《二》霊鳥覚醒(めざめのとき)
炎が燃える。
彼を押し包んで一気に焼き尽くしつつ、燃え上がる。
しかし、熱さは全く感じない。
なぜなら、その炎は彼自身だからだ。
風、雲、大地、森・・・生きとし生けるものすべてが、目眩めく速度で眼前に迫ったかと思うと、直後に、彼をめがけて飛び込んで来る。
だが、恐れはまるで無い。
それらのどれもが、余さず彼自身であるからだ。
彼は燃える。
もはや人としての存在を超え、無限の炎そのものと化して、悠久の静寂の中で燃えさかる。
死が、彼を抱き取ったのではない。
彼が、死を抱き取ったのだ。
のみならず、森羅万象の悉くを、遍く、その稀有なる魂魄の内に抱擁したのだ。
今こそ、彼らは一体であった。
寂滅無限、万象呼応・・・・・一面の炎の中に、折しも彼自身の声が、厳かに響き渡る。
寂滅無限、万象呼応・・・寂滅無限―。
「然り!」瞬時に彼は悟った。
「我、覚醒たり!!」
―己を無限と為し、
森羅万象悉くがこれに呼応せし時、
彼、まさに鳳凰となりて、天空を翔けん!―
これぞ、万人が求めて得られぬ「梅花鳳凰拳」究極の奥儀である。
「解き放て!!」
雄雄しく、彼は叫んだ。
「我が力、今こそ解き放て、遍くものたちよ!我、覚醒たり。我即ち、汝!我即ち、火精!」
そして、ひときわ高らかに、彼は宣言する。
「我即ち、鳳凰なり!!」
瞬間、炎は一斉に灼熱の光柱となって立ち昇り、またたく間に天を衝いて林立した。
かと思うと、忽ちにして五彩の光体に分裂するや、凄まじい勢いで乱舞し、目紛しく飛び交い始める。
やがて、より速度を増したそれは、見る見る一点に集中してゆき、束の間の核を形成すると同時に激突した。
閃光!!
轟音!!
熱風!!
目も耳も皮膚も、凡そ人間の五官というものの無力さをまざまざと思い知らせる桁外れの大爆発と共に、量り知れぬ膨大なエネルギーを放出して、すべては八方に砕け散ったのである。
その世界を隈なく蓋い尽くして煌めき降り注ぐ飛沫の霧の中、燦然と目を射る華麗なる翼を拡げた鮮やかな鳥影が、天を仰ぐ。
―と見えたが、潮引くように晴れ渡った霧の中から現れたのは、宇宙の偉大なる力を輝く五体に漲らせ、端然と佇む、世凰の姿であった。
人智など遠く及ばぬ亜空間に於て、奇跡は瞬時に完遂され、鳳凰は目覚めた。
そして天空目指し、今、翔び立つ。
「逝けっ!翔琳鳳凰!!」
勝ち誇った雄叫びと共に、止めを刺すべく急激に間合いを詰めて躍りかかった延大剛の目前、世凰の体は、信じ難い、驚異的な跳躍力を見せつけて、力強く大地を蹴った。
同じ頃―華南郡・九龍山翔琳寺の奥深い一室では、大管主・慈覚禅師が、厳かな臨終の時を迎えようとしていた。
居並ぶ高僧、高弟たちが見守る中、彼は最後の昏睡を続けていた。
恐らくはもうこのまま、目覚める事は有り得まい、と誰もが信じて疑わなかったその時、突然禅師の瞳が、カッと開いたのである。
人々は驚き響いたが、やがて再び、水を打ったようにしんと静まり返り、咳ひとつする者もいなくなった。
見開かれた禅師の目には生き生きとした光が宿り、恰も誰かを見守るかと思しき深い慈愛を湛えて、穏やかに輝いている。
そして、徐に唇を動かした彼は、誰にもはっきりと聞き取れる凛とした声音で、こう言ったのだ。
「見よ!今こそ鳳凰が翔ぶ。破邪の翼、見事虚空に拡げて・・・。天晴れじゃ、鳳世凰!!」
さもさも満足気に大きく頷いて、彼は再び瞳を閉じ、昏睡に戻った。
その後程なく―拳聖の誉れ高き、九龍山翔琳寺第二十八代大管主・慈覚禅師は、永遠の眠りについたのである。
人々はその時、はっきりと見た。
人の世のあらゆる邪悪打ち砕かんがため、我が身をも朱に染め抜き、大きく翼を拡げて天空高く飛翔する伝説の瑞鳥・鳳凰の、雄雄しくも華麗極まるその姿を・・・。
時ならぬ響きが、修羅の巷と化した青杏原を満たした。
延将軍も、見た。
彼も無論、見たのだ。
しかしながら延の目は、最後までそれを捉え切ることは出来なかった。
天の高みに飛翔を終えた直後に、到底神業としか思えぬ恐るべきスピードで真っ逆さまに急降下して来た世凰の体が、彼の頭上で鮮やかに回転した、と見えた時には、延大剛の頭蓋は、目にも止まらぬ痛烈な連続蹴りに直撃され、ものの見事に粉砕されていた。
幻の最高技・鳳凰翔天脚!!
