《四》追慕千里(おもい はるかに)-6-
だんだんと山深く分け入ってゆくにつれて、雑草は人の背丈を越える程に伸び、木々は隙間も無く、空をも掩い隠さんばかりに林立し、重なり合って、その下は仄暗い闇であった。
我が物顔で好き放題に枝を差し伸ばした灌木や、所狭しと密集した下草のために、道幅さえも定かではなく、朽葉の下に潜んだ木の根や蔓に足を取られて、美明は何度も転んだ。そんなことを繰り返しているうちに、いつしか傷だらけの手足がさらに傷つき、あちこちに血が滲んで来る。
それでもどうにか歯を喰いしばって、彼女は険しい道程を越え、突然目の前に開けた小さな草原まで辿り着くことが出来た。
そこは奇しくも、世凰と胡竜とが再会を果たした、あの場所である。
美明はほっとして立ち止まり、胸一杯に、大きく息を吸い込んだ。
野面を吹き渡る風にも深山の霊気は宿り、火照った肌を快く静めてくれる。
草の上に腰を下ろし、そっと額の汗を拭ってほつれた髪を搔き上げながら、彼女は切ないほどに世凰を想った。
「あなた!・・・」
彼は、この山の何処にいるのだろう?古寺というのは、どのあたりにあるのだろう!?
覆面の女も、ついにそこまでは教えてくれなかった。
けれど美明には、帰り道などは無い。
ただ、ひたすらに世凰を求めて、前進あるのみだ。
「きっといつかは、お会いできますわ!」
熾火となって胸の奥に燃え続ける一途な想いを、彼女はそっと、声に出して呟いてみるのだった。
行く手を見れば、再び幾重にも絡み合った木立の闇が、深深と口を開いて彼女を待ち受けている。
美明は、すっくと立ち上った。
〈ゆこう!!〉
長衫の包みを抱いた腕に、より一層の力を籠めて、彼女が一歩を踏み出した時、目指す暗闇の中から突如、二人連れの男が姿を現わした。
〈山賊!?〉
ギクリとして本能的に足を止めた美明に、相手は逸早く気づいていた。
双方の視線が空間を隔てて絡み合うのも待たず、美明は咄嗟に身を翻して、もと来た木立の中へと駆け込んだ。
「あっ、逃げたぞ!」
「怪しい奴だ、逃がすなよっ!!」
意外に若々しい声を交錯させて、彼らは獣のように敏捷な身ごなしで草地を横切り、忽ちのうちに美明に追いついた。必死に逃れようとしたところで慣れぬ山道、その上、所詮は女の足である。
程なく蔓に足を取られた彼女は、悲鳴を上げることも出来ず、そのまま前のめりに雑草の中へ倒れ込んでしまった。
拍子に、顎紐が切れて笠が吹っ飛び、少なからず面やつれのした白い顔が剥き出しになった。
そんな彼女を、男の逞しい腕ががっしりと捉え、肩を摑んで乱暴に引き起こした。
抗う力を持たぬ女の身ゆえに、美明はただ、男の腕に身を委ねるしかなかったが、瞳だけは絶望的な気丈さで極限の光を湛え、凛と見開かれてまばたきもせぬ。
二人の男達は、しかし近くで見れば思いがけないほどに若く、まじまじと彼女を見詰める目の中には、凶悪な影など微塵も宿してはいない。
〈きっと・・・山賊ではない〉
だが、その正体はまるで解らないのだ。
美明にとっては今のところ、一難去ってまた一難、という状況に、何ら変わりはなかった。
「何者だ、お前は!?」
彼女の肩を摑んだ手を離そうともしないで、青年の一人が問いかける。
無論、美明は答えない。
「何処から、何しに来たのだ!?」
別の一人が尋ねたが、彼女は口を閉ざしたきりである。
その不敵な態度は、もろに相手の癇に障ったと見えて、彼らは一様に、美明に対して悪印象を抱いた。
「里の者は、言い伝えを恐れて、決してここまでは登って来ぬはず。見れば旅の者のようだが、それならば、迂回する道は幾らもあるものを、何故わざわざ、険しい道を選んで登る必要があるのだ!?訳があるなら言え!」
「・・・・・」
「岑、言わずと知れた事。こいつは端からよからぬ目的を持って、この山に踏み込んで来たのだ。先程、我らを見た途端に逃げ出したのが、何よりの証拠ではないか!?その上、何を訊いても、一言も口をきこうとはせぬ。言えぬのだ、何も!後暗いところがある故、申し開きなど出来んのだ。出来る訳がない!!」
