《一》衅青杏原(けっせん)-2-
目の当りに生々しく展開される極めて凄惨な戦闘の有様を、岩陰に身を隠し、恐怖の極地で歯の根も合わぬ態に覗き見していた太宗の視界を、いきなり、一個の人影が黒く遮った。
精悍な顔に返り血を浴び、不動明王さながらに立ちはだかっているのは詠胡竜であったが、宣朝皇帝たる太宗が、一介の武芸者に過ぎぬ彼の名など、無論、知る訳もない。
「宣朝皇帝・太宗殿!」
その一介の武芸者・詠胡竜は、低く押し殺した声で、直接、皇帝に呼びかけた。
「ぶ、ぶぶ、無礼者め!バ、バ、バババチ当たりめ!」
太宗は、顔ばかりか体中を引き攣らせていたが、精一杯の虚勢を張って相手の非礼を叱りつけた!・・積もりであったが、実際には、ひ弱な蚊が息も絶え絶えに鳴くような、情ない溟滓り声でしかない。
一国を治める皇帝としての威厳など、ほんの一握りほども残されてはいなかった。
「お命までも、とは言わぬ。だが、あなたの愚かさのために悲惨な運命に陥れられた多くの人々の、その苦しみの一部なりとも、御自身の体で思い知って頂こう!」
なおもそう言って、つかつかと歩み寄ってさえ来る逞しい若者の、重ね重ねの非礼を阻止する手段も持たぬ哀れな太宗としては、ただもう、口から出まかせに喚き散らすしかないないのである。
「わっ、わっ、な、何をしようと言うのじゃ!?ち、ちちち、近づくでない!こ、これ、くく来るなと言うに!!お、おそ恐れ多くも、ちち朕は、朕は皇帝であるぞっ!き、き貴様、バババ、バチが当たるぞっ!!」
口一杯に白い泡を吹き、地団駄を踏み、声を涸らして彼は助けを求めた。
「だ、誰ぞっ!誰ぞおらぬかっ!!」
しかしながら彼の側には、彼を庇護してくれる者など、もう誰も残ってはいなかった。
あれほど忠義面を装っていた延将軍までもが、いつの間にか、彼を見捨てて姿を消してしまっている。
それでもどうにかして逃げ出そうとジタバタする太宗を苦もなく捕らえ、彼の両腕を捩じり上げた胡竜は、全く何の躊躇もせず、続けざまにその関節をへし折った。グギグギッ、っと不気味な骨折音がしたかと思うと、間髪入れずに太宗の絶叫が響き渡った。
「ヒギャ~ッ!!」
正確に関節を粉砕された彼の両腕は、肘から下が、ブラリとだらしなく垂れ下がった。
ヒイヒイと、声とも言えぬ悲鳴を咽喉の奥から絞り出し、太宗は地面を転げ回って助けを求めたが、とうの昔に胡竜の姿は、彼の傍らから消えていた。
果たして何人目なのかも定かでない敵を倒した時、世凰の瞳はついに、少し離れた場所にまばらに生えた松の根元に立って彼を見据える延大剛の姿を捉えた。
二人の視線が、一瞬火花を散らして絡み合い、それによって発した目に見えぬ炎が、大気を焦がして燃え上がる。
世凰は、返り血に汚れ、布切れ同然に引き裂かれた白衣の上半身を摑んで、一気に破り捨てた。
細身ながら見事に引き締まり、象牙色に輝く、目映いばかりの若い裸身が、再び雲の吹き払われた紺碧の空の下、白日を浴びて顕となった。
その右胸にくっきりと刻まれる、無残な刻印が痛ましい。
延将軍は身動ぎ一つせず、堂々たる風格を保ち続けて世凰が近づいて来るのを待っていたが、烟ように細められた彼の目は、早くも淫虐の翳りを色濃く湛え、際立つ裸身に釘付けとなっている。
〈こやつ、またまた美しゅうなりおった!!〉
彼は正直、舌を巻いた。
だが、その美しさは、以前とは、何処か微妙に違っているような気がする。
大人びた、とでも言えばいいのだろうか?
