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鳳凰傳  作者: 桃花鳥 彌 (とき あまね)
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《四》追慕千里(おもい はるかに)-4-

 その(ころ)(みやこ)(チン)(リン)のある(ィェン)(チン)郡から広東(カントン)郡一帯にかけて、ある事件にまつわる奇怪な噂が、庶民の口を(にぎ)わしていた。

 例の人物―あの(ツイ)(ワン)(シウ)の変死についてである。

 妾腹(しょうふく)とはいえ、同じ(フェン)家の血を引きながら、その正統な後継者たる(フェン)世凰(シーファン)をまんまと抹殺し、(フェン)家乗っ取りを画策(かくさく)してやまなかった悪どい男の死は、一種の小気味よささえ(ともな)って、人々の嘲笑を買った。

 勿論(もちろん)、彼が、事もあろうに実の兄と(めい)とを、その手に()けたも同然の死に追いやったことことまでは、世間一般、知る(はず)もない。

 しかしながら、こういった事に関する()()()()には(そら)恐ろしいほどの鋭さがあり、彼らはいつの間にかおおよその察しをつけて、極悪(ごくあく)非道(ひどう)の悪党として、(ツイ)を憎悪していたのだった。

 その憎むべき(ツイ)が、数日前の夜、何と、(おのれ)の屋敷の池に落ちて(おぼ)れ死んでしまったのである。

 ()しくもその十日ばかり前には、(ツイ)のために(おとしい)れられ、さらに(シュエン)王家によって徹底的に打ち(ひし)がれた(リエン)一族の当主・(シェン)(チェン)が、失意のどん底で、(うら)みを飲んでこの世を去っていた。

(ツイ)(ワン)(シウ)は、(リエン)家の殿様の亡霊に、取り殺されたに違いない』

 まことしやかなそんな噂が、誰言うとなく、またたく間に近郷(きんごう)近在(きんざい)津々浦々(つつうらうら)にまで広まった。

 中には、まるで自分がその目で見て来たかのように、亡霊が(ツイ)を池の中に引きずり込む有様(ありさま)を、身振り手振りに顔の表情をも(こしら)えて、講釈師そこのけに語って聞かせる者すら現れた。

 いかにも辻褄(つじつま)のぴったりと合った、怪談もどきのこの噂は、あとに残された(ツイ)一族の人々に、ひどく肩身の狭い思いをさせることとなった。

 (ツイ)(ワン)(シウ)という人間が、実際よからぬ(たぐい)の人物であった事を決して否定は出来ぬだけに、家族の者でさえ〈ひょっとしたら、ひょっとするかも!?〉という疑念(ぎねん)が、身の内にむくむくと頭を(もた)げて来るのを、(おさ)えつける訳にはいかなかったのである。

 常識的にどう考えたところで、大の男が、勝手知ったる自分の家の池に落ちて、しかも(おぼ)れ死んでしまうなどとは、ちょっと信じられない。

 これが病人ならば、つい、ひょろりと足がもつれて、という(あやま)ちが無きにしもあらずだが、世に言う『憎まれっ子何とやら』で、(ツイ)()(ごく)ピンピンしており、とても足をもつれさせるような、()()な状態にはない。

 ()にも(かく)にも、当主たるものが『ちょっと信じられない』死に方をしてしまった(ツイ)家では、その死に(ざま)を恥じて、表向きは一応『()()』と言う事で官庁への届け出を済ませたが、人の口に戸は立てられぬ上に、俄然(がぜん)勢いに乗って、さながら暴風雨の様相で吹き荒れる噂の直撃を少しでも(しの)ごうと、屋敷の門を堅く閉ざして息を殺し、辛抱(しんぼう)(づよ)く、それが通り過ぎてゆくのを待つ他なかった。


