《三》喪姫血涙(とわのわかれ)-4-
その半刻後―
阿孫は、貞徳の遺骸を自らの手で清め、衣服を整えて、居間に安置し終わっていた。
「だんな様・・・」
彼は、幾分柔和になった主人の死に顔に向かって語りかけた。
「さぞや、御無念でございましょう・・。なれど、だんな様と香蘭さまのお恨みは、いつの日にか必ず、世凰さまがお晴らし下さいます。その暁にはこの阿孫、命に換えましても、微力をお添え申す所存にございます!」
誓いも新たに、彼はてきぱきと家臣たちに指図を与えた。
「徐、そなた苗と手分けして、このことを御親族の方々にお知らせ申し上げてくれ。よいか、くれぐれも取り乱してはならぬぞ!私はこの足で、すぐさま翔琳寺へ赴き、世凰さまにお伝えせねばならぬ。他の者は、留守を頼んだぞ‼」
こう言い残して、阿孫は素早く屋外へ走り、厩舎から駿馬を引き出すなり、ひらりとその背に打ち跨ってピシリと一鞭、漆黒の闇の中を、一路、翔琳寺目ざして矢のように駆け去って行った。
世凰はたった一人、仄暗い、薄墨色の世界の中に座っていた。
彼が頬杖をついている古びた卓子と、その上に置かれた、灯がついているのかいないのかも定かでない燭台以外、あたりには何も無い。
どこかの部屋のようでもあり、全くただの空間のようでもあった。
彼が腰かけている、ひどく粗末な(と思われる)椅子の感触だけが妙に生々(なまなま)しく、まるで彼が立ち上がるのを許さぬかの如く、ぴったりと体に張りついていた。
その姿勢のまま彼は、じっと闇の彼方に目を凝らし続けている。
果たして何を見ようとしているのか、自分でも解らない。
ただ、何かが身の周辺に起こりつつあるのだという不思議な確信があった。
突然―。
薄明りの中に、一個の人影が浮かび上がった。
「父上!」
その人影に向かって、世凰は座ったまま呼びかける。
だが、彼とはほんの卓子一つ隔てただけで向かい合っている筈の父は返事もせず、なぜかとてつもなく遠くにいるような、ぼんやりとした輪郭しかない。
「父上⁉どうなさったのです。なぜ、返事をなさいませぬ⁉」
世凰が一生懸命に問いかけても、父は黙りこくって答えようとはせず、哀しそうな目で、じっと彼の顔を見つめるだけであった。
「父上!」
世凰が思わず身を乗り出そうとした時、さらにもう一つの人影が現れた。まさしく、姉、香蘭・・・。
けれども、やはりその姿は全体に紗がかかり、ひとく儚げで、薄明りの中で陽炎の如く揺れていた。
香蘭は顔に袖を当て、潤んだ瞳をまっすぐ弟へと注いでいる。
「泣いていらっしゃるのですね、姉さま。何があったのです⁉何が、姉さまを泣かせるのです⁉」
しかし、彼女もまた、何も答えようとはしなかった。
やがて―父と姉は、すうっと煙のように立ち上がり、彼に背を向けて去って行こうとした。
「お待ちください、父上!姉さま!」
世凰は必死で立とうとしたが、どうしたわけか体が動かない。
それどころか、実に不可解にも、彼は依然として卓子の上に頬杖をつき、じっと闇に目を凝らした姿勢のままで、声も発してはいないのだ。
〈これは!・・・これは一体、何なのだ?どういうことなのだ⁉〉
気ばかりが焦り、体中から脂汗が吹き出して来る。その間にも、父と姉はどんどん遠ざかって行き、その姿が、まさに闇に溶け込もうとした瞬間、世凰は血を吐く想いで、体ごと絶叫した。
「父上っ‼姉さまっ‼」
自分の声で俄然目覚めた彼は、反射的に、がばっと床の上に起き上った。
〈また、同じ夢だ!・・・〉
彼は思わず、両手で顔を被った。
額にも頬にも、驚くほどの汗が吹き出して、ぐっしょりと濡れた髪が、あちこち不快に張り付いている。
のみならず、全身隈無く、冷たい汗が流れていた。翔琳寺に戻って来た翌日から、世凰は夜毎、同じ夢にうなされ続けているのだ。
すでに、今夜で四日目・・・。
最初のうちは、今度の帰省時に父と激しい諍いがあったため、それが心のどこかに影を落としているのだろう、と思っていた。
けれど、こう毎晩同じ夢を見るというのは、とても唯事とは思われぬ。父と姉の身に、何らかの異変が起こったと考えるべきではないのか?
〈どうあっても、明日は帰ってみよう。無駄足ならば良いのだが・・・〉
世凰は祈りにも似た気持ちで、そう決心したのだった。
昨夜来、この地方は、かつてないほどの猛烈な嵐に見舞われていた。
現に今も、稲妻の鋭い閃光が間断なく室内を彩り、間髪入れず、すさまじい雷鳴が、大地を揺るがさんばかりの容赦ない大音響を轟かせる。
風雨は未だ勢い衰えず、地上に立つ総てのものに悲鳴を上げさせつつ吹き荒れて、狂おしく、窓を打ち続けていた。
消し忘れてしまった燭台の灯が、今も消えることなく揺らめいているのが、何とも不思議な気さえする。
〈とにかく、着がえねば・・・〉
そう思った世凰が寝台を下りた途端、どこからともなく一陣の風がサッと吹き込み、その灯を吹き消して、辺りは一瞬、闇に沈んだ。
〈‼〉
彼が何かを予感したと同時に再び閃光が閃き、全身総毛立つかと思われるほどの、とてつもない雷鳴が轟き渡った。
落雷!であったろう。直後に、裂けた天空から傾れを打って大地を穿つ雨音が、より一層の激しさを増した。
その中をこちらへ向かって急速に近づいてくる遽しい足音を、彼の耳は、はっきりと捉えたのである。
世凰は素早く扉へ駆け寄り、足音の主が叩くよりも先に、それを開いた。部屋の前では、息せき切った若い寺僧が、今にも扉を叩こうと手を上げたところであったが、自分が触れる直前にいきなり開かれたことに驚いて、ポカンと口を開けたまま立ち尽くしていた。
「何事です、英恵殿⁉」
世凰に問いかけられて我に返った寺僧・英恵は慌てて答えた。
「あ⁉ああ、鳳殿。たった今、あなたの御実家から急使が到着されましてございます。何やら唯事とは思えぬ御様子にて、大至急、あなたをお呼びしてほしいとの事でございましたので!」
〈やはり、何かがあったのだ‼〉
世凰は、胸が詰まった。
俄かに波立ち始めた心を押さえつつ、努めて平静な口調で、彼は尋ねた。
「夜分、御足労をお懸け致しました。使者は、どこにおりましょう?」
「はい、あちらの僧房にお通し致しました。この嵐の中、ずぶ濡れとなって来られましたゆえ、大急ぎで火など起こさせております」
英恵もまた、尋常ならざる雰囲気に少なからず緊張し、どこかぎこちない声つきでそう答えた後、回廊を隔てた東の僧房を指し示した。
「お心遣い、忝い!」
感謝の言葉を残して世凰は、取る物も取り敢えず、東の僧房へと急行した。




