《四》追慕千里(おもい はるかに)-4-
その頃、都・清陵のある燕青郡から広東郡一帯にかけて、ある事件にまつわる奇怪な噂が、庶民の口を賑わしていた。
例の人物―あの崔王秀の変死についてである。
妾腹とはいえ、同じ鳳家の血を引きながら、その正統な後継者たる鳳世凰をまんまと抹殺し、鳳家乗っ取りを画策してやまなかった悪どい男の死は、一種の小気味よささえ伴って、人々の嘲笑を買った。
勿論、彼が、事もあろうに実の兄と姪とを、その手に懸けたも同然の死に追いやったことことまでは、世間一般、知る筈もない。
しかしながら、こういった事に関する民衆の勘には空恐ろしいほどの鋭さがあり、彼らはいつの間にかおおよその察しをつけて、極悪非道の悪党として、崔を憎悪していたのだった。
その憎むべき崔が、数日前の夜、何と、己の屋敷の池に落ちて溺れ死んでしまったのである。
奇しくもその十日ばかり前には、崔のために陥れられ、さらに宣王家によって徹底的に打ち拉がれた蓮一族の当主・審陳が、失意のどん底で、恨みを飲んでこの世を去っていた。
『崔王秀は、蓮家の殿様の亡霊に、取り殺されたに違いない』
まことしやかなそんな噂が、誰言うとなく、またたく間に近郷近在、津々浦々にまで広まった。
中には、まるで自分がその目で見て来たかのように、亡霊が崔を池の中に引きずり込む有様を、身振り手振りに顔の表情をも拵えて、講釈師そこのけに語って聞かせる者すら現れた。
いかにも辻褄のぴったりと合った、怪談もどきのこの噂は、あとに残された崔一族の人々に、ひどく肩身の狭い思いをさせることとなった。
崔王秀という人間が、実際よからぬ類の人物であった事を決して否定は出来ぬだけに、家族の者でさえ〈ひょっとしたら、ひょっとするかも!?〉という疑念が、身の内にむくむくと頭を擡げて来るのを、抑えつける訳にはいかなかったのである。
常識的にどう考えたところで、大の男が、勝手知ったる自分の家の池に落ちて、しかも溺れ死んでしまうなどとは、ちょっと信じられない。
これが病人ならば、つい、ひょろりと足がもつれて、という過ちが無きにしもあらずだが、世に言う『憎まれっ子何とやら』で、崔は至極ピンピンしており、とても足をもつれさせるような、殊勝な状態にはない。
兎にも角にも、当主たるものが『ちょっと信じられない』死に方をしてしまった崔家では、その死に様を恥じて、表向きは一応『病死』と言う事で官庁への届け出を済ませたが、人の口に戸は立てられぬ上に、俄然勢いに乗って、さながら暴風雨の様相で吹き荒れる噂の直撃を少しでも凌ごうと、屋敷の門を堅く閉ざして息を殺し、辛抱強く、それが通り過ぎてゆくのを待つ他なかった。
「御苦労であった。今回は、手抜かり無いであろうな!?」
崔の死んだその夜更け、揚鉄玉の屋敷、控えの間。
そこでは丁度、当の揚と彼の腹心・回羽生とが、密談の真最中であった。
「殿がまた、そのような皮肉を申される。もうよい加減にはお許し願えませぬものか」
回は苦い笑いを浮かべた。
「ご懸念には及びませぬ。此度が事、ここに控えおります陸充戎が、上首尾にて成し遂げましてございます」
そう言って、床に先刻から平伏している男に目をやった。
「そうか。ならば良し。なれどあの折りには、この揚、まさに煮え湯を飲んだわ!返す返すも、口惜しゅうてならぬ!!」
揚は、我が言葉に寝た子を起こされた様子で髭面を歪め、ギリギリと歯噛みまでした。
「あの香蘭の女めが、よもや自害に及びおるとはの。あたら美形を!・・・全く以って惜しい事をしたものよ!!」
彼は、未練がましく目を血走らせる。
「殿!!何卒、平に、平に!」