「御苦労であった。()()()、手抜かり無いであろうな!?」

 (ツイ)の死んだその夜更(よふ)け、(ヤン)(ティエ)(ユイ)の屋敷、控えの間。

 そこでは丁度(ちょうど)、当の(ヤン)と彼の腹心・(フイ)(ユィ)(ション)とが、密談の真最中であった。

「殿がまた、そのような皮肉を申される。もうよい加減にはお許し願えませぬものか」

 (フイ)は苦い笑いを浮かべた。

「ご懸念(けねん)には及びませぬ。此度(こたび)が事、ここに控えおります(ルー)(チョン)(ロン)が、上首尾(じょうしゅび)にて成し()げましてございます」

 そう言って、(ゆか)に先刻から平伏している男に目をやった。

「そうか。ならば良し。なれどあの()りには、この(ヤン)、まさに()()を飲んだわ!(かえ)(がえ)すも、口惜(くちお)しゅうてならぬ!!」

 (ヤン)は、我が言葉に寝た子を起こされた様子で髭面(ひげづら)(ゆが)め、ギリギリと歯噛(はが)みまでした。

「あの香蘭(シャンラン)(あま)めが、よもや自害に及びおるとはの。あたら美形を!・・・全く()って()しい事をしたものよ!!」

 彼は、未練がましく目を血走らせる。

「殿!!何卒(なにとぞ)(ひら)に、(ひら)に!」

 (フイ)は、(ヤン)()()(しず)めようとひたすら平身(へいしん)低頭(ていとう)、これ努めたが、内心は〈この色気狂(いろきちが)いの(くそ)ったれ!!我らとは、大して出自(しゅつじ)も変わらぬくせに、よりによって(フェン)家などの娘を高望(たかのぞ)みするゆえ、バチが当たったのじゃ!〉と、(つば)の一つも吐きかけてやりたい衝動を(おさ)えるのに四苦八苦していた。

「まあよい。今更(いまさら)、貴様を責めたところで、どうなるものでもないわ!」

 (ヤン)(ようや)く機嫌を直したらしい。

「これ、(ルー)とやら。()めて取らす。(おもて)を上げよ!」

 (ひら)蜘蛛(ぐも)さながらに(ゆか)にへばりついたきりのその男に向かい、鷹揚(おうよう)に声を掛けた。

〈今更、責めたところで、だと!?何度同じ科白(せりふ)をほざけば気が済むのだ?とうの昔に聞き()きて、反吐(へど)が出るわい!〉

 胸中で盛んに(ヤン)への罵声(ばせい)を浴びせかけながらも、ちらとも尾首(おくび)に出さず、(フイ)(したた)かに従順であった。

(ルー)よ。勿体(もったい)なくも有り難い、殿の(おお)せ。その顔上げて、拝謁(はいえつ)申し上げるが良い」

 (フイ)(うなが)され男は半身を起こした。

「ははっ!」

 左頬(ほお)に引き()れた、(みにく)い刀傷の跡。

 性根(しょうね)(いや)しさを隠すべくも無く(すさ)んだその(つら)(がま)えこそ、まさしくあの夜、世凰(シーファン)の父・(フェン)(ツェン)(テー)凶刃(きょうじん)にかけた、憎むべき賊の素顔であった。

 (ヤン)(ティエ)(ユイ)の意に従い、鳳家崩壊(フェンけほうかい)(もと)となったおぞましい事件に直接関与したのは、()賊上がりの(フイ)(ユイ)(シェン)(ひき)いる十名の、(やみ)の暗殺集団だったのである。

(そのうち四名は、先日、(ウー)(チュイ)(リン)によって(ほうむ)り去られていた)

 (フイ)(ヤン)に、ふとしたきっかけで拾われてより、その腹心とも手足ともなって、彼の命ずるまま、これまで数え切れぬほどに数多(あまた)の暗殺を手掛(てが)けて来た。

