表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鳳凰傳  作者: 桃花鳥 彌 (とき あまね)
6/37

《四》惜別翔琳(さらば、しょうりんじ)

 僧房には、(にわ)仕度(したく)の火が起こされ、全身濡れ(ねずみ)になった使者・阿孫(アソン)が、世凰(シーファン)の到着を待ちかねていた。

 他にも二、三人の僧が控えていたが、やがて世凰(シーファン)の姿を見ると、一様(いちよう)会釈(えしゃく)し、全員退出(たいしゅつ)して行った。

阿孫(アスン)!」

世凰(シーファン)さま!」

 二人は、お互いの名を呼んで()け寄った。

 が、阿孫(アスン)世凰(シーファン)の一歩手前で立ち止まるなり、がくりと(ひざ)を折って、その場に(うずくま)ってしまう。

「お許しください、世凰(シーファン)さま!この阿孫(アスン)おめおめと、かような使者に立つ仕儀(しぎ)相成(あいな)りましてございます‼」

 彼は、ひとかたならず声を(ふる)わせていた。

阿孫(アスン)!・・・何があったのだ⁉答えてくれ、もしや!・・・」

 ()き込んで問いかける世凰(シーファン)声音(こわね)もまた、語尾がかすれて声にはならなかった。はっきりと声に出して(たず)ねるのが、恐かったのかもしれない。

 だがしかし、彼は改めて問いかけた。

「もしや、父上と(ねえ)さまの身に、何か異変があったのでは⁉」

 世凰(シーファン)の言葉に意を決した阿孫(アスン)は、やにわに顔を上げるや、一息(ひといき)に彼に告げた。

「はい・・お察し通りにございます!まことに申し上げにくき事ながら・・・(ツェン)(テー)(ならび)びに香蘭(シャンラン)さま、四日前の夜半(やはん)、お(やかた)に忍び入った賊共の手に()かられ、あえなく身罷(みまか)られましてございます‼」

 世凰(シーファン)は、あたり一面が、すべて真白(まっしろ)になったような気がした。

 たった今、自分がその耳で何を聞いたかのさえも解らぬほどに、彼は動転(どうてん)していた。

そのくせ、心のどこかが妙に()めていて〈とうとう『その日』が来てしまったか!・・・〉などと、納得していたりするのだ。

 耐え(がた)いほどの残酷な事実を突きつけられて大混乱に(おちい)りながらも、ずっと以前から、(すで)に予知していたような気すら(おぼ)えるのは、一体何故(なぜ)なのだろう?

 彼の内なるその矛盾(むじゅん)を、的確に言い表すことの出来る言葉など、この世にただの一語(いちご)たりとも有りはすまい・・・。

「父上も(ねえ)さまも、お二人共に、賊共の手に()かられたと申すのか?」

悲鳴(ひめい)にも似た(きし)(おん)を立てては()れ動く精神状態とは裏腹(うらはら)に、世凰(シーファン)の口をついて出た言葉は、ひどく冷静であった。

内面の混乱に決して巻き込まれまいとする、無意識のうちの抵抗ででもあったろう。

自分よりも年下でありながら、余程(よほど)に大人びた強靭(きょうじん)さを以って必死に踏み(こら)えようとする若主人の姿は何とも悲愴(ひそう)で、阿孫(アスン)の胸を千々(ちぢ)に()き乱す。

(ツェン)(テー)様は、明らかに賊の手によって命を落とされましたなれど、香蘭(シャンラン)さまは、御自害(ごじがい)遊ばされたご様子にございます。しかし、いずれに致しましても曲者(くせもの)()せる(わざ)。この阿孫(アスン)が、今少し早う戻っておりましたならばと・・()やまれてなりませぬ!その上、奴らめの姿をこの目で垣間(かいま)見ておりながら(あと)も追わず、みすみす取り逃がしましてございます。全く()って、(かさ)(がさね)ねの、何たる不忠‼・・・」

阿孫(アスン)は、濡れそぼった(おの)(ひざ)(にぎ)(つぶ)さんばかりに鷲掴(わしづか)み、ついに絶句した。

世凰(シーファン)は突き上げて来る慟哭(どうこく)(こら)え、涙を一杯に(たた)えたその瞳で、彼の肩に手を置いた。

阿孫(アスン)、自分を責めるな!決して、そなたの罪ではない。よく知らせてくれた。そなたが来てくれて、本当によかったと思っている。この嵐の中、さぞや難儀(なんぎ)を致したであろうな・・・」

 世凰(シーファン)は逆に阿孫(アスン)を力づけ、(ねぎら)ってもやるのであった。

(かたじけの)う存じます、世凰(シーファン)さま!」

 彼のやさしさが胸に()みて、阿孫(アスン)ははらはらと落涙(らくるい)したが、すぐに気を取り直して(こぶし)で涙を(ぬぐ)い去ると、懐中(かいちゅう)から一振(ひとふり)の短剣を取り出して、世凰(シーファン)に手渡した。