回は、揚の発作を鎮めようとひたすら平身低頭、これ努めたが、内心は〈この色気狂いの糞ったれ!!我らとは、大して出自も変わらぬくせに、よりによって鳳家などの娘を高望みするゆえ、バチが当たったのじゃ!〉と、唾の一つも吐きかけてやりたい衝動を抑えるのに四苦八苦していた。
「まあよい。今更、貴様を責めたところで、どうなるものでもないわ!」
揚は漸く機嫌を直したらしい。
「これ、陸とやら。褒めて取らす。面を上げよ!」
平蜘蛛さながらに床にへばりついたきりのその男に向かい、鷹揚に声を掛けた。
〈今更、責めたところで、だと!?何度同じ科白をほざけば気が済むのだ?とうの昔に聞き飽きて、反吐が出るわい!〉
胸中で盛んに揚への罵声を浴びせかけながらも、ちらとも尾首に出さず、回は強かに従順であった。
「陸よ。勿体なくも有り難い、殿の仰せ。その顔上げて、拝謁申し上げるが良い」
回に促され男は半身を起こした。
「ははっ!」
左頬に引き攣れた、醜い刀傷の跡。
性根の賤しさを隠すべくも無く荒んだその面構えこそ、まさしくあの夜、世凰の父・鳳貞徳を凶刃にかけた、憎むべき賊の素顔であった。
揚鉄玉の意に従い、鳳家崩壊の源となったおぞましい事件に直接関与したのは、鼠賊上がりの回羽生率いる十名の、闇の暗殺集団だったのである。
(そのうち四名は、先日、武菊玲によって葬り去られていた)
回は揚に、ふとしたきっかけで拾われてより、その腹心とも手足ともなって、彼の命ずるまま、これまで数え切れぬほどに数多の暗殺を手掛けて来た。
そしてまたまた今夜、彼は部下の一人・陸充戎を使って、崔王秀をあの世に送ったのだった。
何一つ証拠は残さず、おまけに怪談めいた噂の種までも、周到にばらまいて・・・。
抜け目のない工作は見事、功を奏し、翌日から近隣の街や村は、その噂で持ち切りとなった。
お陰で、揚はまたもや自分の手を汚すことなくあの『鬱陶しい蛞蝓男』の抹殺に、目出度く成功した訳である。
己の欲望にあまりにも忠実であったがために、結局は身を滅ぼすことになった崔の、なんともあっけない幕切れではあった。
彼は、揚という男を甘く見過ぎていた。
やはり、人を見る目が無かったのだろう。
「さてと」
陸と回に幾許かの報酬を与えて退らせた揚は、酒を飲みながら独り言ちた。
「これでまた一人、邪魔者が片付いた。残るは、あの憎っくき小倅めだが・・・彼奴め、一体何処へ雲隠れしおったものか。何としてでもこの手で引っ捕らえ、嬲り殺しにしてやらねば、腹の虫が治まらぬ!此度の催しが済み次第、さっそくまた延将軍にお願いして、徹底的な探索を再開せねばなるまいて。じゃが、それにしても延将軍は手緩い!『惚れた弱み』という奴か!?ふん、龍陽め!」
酒がまわって来たせいもあって、揚の目はますます濁りを増し、悪態をつく語気も、次第に熱を帯びて来た。
「延め、あの小倅を捕らえた日には必ずや、儂に寄越せとちょっかい出すに違いないが・・・ケッ、むざむざと、奴の玩具になんぞ取られてたまるか!」
彼はもう一度、侮蔑を籠めて吐き捨てた。
「あの龍陽野郎めが!!」
夜は更ける。
密やかに忍び笑って、ただ沈沈と。
それにしても『此度の催し』とは何なのだろう!?――
美明は、運命の導きに従って苦難の旅を乗り越え、漸く、胡北郡を目前にしたとある山中まで辿り着いていた。
この山を越えさえすれば、降り立つ場所は、目指す胡北の大地。
かのひとの面影を追って、これから先、どこへどう行けばよいのか、皆目見当もつかぬ。
でも、胡北には間違いなく、あのひとがいる!
胡北郡へ行くと告げて、あのひとは旅立って行ったのだもの。
私は平気!
