《三》喪姫血涙(とわのわかれ)-3-
しばらくの後―。
香蘭の胸元から短剣を抜き取って自らの衣服で拭い清め、落ちていた鞘に納めて懐中深く差し入れた阿孫は、もはや温もりも遠ざかりゆく彼女の体を抱き上げて、そっと寝台の上に横たえてやった。
死してなお気高さを湛えたその面差しを、決して忘れまいとするかのように凝視していた彼だったが、やがて従者たちの方を向き直ると、静かに口を開いた。
「匡、やはり、生き残った者はおらぬのか?」
生存者を求め、手分けして館中を隈無く探索して戻って来た四名の家臣たちは、一様に項垂れて答えた。
「はい、残念ながら・・・」
そう答える匡という男の声も、少なからず震えていた。
「そうか・・・」
阿孫は、深い嘆息を漏らした。
いかに殊更の戦闘体勢にないとはいえ、仮にも名門と称される豪族の家臣が、こうまであっさりと皆殺しにされるとは尋常でない。
多分、賊共が使用したと思われる麻酔香の魔力によって体の自由を奪われ、赤児の手でも捻るように、いとも簡単に殺戮されて行ったのだろうが、しかし何故、無抵抗な召使いや下働きの者に至るまで、一人残らず、根こそぎ屠り去る必要があるのだ⁉
〈見せしめか⁉〉
阿孫の胸に、唐突とも思える閃きが過った。
なまじ抜きん出た名門であるがゆえに、もしやこの鳳家は、意図的に、何らかの『見せしめ』にされたのではないだろうか⁉
またたく間に胸を蓋い尽くしてゆく恐ろしい疑念に彼が戦慄した時だった。
「周様!」
最後まで戻っていなかった苗という名の家臣が、小太りの女を引きずるようにして部屋に入って来た。
「この者が、厨房の戸棚の奥深くに隠れておりました。どうやらこの女が、お屋敷中でただ一人の生き残りのようでございます!」
恐怖のためにまっさおになり、ぶるぶると、間断無く全身を震わせ続けるその女は、厨房専門に働く下女の身分、到底奥向きに入れる代物ではない。
だが、今は彼女こそが、唯一無二の貴重な生存者であった。
「そなた確か・・・そう、琴娘とか申したな。果たして何があったのか、そなたの見た通りを包み隠さず、話してはくれぬか?」
阿孫は努めてやさしい口調で、震えの止まらぬ小太りの女、琴娘に話しかけた。彼女はそれからよもしばらくの間、そばかすだらけの色黒の顔を引き攣らせたきりに声も出せず、ただ激しく首を横に振るばかりであったが、そのうち、やっとのことで少しずつ落ち着きを取り戻し、蚊が鳴くような小さな声ながら、ポツリポツリと語り始めた。
「わ、わたくし・・・お夕食の跡片付けをしておりましたら、料理頭の王さんに、あすの朝使う薪が足りないから、柴庫へ取りにゆくよう言われました・・。あの、そしたら柴庫の中で、うっかり転んでしまいまして・・あの、灯が暗かったものですから、つい・・。それで、やっと散らかったものを片づけて外へ出ようとしたのですが、な、何だか黒い影のようなものが、中庭を横切ってゆくのが見えましたもので・・・もう恐くって・・恐くってわたくし、しばらくの間、じっと庫の中に隠れておりました。大分たってから、薪を持ってお台所に戻りましたら・・・そしたら、そしたら・・・」
そこまで言うと、琴娘は俄かに口を閉ざし、怯え切った目で、縋りつくように阿孫を見つめた。
いわゆる、目がすわった状態である。
あまりの恐怖が蘇ったために、一時的に錯乱したのかも知れない。
「琴娘、ここはもう、恐ろしいものは何もいない。安心しろ。さ、続きを話してくれ」
阿孫の穏やかな言葉を聞き、やさしいその眼差しに力づけられた琴娘は、子供じみた動作でこっくりと頷いたのち、再び口を開いた。