火中に身を投じ、自らを焼き尽くして再び蘇生する鳳凰さながらに、我が身を大地に激突させる危険をも顧みず、起死回生を懸けた、捨て身の必殺技である。
辺り一面に脳漿と鮮血とを撒き散らして、延は立ち尽くしていた。
地上すれすれで体勢を立て直し、ひらりと地面に降り立って自分の最後を見届けようとしている妙なる若者の、さすがに大きく波打ち、依然として夥しい血汐を滴らせてやまぬしなやかな体を、今にも閉ざされかけた視界でひたすら追い求めて、彼は声ならぬ声で問いかける。
〈何故じゃ!?この延大剛ともあろう者が、何故、おぬし如きに敗れねばならぬ!?〉
だが、その実、彼は何処かで納得している己自身に気付いていた。
ガクッと両膝が落ちた。
そのままゆっくりと、延は大地に沈んでゆく。
意識はまだあった。
極く極くほんの僅かに、残されていた。
不思議に、苦痛は無い。
〈鳳世凰よ!すべてに勝りて美しき者よ!?汝はそも、何者であったのか!?〉
解っている。
永久にその答えの得られぬことぐらい―。
「此度こそは・・我がものと思うたに・・・・・よくよくつれな・・い‥奴よ・・・のう・・・・」
自嘲めいた、何とも不可解な微笑を口許に貼り付かせた面貌で、延大剛は絶命した。
「さらば!!我が宿敵・延大剛」
世凰が手向けた訣別の言葉は、果たして彼の耳に届いただろうか?・・・。
人智を遥かに超えた死闘の成り行きを、固唾を呑んで見守っていた人々は、一様に畏怖の念に打たれ、殊に宣軍に至っては、はや全くと言っていいほど、戦意を喪失してしまっていた。
斯くして、胡南郡・青杏原の野に繰り拡げられたこの世の地獄図そのものの戦闘は、今漸く、血塗られた凄惨な結末を迎えようとしていたが、世凰の闘いは、まだ終結してはいなかった。
槍、長剣、その他様様な武器に加え、戦旗、甲冑、ありとあらゆるものが血汐にまみれ、引き裂かれ、大地を蔽って投げ出されている。
その上に下に犇めき合い、累累と横たわる犠牲者たちの中に、見覚えのある幾つかの顔を見出して悲嘆に暮れながらも、世凰は、残る仇敵・揚鉄玉の姿を求め、よろめく足で彷徨い歩くのだった。
「待て!汝ら、何処へゆく!?よもや儂を見捨てて、逃げる積もりではあるまいな!?」
戦闘が始まるや否や、逸速く逃げ込んでいた岩蔭から、抜き足差し足で出て行こうとする回と陸とを見咎めて、揚鉄玉は、目の玉ひん剝いて叱責した。
図星を指されて少々慌てはしたものの、二人は忽ち開き直った。
「御名答!図星だぜ、揚さんよ」
鼠賊の本性剥き出しにせせら笑って、回はもはや『殿』などとは呼ばぬ。
「てめえなんざと心中するなんざ、真っ平御免のコンコンチキと来らあ!俺っちは、このあたりでずらからせてもらうぜ。何たって、命あっての物種にゃあ違いねえからな!」
「う、裏切り者めっ!恩知らずめっ!この儂が拾い上げてやった恩を、仇で返しおって!!」
揚は赤鬼となり、頭から湯気を立てて罵った。
「ケッ、恩が、聞いて呆れらあな!」
回にとっては、蛙の面になんとやら。
「人を散々にこき使いやがって、恩とはよく言うじゃねえか!?とにかくこちとらぁ、恩になんぞ感じちゃいねえのさ。逆に、礼の一つも言ってもらいてぇくれえだ!おっと、とんでもねえ手間を喰っちまった。行こうぜ、陸!」
ふてぶてしく言い捨てた。
「あばよ!せいぜい殺られねえように上手く潜って、震えてでもいな!!」
