《四》惜別翔琳(さらば、しょうりんじ)
僧房には、俄か仕度の火が起こされ、全身濡れ鼠になった使者・阿孫が、世凰の到着を待ちかねていた。
他にも二、三人の僧が控えていたが、やがて世凰の姿を見ると、一様に会釈し、全員退出して行った。
「阿孫!」
「世凰さま!」
二人は、お互いの名を呼んで駆け寄った。
が、阿孫は世凰の一歩手前で立ち止まるなり、がくりと膝を折って、その場に蹲ってしまう。
「お許しください、世凰さま!この阿孫おめおめと、かような使者に立つ仕儀と相成りましてございます‼」
彼は、ひとかたならず声を震わせていた。
「阿孫!・・・何があったのだ⁉答えてくれ、もしや!・・・」
急き込んで問いかける世凰の声音もまた、語尾がかすれて声にはならなかった。はっきりと声に出して尋ねるのが、恐かったのかもしれない。
だがしかし、彼は改めて問いかけた。
「もしや、父上と姉さまの身に、何か異変があったのでは⁉」
世凰の言葉に意を決した阿孫は、やにわに顔を上げるや、一息に彼に告げた。
「はい・・お察し通りにございます!まことに申し上げにくき事ながら・・・貞徳様並びに香蘭さま、四日前の夜半、お館に忍び入った賊共の手に懸かられ、あえなく身罷られましてございます‼」
世凰は、あたり一面が、すべて真白になったような気がした。
たった今、自分がその耳で何を聞いたかのさえも解らぬほどに、彼は動転していた。
そのくせ、心のどこかが妙に冷めていて〈とうとう『その日』が来てしまったか!・・・〉などと、納得していたりするのだ。
耐え難いほどの残酷な事実を突きつけられて大混乱に陥りながらも、ずっと以前から、既に予知していたような気すら憶えるのは、一体何故なのだろう?
彼の内なるその矛盾を、的確に言い表すことの出来る言葉など、この世にただの一語たりとも有りはすまい・・・。
「父上も姉さまも、お二人共に、賊共の手に懸かられたと申すのか?」
悲鳴にも似た軋み音を立てては揺れ動く精神状態とは裏腹に、世凰の口をついて出た言葉は、ひどく冷静であった。
内面の混乱に決して巻き込まれまいとする、無意識のうちの抵抗ででもあったろう。
自分よりも年下でありながら、余程に大人びた強靭さを以って必死に踏み堪えようとする若主人の姿は何とも悲愴で、阿孫の胸を千々(ちぢ)に搔き乱す。
「貞徳様は、明らかに賊の手によって命を落とされましたなれど、香蘭さまは、御自害遊ばされたご様子にございます。しかし、いずれに致しましても曲者の為せる業。この阿孫が、今少し早う戻っておりましたならばと・・悔やまれてなりませぬ!その上、奴らめの姿をこの目で垣間見ておりながら後も追わず、みすみす取り逃がしましてございます。全く以って、重ね重ねの、何たる不忠‼・・・」
阿孫は、濡れそぼった己が膝を握り潰さんばかりに鷲掴み、ついに絶句した。
世凰は突き上げて来る慟哭を堪え、涙を一杯に湛えたその瞳で、彼の肩に手を置いた。
「阿孫、自分を責めるな!決して、そなたの罪ではない。よく知らせてくれた。そなたが来てくれて、本当によかったと思っている。この嵐の中、さぞや難儀を致したであろうな・・・」
世凰は逆に阿孫を力づけ、労ってもやるのであった。
「忝う存じます、世凰さま!」
彼のやさしさが胸に沁みて、阿孫ははらはらと落涙したが、すぐに気を取り直して拳で涙を拭い去ると、懐中から一振の短剣を取り出して、世凰に手渡した。
「香蘭さまが、自らの御命、絶たれましたものにございます。手前がお側に駆けつけました時、香蘭さまは、未だ御存命にございました。手前に、あなたさまを頼むと仰せられ、さらに、こうお伝えせよと」
阿孫は、そのひとの面影を密かに胸に抱きしめながら、彼女の遺言を伝えるのだった。
「いつまでも変わらず、今のままのあなたさまでいてほしい、と。そして、香蘭さまの分まで、生きてほしい、と・・・」
「そうか・・・姉さまはそんなことを」
世凰は、手渡された短剣を、両手でぐっと握り締めた。
彼が愛してやまなかった姉が、護身用として常に身に帯び、ついには命までも絶ってしまったその短剣は、雨に濡れてかなりの湿気を含み、恰も彼女の命が宿っているかの如くに、ずっしりと重かった。
彼は鞘を払い、喰い入るように刀身を見つめた。
既に阿孫の手によって拭い清められているにもかかわらず、世凰はそこに、姉の血汐の燃えるような紅を、はっきりと見たのである。
〈姉さま!・・・きっとあなたは、この世凰の身を思いやる余りに、御自らの命を絶っておしまいになったのでしょうね。何故、その苦しみの一部なりとも、私に分け与えては下さらなかったのです。水臭いではありませんか⁉姉さまのための苦難ならば、世凰はものの見事に、耐えてお目にかけましたものを!・・・〉
そして彼は、父と姉の魂に誓った。
〈お二人の御無念、いつの日にか、必ずやこの身が晴らして見せましょう。待っていて下さい‼〉
しかし、今はまず何よりも、父と姉の葬儀を無事に送り出すことが、凰家のただ一人の後継者として果たすべき、彼の責任であった。
その重い責任を担うことで、世凰は、余りにも深い悲しみに耐えようとしていたのだ。