野に臥して粗食に甘んじようと、物乞い扱いされて石を投げられようと・・
〈世凰さま!!この世にただひとりの、美明のあなた!〉
彼女を、体中傷だらけにした彼女を支えているものは、まさにこの世でたった一つ、彼、鳳世凰という名のその若者への、限りない至純の愛だけであった。
そんな美明に、なおも試練は振り懸かる。
男が、見ていた。
彼女がこの山中に差しかかった時からずっと、卑しいその目を血走らせた男たちが、彼女の姿を追っていた。
それも一人ではない。
一、二、三・・・三人。
合計六つの目が、美明を捉えて離さない。
「いいカモだぜ!」
首領格らしき、変に顔色の青い小男が、声を潜めて言う。
「あれが、ですかい兄貴?」
剛毛で体中を蔽われた、むさくるしい大男が訊き返す。
「た、た、たた唯の、う、う、薄汚れた、あ、あお青二才ですぜ!」
もう一人の極めて貧相なのが、吃りながら首を傾げて見せた。
「そうよ。見かけは確かに、薄汚れちゃいるがな。ボロの下には、結構なおたからを隠してやがるぜ!」
小男はニヤリと笑う。
「へえ!?胴巻きには金をしこたま、ってやつですかね」
「バ―カ!そんなんじゃねえ!てめえは根っからのボケ野郎だなァ。おたからは、ボロの中味だ。解らねえか!?あれぁ、女だぜ。この青面鬼様の目に、まず狂いはねえ!」
「女!?」
「お、お、おんな!?」
同時に声を高ぶらせる男たちをこっぴどく叱りつけた。
「馬鹿野郎!声がでけえや!!」
自ら青面鬼と名乗ったその小男は、再び猥らにほくそ笑んだ。
「おたからも、おたから!多分、極上のな。尤も笠に隠れて、御面相の程は解からねえけどな」
そして、彼は、ポカンと開けた口からだらしなく涎など垂らして美明の後姿を眺めやる手下共を急き立て、茂み伝いに彼女の後を追い続けた。
そんなこととは露知らぬ当の美明は、道の右手に食み出す多くの雑木の枝を避け、時には危うく躓きそうになりながらも、一歩一歩、注意深く山道を辿ってゆく。
道の左手はかなり急な崖になっており、うっかり行手にばかり気を取られていると、お留守になった足許が、細い道幅を踏み外しかねない。
おのずと神経を張り詰めざるを得ない危険な行程が、よも暫く続いたのち、やっとのことで道は崖っ淵を離れて、木漏れ日の射し込む木立の中へと入って行った。
〈よかった!もう安心〉
彼女はほっと、思わず小さな溜息をつき、体中に張り詰めていた緊張の糸を緩めようとした途端だった。
「よう、姐ちゃん。落っこちなくてよかったな!」
ぞんざいに声を掛けて、ぬうっと目の前に立ち塞がった二人の男に行手を阻まれ、美明は再び体を硬直させて、その場に釘付けとなった。
「何とも覚束ねえ腰つきで、色っぽく歩きやがるから、こちとらァ、ゾクゾク来ちまったぜ!」
男の一人―青面鬼がニヤつきながらそう言ったが、しかし、彼の目は決して笑っていない。
得体の知れぬ凶悪さを秘めたその目が、じっとりと美明を見据えているのだ。
彼の背後に控えた貧相な男の顔にも、禍々しい不気味さがあった。
明らかに、旅人を襲っては害をなす、血も涙もない野党の類である。
反射的に身を翻して、後方へ駆け戻ろうとした美明であったが、伸び放題に伸びた雑草の茂みを掻き分けてのっそりと現れた熊のような大男に、またも退路を遮られてしまった。
道の前後は挟み撃ちに遇い、左右は深い木立に閉ざされ、進退に窮した彼女は、肩に結びつけていた長衫の包みを両腕で庇って胸に抱き、無言で身構えるしかなかった。
だが、キッと結んだ唇は、あくまでも彼らへの屈服を拒否して気高い。
「こりゃまた、気の強え姐ちゃんだぜ。こともあろうに、この青面鬼様に刃向かおうとするととなんざぁ、お笑いだ!」
ひっひっひ、と奇妙な笑い声を上げて美明に近づいて来ると、青面鬼はいきなり彼女の笠に手を掛け、笠ごと乱暴に頭を引き上げて、顔を覗き込んだ。
ろくに歯も磨かぬと見えて、吐き気を催しそうな口臭が鼻腔を衝いたが、美明は顔を背けようとはせず、逆に青面鬼を睨み返した。
「けっ!何てえ気の強え女だ!」
一瞬、鼻白みはしたものの青面鬼は、すぐに歓声を上げた。