 そしてまたまた今夜、彼は部下の一人・(ルー)(チョン)(ロン)を使って、(ツイ)(ワン)(シウ)をあの世に送ったのだった。

 何一つ証拠は残さず、おまけに怪談めいた噂の種までも、周到(しゅうとう)にばらまいて・・・。

 抜け目のない工作は見事、功を(そう)し、翌日から近隣の街や村は、その噂で持ち切りとなった。

 お(かげ)で、(ヤン)はまたもや自分の手を(よご)すことなくあの『鬱陶(うっとう)しい蛞蝓(なめくじ)男』の抹殺に、目出度(めでた)く成功した訳である。

 (おのれ)の欲望にあまりにも忠実であったがために、結局は身を(ほろ)ぼすことになった(ツイ)の、なんともあっけない幕切れではあった。

 彼は、(ヤン)という男を甘く見過ぎていた。

 やはり、人を見る目が無かったのだろう。

「さてと」

 (ルー)(フイ)幾許(いくばく)かの報酬を与えて退(さが)らせた(ヤン)は、酒を飲みながら(ひと)()ちた。

「これでまた一人、邪魔者が片付いた。残るは、あの()っくき小倅(こせがれ)めだが・・・彼奴(きゃつ)め、一体何処(いずこ)雲隠(くもがく)れしおったものか。何としてでもこの手で引っ捕らえ、(なぶ)り殺しにしてやらねば、腹の虫が治まらぬ!此度(こたび)(もよお)しが済み次第、さっそくまた(イェン)将軍にお願いして、徹底的な探索を再開せねばなるまいて。じゃが、それにしても(イェン)将軍は手緩(てぬる)い!『()れた弱み』という奴か!?ふん、(りゅう)(よう)め!」

 酒がまわって来たせいもあって、(ヤン)の目はますます(にご)りを増し、悪態(あくたい)をつく語気(ごき)も、次第に熱を()びて来た。

(イェン)め、あの小倅(こせがれ)を捕らえた日には必ずや、(わし)寄越(よこ)せとちょっかい出すに違いないが・・・ケッ、むざむざと、奴の玩具(おもちゃ)になんぞ取られてたまるか!」

 彼はもう一度、侮蔑(ぶべつ)()めて吐き捨てた。

「あの(りゅう)(よう)野郎めが!!」

 (よる)()ける。

 (ひそ)やかに忍び笑って、ただ沈沈(しんしん)と。

それにしても『此度(こたび)(もよお)し』とは何なのだろう!?――


 (メイ)(ミン)は、運命の(みちび)きに従って苦難の旅を乗り越え、(ようや)く、胡北(フーペイ)郡を目前にした()()()山中まで辿(たど)り着いていた。

 この山を越えさえすれば、降り立つ場所は、目指す(フー)(ペイ)の大地。

 かのひとの面影(おもかげ)を追って、これから先、どこへどう行けばよいのか、皆目(かいもく)見当もつかぬ。

 でも、(フー)(ペイ)には間違いなく、あのひとがいる!

 胡北(フーペイ)郡へ行くと()げて、あのひとは旅立って行ったのだもの。

 私は平気!

 野に()して粗食(そしょく)に甘んじようと、物乞い扱いされて石を投げられようと・・

世凰(シーファン)さま!!この世にただひとりの、(メイ)(ミン)のあなた!〉

 彼女を、体中傷だらけにした彼女を支えているものは、まさにこの世でたった一つ、彼、(フェン)世凰(シーファン)という名のその若者への、限りない至純の愛だけであった。

 そんな(メイ)(ミン)に、なおも試練は()()かる。

 男が、見ていた。

 彼女がこの山中に差しかかった時からずっと、(いや)しいその目を血走らせた男たちが、彼女の姿を追っていた。

 それも一人ではない。

 (ひい)(ふう)(みい)・・・三人。

 合計六つの目が、(メイ)(ミン)(とら)えて離さない。

「いいカモだぜ!」

 首領格らしき、変に顔色の青い小男が、声を(ひそ)めて言う。

「あれが、ですかい兄貴?」

 剛毛で体中を(おお)われた、むさくるしい大男が訊き返す。

「た、た、たた(ただ)の、う、う、薄汚(うすよご)れた、あ、あお青二才ですぜ!」

 もう一人の(きわ)めて貧相(ひんそう)なのが、(ども)りながら首を(かし)げて見せた。

「そうよ。見かけは確かに、薄汚れちゃいるがな。ボロの下には、結構な()()()()を隠してやがるぜ!」

 小男はニヤリと笑う。

「へえ!?胴巻(どうま)きには金をしこたま、ってやつですかね」

「バ―カ!そんなんじゃねえ!てめえは根っからのボケ野郎だなァ。()()()()は、ボロの()()だ。(わか)らねえか!?あれぁ、女だぜ。この青面(せいめん)()様の目に、まず狂いはねえ!」