「阿孫、そなたにはまことに気の毒だが、夜が明け次第、一足先に広東へ発ってはくれぬか?そして、葬儀の準備にかかってくれ。私も明朝、大管主さまたちにお別れを済ませたのち、すぐに後を追う」
「いいえ、世凰さま!」
阿孫は、きっぱりと否定した。
「手前、夜明けを待つことなく、今よりすぐさま立ち戻り、準備万端整えまして、あなたさまのお帰りをお待ち申す所存にございます」
「そうか、済まぬ阿孫!呉れぐれも、気をつけて帰ってくれ」
世凰は、阿孫の誠意に心から感謝していた。
「ならばお先に、世凰さま。道中、御無事で!」
一礼した阿孫は、ずぶ濡れの身で、潔く去って行った。
その彼と入れ替わりに会釈を交わし、先程の若い寺僧・英恵が入って来た。
彼は、詳細は知らぬまでも大方のところは察していると見え、打ちしおれてしょんぼりしている。
「凰殿・・・」
彼は小さな声で、悲しそうに続けた。
「翔琳寺を、お出になるのですか?もう二度と、お戻りにはならないのですね⁉」
他のどの高弟よりも、世凰を一番慕っていたこの若年の僧は、彼が翔琳寺を去ることが悲しくてならないらしく、子供じみたべそまで掻いているようだった。
「英恵殿・・・」
世凰は、そんな彼の心情を愛おしく思い、張り裂けそうな胸の痛みを堪えて、かすかに微笑んだ。
「もしも御縁があれば、いつか再び、お会いできる日も巡ってくるでしょう。私が翔琳寺を去っても、あなたはそんなことに心奪われる事なく、ひたすら御自身の修業に励んで下さい」
こう言って、そっと英恵の肩を叩いてやった世凰は、彼を残して僧房を出た。
翌早朝、世凰は、大恩深き慈覚禅師の前に跪き、事情を打ち明けて、永の暇を乞うた。
「そうか、そなたもついに、行ってしまわれるか・・・」
齢九十才とも、また百才とも言われる翔琳寺大管主・慈覚禅師は、感慨深げにそう言い、慈愛の籠った眼差しで、じっと愛弟子の顔を見詰めた。
「そなたが初めて翔琳寺へ来られたのは、確か、七才に満たぬ時であったのう。それはそれは美しゅうて、まだあどけない、さながら花の精を思わせるような御子であったが・・・あれから、はや十四年。厳しい修行によう耐えて、さても見事に成長されたものよ」
彼はしばらくの沈黙を置き、さらに続けた。
「この拙僧の持てるものはすべて、寸分余すところなく、そなたに伝えた・・なれど、果たして鳳凰拳をそなたに授けたことがよかったのかどうか、正直言うて、この拙僧としたことが思い迷う時もあるのじゃ・・・」
「言うまでもなく、そなたは未だ奥儀に達してはおらぬ・・出来得るならば、このまま達せずして、平穏無事の生涯を送らせてやりたいが―如何せん、あきらかに鳳凰となるべく生を受けし身に、それは叶うまい」
「・・・好むと好まざるとにかかわらず、やがて時を経ぬうちに生死の極みに立ち、必ずや、奥儀に目覚めることとなろう・・・ならばせめて、見事真の鳳凰となり、天空高く翔んで見せい!のう、世凰」
深い深い、底知れぬ程に深いその瞳で、禅師は、自らが心血注いで育て上げた生涯最後の、そして最高の愛弟子の姿を魂の奥に焼き付けんが為に、ただひたすら、凝視し続ける。
「お師匠様。お言葉確かに、我が胸に刻みましてございます。今日までの身に余る御慈しみともども、この御恩は世凰、終生忘れは致しませぬ!」
世凰は、この仙人のような大管主を、心の底から敬愛してやまなかった。誰よりも厳しく、そして温かく、常に水の流れにも似た健やかさを湛えた無限の慈愛で、禅師はすっぽりと彼を包み込み、十四年間聊かも変わることなく、見守り続けてくれたのである。
「振り返ることなく、行くがよい。それが、そなたに天が与え賜うた運命であろう。なれど決して、散り急ぐではないぞ。たとえ、万難身に振り懸かろうとも、その生、鮮やかに全うせよ!」
穏やかに諭し終わった禅師は、もはやすべての絆を絶ち切るべく、ひときわ威厳に満ちた声音で言い放った。
「さらばじゃ、鳳世凰‼」
「おさらばでございます、お師匠様‼」
これが、師弟、今生の別れであった。
世凰は、瞑想の座に端座する慈覚禅師に向かって深々と一礼すると、ひっそりと立ち上がり、室を出て、静かに重い扉を閉ざした。
ともすれば押し流されそうになる惜別の情を断ち切るために、ぴったりと、寸分の隙も無く禅師と己れとの空間を隔てた彼は、師の言葉通り二度と振り返ることなく、その場を去っていった。
次第に遠ざかりゆく愛弟子の気配を、五感すべてに悉く感じ取りながら、慈覚禅師は今一度、心中密かに別れを告げるのだった。
〈さらばじゃ!我が手塩に掛けし、翔琳最後の鳳凰たる者よ‼・・・〉
程なく彼は、深い瞑想に入った。
やがて・・・寺内の総ての人々に暇を告げた世凰は、彼の十四年間の青春が刻みつけられた翔琳寺本山を後にした。
漸く嵐は去り、雨は上がったものの、まだ、かなりの強い風が吹き渡る朝であった。
一路、広東郡へ―凄まじい速さで雲が奔る。
それは、この秀でた若者が抱く唯ならぬ宿星さながらに、新たなる嵐の予感を孕み、次々と、途切れる間さえ知らぬ気に虚空を横切って行った。