香蘭(シャンラン)さまが、(みずか)らの(おん)(いのち)、絶たれましたものにございます。手前がお(そば)に駆けつけました時、香蘭(シャンラン)さまは、(いま)御存命(ごぞんめい)にございました。手前に、あなたさまを頼むと(おお)せられ、さらに、こうお伝えせよと」

 阿孫(アスン)は、そのひとの面影(おもかげ)(ひそ)かに胸に抱きしめながら、彼女の遺言(ゆいごん)を伝えるのだった。

「いつまでも変わらず、今のままのあなたさまでいてほしい、と。そして、香蘭(シャンラン)さまの分まで、生きてほしい、と・・・」

「そうか・・・(ねえ)さまはそんなことを」

 世凰(シーファン)は、手渡された短剣を、両手でぐっと(にぎ)()めた。

 彼が愛してやまなかった姉が、護身用(ごしんよう)として常に身に()び、ついには命までも絶ってしまったその短剣は、雨に濡れてかなりの湿気(しっけ)を含み、(あたか)も彼女の命が宿(やど)っているかの(ごと)くに、ずっしりと重かった。

 彼は(さや)を払い、喰い入るように刀身を見つめた。

 (すで)()(スン)の手によって(ぬぐ)い清められているにもかかわらず、世凰(シーファン)はそこに、姉の血汐(ちしお)の燃えるような(くれない)を、はっきりと見たのである。

(ねえ)さま!・・・きっとあなたは、この世凰(シーファン)の身を思いやる余りに、御自(おんみずか)らの命を絶っておしまいになったのでしょうね。何故(なぜ)、その苦しみの一部なりとも、私に分け与えては下さらなかったのです。水臭いではありませんか⁉(ねえ)さまのための苦難ならば、世凰(シーファン)はものの見事に、耐えてお目にかけましたものを!・・・〉

 そして彼は、父と姉の魂に(ちか)った。

〈お二人の御無念、いつの日にか、必ずやこの身が晴らして見せましょう。待っていて下さい‼〉

 しかし、今はまず何よりも、父と姉の葬儀を無事に送り出すことが、(フェン)家のただ一人の後継者(こうけいしゃ)として果たすべき、彼の責任であった。

 その重い責任を(にな)うことで、世凰(シーファン)は、余りにも深い悲しみに()えようとしていたのだ。

阿孫(アスン)、そなたにはまことに気の毒だが、夜が明け次第(しだい)、一足先に広東(カントン)()ってはくれぬか?そして、葬儀の準備にかかってくれ。私も明朝(みょうちょう)大管(だいかん)(しゅ)さまたちにお別れを済ませたのち、すぐに(あと)を追う」

「いいえ、世凰(シーファン)さま!」

 阿孫(アスン)は、きっぱりと否定した。

「手前、夜明けを待つことなく、今よりすぐさま立ち戻り、準備万端整えまして、あなたさまのお帰りをお待ち申す所存(しょぞん)にございます」

「そうか、済まぬ阿孫(アスン)!呉れぐれも、気をつけて帰ってくれ」

 世凰(シーファン)は、阿孫(アスン)の誠意に心から感謝していた。

「ならばお先に、世凰(シーファン)さま。道中(どうちゅう)、御無事で!」

 一礼した阿孫(アスン)は、ずぶ濡れの身で、(いさぎよ)く去って行った。

 その彼と入れ()わりに会釈(えしゃく)()わし、先程(さきほど)の若い()(そう)英恵(インフィ)が入って来た。

 彼は、詳細(しょうさい)は知らぬまでも大方(おおかた)のところは察していると見え、打ちしおれてしょんぼりしている。

(フェン)殿・・・」

 彼は小さな声で、悲しそうに続けた。

「翔琳寺を、お出になるのですか?もう二度と、お戻りにはならないのですね⁉」

 他のどの高弟(こうてい)よりも、世凰(シーファン)を一番(した)っていたこの若年(じゃくねん)の僧は、彼が翔琳寺を去ることが悲しくてならないらしく、子供じみた()()まで()いているようだった。

英恵(インフィ)殿・・・」

 世凰(シーファン)は、そんな彼の心情を(いと)おしく思い、張り裂けそうな胸の痛みを(こら)えて、かすかに微笑んだ。

 「もしも御縁があれば、いつか再び、お会いできる日も(めぐ)ってくるでしょう。私が翔琳寺(ここ)を去っても、あなたはそんなことに心奪われる事なく、ひたすら御自身の修業に(はげ)んで下さい」

 こう言って、そっと英恵(インフィ)の肩を叩いてやった世凰(シーファン)は、彼を残して僧房を出た。


翌早朝(よくそうちょう)世凰(シーファン)は、大恩(だいおん)深き(ツー)(ジュエ)禅師(ぜんじ)の前に(ひざまづ)き、事情を打ち明けて、(なが)(いとま)()うた。

