《三》喪姫血涙(とわのわかれ)-2-
貞徳の命により、彼の代理として遠方の領地に赴いていた周阿孫が、使命を終え、五人の従者と共に屋敷に戻って来たのは、この惨劇の終わった直後のことであった。
阿孫は言うまでもなく、世凰の乳母でもあり、養育者でもあった周夫人の息子である。
依って世凰とは、いわゆる『乳兄弟』の間柄に当たっていた。今は亡き母と共に、幼少の頃から鳳家に引き取られ、姉弟と一緒にこの屋敷の中で成長して来た彼は、実直で忠義心厚く、それでいてなお且つ義侠の気風にも富む好漢であったので、貞徳はこよなくこれを愛し、実の息子同様の扱いをしていた。
とりわけ、阿孫の統率力並びに管理能力は素晴らしく、家臣の取り纏めから領地の運営に至るまで、重要な仕事をもその殆どを任され、しばしば貞徳の代理者としての権限を与えられては、遠方へ出張っていた。
ゆくゆくは、当主となる世凰の片腕に―と貞徳は心に決めていたのだが阿孫は、その期待に十二分に応え得る若者に成長していた。
今年で、香蘭と同じく、二十五才になる。
そして彼は、心中深く、美しい女主人への尽きせぬ思慕の情を秘めていた。
鳳家へ戻る道の途中で、阿孫は、怪しげな黒装束の一団が、はるか前方の辻を曲がって闇に消え去るのを垣間見たが〈何者だろう?〉と、内心不審に思いはしたものの、帰りを急ぐ余り、強いて後を追おうとはしなかった。
しかし、このことが後々(のちのち)まで、彼の胸に深い悔恨を残すのである。
屋敷の様子がおかしいことに阿孫が気づいたのは、白壁の塀をぐるりと巡って、表門の近くまで来た時であった。
この時刻には当然閉ざされている筈の門が、僅かながら開いたままになっており、交替で不寝番に当たっているべき門番の姿も見当たらない。
〈まさか、打ち揃って居眠りなどしているわけでもあるまい⁉〉
訝りつつ門を押し開いて、一歩踏み込もうとした阿孫は、忽ち息を呑んで立ち尽くした。血塗れになって息絶えた、無残な門番の死体を二つ、そこに見出したからである。
〈一体、何が起こったというのだ⁉〉
彼の全身を、冷たい戦慄が音を立てて駆け抜けた。
阿孫は、体中に脂汗が吹き出すのを感じながら、従者と共に、夢中で邸内へ駆け込んだ。
そこにはなんと、さらなる惨状が展開されていた。長い廊下の至る所に、長剣の柄に手をかけたまま、あるいは、手槍を握り締めたままに息絶えた家臣たちの死体が横たわり、無抵抗な召使いや、下働きの者たちの骸までが、多く混じっていた。
皆、一様に目を剥いた恨みの形相で、中には、自分がなぜ殺されねばならぬのか、と問いかけるような表情のものもあり、突然彼らの上に振り懸かった災厄の理不尽さを語って余りある。
この有様では、恐らく一人の生存者もいないのではないかと半ば呆然とした時、阿孫は突如、鳥肌の立つような不吉な予感に胸を衝かれた。
そして、次の瞬間、彼はものすごい勢いで、死体を飛び越え飛び越え、廊下を走り出していた。
そのまま、貞徳の書斎の前まで駆けつけた阿孫は、大きく息を弾ませながら束の間躊躇したが、すぐにそれを跳ねのけた。
「だんな様!御無礼、お許しください!」
声をかけるのもそこそこに、勢いよく扉を開け放った。
「うっ!!」
予感はまさに的中し、彼は二、三歩よろめいた。夥しい血痕が生々しく飛び散った壁、机、そして天井にまで・・・。床にはどす黒い血溜りがあちこちに残され、さらによろめき引きずるような血の足跡が、書斎から居間へと続く。
それを辿って居間に踏み入った阿孫は、目の前に突きつけられた絶望的な事実に瞠目し、抗い、無意識のうちに激しく首を横に振り続けていたが、やがて彼の咽からは、絞り出すような絶叫が発せられた。
「だ、だんな様っ!!」
錦毯の上に俯せになった貞徳の傍らに駆け寄ってその体を抱き起しつつも、命を持たぬ亡骸の余りの重さに、阿孫は慟哭した。
「だんな様!だんな様!お痛わしや、何者がこのようなことを‼・・・」
彼は物言わぬ主人に向かって声を震わせながら問いかけるのだったが、突然はたと思い当たった。
〈さては、先ほどの黒装束めの仕業であったか!?〉