〈さては!〉
延の脳裏に、嫉妬めいた直感が走った。
〈さてはこやつめ、女を知りおったな!?馬鹿めが!!〉
しかし、彼は立ち処に思い直した。
〈まあ、それもよし。今からたっぷりと、仕置きをしてやるほどに。どう足掻いてみたところで、此度こそは我がものじゃ!〉
おぞましい想いを巡らせる延の胸中を知ってか知らずか、彼の周囲を固めていた数名の手勢が、世凰の接近に伴って一斉に手槍を構えた。
「手出し無用!!」
延は、まさにただ一声で、忽ち彼らを遠ざけたのだった。
いつもながらの、さすがの貫禄である。
斯くて両雄は、遠巻きに見守る宣軍を尻目に、数間の距離を隔てて対峙した。
それきり、微動だにせぬ―そう、常人の目には見えた事だろう。
しかし、実際には、彼らはごく僅かずつではあったにせよ、確実に相手との間合いを狭め続けていたのだ。
そして暫くの後、今度こそ本当に、ピタリと静止した。
「よう戻って参った!おぬしが恋しゅうての、延の拳は夜泣きしておったぞ。今日こそは心ゆくまで、その血を吸わせてやってたもれ」
延の目に、青い炎が燃えている。
あの、大蛇の目だ。
最愛の父と姉の斬殺から始まった鳳家崩壊の黒幕となり、世凰に瀕死の重傷を負わせて死線を彷徨わせ、さらに悪夢にまで現れてまで、彼を嘖んだ延大剛―。
その正体は、まさしく妖異の蛇身、淫虐の権化に他ならなかった。
「おぬしの死に顔が、早う見たい。全身を、己が血で死に化粧した・・・さぞや、美しかろう!夜毎添い寝して愛おしんだところで、到底飽き足るまいのう」
もとより、正常な人間の発する言葉には非ず。
延は次々に、臆面もなく自らの本性を曝け出して、もはや憚らぬ。
それらを、ものともせずに煌めく瞳で跳ね返し、世凰は、きっぱりと言い切った。
「残念ながら、そうはゆかぬ!!」
刹那、延大剛が、猛然と仕掛けて来た。
火を吐くようなその先制攻撃を、見事、平然と躱した世凰に向かって、二度三度と、息吹も許さぬ容赦なき波状攻撃が立て続けに襲いかかる。
しかし、ただの一手たりとも彼の体には触れ得ず、受け身と見せてすかさず切り返して来る拳が、鋭い。
飛び違い、ぶつかり合い、白熱の技の応酬が息もつかせぬ速さで繰り返されて、早くも阿修羅の様相を呈し始めた闘いは、持てる技と力の限りを尽くして互いを傷つけ合いながら、刻々(こくこく)と唯ならぬ死闘へと展開し、いつ果てるともなく、綿綿と続いてゆく―。
ありとあらゆる急所を狙って執拗に繰り出されていた延の殺人拳は、中途から切先を転じ、世凰の右胸の傷めがけて、悉く集中され始めた。
躱し切れぬその数手を受けて、傷口はついに再び口を開き、最初のうちはじわじわと滲み出ているに過ぎなかった血流も、いつしか数本の太い流れとなって滴り落ちるようになった。
〈やはり、及ばぬか!?〉
ふっと過った一瞬のためらいが、目に見えぬ隙となったものか、ここぞとばかりに続けざまに打ち込まれて来た峻烈な一手が、いとも鮮やかに命中した。
ざっくりと、またもや裂けた傷口からは言うに及ばず、体内からも大量の鮮血が、どっと逆流して咽喉へと殺到し、忽ちにしてそこを塞いで、瞬間、世凰の呼吸は止まったかと思えた。
が、すぐにそれは夥しい吐血となって口腔から溢れ出し、彼は辛うじて、持ち堪えたのである。
〈今度こそ、死ぬだろう〉
彼は、淋漓たる流血に、全身を朱に染めて立ち尽くしたまま、はっきりと『死』を覚悟した。
「よき眺め。まさに絶景じゃ!よくぞここまで腕を上げたが、惜しい哉、おぬしも散り時。せめてこの延の腕に花の命委ね、思う様、悶え苦しむがよい。それこそが、美しいおぬしにはふさわしいのだ!!」
自らも数ヵ所、世凰の拳によって一方ならず傷ついてはいたが、延は聊かも、己れの勝利を疑ってはいなかった。
彼の脳裏には、ありありと浮かぶ。
誰よりも、何よりも美しいこの若者が、断末魔の苦悶を深く、秀でた眉間に刻み、黒髪振り乱して血の海をのた打ち回る、えも言われぬその姿が。
間もなく、それは現実の光景となり、彼の眼前に展開するのだ。
そして、その時こそ、若者のすべては彼のものであった。
「うくくっ」
心身共に震撼させる歓喜に耐え切れず、延は嗜虐の笑みを漏らす。
だが、当の世凰は、立っていられるのが不思議なくらいの大量の出血に耐え、半ば意識を失った状態ではありながら、なおもその場に立ち続けていた。
既に思考さえ覚束なくなった脳裏を、取り留めのない様様な想いが走馬灯のように目紛しく駆け抜けて行ったが、その最後に、なぜか鮮明に浮かび上がったのは、美明の泣き顔であった。
〈許せ、美明!!もう二度とそなたを、この胸に抱いてはやれまい。だが、生きてくれ!またの世の再会を信じて・・・・・・〉
自分が死んだ後、美明はいかばかりか嘆き悲しみ、それでも約束通り、決して彼のあとを追うことなく子を産み、育て、母として女として、健気に生き抜いてくれるだろう。
そして、いつか彼女がその生を全うした時、再び巡り合えるのだ。
〈それで・・・よい。な、美明!?〉
世凰は、微かにほほえんだ。
「死よ、もはや抱き取るがよい。ためらわず、その手を差し伸べよ!この命、何もかもそなたへ委ねよう」
彼の魂は今、人としての存在から速やかに離脱しようとしていた。
風よ、雲よ、大地よ、遍く宇宙に満つ、すべてのものたちよ!『無』に立ち戻って還りゆく私を、今こそ迎え入れてくれ。
さあ、程なくゆく。
両手を拡げて・・待っていてくれ!・・・。
〈還ろう、そこへ――〉
急速に遠のいてゆく意識の中で、彼は漠然とそう思った。