美明の肩を摑んだ岑という名の青年よりも、一際強引な口調で決めつけて来るその若者は、少々気が短い性質らしい。
言葉の間中、鋭い視線を間断なく注いで、彼女を睨みつけている。
岑としても、思いは彼と同じのようだ。
「と、いうことは、或いは我々の動きを探りに来たのかも知れんな。ひょっとすると・・・」
「宣朝の廻し者!!」
彼らは声を揃えて叫んだ。
「違います!!」
たちどころに美明は否定した。
前後の見境もなく思わず、である。
最愛の男性の敵であり、また彼女自身にとっても遺恨尽きぬ宣朝の廻し者だなどと呼ばれる悔しさが、美明を向こう見ずにしてしまったのだ。
「女だ!!」
またも仲良く同時に叫んで、二人はますます、彼女を怪しんだ。
「女の身で、男装までして山に登るとは、やはりこやつ、唯者ではあるまい!?さては、近ごろ宣朝が盛んに使い始めたという女隠密に違いない!!」
「無礼な事を申されますな!!」
最早、彼女は黙してはいなかった。
毅然と顔を上げ、胸を張って彼女は名乗った。
「我が身は、貴き尊帝の血脈を一身に受けたる広東豪族・鳳世凰の妻、白美明!この上の屈辱は無用!否ならば、殺せ!!」
気の強い女が好きだと言って下さった、あなた!
嬉しゅうございました。
でも、それはあなたの買い被りですわ。だって美明は、こんなにも向こう見ずで、おまけに馬鹿なんですもの!・・・。
ところが、彼女の名乗りを聞いた二人は、妙に動揺し始めた。
「世凰殿の奥方だと!?貴様、言うに事欠いて、苦し紛れの出まかせを言ったのではあるまいな!?」
詰問する口調にも困惑の色は隠せず、さっきまでの迫力が無くなっている。
〈世凰殿!?奥方!?もしかしたら、この男たちは、敵ではないのかも!?〉
急激に胸が高鳴り、気持ちが逸ったが、なおも語気を緩めずに、美明はきっぱりと言い切ったのだった。
「この期に及んで、嘘偽りなど申す必要が何処にございます!?」
「おい、陳。これはつまり、どういう事なのだ!?」
岑はすっかり途方に暮れて、気短な若者・陳に相談を持ち掛ける。
いつしか彼は、美明の肩を摑んでいた手を、腕組みに変えてしまっていた。
急に相談など持ち掛けられても、陳にも名答が出来る訳はないだろう。
「俺にも・・よく解らん・・・」
そう答えるしかないではないか。
「確かに世凰殿には、白美明という許嫁者があったことは事実。だが、その女が死んだという噂のせいで、彼は五日前から、食事も喉を通らぬ有様ではないか」
「まったく!あれほど堅く皆で口を噤んで来たものが、まさか、梁の奴から漏れようとは夢にも思わなかったな。大事に差しつかえねばよいが」
「しっ!口を慎め!!」
―等等、彼らはしまいに内輪話まで始める始末・・・まことに気のいい連中ではある。
〈あのひとのことを言っている!あんなにも親しそうに名前を呼んで・・〉
それだけでもう、美明は感激してしまった。
世凰の名を、その様子を、何気なく語る彼ら―聞いていると息遣いまでが、世凰自身の息遣いまでが、すぐそばに伝わって来るようで、彼女は頭がクラクラし、雲の上にでも立っている気分で、足の感覚までもがすっかり麻痺した。
彼女の内なるすべてのものが混乱し、何の脈絡も無く、突然、涙が流れ出す。
岑と陳にしてみれば、つい今しがたまで、自分たちを困惑に陥れて決然と構えていた女が、急に掌を返し、涙をポロポロこぼして泣き出したのが何とも不気味で、呆れ返った顔つきで黙って眺めやるだけだった。
やがて、岑が意を決して言った。
「とにかく陳よ、こうしていても仕方あるまい。取り敢えずはこの女を、隠れ家へ引っ立てて行ったらどうだろう?」
「うん、それしかあるまいな。直接、世凰殿に会わせてみれば、真偽のほどは一目瞭然。処分するのはそれからでも遅くはなかろう」
陳も、彼に同意した。
「おい、歩けよ!」
ぶっきら棒に急き立てはしても、結構、親切に笠を拾って手渡してくれた岑に促されるまでもなく、飛び立つような胸の高鳴りを、長衫の包みと共に掻き抱いた美明は、二人の男に前後を挟まれ、ついに巡り来た、愛するひととの再会への道を辿るのであった。




