《四》追慕千里(おもい はるかに)-7-
本尊や仏具などの目ぼしい物はすべて、ずっと以前に何者のかの手によって持ち去られ、色褪せた柱や建物の仕様からどうやらそれと解る本堂から少し離れた場所に、やはりこれも、説明されなければ、まず間違いなく廃屋にしか見えない庫裏があった。
二つの建物の間に連なっていたであろう他の建築物は、すでに崩壊して久しく、朽ち果て苔生した、ただの瓦礫と成り下がってしまっている。
しかし、残された本堂と庫裏は、若者たちの手で器用に応急処置が施され,
雨露は充分に凌げるほどになっていた。
世凰は、仲間の数が増えるにつれて本堂を彼らに明け渡し、胡竜ともう一人と共に庫裏で寝起きするようになっていたが、今この時、庫裏の中には、世凰と胡竜しかいない。
世凰は、未だに衝撃から立ち直れず、何をする気も起らぬばかりか、食事とても碌に喉を通らぬ有様だった。
そんな自分を心底不甲斐無いと侮蔑は出来ても一向に律することは出来ず、何も割り切れず、何も吹っ切れず、ただ悶々と苦汁の日々を送るのみ。
それがまた、悔しくてならぬが、さりとて―果てしない悪循環に、足掻き続ける彼ではあった。
「胡竜・・・」
どことなく面やつれのした美貌を卓子についた両肘の上に載せ、世凰は、彼の方も見ずに呼びかけた。
「笑ってくれ!私は自分がこれほどまでに女女しいい人間だとは思わなかった。全く、何という様だ・・・」
彼は虚ろな瞳で自嘲した。
「俺は決して、そうは思わんな・・世凰」
胡竜は、何とも言えぬ温かさを湛えた眼差しでその様子を見詰めていたが穏やかにそう言って微笑した。
「こんな時に不謹慎に聞こえるかも知れぬが、君が羨ましい気がする」
「羨ましい?」
意外な胡竜の言葉を聞き咎め、世凰は思わず顔を上げた。
「ああ、俺は今以て、それほどまで一途に、一人の女を愛したことはない」
彼の口調はあくまでも穏やかであったが、それと解る力強さで、世凰を包み込んでくれる。
「君ほどの男がそうまで思い詰めるとは、余程の女性なのだろうな、美明というひとは・・・」
「胡竜・・・」
その時、俄かに表が騒がしくなった。
「何かあったらしいな。俺が行って、見て来よう」
そう言って胡竜は席を立ち、庫裏を出て、本堂の方へと歩み去って行った。
閉ざされた庫裏には、世凰だけが残った。
本堂の前の広場では、先程から、岑と陳が引っ立てて来た男装の若い女をめぐって、男たちがざわめき合っていた。
「世凰殿の奥方だと!?」
蒋元文という血の気の多い若者が、頭ごなしに疑ってかかり、一方的に断定した。
「そうほざいたのか、この女が?よもやそんな世迷い言を信じて、のこのこと連れ込んで来たんじゃあるまいな?俺の見たところ、こいつは宣の女隠密に間違いなし!他に何があるというのだ!?」
「しかし、この女ははっきりと姓名まで名乗ったぞ」
彼女を連れ込んだ一人、岑子福は、どこか取り成す口調である。
だが、蒋には通じない。
「甘いな、岑。相手は女隠密だぞ!?そのくらいの嘘など御茶の子さいさい、コロリと男を丸め込むのだ。さてはおぬしら、二人揃ってものの見事に、コロリと・・・」
「なんだとっ!!」
うっかりすると内輪もめまで始まりかねぬ有様だが、美明を見やる一同の目は、どれもこれもが一様に胡散臭げで、冷ややかなものだった。
それらの視線に否応なく晒される彼女の顔は、口惜しさと惨めさとで蒼ざめ、堅く噛みしめた唇が、小刻みに震えている。
「とにかく、この女はだな!・・・」
蒋がまだ何か言い立てようとした時、庫裏から出て来て彼らの後方に立ち、ずっと黙って様子を見守っていた胡竜が、その中に割って入った。
「まあ、待てよ」
彼はつかつかと美明の前に歩み寄り、彼女の瞳と、真正面から対峙して向かい合った。
彼の鋭い視線に少しも怯まず、見事にはっしとそれを受け止めた美明の済んだ双眸が、彼女の素性を胡竜に確信させた。
〈この女は、白美明だ!まさしく、鳳世凰の伴侶たる女性だ!よく生きていてくれた!!〉
彼は胸が熱くなった。
「白美明殿」
胡竜の穏やかな呼びかけが、みるみる美明の屈辱感を温かく包み、そして氷解させてゆく。
「あなたを信じよう。だが今一つ、鳳世凰の妻としての証をお見せ願えまいか?それを目にすれば、一同は即刻、あなたへの疑いを解くことだろう」
