられた。
ぽかんと口を開けたそれらの顔は皆、鳳家とは何らかの血縁関係にある親戚たちで、彼らを見渡す格好で一番上手の席にふんぞり返っているのは、他ならぬ、崔王秀であった。その席は本来、鳳家の当主たる者が座るべき場所である。
無礼極まる闖入者が鳳家の嫡男・世凰だと分かると、人々は何やら口々にヒソヒソ話を始めた。
お世辞にも好意的とは言い難い好奇の視線が、あからさまに、世凰に集中している。
「今頃やっと御帰館か、翔琳鳳凰殿?」
その有様を、曰くありげな薄笑いを浮かべつつ見守っていた崔王秀は、皮肉たっぷりにそう言って、口許を歪めて見せた。
世凰はそれに答えず、つかつかと崔に近づいた。
「これはどういうことなのです、叔父上⁉」
努めて穏やかに問いかけた積もりではあっても、燃え立つ怒りを抑えかね、語調はどうしても強くなってしまう。
が、もとより老獪な崔のこと、柳に風と苦も無く受け流した。
「はて、何のことやら?」
「しらばくれるのは、おやめ下さい‼崔叔父上、あなたの御一存のみで事を運ばれたというのは、まことなのですか⁉」
世慣れた崔に太刀打ちできるべくもない世凰は、僅かに声を震わせながら、懸命に平静を保とうとしていた。
「おお、何じゃ、何かと思えばその事か」
崔は内心、大いにほくそ笑み、あくまでものらりくらりと、気に喰わぬ甥をいたぶり続ける。
「はてさて、さても不可思議なる問いかけをされるものよのう・・そもそも惨き有様にて死んだ人間を、そう何日間も放ったらかしにしておけるとお思いか?それこそほとけに対し、不調法の極みでござろうよ。そのくらいのことは、いかにおぬしといえどもお解りになろう。のう、世凰殿⁉」
明らかに崔は、親族たちの真只中で世凰を罵倒することにより、著しく彼の立場を貶める腹積もりでいるのだ。
それが解っていながら、やはり世凰は、まだ若い。
その純粋な怒りのままに、真正面から崔と対決しようとすればするほど、却って彼の思うつぼにはまってゆく。
「しかし、叔父上!」
世凰がさらに一歩、崔に詰め寄った途端だった。
「良いか、世凰‼」
待ってましたとばかりに、崔王秀はがらりと豹変し、つい先程までのあののらくら振りから一転して、この上もなく厳しい表情となった。
「兄・貞徳と姪・香蘭の葬儀は、他ならぬこの崔王秀が、一切の責任を持って取り仕切り、親族一同共に力を合わせて、凰家の体面に恥じぬ立派なものを送り出したのだ」
「十四年もの間、ろくに家にも寄りつかずに勝手気儘を通した挙句、今頃になってのこのこと戻って来たお前などに、とやかく言われる筋合いはないわ‼」
一部の破綻も無く道理を論い、ピシリと決めつけた。
なるほど、理屈は崔の言う通りであった。確かに世凰は、十四年の間、殆どと言っていいほど実家には戻らなかったし、それを持ち出されれば全く一言もない。
しかし、理屈はどうあれ、彼は紛れもなく、当主となるべき正統な血筋を受け継いで生まれてきた凰家の嫡男である。
いくら家に居つかないからと言って、彼の存在を無視することなど、絶対に許されないのだ。
他ならぬ凰家の当主とその娘の葬儀に、家を継ぐべき者が喪主として出席しないという事を、そして、そのような儀式をとり行うという事自体を、官庁が決して許す筈がないではないか⁉
許可が下りる方が、寧ろおかしいのだ。
世凰がそれを言おうとするのを予め承知していたかのように、崔はニンマリとしてこう言った。
「わしが事情を説明申し上げたところ、宣の長官殿は、甚く同情して下された。