「女!?」

「お、お、おんな!?」

 同時に声を高ぶらせる男たちをこっぴどく叱りつけた。

「馬鹿野郎!声がでけえや!!」

 (みずか)青面(せいめん)()と名乗ったその小男は、再び(みだ)らにほくそ笑んだ。

()()()()も、()()()()!多分、極上(ごくじょう)のな。(もっと)も笠に隠れて、御面相(ごめんそう)(ほど)は解からねえけどな」

 そして、彼は、ポカンと()けた口からだらしなく(よだれ)など()らして(メイ)(ミン)の後姿を(なが)めやる手下共を()き立て、茂み伝いに彼女の後を追い続けた。

 そんなこととは(つゆ)知らぬ当の(メイ)(ミン)は、道の右手に()み出す多くの雑木(ぞうき)の枝を()け、時には(あや)うく(つまづ)きそうになりながらも、一歩一歩、注意深く山道を辿(たど)ってゆく。

 道の左手はかなり急な(がけ)になっており、うっかり行手(ゆくて)にばかり気を取られていると、お留守になった足許(あしもと)が、細い道幅(みちはば)を踏み(はず)しかねない。

 おのずと神経を張り詰めざるを得ない危険な行程が、よも(しばら)く続いたのち、やっとのことで道は(がけ)(ぷち)を離れて、木漏(こも)れ日の射し込む木立(こだち)の中へと入って行った。

〈よかった!もう安心〉

 彼女は()()と、思わず小さな溜息(ためいき)をつき、体中に張り詰めていた緊張の糸を(ゆる)めようとした途端だった。

「よう、(ねえ)ちゃん。落っこちなくてよかったな!」

 ぞんざいに声を掛けて、ぬうっと目の前に立ち(ふさ)がった二人の男に行手(ゆくて)(はば)まれ、(メイ)(ミン)は再び体を硬直させて、その場に釘付(くぎづ)けとなった。

「何とも(おぼ)(つか)ねえ腰つきで、色っぽく歩きやがるから、こちとらァ、ゾクゾク来ちまったぜ!」

 男の一人―青面(せいめん)()がニヤつきながらそう言ったが、しかし、彼の目は決して笑っていない。

 得体(えたい)の知れぬ凶悪さを秘めたその目が、じっとりと(メイ)(ミン)見据(みす)えているのだ。

 彼の背後に控えた貧相な男の顔にも、禍々(まがまが)しい不気味さがあった。

 明らかに、旅人を(おそ)っては害をなす、血も涙もない野党の(たぐい)である。

 反射的に身を(ひるがえ)して、後方へ()け戻ろうとした(メイ)(ミン)であったが、伸び放題に伸びた雑草の茂みを()き分けてのっそりと現れた熊のような大男に、またも退路(たいろ)(さえぎ)られてしまった。

 道の前後は(はさ)み撃ちに()い、左右は深い木立(こだち)に閉ざされ、進退に(きゅう)した彼女は、肩に結びつけていた(チェン)(サン)の包みを両腕で(かば)って胸に抱き、無言で身構えるしかなかった。

 だが、キッと結んだ唇は、あくまでも彼らへの屈服(くっぷく)を拒否して気高(けだか)い。

「こりゃまた、気の(つえ)(ねえ)ちゃんだぜ。こともあろうに、この青面(せいめん)()様に刃向(はむ)かおうとするととなんざぁ、お笑いだ!」

 ひっひっひ、と奇妙な笑い声を上げて(メイ)(ミン)に近づいて来ると、青面(せいめん)()はいきなり彼女の笠に手を()け、笠ごと乱暴に頭を引き上げて、顔を(のぞ)き込んだ。