こともあろうに唾まで引っかけて、しっかり揚を見捨てた彼らは、連れ立って岩蔭から走り出て行った。
「待てっ!待たぬかっ!!儂も連れて行け!こん畜生めがっ!!糞ったれめがっ!!憶てろ、今度遇ったら唯じゃおかねえぞ!!」
部下も部下なら殿も殿。
大して違わぬ馬脚をすっかり露して喚き散らし、二人の後を追う揚鉄玉。
しかし生憎彼の足では、とても彼らには追いつけぬ。
突如、行く手の岩蔭から飛び出して来た二人連れが、世凰に気付いて、一瞬ギョッと立ち止まり、すぐに風を喰らって逃げ去って行った。
言うまでもなく、回と陸。
だが世凰は、彼らを知らぬ。
けれども、その後を追って、何やら口汚く喚き散らしつつ駆け出して来た髭面の男を見るなり、彼は叫んだ。
「揚鉄玉!!」
その声に度肝を抜かれて立ち竦み、こちらへ顔を向けた揚の顔面は、見る見るうちに蒼白となって、この上もない醜さで歪み引き攣った。
「こっ、小倅!!」
殆ど呻きに近い声を上げたかと思うと、あれだけ遮二無二、世凰を追い求めてやまなかった筈のこの男は、向かって来るどころか、何と、泡を喰って逃げ出したのである。
一刻も早く空恐ろしい小倅から逃れようと、転がるように遠ざかってゆく揚を追う力は、世凰にはもう残されていない。
彼は咄嗟に、帯の間に手挟んでいた短剣を引き抜きざま、身内に残る最後の力を振り絞り、腕も折れよと、揚の背めがけて投げつけたのだった。
亡き姉・香蘭の、万感の想い宿るその短剣は、一瞬キラリと光を放ち、恰も意志あるものの如く一直線の軌跡を描いて、まるで吸い込まれるように揚の背深く突き立った。
「ギャッ!!」
断末魔の悲鳴を、たった一声この世に残し、どうと地面に叩きつけられた揚鉄玉は、柄元まで埋まる短剣に魂を奪い去られて、それきり、二度と立ち上がることはなかった。
極限をとうに越えていた気力が、その時一気に弛み、もはや体を支えきれなくなった世凰の足は、揚の死を見届けると同時にぐらりと揺れ、堪らずその場に片膝を突いた。
〈父上!姉さま!そして、多くのかけがえのない方々!!・・・どうぞ御覧下さい。世凰はついに・・・ついにあなたがたの御無念を、晴らして差し上げることが出来ました!!〉
感、ここに極まって天を仰ぎ、彼は亡き人々へのひとしおの哀惜を、傷ついた身と共に両の腕で抱き締めて、深い深い嘆息を漏らした―。
天は今、その足許で展開された言語を絶する惨劇を、目を瞠るばかりの燃え立つ夕映えで締め括った。
炎と化した鮮紅色は、青杏原に流された夥しい血汐そのままに、地上のあらゆるものを呑み込み、ただ一色に染め尽くしたのである。
やがてその中を、生き残った者たちは敵も味方も、それぞれの意志に従って、ひっそりと去って行った。
両腕をへし折られて、もう泣き声さえ立てることも出来ず、息も絶え絶えにその辺りを這いずり回っていた宣朝皇帝・太宗が、漸く異変を知って駆けつけて来た救援部隊に保護されたのは、実に丸二日後のことであった。
ついでながら―。
青杏原から『あんたの巻き添えは御免』とばかりに揚を裏切って逃げ出した回と陸は、行きがけの駄賃にと、どさくさ紛れに盗み取って来た皇帝の錦繍や、かなりの額に上る銀塊の分け前を巡って仲間割れを生じ、醜い内輪揉めの挙句に双方相討ちとなって、その屍を、無様に山野に晒す破目となり果てた。
世凰の父と姉とを直接死に追いやった張本人たちは、結局こうして天の報いを受け、自然淘汰とも言える死に様を遂げたのである。