そうとなれば今更ながらに、後を追わなかったことが悔やまれてならぬ。
いかに事が終わってしまったあととはいえ、もしも追ってさえいれば、せめてその正体なりと、掴み得たやも知れぬものを・・・。
「何たる不覚!!お許しくださいませ、だんな様!」
阿孫は、心の底から貞徳に詫びるのだった。
息せき切って彼の後を追ってきた五人の従者たちは、信じ難いその光景に打ち拉がれ、ただ声も無く立ち尽くすのみである。
「う!?」
貞徳の遺骸を抱き起したまま深く首項垂れていた阿孫が、短く呻くなり、俄然顔を上げた。
「香蘭さま!まさか、香蘭さままで!?」
主人の体を再び錦毯の上に横たえるのももどかしく、弾かれたように立ち上がった彼は、従者たちを突きのけて、遽しく居間から書斎を抜け、再び脱兎の如く廊下を走った。
離れへの距離を、普段の何倍、いや何十倍も長く感じながら、やっとのことで香蘭の居間へ飛び込んだ阿孫は、またもや眼前に突きつけられたあまりにも無残な現実に、顔を背けることさえ忘れて凍りついた。
床の上に砕け散った螺鈿と陶磁の破片、あちこちに舞い落ちて土足で踏みにじられた、幾通もの古い手紙・・・。
そして、その只中に、目にも鮮やかな綾織りの錦毯をさらに紅く染めて、落花一輪、香蘭が横たわっていた。
仰向けに倒れた彼女の胸元には深々と短剣が突き立てられ、傷口からは、いまだに止めどなく鮮血が流れ続けている。
だが、香蘭は、まだ、生きていたのだ。
胸に抱きしめた一通の手紙が、微かながら彼女の存命を伝えて、小刻みに震えている。阿孫は咄嗟に彼女の傍らに駆け寄るなり、その体を抱き起こした。
「香蘭さま!もし、香蘭さま!阿孫にございます。何卒、お気を確かに!!」
二、三度揺さぶられて、香蘭は、うっすらと瞳を開いた。
「あ、あすん‥阿孫ね?よく・・戻って・・・来てくれました・・間に合って・・・・・
嬉しいわ・・・」
彼女は殆ど聞き取れないくらいにか細い声で切れ切れに、しかし、その一語一語に命を籠めて、彼に語りかけるのだった。
「お許し下さいませ、香蘭さま!私めの戻るのがもう少し早ければ、みすみすあなたさまを、このような酷い目にお会わせ申さずとも済みましたものを・・・阿孫の罪にございます!」
阿孫は、突き上げて来る慟哭に、ともすれば漏れそうになる嗚咽を必死で堪えつつ、己を責め苛む。
けれど香蘭は、弱々しい微笑さえ浮かべて、首を横に振った。
「いいえ・・そなたのせい・・ではな・・・い・・阿孫・・自分を責めては・・・なりま・・せん・・・わたくし・・・自身でやっ・・・たこと・・・それ・・よ・・りも・・・」
彼女の命の火は、まさに消えようとしていた。その最後の火を掻き立てるように大きく瞳を見開き、阿孫を見つめながら、香蘭は精一杯、唇を動かした。
「ど・・うか・・・あの子を・・・・・しー・・ふぁんを・・・たのみ、ます…つ・・たえて・・・・・いつま・・でも・・か・・わらずに・・・ねえさまの・・・ぶん・・まで・・・」
彼女の瞳から、新たなる涙が、恐らくはこの世で流す最後のものとなるであろう一筋の涙が、既に血の気も失せて蒼白となった頬を伝って、流れ落ちてゆく。
「いつまでも変わらずにいてほしい。そして姉さまの分まで、生きてほしい!」
彼女は、そう言いたかったのに違いない。
だがしかし、彼女にはもう、残された時間は無かった。
程なく、静かに瞳を閉じた香蘭は幼い日の世凰の手紙を、その思い出と共にしっかりと胸に抱きしめて、心中まさしく確信したはずの仇敵の名すらも言い残すことなく、密やかに旅立って行った。
「香蘭さまっ!!」
ついに耐え切れず、阿孫は彼女の亡骸を力の限り掻き抱いて、激しく慟哭した。
〈香蘭さま!ああ、香蘭さま!まさかこのような形で、あなたさまを我が腕に抱くことになろうとは!!・・・〉
彼の秘めた想いもまた、胸の中で、血を吐くような叫びを幾度となく繰り返す。
そして、つい今しがたそこに来合わせた、阿孫の胸中など知る由もない五人の男たちも、全員その場に跪き、身も世もない男泣きに泣き咽んだのであった。