彼は世凰から、妻となるべき白美明に与えた翡翠の簪と短剣の話を聞いていた。
この女が本物の美明で、ここまで彼を追って来るだけの愛の強さを持っているのならば、たとえ命を賭けてでも、それらを守り通している筈だと思ったのだ。
「はい、ここに・・・どうぞ御覧下さいませ!」
胡竜の予想通りに潔く答えて、彼女は粗末な衣装の懐深く手を差し入れ、白絹に包まれた小さな品物を取り出すと、掌の上ではらりと開いた。
期せずして、ほうっと大きな溜息が、一同の間から漏れた。
彼女の掌には、深い緑色を湛えた見事な翡翠玉の簪が、ひっそりと乗っていた。
そう、あくまでもひっそりと―。
けれど、その中に燃えさかる白美明という女の激しい情熱が、言い知れぬ感動となって、男たちの胸を打ったのである。
さらに追い打ちをかけるように、腰に挿した短剣が呈示され、そして止めを刺したのは、包みを解かれた純白の長衫であった。
彼女と共に苦難の旅を乗り越えて来たそれは、しかし、一点の染みも汚れも知らぬ無垢の白さで、天晴れ完璧に守り抜かれ、感動的な眩しさで、見る者の目を射抜いたのだ。
先刻までの棘棘しい詮議は跡形も無く雲散霧消し、疑念のすべては、きれいさっぱり洗い流された。
若者たちはしんと静まり返って、中には涙ぐんでいる者もいる。
胡竜は、にっこり笑って言った。
「美明殿。もはや、あなたを疑う者は誰もいない。さあ、早く世凰の許へ行っておやりなさい!彼はあなたを失ったものと思い込んで、絶望と悲嘆のどん底に沈んでいるのだ」
彼は美明に、庫裏の扉を指し示した。
その瞳に泉の如く涙が湧き上がるのを、何とも美しいものに感じながら胡竜はもう一度、彼女を促してやった。
「さ、早く!」
小さく頷いて胡竜から視線を外すと、美明は庫裏の扉に向かって一歩一歩、大地を踏みしめて近づいてゆく。
一同は、自然に二手に分かれて道を開け、前を通り過ぎた彼女の行手を、いつまでも視線で追い続けた。
庫裏の扉に手を掛けた美明は、一瞬のためらいののち、思い切って一気に引き開けた。
彼女の前方、僅か二間足らずの距離を置いて、粗末な椅子に腰かけ、頬杖をついた、懐かしい後姿があった。
片時も忘れずに恋い焦がれた、ほっそりとしたその背中に、艶やかな漆黒の編髪が流れている。
「・・・・・」
美明は胸が迫って声もかけられず、次々に溢れ出す涙が頬を濡らすに任せて立ち尽くしていたが、やがて室内へすべり込み、そっと後手に扉を閉ざした。
それらの音と気配とを、世凰は、頬杖をついた自堕落な姿勢の背中で感じ取ってはいたものの、胡竜が戻って来たのだろう、と意識の片隅で、ぼんやり思っただけである。
『何の騒ぎだった?』
そう聞くのも億劫で、振り向きもせずにいた彼だったが、扉を閉めたきり、いつまでたってもその場から動かず、また一言の声も発しない相手を訝って、やや怪訝な面持ちで、ゆっくりと振り返った。
〈!!〉
世凰の瞳は、自らが捉えたものを信じかねて大きく見開かれ、まばたきすら忘れ果てて逡巡した。
彼は殆ど無意識のうちに、夢遊病者そのものの動作でふらふらと立ち上がり、二人はよも暫くの間、ただ息を詰めて、お互いを凝視し続けるばかりであった。
「美明・・どの・・・生きて・・・」
漸く世凰の口を衝いて出たのは、それだけ。
だが、彼らの間を遮るすべてのためらいを取り払うには、それで充分だった。
どちらからともなく二人は駆け寄り、無言のまま、体ごと相手に投げ出す格好で堅く抱き合った。
狂おしく激しく熱く、そして深く・・・何度も何度も、彼らは唇を重ねては見つめ合い、見つめ合っては、また抱き合うのだった。
「しー・・ふぁん・・さ・・・」
泣き咽ぶ美明の低い嗚咽だけが、途切れ途切れに、小さく漏れて来る・・・。
本堂の前では、男たちが何となくしんみりとして、中へも入らず屯していた。
それぞれが一廉の武芸者ではあっても、いずれもまだ二十歳半ばの、多感な若者たちである。
その心の片隅には、恋に憧れ、美しいものに感動する、純粋な魂の渇きを持ち合わせているのだ。
「胡竜・・・いいものだな。その―恋というものは」
先頭に立って美明に疑念を浴びせかけていた蒋元文が、柄にもなく照れながら、溜息混じりに胡竜に呟いた。