 ろくに歯も(みが)かぬと見えて、()き気を(もよお)しそうな口臭が鼻腔(びこう)()いたが、(メイ)(ミン)は顔を(そむ)けようとはせず、逆に青面(せいめん)()(にら)み返した。

「けっ!何てえ気の(つえ)(アマ)だ!」

 一瞬、鼻白(はなじら)みはしたものの青面(せいめん)()は、すぐに歓声を上げた。

「こいつぁ、拾いもんだ!(すこぶ)るつきの別嬪(べっぴん)って訳じゃねえが、じっくり見れば、ふるいつきたいほどに色気たっぷりの、結構な上玉(じょうだま)じゃねえか!おまけに色白の餅肌(もちはだ)と来りゃあ、楽しみ()()があるってもんだ!!」

 彼はやにわに、(メイ)(ミン)を抱き(すく)めようとした。

「いやっ!!世凰(シーファン)さまっ!!」

 彼女の口から思わずその名が(ほとばし)り、同時に、腰帯(ヤオダイ)()していた香蘭(シャンラン)の短剣が鞘走(さやばし)った。

「おっとっとっ!危ねえ危ねえ!!まったく、何てぇ(アマ)だ!!」

 間一髪でその切先(きっさき)(まぬが)れた青面(せいめん)()は、(メイ)(ミン)から飛び離れて(あき)れ返ったが、この種の男の(つね)として、(すで)に手中にあるも同然の獲物が(あらが)えば(あらが)うだけ、よけいに獣心を()き立てられて止まないのだ。

「男の名を呼んで御大層(ごたいそう)()()()()を振り回すたあ、いい度胸だ。ますます、()()()()ちまうぜ!ん?まてよ!?確か、()()()()()とほざいたな。しーふぁん、しーふぁんと・・・どこかで聞いた名前だが」

「あ、兄貴!あいつじゃねえのか!?ほら、いつだったか人相書で見た、えーっと、そうそう、ふぇんしーふぁんとか言う、お(たず)ね者の賞金首!」

 熊男の(おぼろ)げな記憶が、それでも功を(そう)した。

「それだっ!!」

 青面(せいめん)()は得たりと(ひざ)を打ち、その青い顔が、一段と凶悪さを増した。

「なーるほど!さてはてめえ、あいつの女か!?道理で、男の(なり)までして、目の色変えて追っかける(はず)だぜ。奴と来た日にゃ、とてつも色男だってェ噂だからな。翔琳鳳凰の女を手に入れたとなりゃあ、そろそろ俺様にも、運が向いて来たって訳だァな!」

 またもや、ひっひっひ、と不気味な笑い声を上げた青面(せいめん)()は、相変らず少しも笑ってはいない目を血走らせ、手下と共に、じりじりと(メイ)(ミン)に迫って来る。

〈お姉さま!どうぞ、(メイ)(ミン)をお守り下さいませ!!〉

 必死の祈りを胸に短剣を握り締める彼女の(てのひら)は、さすがにじっとりと汗ばんでいた。

『この剣が、きっとあなたを守ってくれるでしょう』

 世凰(シーファン)は、そう言った。

『けれど願わくば、あなたがこれをお使いになることのありませんように!』

 そうも言った。

 だが、こうなってしまったのだ・・・。

 現に彼女の目の前には、野卑(やひ)で凶悪な男共が、舌なめずりしながら迫って来るのである。

「それ以上近づくと・・・自害しますよ!」

 それでも(メイ)(ミン)は精一杯に、毅然(きぜん)(けん)(せい)した。

「ああいいとも、死んでみろ!」

 すかさず、ぞっとするような冷たさで、青面(せいめん)()が切り返した。

「どちらのお(ひい)さんだか知らないが、俺たちを甘く見るんじゃねえぞ。てめえが死にやがったら、素っ裸に()いて往来(おうらい)(さら)してやらあ『翔琳鳳凰の情婦(いろ)の、成れの果てでござい』って高札(こうさつ)をぶっ立ててな。さぞかし、いい見世物になるだろうぜ!」