「こいつぁ、拾いもんだ!頗るつきの別嬪って訳じゃねえが、じっくり見れば、ふるいつきたいほどに色気たっぷりの、結構な上玉じゃねえか!おまけに色白の餅肌と来りゃあ、楽しみがいがあるってもんだ!!」
彼はやにわに、美明を抱き竦めようとした。
「いやっ!!世凰さまっ!!」
彼女の口から思わずその名が迸り、同時に、腰帯に挿していた香蘭の短剣が鞘走った。
「おっとっとっ!危ねえ危ねえ!!まったく、何てぇ女だ!!」
間一髪でその切先を免れた青面鬼は、美明から飛び離れて呆れ返ったが、この種の男の常として、既に手中にあるも同然の獲物が抗えば抗うだけ、よけいに獣心を掻き立てられて止まないのだ。
「男の名を呼んで御大層なおもちゃを振り回すたあ、いい度胸だ。ますます、そそられちまうぜ!ん?まてよ!?確か、しーふぁんとほざいたな。しーふぁん、しーふぁんと・・・どこかで聞いた名前だが」
「あ、兄貴!あいつじゃねえのか!?ほら、いつだったか人相書で見た、えーっと、そうそう、ふぇんしーふぁんとか言う、お尋ね者の賞金首!」
熊男の朧げな記憶が、それでも功を奏した。
「それだっ!!」
青面鬼は得たりと膝を打ち、その青い顔が、一段と凶悪さを増した。
「なーるほど!さてはてめえ、あいつの女か!?道理で、男の形までして、目の色変えて追っかける筈だぜ。奴と来た日にゃ、とてつも色男だってェ噂だからな。翔琳鳳凰の女を手に入れたとなりゃあ、そろそろ俺様にも、運が向いて来たって訳だァな!」
またもや、ひっひっひ、と不気味な笑い声を上げた青面鬼は、相変らず少しも笑ってはいない目を血走らせ、手下と共に、じりじりと美明に迫って来る。
〈お姉さま!どうぞ、美明をお守り下さいませ!!〉
必死の祈りを胸に短剣を握り締める彼女の掌は、さすがにじっとりと汗ばんでいた。
『この剣が、きっとあなたを守ってくれるでしょう』
世凰は、そう言った。
『けれど願わくば、あなたがこれをお使いになることのありませんように!』
そうも言った。
だが、こうなってしまったのだ・・・。
現に彼女の目の前には、野卑で凶悪な男共が、舌なめずりしながら迫って来るのである。
「それ以上近づくと・・・自害しますよ!」
それでも美明は精一杯に、毅然と牽制した。
「ああいいとも、死んでみろ!」
すかさず、ぞっとするような冷たさで、青面鬼が切り返した。
「どちらのお姫さんだか知らないが、俺たちを甘く見るんじゃねえぞ。てめえが死にやがったら、素っ裸に剥いて往来に晒してやらあ『翔琳鳳凰の情婦の、成れの果てでござい』って高札をぶっ立ててな。さぞかし、いい見世物になるだろうぜ!」
―この男は本気だ!―
美明は戦慄し、全身に鳥肌が立った。
青く淀んだその表情をピクリとも動かさずにそんなことを言ってのける青面鬼の底知れぬ残忍さが、忽ちにして、彼女の気力を委縮させた。
その隙をつかれて、素早く近づきざまに、短剣を構えた右腕をいやというほど捩り上げられた。
「あっ!」
短い悲鳴を上げて、美明は短剣を取り落とし、青面鬼の手に捕らえられた。
「いい加減に観念しなよ、お姫さんよォ!」
彼女の腕を後手に捩り上げたままでその体を抱き竦め、青面鬼は勝ち誇った青い顔に、再び獣欲を漲らせる。
「これから俺っちが、たっぷりと可愛がってやるからよ。いい子にしてるんだぜ!ところでお姫さん、あんたの鳳凰様は、よかったかい?何をしてあんたを歓ばせてくれた、え?どうやって泣かせてくれたんだ!それともあれか?いくら御面相は良くたって、あっちの方はからっきしてやつか!?!?『余は、おなごは嫌いじゃ。男に抱かれるほうが良い!』とか何とか、宣ったりしてな」
「そいつぁいいや、兄貴!」
手下共が一斉に手を打ち、下卑た笑い声を上げた。
「あのひとを、侮辱しないで!!」
男の腕にがっちりと捕らわれた美明は、瞳に一杯涙を溜めて、鋭く抗議した。
だが、それさえも、野卑な男共には戯れ言同然だった。
「おい、聞いたか!?『あのひとをぶじょくしないで』だとよ!」
「ご、ごごご執心!!」