「そうだな、蒋、お前も故郷へ帰ったら、さっそく女房を貰えよ」
「女房かぁ!うん、そろそろ年貢を納めるのも、悪くはないかもな。実は、一人当てがないことないんだ」
蒋は思いっ切り赤くなりついでに、藪から棒の告白などしてしまっている。
「そうか、それは目出度いではないか・・頑張れよ!」
胡竜は、茹で蛸顔負けの蒋の肩を叩いて、ハッパをかけてやったがー。
「おい胡竜、そう言うおぬしはどうなんだ!?おぬしほどの男、とても女の方で放ってはおくまい!?」
思わぬところで、背後から岑の急襲。
途端に、ワッとばかりに皆が乗って来た。
「そうだ、そうだ!」
「おい、この際、白状しちまえよ!実はもう、ちゃあんといるんだろ?言い交わした女の、一人や二人!」
「一人や二人どころか、押すな押すなの大盛況!!だったりしてな!?」
「然なり、然なり。妙に聖人君子面しているところが、却って怪しい!」
皆が口々に囃し立てるので、さすがの胡竜も面喰ってしまった。
「お、おい!貴公ら、急に何を言い出すんだ!?殊更俺ばかりを狙い撃ちにすることはないだろう!?」
抗議する声にも、迫力が感じられない。
「あれっ!?胡竜の奴、赤くなってるぞ!」
「さては、図星だったらしい。こりゃ、一大事だ!!」
一同、どっと笑った。;
高く澄んだ明るい青空に、屈託のない若い笑い声が、爽やかな余韻を残して吸い込まれてゆく。
秋は、もう深い――。
美明のもたらした書付によって、意外な事実が判明した。
霜の月十日、胡西郡・泰平原に於て催される狩りというのは、実は世間を欺くための囮。
何と皇帝重臣の悉くが、影武者に過ぎぬのだという。
言うまでもなく、未だ野にある反逆の徒を一網打尽にするための、罠であった。
その書付は、真実の日時と場所とを、そこに至るまでの間道をも残らず網羅した正確な地図と共に、彼らに伝えた。
日時は霜の月十九日、日天の刻より日没まで。
場所は胡南郡・青杏原。
宣皇帝・太宗以下並み居る重臣共、挙って参加するは必定なり。
さらに書付の最後は、こう結ばれていた。
「我ら武一族、必ずや彼の地へ馳せ参じ、及ばずながら御助勢申し上げる所存。
その事、御心の片隅に留め置かれ、何卒、御存分なる御働きなされますよう。
武一族頭領・武阿孫」―
阿孫は、先頃、胡北郡から戻って来た妻・菊玲と共に、千江郡・龍丘にある武一族の本拠地を出発しようとしていた。
既に配下の多くの者たちは、行商人、百姓、武芸者、旅芸人、その他種々雑多な職業・階層に身をやつして、三三五五、旅立って行った。
そして最後に、阿孫夫婦は残った者と、華の国を股に掛ける大商人・狄家の荷を護衛する鏢客(ガードマン)の一隊を装い、大量の軍馬の背に武器を仕込んだ荷駄を乗せ、胡南郡・青杏原を目指すのだ。
武一族の当主の座を、ひいては緋の一団の頭領の地位を阿孫に譲った舅・成公は、旧恩ある主家の、乳兄弟にも当たる若君・鳳世凰に対する娘婿の忠節に、一方ならず感服し、自身の慧眼に膝を打って快哉を叫んだが、他の一族への手前も考え『我、関知せず』との態度を貫き通した。
従って、彼は今回の阿孫夫婦の行動には一切、口を差し挟まなかったし、無論、反対もしなかったのである。
男装の妻・菊玲と馬首を並べながら、阿孫は、彼女と自分との不可思議な絆について、ある種の感慨を抱かずにはいられない。
彼らは、夫婦である前に『同志』であった。
『鳳世凰』という共通の目的に向かって助け合う、かけがいのない『盟友』であった。
菊玲が世凰に抱く身を焦がすばかりの恋情を、阿孫は初めから知っていたし、その彼が、世凰の亡き姉・香蘭を未だに忘れかねていることも、菊玲は百も承知だ。
それでもなお彼らは、いやそれだからこそ、なお一層、この上ない堅い絆で結ばれ合っているのかも知れなかった。
それでいいのだ、とお互いが思っている。
この世に一組ぐらい、こういう風変わりな夫婦がいても、何ら差支えはあるまいものを。
〈俺は何処までも、この女と共に歩んでゆくだろう。こうして馬を並べながら・・・〉
阿孫は、限りない優しさを含んだ眼差しで、傍らの妻を見やった。
彼の視線に気づいたのか、ふとこちらに顔を向けた菊玲の瞳もまた、夫と同じ想いに微笑んでいるようだった。