―この男は本気だ!―

 (メイ)(ミン)戦慄(せんりつ)し、全身に鳥肌が立った。

 青く(よど)んだその表情をピクリとも動かさずにそんなことを言ってのける青面(せいめん)()の底知れぬ残忍さが、(たちま)ちにして、彼女の気力を委縮(いしゅく)させた。

 その(すき)をつかれて、素早く近づきざまに、短剣を構えた右腕をいやというほど(ねじ)り上げられた。

「あっ!」

 短い悲鳴を上げて、(メイ)(ミン)は短剣を取り落とし、青面(せいめん)()の手に捕らえられた。

「いい加減に観念しなよ、お(ひい)さんよォ!」

 彼女の腕を後手に(ねじ)り上げたままでその体を抱き(すく)め、青面(せいめん)()は勝ち誇った青い顔に、再び獣欲を(みなぎ)らせる。

「これから俺っちが、たっぷりと可愛がってやるからよ。いい子にしてるんだぜ!ところでお(ひい)さん、あんたの鳳凰様は、よかったかい?何をしてあんたを(よろこ)ばせてくれた、え?どうやって泣かせてくれたんだ!それともあれか?いくら御面相(ごめんそう)は良くたって、()()()の方はからっきしてやつか!?!?『余は、おなごは嫌いじゃ。男に抱かれるほうが良い!』とか何とか、(のたま)ったりしてな」

「そいつぁいいや、兄貴!」

 手下共が一斉に手を打ち、下卑(げび)た笑い声を上げた。

「あのひとを、侮辱(ぶじょく)しないで!!」

 男の腕にがっちりと()らわれた(メイ)(ミン)は、()に一杯涙を()めて、鋭く抗議した。

 だが、それさえも、野卑(やひ)な男共には()(ごと)同然だった。

「おい、聞いたか!?『あのひとをぶじょくしないで』だとよ!」

「ご、ごごご執心(しゅうしん)!!」

 その他諸々(もろもろ)、聞くに耐えない卑猥(ひわい)な言葉を投げつけて、彼らは再び、どっと笑った。

〈ああ、もう駄目(だめ)!!〉

 憤怒(ふんぬ)と絶望に打ちのめされ、(メイ)(ミン)は目を閉じた。

〈舌を()みます!許して、世凰(シーファン)さま!!〉

「やっとこさ、観念したようだな!?そのうち、てめえを(えさ)にして可愛い男をふん(じば)ったら、ほんのちょっぴり、名残(なご)りを()しませてやっからよ。役人に突き出すか、奴欲しさに(よだれ)()れ流してるっていうどっかのヒヒ(じじい)に吹っかけて、叩き売っちまうかするまでの間な!俺に()()()の趣味がありゃあ、早速(さっそく)味見(あじみ)としゃれるんだが、生憎(あいにく)、な」

 散々、言いたい放題に言い散らしておいて、(メイ)(ミン)羽交(はが)い絞めにした青面(せいめん)()の腕に(にわ)かに力が(こも)り、体ごと彼女をその場に押し倒さんと、のしかかって来た。

〈さよなら、あなた!!〉

 (メイ)(ミン)が、まさに舌を()もうとした刹那(せつな)――時ならぬ断末魔(だんまつま)の叫びが鋭く耳を穿(うが)った。

「うわぁっ!!」

「ぎええっ!」

 反射的に見開いた(メイ)(ミン)の目に、二人の野盗共が()飛沫(しぶき)上げて倒れ伏す有様(ありさま)が飛び込む。

 そして、唐突(とうとつ)に彼女は自由の身となった。

 今の今まで(メイ)(ミン)を毒牙に()けるようとしていた青面(せいめん)()は、手下共を一足(ひとあし)先に血祭(ちまつり)にあげた相手によって、首筋にぴたりと長剣の(やいば)を当てられ、青い顔を、最早(もはや)青黒くして目を()いている。