その他諸々(もろもろ)、聞くに耐えない卑猥な言葉を投げつけて、彼らは再び、どっと笑った。
〈ああ、もう駄目!!〉
憤怒と絶望に打ちのめされ、美明は目を閉じた。
〈舌を噛みます!許して、世凰さま!!〉
「やっとこさ、観念したようだな!?そのうち、てめえを餌にして可愛い男をふん縛ったら、ほんのちょっぴり、名残りを惜しませてやっからよ。役人に突き出すか、奴欲しさに涎を垂れ流してるっていうどっかのヒヒ爺に吹っかけて、叩き売っちまうかするまでの間な!俺にそっちの趣味がありゃあ、早速味見としゃれるんだが、生憎、な」
散々、言いたい放題に言い散らしておいて、美明を羽交い絞めにした青面鬼の腕に俄かに力が籠り、体ごと彼女をその場に押し倒さんと、のしかかって来た。
〈さよなら、あなた!!〉
美明が、まさに舌を噛もうとした刹那――時ならぬ断末魔の叫びが鋭く耳を穿った。
「うわぁっ!!」
「ぎええっ!」
反射的に見開いた美明の目に、二人の野盗共が血飛沫上げて倒れ伏す有様が飛び込む。
そして、唐突に彼女は自由の身となった。
今の今まで美明を毒牙に懸けるようとしていた青面鬼は、手下共を一足先に血祭にあげた相手によって、首筋にぴたりと長剣の刃を当てられ、青い顔を、最早青黒くして目を剝いている。
「な、な、な、何でえ!き、き貴様はっ!!」
わななく口でやっと絞り出す彼の前には、忍び装束に身を固めた、女豹さながらの肢体があった。
「よう聞け、下郎!!」
顔を覆面で隠したその人物は、聞き覚えのある凛とした声音で続けた。
「この女性は、汝らの如き下司共が、指一本触れられるようなお方ではないのだ!身の程知らぬ獣め、せいぜい山犬にでも喰われるがよい!!」
言いざまに、情容赦なく相手の首筋に当てた刃を反し、勢いよく水平に薙いだ。
悲鳴を一声、上げる間もあらばこそ、パッと真紅の飛沫が辺り一面に飛び散って、正確に胴から切断された青面鬼の首は、ものすごいスピードで木立の闇に消えて行った。
突然、置いてきぼりを喰らった哀れな物体は、切り口から凄まじい血柱を吹き上げ尽くしたのちも、暫くの間その場に立ち惑っていたが、やがてよろりとよろめき、どう、と地響き立てて地面に転がった。
「危ないところでございましたな。間に合うて、何よりでございます」
平然と剣を払って背中の鞘に収め、涼やかにそう言って、覆面から覗いた鳶色の瞳が笑った。
「尼様!?尼様でございますね!」
美明の問いかけを敢えて受け流し、彼女は素早く懐中から一通の書き付けを取り出し、その手に委ねた。
「私がお届け申す積もりでおりましたなれど、あなた様のお手から、世凰さまにお渡しくださいませ。その方がよろしいかと存じますゆえ」
書き付けを美明に手渡した覆面の女―菊玲は、彼女を労わるようにやさしい眼差しになった。
「よう、ここまで参られました。御苦労の程、いかばかりであったかとお察し致しますが、さすが美明さま!これより後は、迷わず天妖山へお行きなされませ。その山中深き古寺に、まさしく世凰さまがおられます」
美明の瞳が、忽ち希望に光を湛えて生き生きと輝き渡るのを見届けた彼女は、くるりと踵を返した。
「では、美明さま、私は急ぎ立ち戻らねばなりませぬゆえ、これにてお別れ致します。一日も早う、あの方にお会いになれますよう!」
言い残すなり、菊玲は風となって消え去った。
この時になって、美明は、今更ながらに思い当たったのである。
「お姉さまだ!きっとお姉さまが、お守り下さったに違いない!」
明らかに尼僧の仮の姿だと解っているにも拘わらず、彼女には申し訳ないが、今の美明にとっては、あの覆面の女が、世凰の亡き姉・香蘭の化身のように思えてならなかったのだ。
美明は、夢中で落ちていた短剣を拾い上げ、鞘に収めて、きつく我が頬に押し当てた。
「お姉さま!ありがとうございました。本当に本当に、ありがとうございました!!」
しばし感涙に咽んだ彼女は、やがて濡れた瞳を上げて、見霽かす山並みに目を凝らした。
天妖山へ―美明の目指すべき場所は定まったのだ。
〈世凰さま!美明はまいります。夢にまで見たあなたさまの御許へ、今こそ・・・〉