「お台所は・・血の海でした。王さんも、女中頭さまもみんな・・・みんな殺されていました。わたくし、どうしていいか解からずにボーッとしていましたら・・・ずっとずっと奥向きの方からも、たくさんの悲鳴が聞こえて来て…恐くて恐くて、思わず戸棚の中に飛び込んで息を殺しているうちに・・・あの・・息苦しくなったのと恐いのとで、いつの間にか気を失ってしまったらしくて・・・どれくらいそうしていたのか、全然解りませんけれど・・・気がついた時にはもう、静かになっていたのです・・・。そのまま戸棚から出られずに震えておりましたら、急に扉が開いて、わ、わたくし、もう駄目だと思って・・あの、あの‥申し訳ございません。わたくし・・少しばかり、あの・・戸棚の中で、おしっこを漏らしてしまいまして・・・。そしたら何と、こちらの御家来の方でした。嬉しゅうございました、ほんとに・・・」
彼女は、どうにかこうにかではあったが、それでも何一つ包み隠さず、仔細を語ってくれたのだった。
「御苦労だった、琴娘」
彼女の正直さに、何かしら感じるものがあった阿孫は、やさしく彼女を労ってやった。
「今一つ。その黒い影の顔は見なかったのか?人数は何人ぐらいだったか、憶えているか?」
彼は琴娘を怯えさせないよう気を配りながら、さらに問いかけてみた。
「顔は・・あの、全員覆面をしていたようで、全然分かりませんでした。でも、確かに、十人位はいたような‥気が致しますが・・・」
取るに足らない下女ながら、彼女は存外に目聡いところがあるらしくて、思いがけない正確さで、賊の実態を把握していた。
〈さてもや、先刻の一味めか‼〉
阿孫の胸が、再び自責の念に疼き始める。
だが、今は繰り言などに沈むべき時ではない。
「そうか、よく解った。恐ろしい思いをさせて済まなんだな。それにしても、そなたが生きのびていてくれて有難い。琴娘、頼みがある。これへ参れ」
そう言って阿孫は、彼女を香蘭の寝台の傍へと伴なった。
寝台の上を一目見るなり、琴娘は息を呑み、そこに横たわった美しい骸を凍りついたように見つめるばかりである。
彼女などは、当然のことながら奥向きへ入ることは許されず、依ってこの家の姫さまのお顔も、滅多に拝したことがない。
極く極くたまの何かの折りに、遥か遠くから垣間見る程度であった。下女の身にとってみれば、まさに『雲の上の天女』とも言うべきそのお方が、今自分の目の前で、胸を血に染めて事切れているのだ。
しばらくは呆然自失の態で立ち竦んでいた琴娘であったが、やがての後、問いかけるような瞳で阿孫を見上げた。
〈あなた様は、わたくしに何をせよとおっしゃるのでございましょう?〉
彼女は、そう問いかけたかったのだ。
阿孫は、琴娘の肩にそっと手を置き、そして言った。
「そなたに、香蘭さまのお身支度を頼みたいのだ。お体を清め、一番美しい御衣裳を着せて差し上げてほしい」
「わ、わたくしが⁉あの、わたくしなどが、お姫さまのお身支度を・・でございますか⁉」
予想だにせぬ驚きのために、琴娘は、それこそこぼれんばかりに目を丸くして聞き返して来た。
「その通りだ、琴娘。どうか、よろしく頼む!」
彼女に向かって、阿孫は深々と頭を下げるのだった。
「かしこまりましてございます、周様!」
慌てて彼に、文字通り床に頭が届きそうな会釈を返してから、琴娘は、意外なくらいにきっぱりとした声音で答えた。
もう、震えてなどいない。
見かけによらず、この琴娘という女は、まことに下女の分際には惜しいほどの毅然たる心映えを、その身の内深く秘めていたのである。
自分にとって最初で最後のこの大役を、誠心誠意努め上げよう、と決心した彼女の表情は、顔立ちの悪さにもかかわらず凛と冴えて、輝くものすら感じさせた。
そして決意通り、真心籠めて香蘭の身を清め、着換えをさせ、やがて寸分の手落ちもなく彼女の身支度を整え終わった琴娘は、阿孫にその旨を告げたのち、ひっそりと一礼して退って行った。
廊下を去ってゆく小太りの後姿は、半ば引きずられながらここへやって来た時とは打って変わって、どこか堂々と、誇らし気でさえあった