『そのような不肖の嫡男を持って、凰家も気の毒じゃ』と、仰せられてな。さっそく、特例として上つ方に言上して下さり、この崔王秀が喪主を務めるならば・・・という条件で、許しが下りたのだ。すべて万端滞りなく、事は運んだ。すべて万端、とどこおりなく、な!」
最後の言葉を、わざと繰り返して世凰に当て付けた崔は、次にはもう全く彼を無視した格好で、親戚たちに向かって言った。
「諸兄方。凰家の今後についての談合は『また後日、改めて』ということに致そうではござらぬか。本日は折角にお集まり願ったのだが、先程からの不遜の振舞にてもようお解りの如く、とんだ礼儀知らずの、物の道理など毛ほども解さぬ山猿が闖入して、盛んに邪魔立て致しおるのでな!」
言い捨てるなり崔は、挑発するように世凰を睥睨した。
世凰の形の良い唇は、血の滲むほどにきつく噛みしめられ、握りしめた両の拳が、屈辱に耐えかねて小刻みに震えている。
そして、美しい彼の瞳は漆黒の炎と化し、まばたきも忘れて、崔を睨み据えるのだった。
〈してやったり‼〉
その甥に向かって勝ち誇った嘲笑を投げつけるや、実の叔父は傲然と胸を反らせ、悠悠と歩み去って行った。
彼に続き、他の親族たちもまた、誰一人世凰に挨拶をする者もないままに、何事か囁き合いながら帰ってゆく。
やがて、それらがすべて立ち去ったあとのがらんとした室内に、一人の痩身の老人が、世凰と共に取り残されていた。
世凰にとっては最も血縁の薄い、蓮家の当主・審陳である。
彼はゆっくり世凰に近づくと、そっとその肩に手を置いた。
「よくぞ耐えられた、世凰殿!」
そう言って、深い同情を籠めた眼差しで彼を見詰めた。
「本当に、お気の毒なことをした。だが、崔王秀と違うて、我々には何の力も無い・・・どうか、悪う思わんで下され」
世凰は、唇を噛みしめたままで答えなかった。
今、何か言えば、激情が慟哭となって、迸ってしまうに違いない。
それを察してか審陳は、もうそれ以上何も言おうとはせずに、黙って溜息をつくばかりだったが、辺りから全く人気が失せて久しいのを見極めると、ふいに世凰の耳許に顔を寄せ、小声で早口に囁いた。
「世凰殿、香蘭殿の鏡台の奥にお形見の品がござるゆえ、一刻も早う、お納めなさるが良い!」
思わず顔を上げて見詰める切れ長の瞳に、自らも視線で頷き返しながら、蓮老人は心から済まなそうに詫びるのだった。
「許されよ!せめてそれくらいのことしか、この老いぼれにはして差し上げられぬ・・・」
彼は、涙ぐんでさえいる様子だった。
〈何か言わねば!〉
世凰は思ったが、ついに言葉は出ず、彼はただ、老人に頭を下げることしか出来なかった。
「いやいや、そのようなことはして下さるな。却ってこの身が、せつのうなりますゆえ・・・それでは、これにてお暇致そうほどに。何卒、お気を落とされぬようにな・・・」
消え入るように帰って行った蓮審陳と入れ違いに、じっと廊下に佇んで待っていたらしい周阿孫が飛び込んで来た。
「世凰さま、申し訳ございませぬ‼」
殆ど絶叫に近い叫びと共に、彼は床の上に崩おれた。俯せになった肩から背中にかけて、その体が激しく波打ち、顔も上げられぬままに声だけが絞り出される。
「わ、私が戻りました時には、既に!・・・」
無論、世凰はよく解っていた。
「阿孫、さあ立つがよい。そなたのせいなどであろう筈はない。すべては、この私のせいなのだ。私が!・・・私が不甲斐無いからだ‼」
声を震わせてそう言うなり、彼は阿孫を残して部屋を飛び出した。