「な、な、な、何でえ!き、き貴様はっ!!」

 わななく口でやっと(しぼ)り出す彼の前には、忍び装束に身を固めた、()(ひょう)さながらの肢体(したい)があった。

「よう聞け、下郎(げろう)!!」

 顔を覆面(ふくめん)で隠したその人物は、聞き(おぼ)えのある(りん)とした声音(こわね)で続けた。

「この女性(にょしょう)は、(うぬ)らの(ごと)下司(げす)共が、指一本触れられるようなお方ではないのだ!身の程知らぬ(けだもの)め、せいぜい山犬にでも()われるがよい!!」

 言いざまに、(なさけ)容赦(ようしゃ)なく相手の首筋に当てた(やいば)(かえ)し、勢いよく水平に()いだ。

 悲鳴を一声、()げる()もあらばこそ、パッと真紅(しんく)飛沫(ひまつ)(あた)り一面に飛び散って、正確に胴から切断された青面(せいめん)()の首は、ものすごいスピードで木立の闇に消えて行った。

 突然、置いてきぼりを()らった哀れな物体は、切り口から(すさ)まじい血柱(ちばしら)を吹き上げ尽くしたのちも、(しばら)くの間その場に立ち(まど)っていたが、やがてよろりとよろめき、()()、と地響(ぢひび)き立てて地面に(ころ)がった。

(あやう)ないところでございましたな。間に(おあ)うて、何よりでございます」

 平然と剣を払って背中の(さや)(おさ)め、(すず)やかにそう言って、覆面から(のぞ)いた鳶色(とびいろ)()が笑った。

(あま)様!?(あま)様でございますね!」

 (メイ)(ミン)の問いかけを()えて受け流し、()()は素早く懐中(かいちゅう)から一通の書き付けを取り出し、その手に(ゆだ)ねた。

(わたくし)がお届け申す積もりでおりましたなれど、あなた様のお手から、世凰(シーファン)さまにお渡しくださいませ。その方がよろしいかと存じますゆえ」

 書き付けを(メイ)(ミン)に手渡した覆面の女―(チュイ)(リン)は、彼女を(いた)わるようにやさしい眼差(まなざ)しになった。

「よう、ここまで参られました。御苦労の(ほど)、いかばかりであったかとお察し致しますが、さすが(メイ)(ミン)さま!これより(のち)は、(まよ)わず(ティエン)(ヤオ)山へお()きなされませ。その山中深き古寺(ふるでら)に、まさしく世凰(シーファン)さまがおられます」

 (メイ)(ミン)の瞳が、(たちま)ち希望に光を(たた)えて生き生きと輝き渡るのを見届けた彼女は、くるりと(きびす)を返した。

「では、(メイ)(ミン)さま、(わたくし)は急ぎ立ち戻らねばなりませぬゆえ、これにてお別れ致します。一日も早う、あの方にお会いになれますよう!」

 言い残すなり、(チュイ)(リン)は風となって消え去った。

 この時になって、(メイ)(ミン)は、(いま)(さら)ながらに思い当たったのである。

「お姉さまだ!きっとお姉さまが、お守り下さったに違いない!」

 明らかに尼僧の仮の姿だと解っているにも(かか)わらず、彼女には申し訳ないが、今の(メイ)(ミン)にとっては、あの覆面(ふくめん)の女が、世凰(シーファン)の亡き姉・香蘭(シャンラン)化身(けしん)のように思えてならなかったのだ。

 (メイ)(ミン)は、夢中で落ちていた短剣を拾い上げ、(さや)に収めて、きつく我が(ほお)に押し当てた。

「お姉さま!ありがとうございました。本当に本当に、ありがとうございました!!」

 しばし感涙(かんるい)(むせ)んだ彼女は、やがて濡れた(ひとみ)を上げて、見霽(みはる)かす山並()みに目を()らした。

 (ティエン)(ヤオ)山へ―(メイ)(ミン)目指(めざ)すべき場所は定まったのだ。

世凰(シーファン)さま!(メイ)(ミン)はまいります。夢にまで見たあなたさまの御許(おんもと)へ、今こそ・・・〉


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