「そうか、そなたもついに、行ってしまわれるか・・・」

 (よわい)九十才とも、また百才とも言われる翔琳寺大管主(だいかんしゅ)(ツー)(ジュエ)禅師(ぜんじ)は、感慨(かんがい)深げにそう言い、慈愛(じあい)(こも)った眼差(まなざ)しで、じっと(まな)弟子(でし)の顔を見詰めた。

「そなたが初めて翔琳寺(ここ)へ来られたのは、確か、七才に()たぬ時であったのう。それはそれは(うつく)しゅうて、まだあどけない、さながら花の精を思わせるような御子(おこ)であったが・・・あれから、はや十四年。(きび)しい修行によう()えて、さても見事に成長されたものよ」

 彼はしばらくの沈黙(ちんもく)を置き、さらに続けた。

「この拙僧(わし)の持てるものはすべて、寸分(すんぶん)余すところなく、そなたに伝えた・・なれど、果たして鳳凰(ほうおう)(けん)をそなたに(さず)けたことがよかったのかどうか、正直言うて、この拙僧(わし)としたことが思い迷う時もあるのじゃ・・・」

「言うまでもなく、そなたは(いま)(おう)()に達してはおらぬ・・出来得るならば、このまま達せずして、平穏(へいおん)無事の生涯(しょうがい)を送らせてやりたいが―如何(いかん)せん、あきらかに鳳凰(ほうおう)となるべく(せい)を受けし身に、それは(かな)うまい」

「・・・好むと好まざるとにかかわらず、やがて時を()ぬうちに生死の(きわ)みに立ち、必ずや、(おう)()目覚(めざ)めることとなろう・・・ならばせめて、見事(しん)鳳凰(ほうおう)となり、天空(そら)高く()んで見せい!のう、世凰(シーファン)

 深い深い、底知れぬ程に深いその瞳で、禅師(ぜんじ)は、(みずか)らが心血(しんけつ)(そそ)いで育て上げた生涯最後の、そして最高の(まな)弟子(でし)の姿を魂の奥に焼き付けんが為に、ただひたすら、凝視(ぎょうし)し続ける。

「お師匠(ししょう)様。お言葉確かに、我が胸に(きざ)みましてございます。今日(こんにち)までの身に余る(おん)(いつく)しみともども、この御恩は世凰(シーファン)終生(しゅうせい)忘れは致しませぬ!」

 世凰(シーファン)は、この仙人のような大管(だいかん)(しゅ)を、心の底から敬愛してやまなかった。誰よりも(きび)しく、そして温かく、常に水の流れにも似た(すこ)やかさを(たた)えた無限の慈愛(じあい)で、禅師(ぜんじ)はすっぽりと彼を包み込み、十四年間(いささ)かも変わることなく、見守り続けてくれたのである。

「振り返ることなく、()くがよい。それが、そなたに天が与え(たも)うた運命(みち)であろう。なれど決して、散り急ぐではないぞ。たとえ、万難(ばんなん)身に振り()かろうとも、その(せい)(あざ)やかに(まっと)うせよ!」

 (おだ)やかに(さと)し終わった禅師は、もはやすべての(きずな)を絶ち切るべく、ひときわ威厳(いげん)に満ちた声音(こわね)で言い放った。

「さらばじゃ、(フェン)世凰(シーファン)‼」

「おさらばでございます、お()(しょう)様‼」

 これが、師弟(してい)今生(こんじょう)の別れであった。

 世凰(シーファン)は、瞑想(めいそう)の座に端座(たんざ)する(ツー)(ジュエ)禅師(ぜんじ)に向かって深々と一礼すると、ひっそりと立ち上がり、(しつ)を出て、静かに重い(とびら)を閉ざした。

 ともすれば押し流されそうになる惜別(せきべつ)(じょう)を断ち切るために、ぴったりと、寸分の(すき)も無く禅師(ぜんじ)(おの)れとの空間を(へだ)てた彼は、師の言葉通り二度と振り返ることなく、その場を去っていった。

 次第に遠ざかりゆく(まな)弟子(でし)の気配を、五感すべてに(ことごと)く感じ取りながら、(ツー)(ジュエ)禅師(ぜんじ)は今一度、心中(ひそ)かに別れを告げるのだった。

〈さらばじゃ!我が手塩(てしお)()けし、翔琳最後の鳳凰(ほうおう)たる者よ‼・・・〉

 (ほど)なく彼は、深い瞑想(めいそう)に入った。

 やがて・・・寺内(じない)(すべ)ての人々に(いとま)を告げた世凰(シーファン)は、彼の十四年間の青春が(きざ)みつけられた翔琳寺本山を(あと)にした。

 (ようや)く嵐は去り、雨は上がったものの、まだ、かなりの強い風が吹き渡る朝であった。

 一路(いちろ)広東(カントン)郡へ―(すさ)まじい速さで雲が(はし)る。

 それは、この(ひい)でた若者が抱く(ただ)ならぬ宿(しゅく)(せい)さながらに、(あら)たなる嵐の予感を(はら)み、次々と、途切(とぎ)れる()さえ知らぬ()虚空(こくう)を横切って行った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